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 鍵をかけずに外出しても 大丈夫だという時代(あるいは地域)があったと思いますが それは もう回復ができないことなのでしょうか。そういう意味での共同体の問題です。その意味でコミュニケーションの問題にも関係していると思います。

 《住宅の防犯性》に対する不満が 53.8%だという調査があるそうです。(国土交通省。2003年ですが)。今朝の日経(経済教室=沓沢隆司)によるのですが かつて1993年には 《治安の良さ》について誇りに思う割合が 52.1%だったのが 2005年には 18.0%にまで下がったと言います(内閣府調査)。
 《06年の調査でも 84.3%が 〈ここ十年治安が悪くなった〉と見ている》とも言っていて ただしこの論文は 犯罪発生率が高く治安が悪いと その土地の価格は比例して下落するといったことを指摘し 交番の設置が効を奏すなどの提言をしています。

 この質問では 治安の良い社会をつくる人間関係といった見方に焦点をあて 共同体復活について どう考えればよいか これを問うています。その改善策についても 経済政策というよりは 社会哲学としてです。まづは 考え方としてです。
 わたし自身は きわめて広く思想の問題だと考えています。(あるいは 究極の思想としてみづから抱くものがあります)。それでは 前へ進まないので どんなことでも いいですから おしえてください。

A 回答 (24件中11~20件)

何度も申し訳ない。


primeapeです。
以心伝心に関して「共感」と言う言葉はあまり使いたくないです。
悪意にすら共感する方がいらっしゃる中、誤解の元です。
共感とは心がつながっていることの確かな証拠にしておきたいです。
「普遍性」との言葉の重要な意味について考えをまとめてみたいものです。

この回答への補足

 ことだま資本主義=ヤシロイスム関係の参考資料です。
 ジョン・ラスキンからです。
   *   *   *
 生以外に富は存在しない。生というのは そのなかに愛の力 歓喜の力 讃美の力すべてを包含するものである。
 (J.ラスキン:『この最後の者にも』飯塚一郎訳 〈第四論文 価値に従って〉77)

 * 司馬遼太郎が いわゆる宗教としては 《生命の尊重》 この一事を教えとすればよいというような意味合いのことを言っていたと記憶するのですが。(出典が 定かではありません)。

 ポリティカル・エコノミー〔国家の経済もしくは市民の経済〕は ただ有用品もしくは快楽品を 最も適当な時期と場所で生産し 保存し 分配することにあるのである。
 農夫がちょうどよい時期に草を刈るのも 船大工が堅牢な木材にじゅうぶん的確にボルトを打ちこむのも 建築工がよく練った漆喰で良い煉瓦を積むのも 主婦が客間の家具をたいせつにし 台所の浪費を慎むのも 歌手が自分の声を正しく訓練し けっしてむりに出すことをしないのも みな正しい究極の意味において国家経済を営むのであって たえず自分たちの属する国民の富と福祉を増大させているのである。
 しかし 商業的経済 つまり《メルケス(→mercantile )》の経済 すなわち《報酬》の経済は 個人の手に 他人の労働に対する法的ないしは道徳的請求権 あるいは支配力を蓄積することを意味するのである。そしてこのような請求権はすべて 一方において富ないしは権利を意味するのとおなじだけ 他方においては貧困ないしは債務を意味するのである。
 (〈第二論文 富の鉱脈〉28)

補足日時:2008/05/17 22:46
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この回答へのお礼

 そうですね。
 正負の響き合いは 共鳴でしょうか。共感は 正のほうの内容で 肯定的でありますから。

 《ことだま資本主義》などと言い出したものですから 《以心伝心》が 《ことだま》の領域として 基礎となっているべきものなのですが かたちあるものとして 扱いにくいというかぎりで 一般の議論に出て来にくいのでしょうか。みなさんにも この《共通感覚→共同主観・常識》の問題について ご投稿いただきたいですね。

お礼日時:2008/05/16 00:14

またまたprimeapeです。


心象世界が個体を超えてお互いにつながっている現象についての証言です。

問題発言たる「われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか 」のA16について。
私自身に関しては、悪意を演じたひょっこりひょうたん島人形劇で、ファンタジーでしたが、悪意の実物提示教育が舞い込んだのでポンポコ魔道大戦でした。
個人においては悪意が白紙でも人知において合意が無ければ存命中の方々の無意識から悪意が舞い込みます。
これが夏目漱石を悩ませた事象の真相ではないでしょうか。
特殊な人だけの霊能力ではなく誰もが認識できる「以心伝心」の負の側面です。
日本人の無意識は正直で無防備なので「悪」は無く「悪意」のみがある一般的証言で確認が取れます。
心理学の初歩的な言葉遊びの「自分だけが知る自分」「他人だけが知る自分」この辺の無自覚を何とかしてもらいたいです。

この回答への補足

 直前(No.13)のお礼欄の中の一事項について 補修します。〔 〕内が それです。

 ▼ 漱石は登世(兄嫁=三兄・和三郎の妻)に恋心を抱いていたとも言われ、〔1891年(明治24年)漱石二十四歳の時 かのじょの死を受け〕心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。 

