五月人形で、織田信長と徳川家康が着ていた、鎧兜が売っていましたが、実際にその実物の鎧は発見されたのでしょうか?

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A 回答 (5件)

ご質問の意図がようやく分かりました。


信長公の着用した具足と家康公が着用した具足それぞれではなくて、信長公と家康公が「共用した(あるいは信長公が着用した具足を下賜した)具足」だったんですね。

でしたら「おそらく存在しない」でしょう。

一つには信長公と家康公の関係は「一応は同盟関係」なので、主従関係の様に「褒美として具足を与える」なんて事は失礼だからです。もちろん「贈り物」としてどちらかがどちらかに具足を贈る事はあり得ます。ただし、その場合は「自分のお古ではなくて新品を誂える」でしょう。お古が喜ばれるのは主人が家臣に授ける場合だけです。

その点で主従関係にない信長公と家康公が「同じ鎧を使う事」は相当に考え難い事です。
特に戦国時代以降、よほど貧乏な武士でもなければ、基本的には自分の具足は自分で誂え、よほどの謂れでもなければ代々受け継ぐなんて事はありません。ましてや家康公は信長公の御家中でもありませんから、まず、考えられないかと思います。

件の鎧と前回の回答で三番目にご紹介した「鎧」と同じ型式ならば、まず「家康公も信長公もどちらも着用してはいないだろう」と言えます。時代が違いすぎるので。
一番目の物と二番目の物は「南蛮胴具足」と言う型式ですが三番目の物は「大鎧具足」とでも言うべき物で、江戸時代中期以降にしか見られない型式です。
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この回答へのお礼

わかりずらい質問に、付き合っていただき、本当にありがとうございました。
詳しく答えていただき、勉強になりました。織田信長、徳川家康、と木札に書かれた五月人形だから、購入したんですが、この西洋甲冑を作った人は、何を根拠に、この2人の名前を書いたのでしょう?名前に惹かれて、買っちゃったんでデザインで言えば、他の人形、上杉謙信や、伊達政宗、のほうがかっこよかったんですが諦めます。今日届きます

お礼日時:2008/04/29 08:23

うーん。

せっかくのお買い物にケチを付けてしまったようで、申し訳ありません。しかし、「南蛮胴」との事ですから、それほど捨てた物ではありません。何しろ家康公も信長公も、「南蛮胴具足」を使っていた事は確かなのですから。

後、東照宮には家康公の着用した「全部金塗り」の「金阿弥塗仏胴具足」
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/117803/117896/
と言う物もありますので、「銀包み」などもそれほど変ではないんですけどね。

来年の大河ドラマは、変わり兜で有名な直江兼続です。ぜひ、直江の兜にも御注目下さい。

それはさておき、伊達の五枚胴具足を好まれるとはお目が高い。
http://www.rakuten.co.jp/yoroi/117806/117981/
私も好きです!
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この回答へのお礼

いいえ、とてもよくわかりやすい回答、感謝しています。
ありがとうございます、捨てた物ではないですよね。
それに、家康公も信長公も、南蛮具足使っていたんですね。
ほっとしました、根拠がまったくないわけではないんですね。
飾ってみると、たてものの、たいようが変わっていて、なかなか売っているのを、みないかっこなので、気に入りました。
桃山時代 すがけ威具足 伊予札胴丸鎧と一緒に飾ってみました、
10号を2つ飾ったので、迫力があります。太陽と三日月のようで、いいですよ、ですがスペースに困ってます、いろいろ付属をつけてもらいましたが、全部かざりきれていませんが。
本当にお付き合いくださいまして、ありがとうございました。

お礼日時:2008/04/30 08:33

私もやっと意味が判りました。


二人が供に使用した鎧・兜、というのはまずありえません。
というのは、通常、鎧や兜を部下にあげる、という習慣はあり、家来には武勲などに応じて結構プレゼントする例があったのですが、甲冑一式という形にはせず、大抵は兜だけだったりしたようです。
また大鎧の一部分だけ、という例もあったようです。
それに前の方のおっしゃるようにこの二人は主従関係ではなく、信長も明智光秀を抜擢して接待に当たらせるなど、賓客の部類だったので、褒美に兜や鎧というのはむしろ失礼になっちゃいます。

甲冑一式というのは殆ど神社などに奉納する場合で、現存してる鎧兜などはこういう例が非常に多いです。
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この回答へのお礼

わかりずらい質問ですいません、やはりありませんかあ。でも今日人形が届いて 飾ってみましたら、なかなかかっこいいので、あまりこだわるのは、やめにしました。お付き合いくださいまして、ありがとうございました。ちなみに木札に織田信長公、徳川家康公、南蛮甲冑、旭日、銀包み塗り南蛮胴、塗り分けカルタ形佩楯と書いてあります。

