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日本の歴史を紐解くとペリーの黒船来航から2.30年で大政奉還.明治維新と怒濤の変革がおきたとあります。
私は高校のとき日本史にあまり興味がなく鼻ちょうちんをつくりウトウトするダメ生徒でしたので.最近テレビや本で改めて知る幕末明治がダイナミックでかつ不思議な時代にみえてたまりません。
そんな中ふと疑問におもったのが『ここまで短期間で文化.暮らし.政治.社会がかわった国ってそうあるものか??』と思うのです。
そもそもあの当時.佐幕派.倒幕派.勤皇派.藩の維持が第一派(?)など色々な考え.立場でそれぞれに強烈に時代を駆け後世に名を残した偉人が沢山いたのも特徴的だと思います(研究がすすんでるから登場人物が多いとも思うのですが)。

そこで質問ですが.世界の歴史上.あの時代に似てるなあっていう国や歴史をご存じならば教えてください

A 回答 (5件)

>世界の歴史上.あの時代に似てるなあっていう国や歴史を・・


世界史をもういちど勉強しなおしてください。
>ペリーの黒船来航から2.30年で大政奉還.明治維新と・・
要は軍事力・先進文明力が優れた国が、軍事がおくれた非文明化国家を勢力拡張・属国植民地化の餌食にしようとした状況下の話です。

スペインがインカを滅ぼしたとき
日本へ来航する前のアメリカが旧アメリカ人(インディアン)・ハワイ・フィリピンを属国化したとき
アヘン戦争など列強諸国が清を蚕食したとき
イギリスがインドや南アフリカを属国化したとき
イタリアが北アフリカを属国化したとき

古くは
ローマが現在のフランス・イギリス地方を属国化したとき
など例が多すぎるくらいでそれぞれダイナミックです。
日本は薩英戦争など属国化される数々の危機を幸運にも切り抜けた珍しい例で、他の例はほとんど先進国にやられてしまったわけです。
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トルコ。

外国では、ここしか思いつきません。

オスマントルコはかつては強大な権力と広い領土を持っていた国ですが、西欧列強による世界の植民地分割が進むにつれ、じょじょに勢力が衰えていきます。オスマントルコは最後に、第1次世界大戦にドイツ側に立って参戦するという大博打を打ち、見事に敗戦、このままではトルコという国が消滅するのは時間の問題とまで思われていました。つまり、清やインドと同じ状況だったわけです。

清やインドは、そのまま欧州列強のなすがままになってしまうのですが、非西欧系強国で植民地支配を逃れ、独立を維持した数少ない例がトルコです。第1次世界大戦が終わると、西からはギリシャ軍が上陸、イスタンブールに向かう経路のチャナッカレにはイギリス軍が侵入、東方からはロシア・アルメニア連合軍が攻め込んでくるという危機的状況に陥ります。この時、突如として頭角を現したのがケマル・パシャという軍人で、イズミールに上陸したギリシャ軍を撃退、現トルコ領のアナトリアを駆け巡りながら各地に誕生したトルコ系自治組織をまとめあげ、「トルコ人であることは幸いである」をモットーに、アナトリアを死守、東北部のトラブゾンにギリシャ系共和国が成立するなどの騒ぎがあったものの、ギリシャとの停戦の後、住民相互交換を通じて対ギリシャ関係をほぼ収束させ、現在のトルコ領を確定させました。彼は政治家としても有能で、イスラムがトルコの近代化を阻害していると考え、宗教指導者にして世襲君主であるスルタンを追放、大統領制に基づく共和国制度を導入したほか、一連の近代化策で国の地盤作りをしていきます。彼の業績としては、政教分離の徹底、女性参政権の実現(日本より早いのです)、文字改革などが挙げられます。文字改革とは、従来はトルコではイスラム圏につきアラビア文字が使われていたのですが、そもそも8つの母音をつかうトルコ語に3つの母音しかないアラビアの文字がそぐうはずもなく、また、アラビア文字は非常に学ぶのが難しいため、これを放置しておいては識字率の向上はありえないと判断、ラテン文字(通常のアルファベット)を基本とする文字に切り替えるよう、学者たちに指示を出したという話です。しかし、学者たちの議論は紛糾し、いつまでたっても結論はでません。しびれをきらしたケマルパシャは、伝説によると、たった2日間の徹夜だけで、自分で現行のトルコ式アルファベットを作り上げたとされています(真偽のほどは知りません)。

彼にはアタチュルク(トルコの父)という敬称が与えられ、現在ではケマル・アタチュルクと呼ばれるのが普通です。この人の近代化策は、基本的には日本の真似で、明治天皇の写真を大切にしていたことでも知られています。しかし、女性参政権や政教分離の徹底など、日本を越えたスピードでの民主化を行っており、優れた業績を残した人物として、現在でもトルコ人の間では半ば神格化されています。白黒写真で見ると、村山富一に似ています。トルコに親日派が多いのは、彼の業績の影響も理由のひとつです。

彼はあまりに偉大な人物であり、彼に対する批判はトルコではほとんどタブーと化していますが、彼が残した負の遺産もないわけではありません。彼自身が軍人であったことから、トルコは現在でも政治家よりも軍部のほうが政教分離に厳しく民主的であること、これにより、軍部が政治に影響力を持つという文民統制の効かない国になってしまったこと、オスマントルコが末期に行ったアルメニア人大虐殺を黙認し、アナトリアを死守するためならロシア・アルメニアと戦うことを辞さなかったこと、アルメニア人がかつて住んでいた地域にクルド人が住み着いてしまったことなど、否定的要因がいくつか思いつきます。いずれにせよ、彼がいなければ、トルコ共和国という国は、現在、存在しなかったことでしょう。