 小泉八雲とも かすかな接点があり おもしろそうですが。

補足日時:2008/05/16 09:17
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この回答へのお礼

 漱石の登場人物は そのコミュニケーションにおけるやり取りとして まだ確かに 共同体に属していると 直前のご返事に書きましたが 今回についても こうなると 漱石の作品にあたって 具体的に批評しなければならないようですね。

 その点 わたしもそうですが primeapeさんも まだ 一般向けに説明したことにはなっていない。こう思いました。

 ★ 「以心伝心」の負の側面 
 ☆ については 形態として そういうふうな現象であるように わたしも思います。また 
 ★ 日本人の無意識は正直で無防備なので「悪」は無く「悪意」のみがある
 ☆ に関しましても 一つの見方として こう感じました。つまり 日本人は 自分の言動に索引をつけないのです。他人のことに関しては 驚くほど 索引をつけていて あとになっても 軽くなじるようです。このように 意志行為の一貫性に鈍感になっているとすれば そこに《善の損傷が起きていて 欠如している部分は 抽象的な定義としては 悪であり 実際には 悪意となって現われがちである》と考えます。
 primeapeさん ここまで来たなら できるだけ具体的に(と言っても 小説の中の事例でもいいわけですが) 例示して述べていくと 一般的に(つまり 一般的なコミュニケーションとして)確かな足取りになると思われます。

 * ★ 心理学の初歩的な言葉遊びの「自分だけが知る自分」「他人だけが知る自分」この辺の無自覚を何とかしてもらいたいです。
 ☆ に関しましては じつは わたしも 保留しています。残念ながら 漠然としか分かっていません。

お礼日時:2008/05/16 00:07

primeapeです。



>(5) 近代化以来の課題
 ★ 〔近代化の始まった時から 漱石を悩ませ かれの成果を持ってむしろわれわれを覚醒させる契機ともなった〕暗闇のポンポコ狸合戦
 ☆ これについては――けっきょく コミュニケーション論に横たわる課題のすべてにわたるとも考えられますが―― みなさんに理解し易いように 説明されれば みなさんも 問い返していけるように思います。

これに取り組もうと思ったのですが、私にはもはや悪は認知し得ないとの結論に達し頓挫いたしました。

ウィキペディアの「認知」の参照の中、
>認知とは、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のことをいう。

これが印象的です。
悪とは心象においてのみ認知できるもので悪意としか言い表せません。
テレビで見る現代人の心象表現にも現れていまして、「悪人を見た」と表現した人はテレビで見たことがありません「悪意を感じた」との物言いはよく見かけます。裁判の判例でも悪人扱いは聞いたことがありません。
よって「悪」とはファンタジーではないでしょうか。
そのファンタジーたる悪の行いを映像つきの心象であらわしたのがポンポコ狸合戦です。

こんな感じから、何か思い当たることはありますか。

この回答への補足

 なるほど。初めに 読みづらい文章を引いてみておきます。(なるほどの意味は あとまわしになります)。
 悪は 善と並んで 初めからあったというものではなく 初めには善(――つまり 何のことはなく 生命であり存在のことだと思うのですが――) これが ある。この善は 相対性なる経験世界にあって 相対的な存在であるので 少しづつ損傷を受ける。その損傷を受けた善の部分が 欠如となる。つまりその善の欠如の部分が 悪だという定義です。要するに 自分の意志で うそをついたなら その損傷によって 善が部分的に欠如し そこに悪と呼ばれる状態が現われる。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だが悪と言われているものは 善の欠如以外の何であるか。
 事実 動物の肉体にとって 病気や傷によって害を受けることは 健康を奪われることにほかならない。(* その意味でも 善の欠如だと言おうとしている)。・・・
 そのように精神の悪徳はすべて自然的善の欠如なのである。この欠如がいやされると それらの悪徳は他の所に移されるのではなくて かつてそこにあったものが 全然なくなってしまうのである。というのは 健康状態においては それらの悪徳は存在しないからである。

 § すべての被造物は善である しかし最高に善ではないから朽ちる

 すべて存在するものは・・・その創造者と同じように最高に善であるのではないから その中で〔存在する〕善が減少することも増加することもあり得る。
 しかし善が減少することは悪である。だが いかに善が減少しても〔もしまだそこに存在者が存在するのであれば〕何かが残らざるを得ない。そしてそこから存在者〔あらためて〕が生じてくるのである。・・・
 ・・・
 存在するものに 朽ちることのできない或るものが残存するとすれば その存在するものは明らかに朽ちないものとなり 〔一部分が〕朽ちることによって 〔かえって〕大きな善に到達することになるであろう。
 (アウグスティヌス:『信仰・希望・愛』赤木義光訳 第一部 創造論 第二章 悪)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 かくて 悪の状態を それとして 認知することは むつかしいでしょうし 必要ないことかも知れません。善の損傷もしくは 具体的に 過去の意思表示を曲げた・破ったというような事例 そしてそのことをめぐる相手とのやり取り こういった事例で 示していくのでしょうか。
 つまりは この限りで言って やはりコミュニケーションのあり方の問題になるようにも考えます。
 漱石の登場人物たちのやり取りは たしかにまだ共同体に属していると言えるのではないでしょうか。

