「夫を成功」へ導く妻の秘訣 座談会

目に見えるものの認識というのは必ず以前の認識に規定されているので瞬間的なものではなく連続的なものであると思います。しかし直観的認識というのは以前の認識に規定されることのないという意味で感覚与件と同義であると思います。
つまり認識には既成の概念が必ず含まれているので直観的認識というものは在り得ないということになると思いますがどうなんでしょうか。

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A 回答 (14件中1~10件)

まず、基本的な前提の確認なんですが、



> 直観的認識というものは在り得ない

というのは、実体論的な意味ではお使いではありませんよね?
つまり、「直観」という言葉で呼ばれる「なにものか」がどこかにある、それに基づく認識が「直観的認識」である、そういうものが、あるかないか、という意味ではなく、わたしたちの認識のありようを考えていくとき、「直観的認識」という言葉ではうまく説明できない、という意味でお使いですよね?
この前提が共有できていないと、どこまでいっても話はかみ合わない。
なんというか、「直観」を実体的にとらえている人が多いので、アヤシイ気分になってきてしまいました。

ともかく「直観」という言葉は、そもそも神を認識するための方法として近世まではあった。そこから、デカルト、スピノザを経て、カントは「知的直観」を否定することで、直観を人間の認識のありように限ります。もちろんそこからいろいろな紆余曲折があるんですが、哲学のタームとして使われるのは、ベルクソン、西田あたりまでで、ベルクソンの身体論を引き継いだメルロ=ポンティとなると『知覚の現象学』では「直観」という言葉を使いません(後期の『見えるものと見えないもの』では出てきますが、そこでの「直観」は意識の内にあるものではなく、身体を媒介にするもの、「間身体性」としてとらえられます)。
意識をとりだして、わたしたちの認識のありようを厳密に記述することから、世界の内にある身体としての意識、というふうに、もんだいの立て方が変わってきているわけです。

そういう意味で、わたしはあまりこれまで考えてきたことはなかったのですが、質問者さんのおっしゃるように、わたしたちの認識の中で、「直観的認識」というのはうまく位置づけられないものなのかもしれません。
いや、最初にご質問を拝見したときは、これはフレーム問題のことを聞かれているのだとばかり思ったんですが、わたしなりに整理して、ご質問に対する回答としてみました。

その上で、補足部分に関してなんとか答えらしきものをひねりだしてみましょう。

>感覚与件というのは普通知覚にあらわれて来ないものだと思いますが

知覚をどう定義するかによるかと思います。
市川浩を引用してらっしゃるので(ただ、
> メルロ・ポンティによる原子論的な純粋感覚批判
というのは、わたしが持っている四冊の本にはありませんでした。どうか引用されるときは典拠明示をお願いします)ここではその基礎ともいえるメルロ=ポンティに依拠しつつ考えてみたいと思います。

メルロ=ポンティは『知覚の現象学』のなかで身体と世界のありかたを
「自己の身体が世界のなかにある在り方は、ちょうど心臓が生体のなかにある在り方と同様である。すなわち、身体は目に見える光景をたえまなく生かしつづけており、それを生気づけ、それに内部から栄養をあたえ、それと一体になってひとつの系を形づくっている」(『知覚の現象学2』p.3)と言っています。その上で「人が自分の身体でもって知覚する場合、身体は自然的自我であり、いわば知覚の主体でもあるからである」(p.8)
これがメルロ=ポンティの拠って立つ基本的な観点です。

「知覚がまず与えられるのは、たとえば因果性の範疇が適用できるような世界のなかでのひとつの出来事としてではなく、それぞれの瞬間における世界の再=創造ないし再=構成としてである」(p.9)

この部分が批判しているのは、デカルトやカントの知覚理論です。
たとえばカントの認識論だと、主体は「内容となるべきもの」は、外部から感覚を通して受け取る。この状態がいわゆる「感覚与件」ですね。この状態のままでは秩序のない混沌としたものですから、主体はこの意識内容に形式を与えて統一を作りだそうとする。これがいわゆる「認識」といわれるものです。
ここで両者の関係は、「感覚刺激→知覚」という、一方的で因果的な関係です。

ところが、メルロ=ポンティは、主体が対象を知覚するのではなく、対象の側から主体に作用するものがあるという。「波が浜辺の漂流物をとりまくように、世界が絶えまなく主観性をおそい、そして包囲しにくる」という状態にあるとき、「知覚それ自体を世界のなかで生起する諸事実のひとつとして記述することは問題になりえない。」(p.9-10)

