アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

 関が原の合戦で、中山道を進んだ秀忠は、上田城の真田昌幸に手古摺って、合戦に間に合いませんでした。
 ところが、この遅参は【ワザと遅らせたもので、家康の陰謀だ。秀忠の軍勢を温存するためだ。】とする説があるようです。
 たしかに、実際の合戦に参加した家康の家来は少なく、大方、豊臣系大名同士の戦いになって、それぞれダメージを受けています。

 この説は珍説の部類にはいりますか? それともうなづけるところがありますでしょうか?

A 回答 (13件中11~13件)

#6です


後で考えていて思ったことがあったので追加&補足です。
家康が江戸をたってそう日がたたないうちに織田秀信の籠る岐阜城が降伏しており、そこで豊臣系武断派を長く留め置くのは士気の低下につながり西軍に寝返るものもあり、西軍からの寝返りも少なくなってしまい勝敗はどちらに転ぶか測りません。
仮定ですが、伊勢は西軍におちているので、挟みうちで清州にいた軍を殲滅することも西軍の選択肢にはあったでしょう(小早川&吉川がその気になれば)そうすれば家康、秀忠軍の個々撃破で豊臣の天下だったかも(笑)
そのあたりも考慮していたしかたなく決戦にのぞんだという結論に至りました。机上の空論は尽きないのでこのあたりでやめておきます。
話が少しずれますが、長期政権を保つためには武断派と文治派の手綱をうまくとることが重要な気がします。例をあげると大内家の陶氏や浦上家の宇喜多氏でしょうか、もちろん豊臣氏もです。内部分裂>滅亡の道をたどっています。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>(小早川&吉川がその気になれば)・・・こういう仮定を立てて想像して見るのは実に楽しいですね。この仮定、面白いです。
>長期政権を保つためには・・・。
・・・おっしゃる通りと存じます。何事もバランスをとるのが肝心と思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/24 17:44

多くの回答と似た答えで恐縮ですが、「遅れてくる可能性は計算はしていた。

ただし、本来は関が原の決戦への参加を期待していて、ワザと遅らせるつもりはなかった。」ということだろうと思います。

10年近く前に読んだ本で、タイトルなどを忘れてしまいましたが、家康本陣と本田忠勝の陣は、小身の足軽メインで構成されていて、鉄砲や騎馬、弓槍など、攻撃力の大きい部隊を動因できる大身の家来は、秀忠軍に回していたそうです。(確かに、関が原での井伊直正は一番槍から島津戦まで可愛そうなくらい奮戦しているが、本田忠勝はほとんど活躍した話を聞きませんね。)

本田忠勝と並ぶ榊原康政も、秀忠軍に随って実質的な部隊指揮を行っています。

そういう意味で、秀忠軍は徳川家のむしろ主力で、本来は西軍との決戦で使いたかったのでしょう。

その本では、「家康としては、徳川家主力で西軍を叩くことで、豊臣恩顧の東軍諸将への加増を最小限にして、来るべき徳川幕府を磐石にしたかったが、秀忠遅参により豊臣恩顧の武将に頼らざるを得なくなり、徳川幕府初期の段階は豊臣政権と同様、地方の諸大名が大国を領する不安定な状態となってしまった。」と書いてあったと記憶しております。

しかし、東軍と西軍の関が原が1日で終わるとは誰も考えていなかったので、中盤以降の勝負を決する段階で徳川主力投入を、と考えていたとしたら、その通り後で遅れてくる形にはなったけど、決戦に対する読みが外れて、わずか1日で終わってしまった・・・ということですね。

確かに、恐らく西軍内の造反の様子を見れば、家康自身が東軍に味方している諸将を完全に信じる気にはなれなかったでしょうし、長期戦になればむしろ東軍からの造反者が増えるという考えもしていたそうですから、あらゆるリスクと今後の展開を想定して、東軍の諸将も消耗はさせたい、但し戦いの決着は徳川軍主力でつけたい、という理想は持っていたでしょう。

遅らせることはワザとではなかったにしろ、徳川家主力を秀忠に指揮させて敢えて行軍が困難な東山道を進ませたことは、家康の計算だったのだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>多くの回答と似た答えで恐縮ですが・・・
 いいえ、いいえ、そんなことはございません。同じように見える回答もありますが、やっぱり、みんな違います。いろいろな見方があって大変面白いです。
>「家康としては、徳川家主力で西軍を叩くことで、豊臣恩顧の東軍諸将への加増を最小限にして・・・。」 しかし、1日で・・・。
・・・大変参考になりました。
>遅らせることはワザとではなかったにしろ、・・・。
・・・なるほどと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2007/12/25 21:05

「徳川家主力を秀忠に指揮させて敢えて行軍が困難な東山道を進ませた」


江戸時代まで、都から関東への主経路は中山道(東山道ではありません)です。東海道には多くの難所があり、決して行軍が容易な道ではありませんでした。

現在はトンネルや橋梁で難所を全て通過できますから東海道がメインルートとなり得るのですが、当時は自然の地形のままに道を作るしかありません。中山道は途中に大河も険しい峠も海に迫った断崖もなく、通行は本来楽な道でした。秀忠軍が非常な苦労をして通過したように言われているのは、上田城攻めでの遅延を取り返すために常識外れの速度で行軍したからで、道のせいではありません。

さらに、当時の道は東海道や中山道であっても「人がすれ違える程度」の細いものです。徳川全軍を東海道経由で行軍させることなどできません。

上方へ向った軍勢は、

1. 福島正則などの東軍に組した豊臣武将:東海道を先行、清洲で待機、その上で岐阜城を攻略して美濃へ進軍。

2. 徳川本軍:秀忠が率いて中山道を行軍。

3. 家康旗本:上杉や佐竹が関東に乱入しないと見定めた所で、諸城に徳川の武将が城将として入って、既に徳川の勢力圏となった東海道をゆっくり行軍。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/25 20:54

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!