補足日時:2008/05/15 23:46
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この回答へのお礼

 漱石に関する《暗闇のポンポコ狸合戦》にかかわると思われる事件を wikiより拾い挙げておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE% …
 ▼ 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。
 ▼ 生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い実家へ連れ戻した。
 ▼ 養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。
 ▼ 1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学の英文科に入学。この頃から厭世主義、神経衰弱に陥り始めたともいわれる
 ▼ 漱石は登世(兄嫁)に恋心を抱いていたとも言われ、心に深い傷をうけ、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。 
 ▼ 東京高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。
 ▼ 貴族院書記官長中根重一の長女鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。
 ▼ 〔英国留学中〕英文学研究への違和感がぶりかえし神経衰弱に陥り始める。また東洋人であることでいわれなき人種差別を受け傷心し、研究が進まない苛立ちも重なったのか、何度も下宿を転々とする。
 ▼ (小泉八雲の後任として)東京帝国大学から講師として招かれる。しかし、東京帝国大学では学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。
 ▼ また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳の滝に入水自殺した。
 ▼ こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2ヶ月別居する。
 ▼ 漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。

お礼日時:2008/05/16 09:03

 上流で聖にして清流もだんだんいろいろ変わってくる。


 しかし、その水自体が変わったのではない。水自体は聖にして清流です。
 聖なるヒマラヤ(ブラフマン)から流れ出た女神ガンガは源流から大洋まで流れている。これを劣化とか変化というかどうかは又考え方でしょう。
 無論ガンジスという物質の水の川の下流は最近の汚染はひどいらしいが。
 ブラフマン(シャンターヌ)とガンガにかわりはない。これは常に聡であり続けてきております。

 第二例、中国は論語(私は孔子を論理家というより宗教家で解釈します)
 子在川上曰、逝者如斯夫、不舎晝夜、 先生があるとき川のほとりにたたずんで、述懐しておおせられた。おう、逝く者は斯くの如きか。昼夜を舎(お)かず。

 第三例、日本 神道の神主でしょう。鴨長明は
 行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。
 
 変化は絶え間有りません。いつも人はそのようにみてきております。昔も常に前の時代を懐かしみ、理想化しながら、ずうぅっと歴史は流れてきております。
 この見方、対処の仕方は古今東西通じるものがあります。
 今次貴兄のご質問についても聖賢のそんな態度に似ております。
 それはそれで宜しいでしょうが、基本、根本の構成要素というものの変化はありません。見え方、つむぎ方の問題だと、この小人は思っています。雑多な観念を脱いで、対することが必要だと思っております。
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この回答へのお礼

 けっきょく もうこれで 一年ほどになるでしょうか いつも つねに その光背とわたしは 話をして来ました。つまり 光背を拝みなさいとおっしゃっていますね。

 ガンガーにも いくつもの支流があるのではないですか。海に注ぎもすれば 空に舞い上がっても行きます。その流れるものとして 互いに流れていく者どうしとして 話をするのではないですか。
 おれには光背があるぞとは ほんとうに光背が備わっている人は 言わないのではないですか。

 《雑多な観念》なのかも知れませんが たとえそうであっても これを おのれを空しくし 少しでも 自己にとっても相手にとっても 良かれと考えて 持ち合って来てくださるのでしょうし 出し合っていくのではないですか。 
 (それ以外の思想を持つ人の場合には わたしにとっては 論外です。少しでも 話し合いで 前へ進めると思う人の場合には 言葉をかけてまいります)。

お礼日時:2008/05/15 11:42

 ANo.9 もっときついお叱りを戴くのかなと、おののいていましたが、相変わらずお優しいですね。


 そういう状況の分析や論文、感想があることは知っております。
 昔も、辻斬りとか追いはぎ、胡麻のはい、いろんな形態で同じことがあってきております。それは現象の仕方、見方、気付き方の違い、スポット・ライトの照らし方だと存じます。

 共同体は企業、職場、サークル、労組やその他の組織、単体などに他とこちら側との境界壁の内と外というように一応存続して、心性などは継続存在していると観察しております。昔もいろんな異界があったということをお知りになることでしょう。
 
 住居中心のコミュニティの紐帯と機能は少しがら隙にはなったかに見えますが、生活形態などがちがってきているだけです。

 要するに日本人性やコミュニティは継続しておるという認識をしそれを前提にして、私はいろいろ構築に勤しんでおります。
 
 日の下に新しきものはないと存じます。
 消えるものは、事実としてなかったものである、という見方をしております。当時から本質のものが存在している。当たり前のことを申し上げただけなのですが。
 【治安の良い社会をつくる人間関係といった見方に焦点をあて 共同体復活について どう考えればよいか これを問うています】
 昔の良い人間関係の構築は、自分の内に全ての方がおられ、全ての方に自分がおられるという認識を深め、実感していく。お互いにそうしていく。
 これが、方法であり、用具であり、材料であり、目的の内容であると存じます。
 