これはどういうことか。
「感覚する者と感覚されるものとは二つの外的な項のようにたがいに面と向かい合っているのではないし、また感覚は感覚されるものが感覚する者のなかへ侵入していくことでもない。色をささえるのは私のまなざしであり、対象の形をささえるのは私の手の運動なのである。あるいはむしろ、私のまなざしが色と、私の手が固いものや軟らかいものと対になるのであり、感覚の主体と感覚されるものとのあいだのこうした交換においては、一方が作用して他方が受けるとか、一方が他方に感覚をあたえるとか言うことはできないのだ。私のまなざしや私の手の探索がなければ、また私のまなざしや私の手の探索がなければ、また私の身体がそれと共時化する前には、感覚の対象は漠然とした促し以外のなにものでもない。」(p.19)

たとえば「青い色」を見せられる。「まず第一に、どんな知覚も一般性の雰囲気のなかで生じ、無記名のものとしてわれわれにあたえられる。」(p.21)
見せられた人は「みずからを限定して青になることを私の身体になんとか可能にしてくれそうな態度を見いだす必要があるし、うまく言い表せない問題に答えを見つける必要もある。にもかかわらず、私はその促しに応じてしかそれをなしえないし、私の態度だけでは、私にほんとうに青を見させたり」(p.19)することはできない。

つまり、このように「感覚する者と感覚されるもの」の身体を媒介とした相互作用として知覚をとらえるならば、感覚に与えられた段階で、すでに身体は知覚し、その身構えをとっている、ということになります。


さて、市川が批判しているのは、おそらくメルロ=ポンティのこの部分であるように思います(読まずに推測しているのでいい加減です)。

「視覚は或る特定の領野に従属したひとつの思考であり、またそこにこそ感官〔意味〕と呼ばれるものもあるのだ。私が感官〔意味〕をもち、それが私を世界に到達させるのだというとき、私は錯乱の犠牲になっているのでもなければ、〔経験論的〕因果的思考と〔主知主義的〕反省とを混淆しているのでもなく、私はただ包括的〔現象学的〕反省に課せられるあの真理を表現しているにすぎない。すなわち〔私が世界と共有する〕共自然性(…)によって私は存在のいくつかの局面に意味を見いだすことができるのであって、私自身が或る構成的操作によってそれらの局面に意味を与えたわけではないのだ。」(p.23)と『知覚の現象学』で言っているのに対し、『精神としての身体』ではこのように知覚をとらえている。

「知覚するとき、われわれは「何か」を知覚する。その何かは意識の焦点にあって明瞭に把握されている〈図〉であるが、そのまわりには、不分明にしか把握されず、あるいはほとんど意識されていない前意識的な〈地〉がひろがっている。すなわち意識野は、一様の無差別な場ではなく、図と地という文節をふくんでいる。図と地の境界は、(…)かならずしも明瞭ではない。」(『精神としての身体』p.141)

ここから、質問者さんが引用された「いかに初歩的な知覚でもすでに一つの意味を担っているということを無視している」という部分がすんなりつながっていくと思うんですが。

上記の文章はつぎのように続いていきます。
「またこの分節化は、意識の対象ではなく、対象を志向する志向性の内的構造にほかならないから、ふつうは意識にのぼらない。しかし分節が存在し、前意識的にしろ、分節化作用としての〈図化〉が暗黙のうちに把握されているかぎり、それを意識化することは可能である。」

メルロ=ポンティが「身体」とおおまかに言っているものを、ここでは「志向性の内的構造」と言っているわけですが、「志向性の内的構造」が「意味」として知覚しているか、それとも「身体」が「意味を見いだすことができる」のかというちがいはありますが、「知覚」のとらえかたの根本の部分では(「感覚刺激→知覚」という、一方的で因果的な関係としてとらえないという意味で)同じだと思います。

あれやこれや書きましたが、整理の助けになれば幸いです。
お願いですから、あまりむずかしいことは聞かないでください。

この回答への補足

ghostbusterさん、たいへんわかりやすい解説ありがとうございます。

NO13でつい口を滑らして直観がとらえるといった表現をしてしまいました。
私が直観的認識というのは(瞬間的というとまた語弊があるので)無媒介的な認識という意味です。

>お願いですから、あまりむずかしいことは聞かないでください。

またぼちぼち補足いたしますの、これに懲りないで宜しくお願いいたします(笑)。

補足日時:2008/04/22 18:55
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どうも、お返事有難うございます。


