
石田三成は民にはやさしい男であったが、頭が切れて気真面目すぎるために、加藤清正と福島正則のやり方と相容れることはできず仲は悪かった。
関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。
こんな疑問が浮かんだのは理由があります。
今まで清正と正則は家康の勢力拡張政策に貢献するかたちを取ってしまったので、こいつらは馬鹿だと思っていた。三成が頭が切れて気真面目すぎてうまがあわないといっても、冷静に考えたら三成のほうが秀頼を大切にする可能性が高いので、なぜわからないのだろうと思っていた。
しかし僕の目の前に石田三成に近い人間が現れたとき、最初は良かったのですが、最終的に
「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
と強く思うことになったのです。僕の今の心情から思うと、清正と正則も似たような心情になり、三成が死んで家康が勢力が増大しても、「三成に味方したほうがよかった」なんて思っていないと考えています。清正と正則もどうしようもなかったのかなあと思うようになりました。
●みなさんは清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。
No.5ベストアンサー
- 回答日時:
>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。
思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。
群雄割拠の戦国期を生き抜いた武将たちにとっては、例え敵味方に別れて過去に戦った相手だったとしても共に同じ部類の仲間としての意識があるようです。
そういう意味では、徳川家康に対しては同じ武将として自分たちと同類の仲間という意識であり、さらに『東海一の弓取り』といわれるように尊敬する大先輩といえる存在だといえます。
これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。
豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。
加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。
みなさんのご意見ありがたく思っています。
加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として判断するので、相反する石田三成に迎合するといったことはないのですね。
清正や正則は、豊臣家の忠実な家臣であるはずの徳川家康に、豊臣家の未来を託したのですね。結果、天下簒奪の諸行になったとしても、力のある武将が天下を取ることになっても致し方ないと思っていたのですね。
No.6
- 回答日時:
両者とも、関が原では三成に味方した方がよかったとは思っていなかったでしょうが、改易の憂き目に会ったとき、「豊臣を支えた方がよかった」と思ったことでしょう。
結局は家康にはめられた馬鹿さが身を滅ぼす羽目になったのです。No.4
- 回答日時:
清正、正則が石田三成と人間的に馬が合わなかったかどうかはわかりませんが、関ヶ原というのは、豊臣政権内の、尾張派と近江派の派閥争いに端を発してます。
清正、正則は尾張派。
三成は秀吉が近江の大名になってから家臣になった、近江派。
淀君は近江の人間であって、彼女の産んだ子、秀頼が豊臣を継ぐと、近江派の勢力が強くなるわけで、尾張派はそこに危機感を持っていたと思います。
秀吉の死後すぐに抗争が始まるのですが、そこにちゃっかり乗っかったのが家康というわけです。
清正、正則としては、近江派に牛耳られるよりは徳川を、という選択をしたのだと思います。
だから豊臣が滅んでも、それは彼らにとっては近江派が滅んだということなので、後悔はしなかったのではないでしょうか。
予定通りということですね。
家康は彼らと、彼らの精神的支柱である北の政所を厚く遇しています。
福島正則は後に改易されますが、それは家康の死後です。
No.3
- 回答日時:
思ってなかったと思いますね。
信長から秀吉に政権が移ったのを経験してるのだから家康に政権が移っても「是非に及ばず・・・」と思っていたんじゃないかと思います。ちなみにですが、らい病だったのは大谷吉継で湯浅五助はその家臣です。
No.2
- 回答日時:
清正と正則は豊臣の未来なんぞ考えてなかったと個人的には思いますよ。
黒田長政は秀吉の軍師であった父をもっています。その昔明智光秀を裏切った
細川忠興までいるんですからそもそも豊臣につく気はまんざらないはず。
石田三成は、湯浅五助というハンセン病の武将(皮膚などがすでに溶けてきていた)が酒を飲みまわす集会の時湯浅は回ってきた杯を回せなかったのです。
その時三成はその杯の酒を飲み干してくれたという話。三成はこんなにいい人だったんですよ。こんな人に最初から付かないんですからその清正たちは味方するきなかったと私は個人的に思いますね。

No.1
- 回答日時:
たとえ正しいことだとしても
『お前にだけは言われたくない』
というような相手が存在します。
官僚が自分の恣意的な意見を
いかにも世の中の大勢の意見であるとか、
権力者の意向に沿っているかのごとく
誘導していくことは今の世にもあることで、
それでも、清正、正則は味方しなかったほうがよかった。
というか、そういう選択肢はなかったと思います。
彼らは戦国武将ですから、
強いものが勝ち、それが世の中の幸せにつながるということを
体験から良く分かっていた最後の世代ともいえるのでは。
秀頼が滅んだのは、家康が最初からそのつもりだったのか、
それてもそうせざるを得なかったのか、意見はわかれるところでしょうけど。
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