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この回答へのお礼

 《当たり前のことをおっしゃっていますね》と申し上げただけです。
 《雑談をしたいわけ》では ないですよ。

お礼日時:2008/05/15 08:35

私としては、bragelone さんの意見は念仏平和主義(=お題目を唱えていればそれだけで物事が叶う)に見えます。


多数が同意見なら実現できることならそれでもいいかも知れませんが、
犯罪のように、例外がちょっとでもいれば実現できなくなるようなことに対しては無理がありすぎるのでは?
で、鍵をかけずに外出しても 大丈夫というのが、かつてはそのとおりだったとして、
それで大丈夫なようなシステムになっていた、というのが真相では?

そのシステムですが、
・利益、目的の共通化:血縁社会(アジア的共同体)。
・動機の欠如:貧富の差が少なく(=皆が貧しく)、そもそも盗むものが少ない。
       (昔でも、金持ちは狙われていたのは間違いない。鼠小僧とか、石川五右衛門とか。)
・検挙率の向上:コミニュケーションの範囲が狭い。何かあっても、容疑者が限定されるので、
        犯人を特定しやすい。
・疑わしきは罰する:その地域社会の部外者は、それだけで白い目で見られる。
・連帯責任:犯人でなくても罰する。また、相互に、自分以外の行動を見張る。
と、まあこんなところをいくつか組み合わせるといったところか。

この状態が村(今の行政単位の村ではなく、今で言えば、「字」くらい。)の範囲ならまだしも可能なのだろうけど、
既に、「よそ者を排除」(悪い意味での村社会そのもの。)であり、
国家規模でこれを実現したのが、ヒトラーやスターリン。
・密告奨励。当然、プライバシーなし。
・拷問、冤罪、何でもアリ。
別の形で実行したのが徳川家光。
・鎖国。(部外者の排除。)
・五人組。(連帯責任制かつ相互監視制度)

国家規模で行える別法として、
・罰則強化。 たとえば、中国の秦。(あまり強化しすぎたために反乱で自滅。)
  ※罪より重い罰を与えようとするとその政権は大抵自滅する。
   この意味でハムラビ法典は生きていて、「目には目を」を、罪と罰を等しく設定と解釈する。

どれもこれもロクな結果にならないです。最良の場合でも、閉鎖性社会かつ自給自足社会。
まあ、ほとんどの人が、家に鍵をかけるほうを選ぶと思います。


で、現在、コミュニケーションからみで問題にされていることは、上記とは別なことなのでは?
現在は、「無関心」が行き過ぎてしまい、隣家にドロボーが入っても通報しない
(=隣家にドロボーにあったことにさえ気づかないほど無関心)
という、「無関心すぎる」の部分が問題にされているのでは?

>共同体復活について どう考えればよいか
治安云々については判りませんが....
私の住んでいる地域は、共同体は、まだ生きています。(勿論、鍵をかけずに外出するのは無理。)
で、昨年の台風とき、大雨であちこち崩れた割に人的被害はほとんどなかったのです。
マスコミはさかんに、自治体の無能を宣伝してたけど....
で、地元の大学の分析では、
自治体は、地域コミュニティーが最大の能力を発揮できるよう動いた、決して無能なわけではない。
その結果、本来自治体が行うべき作業を地域コミュニティーが代行し、人的被害は考えうる最小限であった、
ただし、地域コミュニティーが代行できるぎりぎりの規模であり、台風がもう少し強ければ
地域コミュニティーの能力を超え、被害は大きく増えただろう
ということです。ある程度お手盛りかも知れません。
都市部では共同体は死んだかもしれませんが、市部を外れればまだ生きています。

それでも....
>鍵をかけずに外出しても大丈夫だ、という意味での共同体
そんなのは嫌です。それに伴う制約(たとえば、共同に属しない人間の排除)のほうがはるかに大きいでしょうから。
鍵を「かけて」外出して、それでも泥棒に入られた時点でさわぎたててくれれば、それでエエねん。
 ※さわぎたてる、とは、この場合、相互扶助も含むものとしてください。
 ※※ここでは、共同体が、どのへんまでを共同するのか、の意味にとっています。
   鍵をかけずに外出しても大丈夫、こんな極めつけな段階までは嫌だ、ということです。

この回答への補足

 《ことだま資本主義 もしくは ヤシロイスム》にかんするたたき台です。
    *   *   *
 《なんだって! じょうずな職人もへたな職人にも一様に報酬を与えるのか》・・・
 たしかにそうである。・・・ひとりの医者の診断と他の医者の診断とのあいだのちがいは 煉瓦つみのじょうずへたのちがいよりも はるかに大きく また諸君自身におよぼす結果のちがいも はるかに重要なのである。しかも諸君は 諸君の心に対するじょうずな職人にもへたな職人にも また諸君の肉体に対するじょうずな職人にもへたな職人にも 平気でおなじ謝礼を支払っているのである。まして 諸君の家屋のじょうずな職人にもへたな職人にも 諸君は平気でおなじ謝礼を支払ってもよいはづではないか。