難しいですね、
>Aの純粋知覚(物質的な刺激)とBの純粋知覚(感覚与件)は同じものでしょうか。
同じ物と言っていいでしょうが、作用と作用の内容と言う違いが有るとも言えます、元々外界の物質的刺激の差異の反復、つまり繰返しが記憶力を作り出したと考えてもよいのではと思っています。
その現在の刺激と過去の刺激の混合物がベルクソンの言う所の「イマージュ」と言う考え方だと理解しています。
意見の食い違いは、むしろ、ここではないでしょうか
>直観的なつまり瞬間的な認識というものはありえないと思います。
直観的=瞬間的と言う表現に、階層性のレベルの違いがあって、その結果として、前回、回答したように

ただ、直観的認識と感覚与件とのレベルの違いを認めれば、>在り得ない という結論にはならないと思いますが。

と言うことだと思います。認識にベルクソンの言う「持続」が必要なことは、ご質問文にも見られますから、直観=瞬間とお考えのようですが、この部分のレベルの違いを認めるかどうかが、意見の分かれ目でしょうか、尤も、これが正解、といった回答はまだないのではないでしょうか。
前回、取り上げましたギブソンの考えでは「記憶」はほとんど無視しています。

或いは、「感覚与件」とか「感覚所与」と表現されているもの理解の仕方、または、人によって意味の変わる「直観」の理解の仕方に問題があるのかもしれません。

とりあえず、今週は此処までで、来週の予定は未定です。

この回答への補足

fishbowl66さん、どうもありがとうございます。

内部から直観によってわれわれのすべてがとらえる実在が少なくとも一つは存在する。それは時間のうちを流れている我々自身の人格であり、持続しているわれわれの自我である。我々は他の何ものとも知的に、あるいはむしろ精神的に共感しえないとしても、われわれ自身の自我とはたしかに共感する。                 (ベルクソン 哲学入門)

他に直観がとらえる実在に何がありますか?

またぼちぼちと補足しますので宜しくお願いいたします。

補足日時:2008/04/20 21:57
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お邪魔します。


>しかし直観的認識というのは以前の認識に規定されることのないという意味で感覚与件と同義であると思います。

直観的認識と感覚与件が同義かどうかは、難しい問題ですね。

「感覚与件」をベルクソンの純粋知覚のレベルで考えれば、たんなる差異と反復の物質的繰り返しに還元できそうですが、「直観的認識」のレベルでは、既に記憶や記憶力の問題、つまり意識の問題が絡んでくるように思われます。
ベルクソンにおいては、一般に知覚は純粋知覚(物質的な刺激)と純粋記憶(精神)の混合物であり、純粋知覚(感覚与件)そのものが、認識のレベル以前のメタ認識といったことになるのではないでしょうか。つまり、問題の両者にはレベルの違いが有るのでは、と言うことです。

>目に見えるものの認識というのは必ず以前の認識に規定されているので瞬間的なものではなく連続的なものであると思います。

確かにその通りですが、こういう問題では、入力・出力と言った機械的構図で考えると、誤解を招くこともあります、眼に何かが入力されれば、そのまま出力する訳ではなく、目という構造も変化することを考える必要があるのではないでしようか。知覚や認識の発生論的考察ならば、アメーバの義手のように、外界の対象の刺激から、義手が目という構造に変化させる相互作用として考える必要がありそうです。正直この問題が解決できているとは、無学の私には考えられないです。

ただ、直観的認識と感覚与件とのレベルの違いを認めれば、>在り得ない という結論にはならないと思いますが。

一般に「感覚与件」については、ベルクソンの「時間と自由」「物質と記憶」が面白いですが、これは古典ですから、それより、ギブソンの存在論的な多元主義の方がお奨めかもしれません。
物理学的な階層性の問題で、アホーダンスと言う生活環境と認識の問題がなかなか面白くもあり、難解で理解しがたい部分もありますが、河野さんの解説書の一節をご参考までにご紹介します。

「くりかえすように、情報が神経や脳のなかをかけめぐるという想定は奇妙な擬人化である。ギブソンによれば、そのように考えるひとたちは言語的「情報」の概念をあやまって知覚に投影している。大方のひとが、情報という概念を使うときには、言語的コミュニケーションにおける「発信―媒体(情報のチャンネル)―受信」という図式を思い描いていることだろう。ギブソンによれば、言語的なコミュニケーションにおける情報はメッセージ(サイン、シグナル)からなり、さまざまな媒体がその情報を通達するといってよい。しかし、知覚については、「発信―媒体―受信」の図式によって理解してはならない。動物は発声、身振り、言葉、絵画、文字、テレビなどで情報を伝達するが、こうした経路によって知覚を理解することはできない。知覚にかんする情報は伝達されることなく、シグナルからなりたってもいない。外界の環境は観察者に語りかけないし、コミュニケーションもしない。知覚は情報の受発信や出入力ではない。」

