No.11
- 回答日時:
#6です
後で考えていて思ったことがあったので追加&補足です。
家康が江戸をたってそう日がたたないうちに織田秀信の籠る岐阜城が降伏しており、そこで豊臣系武断派を長く留め置くのは士気の低下につながり西軍に寝返るものもあり、西軍からの寝返りも少なくなってしまい勝敗はどちらに転ぶか測りません。
仮定ですが、伊勢は西軍におちているので、挟みうちで清州にいた軍を殲滅することも西軍の選択肢にはあったでしょう(小早川&吉川がその気になれば)そうすれば家康、秀忠軍の個々撃破で豊臣の天下だったかも(笑)
そのあたりも考慮していたしかたなく決戦にのぞんだという結論に至りました。机上の空論は尽きないのでこのあたりでやめておきます。
話が少しずれますが、長期政権を保つためには武断派と文治派の手綱をうまくとることが重要な気がします。例をあげると大内家の陶氏や浦上家の宇喜多氏でしょうか、もちろん豊臣氏もです。内部分裂>滅亡の道をたどっています。
>(小早川&吉川がその気になれば)・・・こういう仮定を立てて想像して見るのは実に楽しいですね。この仮定、面白いです。
>長期政権を保つためには・・・。
・・・おっしゃる通りと存じます。何事もバランスをとるのが肝心と思います。ありがとうございました。
No.12
- 回答日時:
多くの回答と似た答えで恐縮ですが、「遅れてくる可能性は計算はしていた。
ただし、本来は関が原の決戦への参加を期待していて、ワザと遅らせるつもりはなかった。」ということだろうと思います。10年近く前に読んだ本で、タイトルなどを忘れてしまいましたが、家康本陣と本田忠勝の陣は、小身の足軽メインで構成されていて、鉄砲や騎馬、弓槍など、攻撃力の大きい部隊を動因できる大身の家来は、秀忠軍に回していたそうです。(確かに、関が原での井伊直正は一番槍から島津戦まで可愛そうなくらい奮戦しているが、本田忠勝はほとんど活躍した話を聞きませんね。)
本田忠勝と並ぶ榊原康政も、秀忠軍に随って実質的な部隊指揮を行っています。
そういう意味で、秀忠軍は徳川家のむしろ主力で、本来は西軍との決戦で使いたかったのでしょう。
その本では、「家康としては、徳川家主力で西軍を叩くことで、豊臣恩顧の東軍諸将への加増を最小限にして、来るべき徳川幕府を磐石にしたかったが、秀忠遅参により豊臣恩顧の武将に頼らざるを得なくなり、徳川幕府初期の段階は豊臣政権と同様、地方の諸大名が大国を領する不安定な状態となってしまった。」と書いてあったと記憶しております。
しかし、東軍と西軍の関が原が1日で終わるとは誰も考えていなかったので、中盤以降の勝負を決する段階で徳川主力投入を、と考えていたとしたら、その通り後で遅れてくる形にはなったけど、決戦に対する読みが外れて、わずか1日で終わってしまった・・・ということですね。
確かに、恐らく西軍内の造反の様子を見れば、家康自身が東軍に味方している諸将を完全に信じる気にはなれなかったでしょうし、長期戦になればむしろ東軍からの造反者が増えるという考えもしていたそうですから、あらゆるリスクと今後の展開を想定して、東軍の諸将も消耗はさせたい、但し戦いの決着は徳川軍主力でつけたい、という理想は持っていたでしょう。
遅らせることはワザとではなかったにしろ、徳川家主力を秀忠に指揮させて敢えて行軍が困難な東山道を進ませたことは、家康の計算だったのだと思います。
>多くの回答と似た答えで恐縮ですが・・・
いいえ、いいえ、そんなことはございません。同じように見える回答もありますが、やっぱり、みんな違います。いろいろな見方があって大変面白いです。
>「家康としては、徳川家主力で西軍を叩くことで、豊臣恩顧の東軍諸将への加増を最小限にして・・・。」 しかし、1日で・・・。
・・・大変参考になりました。
>遅らせることはワザとではなかったにしろ、・・・。
・・・なるほどと思います。ありがとうございました。
No.13
- 回答日時:
「徳川家主力を秀忠に指揮させて敢えて行軍が困難な東山道を進ませた」
江戸時代まで、都から関東への主経路は中山道(東山道ではありません)です。東海道には多くの難所があり、決して行軍が容易な道ではありませんでした。
現在はトンネルや橋梁で難所を全て通過できますから東海道がメインルートとなり得るのですが、当時は自然の地形のままに道を作るしかありません。中山道は途中に大河も険しい峠も海に迫った断崖もなく、通行は本来楽な道でした。秀忠軍が非常な苦労をして通過したように言われているのは、上田城攻めでの遅延を取り返すために常識外れの速度で行軍したからで、道のせいではありません。
さらに、当時の道は東海道や中山道であっても「人がすれ違える程度」の細いものです。徳川全軍を東海道経由で行軍させることなどできません。
上方へ向った軍勢は、
1. 福島正則などの東軍に組した豊臣武将:東海道を先行、清洲で待機、その上で岐阜城を攻略して美濃へ進軍。
2. 徳川本軍:秀忠が率いて中山道を行軍。
3. 家康旗本:上杉や佐竹が関東に乱入しないと見定めた所で、諸城に徳川の武将が城将として入って、既に徳川の勢力圏となった東海道をゆっくり行軍。
お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!