お礼日時:2008/04/29 17:03

一般的に五月人形で飾られる防具の多くは「鎧(大鎧)」ですから、信長家康の時代の「具足」とは型式が異なります。


この両者の防具で有名なのが「南蛮胴具足」で、ヨーロッパから輸入されたPlate Mailを和風に仕立て直した物です。が、これらはほとんど「実戦優位の型式」ですから、五月人形などの「飾り」には使用されません。

五月人形では例えば兜に鍬形と言う大きく左右に張り出した飾りがあったり、防具の鉄板を上下に連ねている(「威す」と言います)糸が派手な絹で編んだ紐だったりします。
しかし信長や家康の時代はこんな事をしてはいられません。分厚い鉄板で防御力を重視して製作します。飾っても見栄えがよくありませんから、飾り物に使用される事はまずないと言えます。

http://syoubuya.com/?pid=3703782
これなどが信長公が使用したと考えられる南蛮胴具足となります。

http://www.sengoku-expo.net/design/J/armor/001-a …
こちらは日光東照宮に伝わる、家康公が所用したと伝えられる南蛮胴具足です。

http://item.rakuten.co.jp/miyage/gogatu-case-cyd …
こちらは正確を期すなら「家康風」五月人形飾りです。この型式を家康公が使用した事は「あり得ず」、純粋に「飾り」だと考えるべきです。

この回答への補足

詳しい情報ありがとうございます。丁寧におしえてもらってありがたいです。実は、もう契約してしまいました。実際、徳川家康と織田信長の両者が、着用したといわれる、鎧や兜はないんですか?

補足日時:2008/04/28 00:11
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こんにちは。


徳川家康のは、関が原で鉄砲で試し打ち(鎧をぶら下げて至近距離から鉄砲で銃撃して抜けない事を確かめた)した物が現存しています。
胴のしのぎ部分に銃痕が残っています。
それを確認した上で着用し、指揮鼓舞の為に馬にまたがって前線に向かったという記録もあります。
信長のもあるようです。
↓の「南蛮具足」というのがそうです。
http://www.interq.or.jp/pure/miyatate/sengoku-ar …

この回答への補足

ありがとうございます。2人が1つの鎧を身に着けたことは、ありますか?
あとそれらの鎧は、どこでみることができますか?おねがいします?

補足日時:2008/04/27 20:07
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Aベストアンサー

では補足を
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ただ 真田幸村の壮絶な戦いぶりが徳川家で語り草となったので
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実際家康は大阪の陣後消えました
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Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q徳川家康の織田信長に対する思い

徳川家康は事実上、信長にありもしない嫌疑をかけられ妻子を失っていますが、同盟国(従属)である社会的(家を存続させる)な立場の思い、と人間としての想い、などのわだかまりは一切なかったのでしょうか?

またチャンスがあれば織田家を裏切ろう、といった野心はあったのでしょうか?歴史的な文献はないと思われますので個人的な意見をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

ちょっと違います
家康が信康と築山殿を斬られて恨んだのは信長ではなく家臣の酒井忠次ですよ

息子と妻が盟主に嫌疑を掛けられて切腹させられたのは 確かに理不尽とは言え
事実上信長の従属下にあった家康は仕方ないことだと 有る程度諦めをつけています

しかし名代として信長に申し開きに行った酒井忠次は何の弁解もせずに帰還
家康は大久保某から信康が切腹した事を聞かされると「斬ったと言ってどこかに逃がしてやれば良かったものを…」と悔やんだそうです
その後 酒井忠次の子 家次がわずか10万石に抑えられていた事に不満を持った忠次は家康に
「息子の石高を加増してほしい」と頼んだところ 家康は「お前でも息子はかわいいのか?」と言い放ったと言います
あの時 信康を救わなかった酒井に対する恨み のようなものがあったのでしょう
あるいは信長に向けたくてもどうしょうもないうらみを酒井に向けた可能性もあります


信長を裏切ろうとは思わなかったでしょう
徳川家が存続し得たのは間違いなく信長との同盟があったからです

まぁ一説には本能寺の変の黒幕が家康で この信康の件の恨みでの犯行という説もありますが
家康自身光秀に命を狙われてるわけですから それはありえないでしょう

ちょっと違います
家康が信康と築山殿を斬られて恨んだのは信長ではなく家臣の酒井忠次ですよ

息子と妻が盟主に嫌疑を掛けられて切腹させられたのは 確かに理不尽とは言え
事実上信長の従属下にあった家康は仕方ないことだと 有る程度諦めをつけています

しかし名代として信長に申し開きに行った酒井忠次は何の弁解もせずに帰還
家康は大久保某から信康が切腹した事を聞かされると「斬ったと言ってどこかに逃がしてやれば良かったものを…」と悔やんだそうです
その後 酒井忠次の子 家次がわずか10万石に抑え...続きを読む


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