前半はともかく、最後の部分はわたしにはまだよく理解できないですね。

「ギブソンのように、実在にさまざまな水準を認める立場を、存在論的な多元主義と呼ぶことにしよう。ところで、現代物理学は、この存在の多元性を承認しているかもしれない。今日の物理学では、空間スケールによって物質を階層的に区別する。その階層は、大きい順に、宇宙―超銀河団―銀河団―銀河―恒星系―地球(惑星)―マクロ物質―分子・原子―素粒子―クォーク―・・・?となる。
これらの階層を生み出し、その性質を決めるのは力(相互作用)の多様な性質と力の閉じ込め機構であるとされている(菅野1999)。クォークのもつ色電荷(色荷)がおたかいに打ち消しあって「無色」になっている。しかし、もし色電荷が無色になっていなければ、つまり、その水準に「閉じ込められて」いなければ、全宇宙は強い色ゲージ力によって支配され、それ以外の力(たとえば重力や電気力)の役割はほとんど隠れてしまい、世界はもっと単純な構造になってしまうだろう。またもしも電子の負電荷と陽子の正電荷の絶対値が同じでなけれは、原子は電気的に中性ではなくなる。すると、マクロの物質が帯電し、世界の構造は重力よりもはるかに強い電気力によって支配されてしまうだろう。マクロ物質が電気的に中性であるおかげて、ほかの力に比べて桁違いに弱い重力が、宇宙や銀河や恒星系など最も大きな宇宙の構造を決定している。これが宇宙の階層性を生み出している力の閉じ込め機構である。
しかし一方で、現実の自然界では、電気力の閉じ込めは不完全であり、重力の閉じ込めはない。これらの力が物質の階層性を貫いて作用しているゆえに、階層間にも連絡がつき、上下の階層がおたがいに影響をおよぼしあうことができる。電気力が原子内に完全に封じ込まれてしまえば、化学的結合力は生まれず、原子はすべてバラバラになるだろう。」(『エコロジカルな心の哲学 ギブソンの実在論から』河野哲也)

私自身もよく解らない訳で、長々回答を書いてしまい、ご迷惑かもしれません、それにあまり哲学的な回答ではなかったようで、大変失礼しました。お役に立てれば幸いです。

この回答への補足

fishbowl66さん、どうもありがとうございます。

>ベルクソンにおいては、一般に知覚は純粋知覚(物質的な刺激)と純粋記憶(精神)の混合物であり、純粋知覚(感覚与件)そのものが、認識のレベル以前のメタ認識といったことになるのではないでしょうか。つまり、問題の両者にはレベルの違いが有るのでは、と言うことです。

A:一般に知覚は純粋知覚(物質的な刺激)と純粋記憶(精神)の混合物であり
B:純粋知覚(感覚与件)そのものが、認識のレベル以前のメタ認識といったことになるのではないでしょうか

Aの純粋知覚(物質的な刺激)とBの純粋知覚(感覚与件)は同じものでしょうか。
同じとすると純粋知覚(物質的な刺激)というのは認識のレベル以前のメタ認識ということになるのでしょうか?

補足日時:2008/04/20 15:09
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この回答へのお礼

>目という構造も変化することを考える必要があるのではないでしようか

だからこそ認識というのは以前の認識に限定されたり補正されたりするのではないでしょうか。
直観的なつまり瞬間的な認識というものはありえないと思います。

お礼日時:2008/04/20 15:22

8です。


直観を従来で言われる認識の一部に含めるかどうか、哲学の分野ではどうか存じませんが、戦後の認知科学では怪しまれる問題です。
センス・データと結び付けられるかどうか、あまり単純な問題ではありません。
18世紀後半から19世紀に物質論をどう片付けるかがほぼ整頓され、
そのうえで19世紀から戦前に現象主義の派生があると思いますが、
この古い現象主義が提唱するセンス・データは、物質論によりかかった逆転した発想といえます。
たとえばある人物が、赤い、柔らかい、暖かい、丸い、といったセンス・データを辿って対象物を特定するに至る主観的操作は、
精神医学や心理学に用いられます。
また、これらのイメージの共通性や類似性も問われます。
センス・データは幼児においてさえ、意味付け、代替の機能を果たしています。

知覚を遮断された状態の知能による認識のあとに、実際の対象物を特定できるであろう、
つまりセンス・データの書き換え・活性化が可能であるとするのが、有名なマリーの部屋ですが、
これは現象の理解としてのクオリアについての思考実験である以上に、
むしろ虚構から現象へと参照する人工知能のイメージ研究に活路を開く、センス・データの典型例ともなっています。

