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 まづ 地位や職務が その人自身の存在であるとは言えません。
 では 作品は それが あとあとまで遺ることもあって その人の存在そのものであるでしょうか?
 ちがうと思うのですが そのあたりをはっきりさせていただけないでしょうか。
 言いかえますと 存在以外のものをいっさい取り払ったその存在じたいが その人だとまで思っているのですが どうでしょう?

 形見が その人自身ではなく 墓がその人の存在を表わしているとも言えず あるいは 思い出が いくらなお生きているからと言って 存在じたいであると見なすことは出来ないと思うのですが では 人類や社会に貢献したその仕事や作品が かれ(かのじょ)自身なのでしょうか。

 なおこの質問は 《QNo.4120187:ひとの個性とは 何でしょう。=http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4120187.html 》を継ぐものです。
 この伝で言えば 《無個性》が そのまま その人の存在であるという憶説なのですが これについて おしえてください。この説は 少数派というよりも ほとんど 見当たらないので おしえて欲しいと思いました。

A 回答 (14件中11~14件)

哲学は難しくて分かりません。


しかし、ご質問は最近私の胸を去来する問題でもあり、興味がありましたので、一言コメントさせてください。
私も、地位や職務がその人の存在そのものだとは思いません。
「人はパンのみに生きるにあらず」と言いますが、人は人間として生まれた以上、日々のパンを得なければならず、地位や職務は生きる糧を得る手段であり、その結果得る副産物です。
副産物であり、肩書きである地位や職務は未来永劫その人と一体ではなく、従ってその人そのものではあり得ません。
では、作品は?
作品は、ある意味、それを作った人そのものであると確信します。
作者は如何なる作品にも、成功品であれ、失敗作であれ、全身全霊を込めて自分を投影させるからです。
後世に残る作品は有形無形を問わず、作者そのものと私は思います。

以前の質問は見ていないので分かりませんが、無個性が、そのままその人の存在という説には何かSF映画を観ているような不気味さを感じます。
生きとし生けるもの、個性があるからこそ存在すると言えるのではないでしょうか?
個性が無いのは存在しないと同じではないかとさえ思える、今日この頃なのですが。

この回答への補足

 nekomacさん ご回答をありがとうございます。

 そうですね。反対意見は 歓迎なのですが その根拠には もうひとつ 説得されませんでした。

 まづ 先の《個性とは何ぞや》で得られた内容をかいつまんで述べます。
 (1) ふつうの見解だと思えるのは 個体の歴史です。
 自分史こそが 個性であるというものです。これは nekomac さんの説かれる《作品が人である》説にも近いと思うのですが 直前のNo.3へのお応えにも触れたように 自分史の中から 仕事や作品を取り出す場合というのは 微妙に違うとも考えていたものです。(あとで考えます)。
 (2) 内面における無意識の(もしくは無意識に近い)領野において 情報を受け取るその形式 これが 個性だという見解です。これは 二つに分かれます。
 (2-1) 母体にいる時から その情報の受容が始まっており この受容の仕方が 人によって異なってくるのだが そのように形成された個性は 基本的に 無意識野におけるはたらきとして 生き続けるという場合です。つまり この目に見えない個性が 同じく内面における思考やあるいは外面における行動に対して はたらき続けるというもので しかも ついには この内面と外面とのつながりは 人(その意識)には理解されないと言います。
 (2-2) そうではなく 内面と外面とは つながっているだけではなく 人の意志として そして意識において 認識しうる内容が 現われる。つまり行為として 人がおこなう。また この場合 社会に貢献するような仕事に関して 個性と言うのだと言います。
 (3) わたしの志向性としてですが このような規定をすべて はづしても つまり無個性としてでも 人は人である。こう考えて いまの質問に及んだというわけです。(自分史と言うのと同じようでもありますが その具体的な内容のほうではなく いまそこに存在している人 その存在が=つまり無個性が 人間であると言おうとするものです)。

 さて nekomac さんのご見解は 次の文章に要約されると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 では、作品は?
 作品は、ある意味、それを作った人そのものであると確信します。
 作者は如何なる作品にも、成功品であれ、失敗作であれ、全身全霊を込めて自分を投影させるからです。
 後世に残る作品は有形無形を問わず、作者そのものと私は思います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《失敗作や無形の作品》を含めておられるので それは 限りなく《個体の歴史》に近く しかも 或る意味で《無個性》にも近いと思われます。
 でも 細かく見れば 《作品は?》という指定がありますので わたしの都合のよいように拡大解釈してはいけないでしょう。としますと
 ★ 生きとし生けるもの、個性があるからこそ存在すると言えるのではないでしょうか?
 ☆ との見方をも合わせて 上の分類では (2-2)に近いご見解ではないかと推察します。