ちなみにですが、日本史では幕末が最大の変革期と思われていますが、南北朝~室町時代も、馬鹿にならない変革期です。ただ、皇族が分裂して争うという時代状況について、戦前の「万世一統」のイデオロギーではまともな議論を行うことなどできず、その時代の価値が、今でもあまり理解されていないのです。

典型的には、足利尊氏ほど戦前と戦後で評価の変わった人物はいません。戦前の教科書では、後醍醐天皇に最後まで仕えた楠正成が英雄で、天皇にはむかった足利尊氏は逆賊だと教えていました。戦後になると、足利尊氏とは実は、建武の親政が失敗に終わる中、新たに勢力を伸ばしてきた庶民や武士の期待を背負い、源氏の嫡流に生まれた者として嫌がおうでもリーダーとして戦うしかなかった英雄だったのではないか、という見解が早い段階で提起されてくるのです。この見解は、例えば子供向け歴史漫画の保護者向けページにも記載されていることで、楠正成と足利尊氏のどちらが正しかったのかという議論には意味がないとまで書かれている例もあります。にもかかわらず、現代においてすら、右翼系マスコミや地域史研究家に、「楠正成バンザイ」の人たちが多いのは、当時の変革の意味が正しく理解されていない証拠だと思います。

当時の時代状況はハチャメチャを極めており、尊氏の弟は皇太子を勝手に殺害してしまうし、ばさら大名という古くからの権威を全く無視した連中が出てきて、「天皇など不要だ。島流しにしてしまえ。代わりに銅像でも置いておけばよいだろう」と発言した人物が尊氏の側近だったりします。

室町時代になるとハチャメチャさはますます激しくなり、足利将軍家には酒乱で短命の将軍が続出します。これはほとんど、家系的な問題に見えますが、背景として、酒が庶民の手に入るほど安価になってきた時代が室町時代なのだという事情もあるでしょう。当時の酒屋は質屋を兼ねており、庶民は質屋に物を質貸しし、その金で酒を飲んでいたという笑い話まで出てきます。足利幕府は京都にあった以上、公家社会との交流を無視することが出来ず、ますますアル中が増えます。足利義政の正室であった日野富子の場合、政治的には無能で酒と芸術にしか興味のない夫に代わり、実質的に幕府の財政を支えるため関所に税をかけるなどの政策を行い、金儲けにしか興味のない悪女という評判が定着してしまうのですが、衰え行く足利幕府を支え続け、貴族社会との友好関係を維持しつづけた功績があります。貴族社会の間での評判は上々で、後土御門天皇と恋仲だったとする説もあるのですが、そんなプライベートなことは、今さら事実であるか確認すべもありません。
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個人的には韓国、台湾が最も近いと思います。


プロイセンがドイツを統一した時もそれに近いものがあったと思います。
しかし、それでも日本ほど短期間で急激に変わった国は珍しいと思います。

当時は、世界でも科学知識や工業技術が爆発的に進歩している時期です。(今あるモノは半分くらい当時に開発されたものです)
ですから、当時の技術の進歩やそれに伴う生活と文化の変化は当時の欧州ですら衝撃的だったわけです。
このように、産業革命は人類史における未曾有の大転機ですから、その後と前の国には歴史上かつてなかったほどの格差が存在します。

そして日本は、欧州から遠く離れていたせいでアジアで通商や思想や文化が隔絶していたこともあり、より衝撃的だったと思います。
何十年、何百年もかけて十分に成熟し巨大化した産業革命が科学革命と市民革命を引き連れて突如上陸したわけです。
そして日本ほどそれらを素直に受け入れた国は存在しないと思います。
受け入れたからこそ、革命的なスピードで国が変わったわけです。
受け入れることが出来るには国民にそれなりの基礎的教養が備わっていなければいけません。
当時のアフリカにはそれが足りず日本には足りていたわけです。

その他様々な条件が全てそろったからこそ出来たことでそれほど絶妙な立地と不運と幸運に恵まれた国はほかには知りません。
ですから、日本ほど急激に変わった国は事実上存在しないのではないかと思います。
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アメリカのニクソン大統領の補佐官キッシンジャーが戦後の天皇制から民主主義への移行を「日本人は3ヶ月で体制を一変させてしまう」と驚きをもって述懐していました。


 明治維新の大転換もまさにこれに類するもので、日本の歴史的な風俗・習慣、特殊な立地条件・文化が育んだ特別な「能力」の所産でしょう。 良くも悪くも、こんなドラステックなことをやり遂げて来た国は、他にはないでしょう。諸外国は、このような徹底さで再び「軍国化」してしまうかもしれないとの恐れを抱いているようです。
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明治維新から2次大戦までの日本の天皇制がおかしいだけでしょう。


民主主義が西洋からもたらされたと思ったら大間違い
江戸時代における村の寄り合いの談合の在り方は真の民主主義というにふさわしい
数の力に頼る多数決は力による支配であって真の民主主義ではない
物事を決めるに多数決という手段をとることはあるとしてもその心は数によって封じ込められた少数の心を斟酌するものであるべきだろう
明治維新の時代に似ているといえば
西欧の列強に立ち向かうために天皇を利用し祀り上げ
工業立国、富国強兵を目指す思想をまとめたといわれる吉田松陰の指針も
敗戦とその戦争責任をはたすという使命が終わった今の羅針盤を失った日本が
かつてあったところにたち帰ってみるという意味であの頃に似ていると言えば似ているだろう
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