いっぽう、直観については、
たとえば直観像(アイデティック・イメージ、アイデティック・イミジャリ)という知覚イメージを発見した実験が存在しますが、
これは本来的に備えている人と、備わっていない人がいるなど、謎を多く残しています。
視覚による対象のスキャニングのあとで、知覚された情報が記憶でも残像でもなく獲得された状態を指します。
聴覚の分野では研究が遅れていますが (記憶と分別し難いためでしょうが)、
個人的には共感覚の持ち主はこの直観像とほぼ同じメカニスムを経ていると考えています。
この場合、共感覚はセンス・データとは異質であることに注意を喚起する必要があるかもしれません。

共感覚の話は横に置いておきますが、直観は内観とやや異なり外在性に依拠しています。
物質論とも現象主義とも相容れない性格があり、また、不可逆性をそなえています。
センス・データの可逆性、可逆的に作られた理論であることによって起こる現象学としての限界は、直観と共有しない問題といえます。
また、ご関心の点はイメージ研究の分野のほうに、より発展的な見解を見つけられるのではないかと思われます。

この回答への補足

amaguappaさん、どうもありがとうございます。

>たとえばある人物が、赤い、柔らかい、暖かい、丸い、といったセンス・データ

amaguappaさんはセンス・データをどのような意味で使われていますか?

私の話はいたって単純で、赤い、柔らかい、暖かい、丸い、これらは既に述語だから判断である。
ゆえに感覚与件(センス・データ)とか直観的認識といったものは存在しないということです。

さらに言うとメルロ・ポンティが指摘しているように、最も単純な感性的所与は、(一つの地のうえの一つの図)であり、いかに初歩的な知覚でもすでに一つの意味を担っている、ということです。

私の言う感覚与件(センス・データ)とはNO10の補足で説明したように判断以前の無意味な状態という意味です。

補足日時:2008/04/20 04:13
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 ANo.7


 指摘という回答ですよ。補足する必要があればなさるがよろしかろうと存じます。貴兄の認識論のことで議論をせんとは存じておりません。
 あくまで不十分であるご論を指摘した回答ですよ。
 日本語というのは、そういう表現をしてきている心性と伝統の中で成立・存続・展開してきております・
 西欧の自然科学などの数式の表現とは異なる世界における現象とその知覚認識の事柄です。どうぞ誤解のないように、議論など、その他でもなく、指摘という拙い回答で、補足がいただけなければ、あえて継続の必要は御座いません。

この回答への補足

私の認識論ではなく、説明するまでもない基本的な事柄だからです。

感覚与件というのは感覚において最も直接的で瞬間的な状態のことでしょう。無媒介的な把握だから直観的認識ではないのですか。

補足日時:2008/04/19 09:42
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補足要求しておきながら、放ったらかしにしてしまってごめんなさい。


このところ体調があまりよくなくて、ややこしいことを考えたくなかったんです。なんとか良くなってきたんで、まあぼちぼちやっていきましょう。

ええと、フレーム問題はやっぱりちょっと置いておきます(笑)。
カントの用語に依拠していくのが、一番整理がつきやすいかなと思ったので。

もしかしたら、ちがうことを言ってるかもしれません。
そのときはまた補足お願いしますね。そうしたら、もう少し問題の所在が絞れるかもしれません。

>目に見えるものの認識というのは必ず以前の認識に規定されているので瞬間的なものではなく連続的なものであると思います。

という点ですが、カントの「直観」の場合、感覚が経験的に与えられなくても、わたしたちがすでに備えている直観形式によって、先天的な直観を持つことができる、としています。これが純粋直観ですね。
たとえばわたしたちが外部の事物を認識するとき「空間」の相において認識する。それは、
> 以前の認識に規定
されているものではなく、先天的にそう認識している。

つまり、どういうことかというと、直観というのは
・知覚される外的対象から得られる感覚与件
であると同時に
・先天的な形式(「時間と空間」)
でもある、ということです。

つまり、「直観」というのは、「直観する」という行為をさすだけでなく、同時にその直観を可能にする「形式」をも意味している。

こういうふうに考えていけば、既成の概念を含まない直観的認識はある、ということになります。

たぶん、ちがうことを言ってるんだろうなあと思いながら、回答してみました。
こういうことではない、と、なるべく具体的におっしゃってくだされば、また頭をひねってみます(笑)。