 《いや しかしわたくしは わたくしの医者を選・・・ぶのだ。そして その仕事のじょうずへたについて わたくしの判断を示すのだ》というであろう。ぜひまた 諸君の煉瓦工も選択なさるがよい。《選ばれる》ということ それがじょうずな職人の当然の報酬なのである。あらゆる労働にかんする自然でしかも正当な制度は 一定の賃銀率が支払われるかわり じょうずな職人は雇われるがへたな職人は雇われないということである。
 これに反して 虚偽 不自然かつ破壊的な制度は へたな職人が半分の価格でその仕事を提供して じょうずな職人にとってかわり あるいは競争によってじょうずな職人を余儀なくふじゅぶんな金額で働かせることが許されるようなばあいにおこなわれるのである。

 〔このあと 次のように続きます〕。
 そういうわけで 賃銀の平等ということは われわれがなにをおいても到達すべき道を発見しなければならない第一の目的であるが 第二の目的は・・・職人の生産する商品に対する一時的な需要のいかんにかかわらず 一定数の職人を維持することである。

  (ジョン・ラスキンJohn Ruskin 〔1819 - 1900〕:『この最後の者にも』第一論文 栄誉の根源 〈14-15〉 飯塚一郎訳)

 ・wiki:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7% …

補足日時:2008/05/15 13:28
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この回答へのお礼

 masa2211さん ご回答をありがとうございます。
 全部 了解しました。中道を行け。近代人の理性も その良き個人主義も大切にせよ。けれども 共同体は 生きているぞ。《血迷った》ことを言っていないで 現実をよく見 さらにそこに立脚していきなさい。うんぬん。等々。

 課題として こう考えました。次の二つの事柄を中道において どう調和させていくのかです。

 (Α) 《欠陥を憎み人を愛しなさい。欠陥ゆえに人を憎むなかれ。
    人ゆえに欠陥を愛してはならない。》
 (Ω) 《タマス / カンダラ / 〈最後の者にも一人前を〉》の精神

  * 《タマス》:たまたま そこに居合わせた者にも 仕事をした人
   と同じ一人前の分け前を分け合う。
   →《Q:われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょ
    うか
    =http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3994017.html
     そのNo.29補足欄。次の事項も同じです。
  * 《カンダラ》:多少のちょろまかしは 大目に見る。 
  * 《最後の者にも一人前を》:仕事の差にかかわらず 一人前の報
   酬を分かち合う。
    →上記質問のNo.34補足欄を参照されたし。

 これを《ことだま資本主義》と呼んでいましたが 《ヤシロイスム》とも名づけてみたいと思います。このような志向性をも持っていますが その方面にも 基本の社会哲学として どうお考えであるか 聞かせていただくと幸いです。

 * たとえば 社会保険庁のちょろまかしは 大目に見ることができるのか。うんぬん。共同体とは何ぞや?です。 

お礼日時:2008/05/15 09:26

 bragelone様。

所用で時間前にここに参りました。
 どんな大昔も、今も、これからも変わることはないのではないですか。
 害をするのも、害させるのも、私達は気をつけなければ成りませんね。
 事はそれだけではないですか。動物の世界も、生命体系・生命循環にしても。
 bragelone様にして何を血迷いなさるか。
 人も宇宙もその原理は変ることはないというのが、存立している条件です、基盤です。
 へっこめば、出る。之だけです。失礼ながらまさか雑談をしたいわけでは御座いませんでしょう。
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この回答へのお礼

 その昔 西暦五百年前後でしたか かの野蛮人と称されたゲルマン民族の内のゴート人 テオドリック(のちの大王)が ローマ(都はラヱ゛ンナ)を奪ってゴート人風の国づくりに励みました。
 街道を無防備で行き来しても 大丈夫 安全だという国柄を実現したと言います。残念ながら その統治は 長くは続かず その安全神話も 短い期間で終わってしまいました。

 女性や弱者が 夜道を安心して歩ける / 落とし物が 間違いなく 届けられていて 戻って来て助かる こういった社会の情況というのは 実現している状態と していない状態とでは 異なっています。そうであったり なかったりすれば 変化があります。《人も宇宙も 原理は変わることはない》かも知れませんが 《へっこめば、出る。之だけ》の変化が 一大事であると わたしには 思われます。
 これで 説明できたでしょう。

 ★ 害をするのも、害させるのも、私達は気をつけなければ成りませんね。
 ☆ 《害させる》については さらに説明が必要だと考えます。

 もし 同じような《失礼》を繰り返させることが こちらの不注意による《害させる》行為に当たるとしますと そうですね 質問の趣旨説明をよく読むようにしてくださいと 申し上げておきましょう。