 さらにわたしからの一言を付け加えさせていただくとすれば それは こうです。
 ・ 地位や職務についておこなう仕事も 全身全霊 自己を投影したものではないのか。
 ・ 悪事をおこなう場合でさえ 思想がまちがっているとはいえ 一身をかけたものではないか。
 ・ パンを得るためにではない作品のほうを特別視(聖別視)しているきらいはないか。

 まったく わたしをさらけ出しました。作品のお仕事にかけておられるお気持ちを傷つけましたなら その根拠(けっきょくは 無根拠)のことを知りたいとあえぎ求めている者のたわごととして なにとぞ ご容赦くださいますようお願いしたしておきます。つつしんで。

 * ★ 無個性が、そのままその人の存在という説には何かSF映画を観ているような不気味さを感じます。
 ☆ これは 《そのもの / もの自体》といった響きがあってのことでしょうが 《いま そこにいる人・そういう存在》を言うのみですので お願いしたいと思います。

補足日時:2008/07/01 12:25
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正気とは思えない話なのでご質問に水を差さないとも限りませんが。


いつも通りの常套句です。

私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。

この無心を保つことにかなりの精神力が必要だったときがあります。
その当時は人類進化の様々な可能性を試して実践するといったかなり荒っぽい試練を受けました。
その試練の中に突出した人間性への見解「仏の現代語訳が人間」の一語のみで自らの個性に思いが至らなく突っ走った経験があります。
過剰な共感作用で本当に自分が誰かわからなくなりました。
かなり危険な状態で、悩んだり論理を組み立てたりする余裕がありませんでした。
今思い直すと自己中心的に振舞った記憶が普遍的人間性の発露を妨害していたようです。
なんといいますか、人間とは何ぞやに思い悩む存在が居る。
その悩みは自らも内包している。(我である)
この程度の発見しかありませんでした。
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この回答へのお礼

 primeapeさん ご回答をありがとうございます。

 ★ なんといいますか、人間とは何ぞやに思い悩む存在が居る。 / その悩みは自らも内包している。(我である)
 ☆ なかなか 読み解くのにむつかしいのですが  まづ この質問は
 ★ 人間とは何ぞや
 ☆ です。
 《自分史》という場合 それは ほぼ 自分のことそのものでありますから 人間のことをも表わします。ところが 自分史の中から その作品や業績を取り出して来て これらが 人間であるか? と問うならば それは 違うであろうという問いかけです。
 ★ その悩みは自らも内包している。(我である)
 ☆ これの解釈が はっきりしません。
 (1) 思い悩む存在がいて その悩みが 自己をも内包しているのか
 (2) 悩みを 自己が同じく 内包しているのか
 (3) 悩みが 我であるという意味なのか
ですが (3)ですかね。《人間とは何ぞやと思い悩むその悩みとしてのわれ》 こういう自分史が 人間である。言って言えないことはないですね。

 《無個性》が 人間であり われである。これは どうですか?
 
 水を差す差さないというよりは 今回述べられたところは かなり後ろ向きですね。後ろ向きでもいいのですが きちんと清算されていないように思われ 前へ進まない感じです。過去は過去として きちんと整理されたほうがよいと思いますよ。そんな感じです。上のようには解釈してみましたが。

お礼日時:2008/06/30 23:03

人の業績は人間そのものだとは思いません



かなり前略しますが 存在は制約によってのみ
明らかにされてると思うのです

こうであるという観測事象の統計を幾ら積み重ねても
それは仮定を強力にするだけであって哲学者が求める知ではないですよね
知りたい事はこうではないという制約です
私たちが存在と仮縫いしておいてあるものの設計図は
制約によって書かれていなければなりません
(制約が無いのならそれは物質がないという発想の無ではなく
制約が無くなんとも言い表せない状態とも言え
なんとでも言い表せる状態の無です)

ですから私たちの存在も制約に保護されていると思うのです
ですから人間は制約の集合体であると考えられます
例えばそれは循環出来るからだと腐敗するからだが
同化しないように制約が輪郭を描くといった様にです

よって“人の存在そのもの”という記号を使おうとするとき
私はその制約の保護を考えるのです
制約が外れればそれは上記した“意味を付帯させられない状態の無”です
ですので制約が外れればそこには人が存在と了解できるものは
ありません 何事も制約に保護され 意味や価値を
付帯させられる状態をもって初めてその存在について
語りだせると思うからです