この回答への補足

ghostbusterさん、どうもありがとうございます。

>まあぼちぼちやっていきましょう。

補足するのもややこしい問題なのでそんな感じでお願いします(笑い)。

>こういうふうに考えていけば、既成の概念を含まない直観的認識はある、ということになります。

仰ることはよくわかります。

NO3さん、NO8さんも同様な意味のことを仰っておられますが、それだと質問するまでもないことなので、ちょっと纏めてから補足したいと思います。

補足日時:2008/04/18 20:03
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この回答へのお礼

まず知覚と感覚与件の定義なんですが、

市川浩さんは「ふつう知覚は、対象についての多かれ少なかれきわ立った、意識に上る直観的把握を指すが」
そしてメルロ・ポンティによる原子論的な純粋感覚批判として「ゲシュタルト心理学が明らかにしたように、われわれにとって最も単純な感性的所与は、(一つの地のうえの一つの図)であり、いかに初歩的な知覚でもすでに一つの意味を担っているということを無視している」と解説されています。

感覚与件というのは普通知覚にあらわれて来ないものだと思いますが、どうもここらへんが釈然としないんですよ。

お礼日時:2008/04/19 01:40

あなたには、直観とは粒子の強弱に関与する力であると伝えたことがあったかと思いますが、


量子物理学的といってもよいこの位相で、粒子をデータ化するならばそれはすでに認識であって直観ではなくなります。

直観は神秘的な経験であり運動の状態であることを余儀なくされるものであって、曖昧模糊とした状態を避けられません。
マラルメであっても、ベルクソンやアドルノであっても、直観の記述は不可能であることを悟ります。

認識はたしかに連続性・持続可能性のなかに置かれます。
予兆と痕跡のあいだを揺れ動く動作であり、瞬間というものにおいては、その微分化が、衝動的な破砕の運動という形で現れます。
そのような微分化された瞬間的なものとして、つまり認識からの逸脱として現れるのは、
外界に対する破砕衝動ではなく、自己同一性の破壊、自己同一性への懐疑です。

外界からの刺激への応答として認識を、それを前提に認識の否定としての「ちょっかん」を念頭に置いて質問しているのであれば、
それは直観ではなく、直感のことでしょうね。

この回答への補足

>あなたには、直観とは粒子の強弱に関与する力であると伝えたことがあったかと思いますが

いえ、伝えてないです。

補足日時:2008/04/18 08:53
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この回答へのお礼

と思ったら前回の質問で回答を頂いておりました。失礼いたしました。

それと私の話は単純で、
感覚与件そのものは認識でも判断でもない。
だから直観的認識というものは存在しない。
と言ってるだけなのですが。

哲学者の名前は忘れましたが直観的認識の例として感覚与件を挙げていたのでそのように理解していたのですが間違いなのでしょうか?

お礼日時:2008/04/18 18:56

 ANo.6です


 どちらのURLも繋がりませんでした。
 メールのhttp://blog36.fc2.com/t/toriatama5/file/20050311 …は繋がりました。
 この画像を作成し、将(はた)、貴兄を含めてご提供されている方がご経験やご判断のこと、ご認識が感覚与件かどうかのことでしょうか。
 私は何のつながりも、この画像自体には(知識も、情報も)ありません。ただ、白人系の少女の後姿だと判断し、貴兄から送られ、何とか拝見できたがぞうだ。という知覚です。多分愛くるしいしょうじょであろう、時代はどうかな。今頃はどうされておられるかな。という重いです。
 この地上での肉体器官として具備する感覚と、その感覚を根拠化したいる何重かの存在でのこの、地上の経験・出会いです。
 私にとってはそういうことです。多くの方にとってもそうでしょう。
 この画像自体がどうかこうかは、存じません。
 いろんなこと、要素、技術、エネルギーで創られている画像以前のなにか、技術や科学は知りませんので。
 それを画像とするのは私達側の、いろんな枠と原理で画像と判断しております。そういう判断以前に、そしてその他に仰せの瞬間の受け取りがどうということがあったかどうかは不明です。
 瞬間的に画像だと認知し、その前の瞬間の自分は不審、その前の出会いはわかりません。
 直観認識を聖なる認識の形式だとするなら、これによってはあまり啓示という教えは伝わりませんでした。
 ≪このあらわれは感覚与件でしょうか、あるいは感覚与件に記憶や判断が加わって構成されたものでしょうか?≫
 構成が作者や伝える方のことであれば、この画像は技術と用具と被写体、そして光などの環境により現出したのだと思います。
 こういうのを現出したいという思いや技術はあったのでしょう。
 その思いや技術のなかに仰せのものがあるのでしょう。
 対象自体は或るもの。でしかない。そしてそれはその或るものとするのは人間側のことです。人間側と対象客体とは、一つの意識でしかない。
 なお、この考え方は私は以下の団体の出版物から学び、正しいものと存じております。
 自分の責任で、そのことばでご説明することも考えましたが、直截原泉にあたることをお勧めします。
 つまり、フェア性を欠きますが、勉強中のヒンドゥの考え方についてをここで提示して、ご批判を仰ぐことはご宥恕いただき、ことなる見方があることの報告にとどめ、私の勉強中の本は、Self-Realization Fellowshipという団体のParamahansa Yoganandaのバガヴァッド・ギータでありますと付記させていただきます。ここでこの団体のURLを紹介したら、削除されましたので、名称だけに致します。サーチするとホームページが出てまいります。