お礼日時:2008/05/14 17:56

primeapeです。


対策について考えてみました。
老若男女を問わず
>我慢の必要の無い世の中になってきたといえるでしょう。
このような世の中に尽きると思います。
古き伝統にたずねれば小泉八雲が夢見た信仰の日本とは裏腹に夏目漱石を神経衰弱まで追い込んだ暗闇がありました。
この暗闇のポンポコ狸合戦が野放しの状態なのでしょうが、たとえば今の子供たちは貧しさは当然知らないとして大学進学率が45パーセントの現在、受験戦争すらありません。
子育てする側には余裕がありまして我が子を競争に追い立てるより、1つでも多くの幸せな体験をさせることが子育てであると考える余裕があるだろうと思います。
ニートについてかつて心理学カテに回答して理解された言葉に

>社会に出てやさしさに触れ、世の中とは支えあう心で出来ているのだと自信を持てれば引きこもりは直る。

このように回答して良回答のポイントをもらったことがあります。
この場合の自信は、幸せな体験を一つでも多くさせることにあります。
ここには日本人らしい自分の行いへの無自覚さが現れて、大半の親は甘やかしているだけだと思っています。

ここまで書いてみて改めて「無自覚さ」はどうにかしないといけないと思いますが、幸せそうで素直な現代っ子を見ると楽観して良いのではないかと思います。
対策の目標を「調和を尊ぶ和の精神」に絞って理解されるお題目を編み出せばいかがでしょうか。
そう言えばbragelone様のコメントにもありますが昔ほど日本人に関して論議しなくなって来てますね。
私自身は日本人論が好きですが世代間の落差はやはり大きいです。
日本人に例えて人間を論議するのは限界がありますが、西洋の考える人間らしさと日本の伝統は開きが多すぎる気もします。

対策を書くつもりが取り留めの無い文章になってしましました。

この回答への補足

 まづ
 (1) コミュニケーション 
 この課題に 主題をしぼりたいと思います。と言っても 《表現行為》としては 社会行為のほぼすべてになるかとは思いますが。

 (1-1) コミュニケーションの訳語として
 ・意思疎通 / 意思表示のやり取り / 公論
 ・話し合い / 交わり / 交わり合い / 交通 / 発受信
 ・仕え合い / 支え合い / 助け合い

 (2) 標語として
 ★ 「調和を尊ぶ和の精神」
 ☆ 《打てば響く》 / 打っても響かない人を自由において包め / 今日打ったのに 明後日やおとといで響かせる人を問い詰めよ
 ☆ 《あやまつならば 我れあり》:〔わたしは あやまつならば――それに気づいたとき(しかも そこにコギトが起こり 含まれる。ということは 自己の問題というよりは 相手や社会との関係に注意が向かう。そうして)――存在する〕。
 ☆ 《われわれは 欠陥を憎み人を愛するのであって 欠陥ゆえに人を憎んではならず 人ゆえに欠陥を愛してはならない》。
 ・・・
 (3) 以上は 次のご指摘に応えようとしました。
 ★ 西洋の考える人間らしさと日本の伝統は開きが多すぎる気もします。

 (4) あと 現象と自然本性との確認
 ★ 「無自覚さ」はどうにかしないといけないと思いますが、幸せそうで素直な現代っ子を見ると楽観して良いのではないかと思います。
 ☆ について 現象にこだわるよりは 存在としての自然本性に信頼してよいという見方 これが基礎であるということを確認してまいります。

 (5) 近代化以来の課題
 ★ 〔近代化の始まった時から 漱石を悩ませ かれの成果を持ってむしろわれわれを覚醒させる契機ともなった〕暗闇のポンポコ狸合戦
 ☆ これについては――けっきょく コミュニケーション論に横たわる課題のすべてにわたるとも考えられますが―― みなさんに理解し易いように 説明されれば みなさんも 問い返していけるように思います。

 (6)《我慢》のこと
 ★ >我慢の必要の無い世の中になってきたといえるでしょう。
このような世の中に尽きると思います。
 ☆ 《尽きる》とおっしゃっているのですが 意外と分かりにくいです。つまり 《思うようにならない》という事態は 境遇が貧困か豊かかとは かかわりのない側面を持っているように思います。
 《我慢の必要の無い》というのは だから我がままに振る舞うというのではなく そうではなく そこで一切を諦め無気力になるというような事態をいうのでしょうか。

 少し進展して来ましたでしょうか。どうでしょうか。

補足日時:2008/05/14 08:59
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> かつて《新人類》と言って 何を考えているのかわからず


> どう話をすればいいやら 戸惑った世代が出て来ましたね。
私はいわゆる新人類世代です。
> もうその世代も だいぶ歳を取ったのでしょうね。
はい、40代半ばになりました。