似たような質問が見つかりました
- 歴史学 関ケ原の戦いでの東軍:質問1.家康軍は、なぜ秀忠軍の到来を待たずに開戦したのでしょうか? 質問2.秀 5 2023/04/11 10:09
- 歴史学 1573年に武田信玄様の後を継いで武田家当主になった武田勝頼ですが、世間的には「強すぎる大将」として 5 2022/06/04 18:48
- 政治 自民にとって代わろうとする維新が共産を叩くのは当然の事ですよね? 10 2023/07/28 13:38
- 歴史学 合戦の数。 5 2022/06/19 14:42
- 歴史学 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の有名どころは戦場での肉弾戦も強かったのでしょうか? 8 2023/04/10 14:51
- 歴史学 信長の織田家は、女性の力を重んじ、それを活用していたのでしょうか? 7 2022/12/12 07:44
- 歴史学 酒井 忠次 と 小五郎 という名乗り の関係 について 1 2022/05/02 12:30
- 歴史学 石田三成と津軽為信の関係 3 2022/11/20 19:12
- 歴史学 「応仁の乱」 が起こった1467年から「大坂夏の陣」で徳川家康が豊臣家を滅ぼした1615年まで、数々 4 2023/05/14 15:45
- 歴史学 豊臣秀吉の弟の豊臣秀長は、秀吉の欠点を補う存在だったという話を聞きました。もし秀長が長生きしていたら 4 2022/09/15 05:56
おすすめ情報
デイリーランキングこのカテゴリの人気デイリーQ&Aランキング
-
平安時代の寝殿造り.....冬はど...
-
なぜ戦後GHQの政策で国史、地理...
-
「づつ」と「ずつ」はどちらの...
-
課題の反対語
-
56歳独身男性です。 オナニーが...
-
「1に何々、2に何々、34が無く...
-
「幼少」ということば
-
パクリの語源は、戦前盗みで捕...
-
中国人の脚の長さ が、気になり...
-
「いずれか」と「いづれか」ど...
-
日本で双子が忌まれるようにな...
-
羽柴(筑前守)秀吉などの「〇...
-
歴史的仮名遣いでの小文字表記...
-
10シリング6ペンスは日本円でい...
-
「わいうえを」とか「やいゆえ...
-
大正時代での恋人の逢瀬について
-
徳川本家、御三家の家紋に違い...
-
歴史的仮名遣いの「む」
-
戦国時代の「禄高100貫」と...
-
昔の人は冬の寒さをどうやって...
マンスリーランキングこのカテゴリの人気マンスリーQ&Aランキング
-
平安時代の寝殿造り.....冬はど...
-
「づつ」と「ずつ」はどちらの...
-
課題の反対語
-
「わいうえを」とか「やいゆえ...
-
昔の人は冬の寒さをどうやって...
-
「いずれか」と「いづれか」ど...
-
パクリの語源は、戦前盗みで捕...
-
56歳独身男性です。 オナニーが...
-
徳川御三家に紀伊・水戸が選ば...
-
中国人の脚の長さ が、気になり...
-
歴史的仮名遣いでの小文字表記...
-
「1に何々、2に何々、34が無く...
-
昔の日本人に比べて現代人が若...
-
処刑場跡(主に兵庫県南部で)
-
徳川本家、御三家の家紋に違い...
-
日本で双子が忌まれるようにな...
-
塗料 ナフタデコールとキシラ...
-
「幼少」ということば
-
睾丸を利用した拷問
-
歴史的仮名遣いの「む」
おすすめ情報