この回答への補足

krya1998さん、どうもありがとうございます。

>構成が作者や伝える方のことであれば、この画像は技術と用具と被写体、そして光などの環境により現出したのだと思います。
 こういうのを現出したいという思いや技術はあったのでしょう。

構成というのはkrya1998さんの意識内のお話です。

感覚与件の定義、知覚の定義をお聞きしたかったので。

補足日時:2008/04/18 23:00
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この回答へのお礼

>
 【こういう意味であれば、≪直観認識≫というもの、その出自や由来を決定していると存じます。そうだとするとその決定の理由や根拠が示されていないと存じます。≪直観認識≫が、≪感覚与件≫であると、結論される理由が紙面の都合か、欠落しているのではないでしょうか。つまり異議ある判断もありうると存じますが。認識が、全て、≪感覚所与≫に対する≪連続的≫判断により存立しているということであれば、そのことにつき、質問者さんとしての根拠を提示する必要はないのでしょうか?】

これは転倒したご意見だと思います。

私は質問者であって回答者ではありませんし、議論を求めているわけでもありません。
ご存知の方だけ回答していただければよいのです。

お礼日時:2008/04/19 08:11

 ご質問にてご表現を次のように翻訳して、検討させていただき、コメントを書きます。


 1. ≪目に見えるものの認識というのは必ず以前の認識に規定されているので瞬間的なものではなく連続的なものであると思います。≫ということは、
 ≪目に見えるものの認識≫とは、=肉体とそこの世界における、知覚用具による知覚と経験であり、それに対してのそれという判断認識である。そういう認識というものは、≪瞬間的なものではなく連続的なもの≫=独立ないし、不依拠なるものではなく、過去のいわゆる判断・認識・そしてその総体に相関的にして、因果律や論理的理由の連続の中ににあるものであるということをおっしゃっていると理解します。

【そういう意味であれば、私もその通りであると存じます。】

 2. ≪しかし直観的認識というのは以前の認識に規定されることのないという意味で感覚与件と同義であると思います。≫
 ≪直観認識≫とは、=〔上の1.〕ではない認識というものであり、それは≪感覚与件≫であるとする。

 【こういう意味であれば、≪直観認識≫というもの、その出自や由来を決定していると存じます。そうだとするとその決定の理由や根拠が示されていないと存じます。≪直観認識≫が、≪感覚与件≫であると、結論される理由が紙面の都合か、欠落しているのではないでしょうか。つまり異議ある判断もありうると存じますが。認識が、全て、≪感覚所与≫に対する≪連続的≫判断により存立しているということであれば、そのことにつき、質問者さんとしての根拠を提示する必要はないのでしょうか?】

 3. ≪つまり認識には既成の概念が必ず含まれているので直観的認識というものはあり得ないということになる≫
 つまり、〔上の2.〕での≪感覚与件≫は、認識ではない。とされる。
だから、≪直観認識≫が≪感覚与件≫であるならば、それは≪認識≫とはいえないのではないか。何となれば、≪認識とは既成の概念が必ず含まれているので≫あるが、≪感覚与件≫たる≪直観認識≫にはそれがないから。

 【このことを、〔ヒンドゥなどの世界観、認識論についての判断は、これを考えないことにして、〕という但し書きがついていれば、つまり〔質問者さん自身においては〕という但し書き条件がついていれば、否定できないことであると存じます。まぁ西洋的認識論や認知論、ないしは科学といえる心理学では、ということになると存じます。】

この回答への補足

krya1998さん、ちょっと下のサイトをご覧になってみてください。

http://www.brl.ntt.co.jp/IllusionForum/basics/ar …

このあらわれは感覚与件でしょうか、あるいは感覚与件に記憶や判断が加わって構成されたものでしょうか?