以下、回答ではなく疑問や異論が主となりますがお許し下さい。

まずは、些細な疑問から。
> 1993年には 《治安の良さ》について誇りに思う割合が
> 52.1%だったのが 2005年には 18.0%にまで下がった
93年から05年というとバブル崩壊→景気後退局面への突入ゆえの
社会不安意識の増加ではないでしょうか?
> 《住宅の防犯性》に対する不満が 53.8%だという調査が
> あるそうです。(国土交通省。2003年ですが)。
時系推移のデータではありませんが、おそらく数値は上昇傾向だと思います。
この頃は外国人窃盗団によるピッキングやサムタン回しの事件の報道が
目立った時期だと記憶しています。
(偶然、私は仕事で2005年から住宅の防犯意識調査をしているのですが
昨年あたりから不安意識は僅かですが減少しています。)
これらのデータで共同体の問題を論じるのは厳しいと思います。
(今、それしか持ち合わせがなかったのでしょうが。)

私は、共同体というシステムなり思想が機能して
鍵をかけずに外出しても大丈夫だったのではなく
従来型の共同体では防犯としての機能が不十分になってきたので
鍵をかけるようになったのではないかと考えます。
また、決して共同体だから治安がよかったのではなく
実はいろいろあった筈の事件を、共同体が隠蔽していた、という
部分もかなりあったのではないかと思います。

共同体への回帰、都市から地方への回帰、小さなユニットへの回帰願望は
私たち新人類世代においても、それより若い世代においても
増えてきていると感じます。
ただ、求心力をどうつくればイイのか?が分かりません。

> 前の質問《Q: われわれ日本人は 互いに相手を神と思っているのでしょうか
ご質問者さまは「日本人は○○○でしょうか?」といった質問を
たくさんされているようですが
私はどうも、「日本人」を主語にする感覚に大きな違和感を覚えます。
正直に言えば「あなただって日本人のくせに(そうですよね?)
その『上から目線』は何?」といった反感をちょっとだけ覚えました。
(すいません、悪意はありません、第一印象を正直に書いただけです。)
私個人は「国」とか「血」に求心力(共同体を括る力)を感じませんし
> きわめて広く思想の問題だと考えています
折角、思想の問題にしているのに、国や血に戻ってしまっていませんか?
と感じました>的外れだったらスイマセン。

変化しているのは環境であり
人間は本質的にはそう簡単に変わることが出来ず
ただただ環境対応しているのだと思います。
恐らく変化要因として大きく影響しているのは
交通や情報の自由化であり、かつての共同体はこの変化に対応できず
淘汰されてしまったのではないでしょうか?
もしそうならば「望み薄」かも知れません。

この回答への補足

 CUE009さん ご回答をありがとうございます。要点を取り上げ それらについて適確に扱い適確な処理をせよとのお言葉 ありがたく頂戴しました。

 まづは 二つの弁明からです。
 ★☆ かつて《新人類》と言って 何を考えているのかわからず / どう話をすればいいやら 戸惑った世代が出て来ましたね。
 ☆ あいさつをしないんですよ。けっして悪びれず 要件についてのみ しっかりと話し合いをする。まぁ 一時期でしたが おったまげたものです。――でも 表現が 言いっ放しのかたちでした。おゆるしを乞います。すみませんでした。

 ★☆ 《日本人はうんぬん》という質問
 ☆ 弁明の前に その表現のために 気分を害しておられたようで たいへんな不明のことをしてしまいましたことを 遅ればせながら お詫び申し上げます。ごめんなさい。
 じつは 幾つも行なった質問の途中から どうもこの《日本人は》という言い回しに 反応している部分があるようだなと分かりました。けっきょく 《人は / 人間は / あるいは 現代人は》という意味なのですが 外国人のことを知らないので この国のことに特定する結果となっていました。また どうも《挑戦的》に映るようだと感づいたのですが まさか《上から目線》とは思わなかったですね。世代の差による感覚の特徴が出るのか わたしだけの感覚なのか。
 昔から日本人論は わが国でおこなわれ 一時期は 気にし過ぎだ / 自虐的だと批評されつつも 盛んにその種の本が出ました。ですから 《日本人は》という設問の仕方に違和感も何もなかったのです。そのあとの《死んでいるのですか》などなどのほうでは 初めから 挑戦的でした。《人間ではないのでしょうか》――これでも まだ 加減しているのです。(加減しないなら では どうなるか。なお 慎みます)。

 さて どうか 気を取り直していただいて――
 ★ 治安 / 住宅の防犯性 / そのほか意識調査等々
 ☆ これを話題に取り上げたのは お察しのように 偶然ですし 何か訳があってそうしたのでもなかったのでした。おっしゃるところは 一つひとつ ごもっともで 面目がありません。
 最近は 変化のきざしが見えたかも知れないとか。次の事項とともに 考え合わせてまいります。

 ★ 共同体への回帰、都市から地方への回帰、小さなユニットへの回帰願望は / 私たち新人類世代においても、それより若い世代においても / 増えてきていると感じます。
 ★ 私個人は「国」とか「血」に求心力(共同体を括る力)を感じませんし / ☆> きわめて広く思想の問題だと考えています // 折角、思想の問題にしているのに、国や血に戻ってしまっていませんか?
 ☆ これは primeapeさんからも しっかりせよとお叱りを受けた事項なのですが まづは 長期の視点に立って 堂々としていなさい。第二に 小細工をしようと求めるなかれ。・・・と受けとめております。
 ということは いくらか具体的な主題としては 《コミュニケーション》論が いいですかね? 長期の展望に立てるでしょうし。