換言すれば存在というものを考える時は
制約を与えられたものが その制約により欠陥を持ち
そこから意味や価値の付帯が始まると言う風に
意味の付帯作業まで息継ぎ無しで語るべきことだと思っています

そうして人間そのものという記号の存在は浮き彫られ
私たちの了解を得ることになるのだということです

そして人そのものという制約の集合から生じた情報は
解釈に削り落とされながら その時その時の暫定的所有者へと
価値観と解釈が受け継がれていくのでしょう

ですのでこの様な考えから
人(人に限る事ではありませんが)とは制約の集合であり
人の個性は制約の差異によるものという結論を導くのです

今回に連関しそうな話題です
ご参照下さればこの文ももう少し有機的に見えるかもしれません

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4081448.html

この回答への補足

 kiraneraさん ご回答をありがとうございます。

 簡単に賛成してくださったことに 拍子抜けしています。
 ただし その中身を――と言いますか わたしの解釈を――吟味してみなければならないでしょう。

 ★ 存在は制約によってのみ / 明らかにされてると思うのです。
 ★ よって“人の存在そのもの”という記号を使おうとするとき 私はその制約の保護を考えるのです。
 ☆ ということは 二つの側面があるということでしょうか?

 (1)★☆ 人の業績は 記号としての《人間そのもの》を用いるとしたとき それだとは思いません。
 (2)★☆ 制約によってのみ 明らかにされ保護されている存在は 《制約による》以外の《記号を用いての指示による》においては 必ずしも明らかにならない。

 ☆ 記号による表現も 《制約》の一つだと わたしは思うのですが もう少し 引用します。
 ★ 人・・・とは制約の集合であり / 人の個性は制約の差異によるものという結論を導くのです。
 ☆ ここでは kiraneraさんによれば 人間を

 (A) 人間そのもの
 (B) 個性

の二つに分けておられるのかどうか これが 微妙だと思います。

 そもそも ことばによる表現は――概念じたいが特定するものですから―― その対象を《規定》します。その意味で《制約》します。
 Xと規定するということは そのほかの VでもWでもなく あるいは YでもZでもないという欠如(欠陥)を規定し ともかく Xという意味を付与することです。すなわち
 ★ 制約を与えられたものが その制約により欠陥を持ち / そこから意味や価値の付帯が始まる
 ☆ という必然的に伴われる架空の作業のことだと考えます。このとき それでは

 (2)において
  (C) 制約による
  (D) 言語記号(ことば)を用いての表現による

との両者は 異なっているでしょうか。
 わたしの解釈では この(C)と(D)とは 特に異なるものではないと思うのですが どうでしょう? つまり 

 (C)=(D) によって
 (1)および(A)の《人間そのもの》は 表わされる

と考えるのですが それでは 不都合でしょうか? つまり

 (B) 個性

これが 上の《人間そのもの》とどういう違いがあるのか いま一つ 分からないでいます。

 参照Q&Aのほうでは
 ★★ 哲学的には この生に 備わった意味は無く 備わった欠乏があるのみだと思います 全ては“欠けている”というコンテクストから興っていると考えています。
 ☆ ここが 関係していると考えます。わたしとしましては 

 言語表現としての規定
   = 外的な制約(ほかのものが欠如しているという指示)
    および
   = 内的な定義(そのものの中身の指示)

の二つが かかわっていると考えております。きわめて単純に認識しています。いかがでしょうか。

 * お礼欄では字数制限でおさまらなかったものですから この補足欄にて 書き込みました。

補足日時:2008/06/30 17:38
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結論だけ書きますね,「蔵の財より身の財すぐれたり,身の財より心の財第一なり」「金を残す人間は下,仕事を残す人間は中,人を残す人間は上」,です。

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この回答へのお礼

 takashi-99さん ご回答をありがとうございます。せっかくのご回答ですから お応えしてまいります。

 基本的に 《業績とて 人間そのものではない》というご見解を 賛成意見として 披露していただいたと受け取りますが
 ★ 人を残す人間は上
 ☆ の
 ★ 人を残す
 ☆ とは どういうことを言うのでしょう? 《遺す》といえば 何かその人にまつわるものごと 延(ひ)いてはやはり業績ということになるように思うのですが どうなのでしょう?
 
 それにしても 人を地獄行き呼ばわりする人が よくも すまして回答を寄せてくるものですね。

お礼日時:2008/06/30 13:52

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