補足日時:2008/04/13 23:08
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この回答へのお礼

すみません、URLが不正確でした。

http://blog36.fc2.com/t/toriatama5/file/20050311 …

お礼日時:2008/04/13 23:19

> 目に見えるものの認識というのは必ず以前の認識に規定されているので瞬間的なものではなく連続的なものであると思います。

しかし直観的認識というのは以前の認識に規定されることのないという意味で感覚与件と同義であると思います。

ご質問の意図がちょっとよくわからないのですが、これはいわゆるフレーム問題ということになるのではありませんか?

わたしがここでフレーム問題と言っているのは、人間はすべての視覚情報をまんべんなく処理しているのではなく、着目しているものを重点的に処理している。ところが人間は、氾濫する情報のなかから自分にとって重要なものに着目する。つまり、見る「フレーム」を選択している。このフレームの重要度を合理的に判断するためには、本来はフレームの内容を見た上で検討しなければならないはずである。ところがフレームは見る前に決定しなければならないのだから矛盾を生じる、という意味で使っています。

ここで「直観的認識」という言葉でおっしゃっておられることを「フレーム」と置き換えることができますか?

この回答への補足

いつもながら曖昧な質問で回答者の皆様にご迷惑をおかけします。
ちょっと補足してみたいと思います。

質問の趣旨はghostbusterさんの仰る「フレーム問題」と置き換えてもよいです。
まず直観的認識とは、概念の外にある事物によって直接限定される直接的な認識、例えばセンス・デーテのような者だと思いますが、このセンス・データは認識でも判断でもない。認識というのは二項的な判断の形(主語・述語)をとるだろう、つまり最初の瞬間という物は無く連続的な過程において生じるものだろうということです。

補足になってますかね?

補足日時:2008/04/13 11:44
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Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q「明快」と「明解」の使い分けは?

「明快」と「明解」の使い分けを混同しがちなんですが、
 (仮名漢字変換でも、2つが並んでいるし)
どんな風に覚えたらいいでしょうか?

「分りやすい説明」を受けた時に、
 明快な説明をいただいて
 明解な説明をいただいて
の両方あり得るでしょうか?

それと、
説明をすっきり理解できたという時に、
 明快に理解できました
 明解に理解できました
というのは、両方あり得るでしょうか?

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Aベストアンサー

再びkimosabeです。私も他の辞書を確認してみました。

1小学館「日本国語大辞典」旧版 名詞
2講談社「日本語大辞典」 (名詞)
3旺文社「国語辞典」第九版 (名詞)
4小学館「現代国語例解辞典」第二版 名詞・形動
5岩波「国語辞典」第五版 項目なし
6三省堂「例解新国語辞典」第五版 項目なし
(「広辞苑」は形容動詞を認めませんから論外。ただし私は最新の「広辞苑」を持っていません。買う気にならないのです。「新明解」も買う気がしません。)

4には「明解な説明」という例文がありますが、これは出典のある例ではなく、おそらく作例でしょう。6には「明快」の類義語として「明解」があげられています。

ところで調べているうちに「例解」という語を見てハタと気付きました。「例解」「詳解」「精解」「図解」「正解」といった語は、いずれも、解釈、解説、解答の「解」に、それを修飾するかたちで「例」「詳」「精」「図」「正」が付いています。語構成が「明解」と同じです。またこれらの語は、「正解」を除いて、書籍の名称に冠して用いられる点でも「明解」と同じです。

これらの語は、「例解な」「詳解な」「精解な」「図解な」「正解な」という言い方ができませんから形容動詞ではありません。名詞です。そこから類推すると「明解」もやはり名詞と判断するのが穏当で、「明解な説明」「明解に説明する」といった形容動詞的用法は本来なかったものと考えられます。

以下憶測ですが、「明快」との混同で「明解な説明」「明解に説明する」といった例が見られるようになったため、「学研」や「新明解」、上記4の辞書ではこれを追認(あるいは誤認)する形で形容動詞という判断を加えるようになったのかもしれません。

結論です。余人は知らず、私自身は「明解に」「明解な」は決して用いないでしょう。下にどんな語が来ても。

再びkimosabeです。私も他の辞書を確認してみました。

1小学館「日本国語大辞典」旧版 名詞
2講談社「日本語大辞典」 (名詞)
3旺文社「国語辞典」第九版 (名詞)
4小学館「現代国語例解辞典」第二版 名詞・形動
5岩波「国語辞典」第五版 項目なし
6三省堂「例解新国語辞典」第五版 項目なし
(「広辞苑」は形容動詞を認めませんから論外。ただし私は最新の「広辞苑」を持っていません。買う気にならないのです。「新明解」も買う気がしません。)

4には「明解な説明」という例文があり...続きを読む


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