 細かい課題事項として。
 ★ また、決して共同体だから治安がよかったのではなく / 実はいろいろあった筈の事件を、共同体が隠蔽していた、という / 部分もかなりあったのではないかと思います。
 ☆ たとえば比較的に高価な落とし物が 届けられ落とし主に返されるといった事例は 多いように感じていたのですが これは 単純であって 《共同体〔による〕隠蔽》ではないと思うのです。人と人とのつながりという意味あいで コミュニケーションの問題ではないかと思えるのです。
 そして このコミュニケーション(いちいち 面倒ですね。いい訳語はないでしょうか)の問題としてなら
 ★ ただ、求心力をどうつくればイイのか?が分かりません。
 ☆ についても 大方の議論をすすめて行けるかも分かりません。
 あとは 最後の段落に述べられたところでしょう。コミュニケーションの交通整理として その成否いかんとして どちらに転ぶか(無責任の言い方ですが)になるでしょうか。

 いやあ(と照れ隠しになりますが) 失礼の数々 重ねて お詫び申し上げつつ。

補足日時:2008/05/13 14:29
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実存は本質に先立つ


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9F%E5%AD%98% …

醜態を晒し敵を作り、やっと無宗教者になったし、もうこの名前は
不要かなとも思いましたが、再度この名前で回答してみます。

あるファンタジーと実存主義を改変してくっつけてみました。

共同体。つまり、エクレシア。
エクレシア…を女性にたとえる話がありましたよね。
共同体の喪失は、女性…知恵ソフィアの喪失。
ソフィアはプロパトールを知ろうとしたが結果として
偽りの神デミウルゴスを産む。
この世界。物質世界の造物主ヤルダバオト。無知なる神。
プレーローマから転落してしまった私たちは
共同体を喪失してしまったといえます。
もといた共同体であるプレーローマへと帰還したいが、それはできない。
そこで自己の本質への認識へと向かう。

…でも、その本質がなかったら。
帰る場所も自己も喪失した人間は
深刻なニヒリズムに陥り、偽りの世界を漂うことになる。
でも、本質を見つけ出すことに成功したら
それはまさに、プレーローマへの帰還となりませんかね。
なくしたものを自己のうちに見出すわけです。

この話はまんざら関係ないわけでもないかも。

この回答への補足

 (cf.) 《プレーローマ pleroma (充満)》
  ←√pel
  [原義]:満たす(To fill); 満ちている( full )
  →豊饒( plenitude )・充満( plenum )・多数( plenty ).
  [英語での派生語]: plural; plus; surplus;plenary;folk;
   supply; replenish; accomplish; complete;expletive;
    plebeian; terreplein; plethora; pleonasm;

 (cf.) 
   アイオーン(高次の霊・神)
   プレーローマ(超永遠世界)
   プロパトール(アイオーンの筆頭)
   エクレシア(民会・教会・共同体)
   ソフィア(知恵・最低次のアイオーン)
  デミウルゴス(ソフィアを通じて生み出される造物主)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 アイオーン・ソピアーはプレーローマにおける最低次のアイオーンであったが、知られざる先在の父(プロパトール)を理解したいと云う欲望に取り付かれた。彼女はこの欲望の故にプレーローマより落下し、分身アカモートを生み出し、アカモートは造物主デーミウルゴスを生み出した。デーミウルゴスはかくて、この世と人間を創造するのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4% …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 さて 紹介いただいたお話しの骨格は 簡単です。
 《プレーローマへの帰還》を 《知られざるものプロパトールへの帰還》と捉えれば わかりやすいようです。一方で わたしたちの存在に《本質》があるとすれば 《隠れたる神》のことでしょうし 他方で 人間存在には 本質(実体)はなく ただその現象つまり意志によって生きる姿があるのみだとすれば 無神論の《無神》として想定するプロパトールのことだとなります。

 アイオーンは 対(つい・ペア)から成るそうです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 プロパトール(祖)  - 伴侶:エンノイア(思考・はかりごと)
 ヌース(精神)    - 伴侶:アレーテイア(真理)
 ロゴス(ことば・理性)- 伴侶:ゾーエー(生命)
 アントローポス(人間)- 伴侶:エクレシア(教会・共同体)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ プロパトールのほかは すべて経験世界の想像物だ捉えればよいでしょう。そして プレーローマ即プロパトールと想定すれば 神の理論になります。
 ★~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 …でも、その本質がなかったら。
 帰る場所も自己も喪失した人間は
 深刻なニヒリズムに陥り、偽りの世界を漂うことになる。
 でも、本質を見つけ出すことに成功したら
 それはまさに、プレーローマへの帰還となりませんかね。
 なくしたものを自己のうちに見出すわけです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というふうに捉え返すと けっきょく 唯一神信仰の宣伝になってしまうかも分かりません。

 さらに広くご見解が得られればと思います。

 * ニヒリズムのことに触れえませんでした。

補足日時:2008/05/13 13:26
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