後に6代将軍徳川家宣となる徳川綱豊は、名目上は最初は甲府城主ということになっていますが、そのほとんどの生涯を江戸で過ごしていたようです。
徳川綱豊が名目上は甲府藩主であった時、綱豊は江戸の甲府藩邸にほとんどいたようです。(浜離宮庭園も甲府藩のものだったそうです。)
5代将軍徳川綱吉も館林藩主だったこともありますが、実際は江戸の竹橋、神田に住んでいて、館林に住んだことはなかったそうです。
綱豊の父、綱重も自らは甲府に行ったことはないようです。
(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …)
政治は、関孝和を抱えるなど学問に理解があり、甲府に湯島聖堂と同様の聖堂を作ろうとした。「綱重自身が甲斐へ赴いたことはないが」、綱重期には在国の家臣団が主導し釜無川の治水における徳島堰の開削などが行われた。
徳川綱豊も実際は江戸の藩邸に住んでいて、甲府に行ったことはないのではないでしょうか?
No.2ベストアンサー
- 回答日時:
甲府徳川家・館林徳川家などは江戸定府大名のため、基本的に江戸住まいです。
有名なところでは、水戸徳川家も江戸定府。
この回答への補足
ウィキぺディアで調べたのですが、かつて江戸定府であった大名家のところに、甲府徳川家(甲府松平氏)も入っていました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A%E5%BA%9C
ありがとうございました。
甲府徳川家も、館林徳川家や水戸徳川家と同じように江戸定府だったのですね。
将軍にまでなる人が甲府に追いやられるわけがないですね。
甲府や館林は江戸の守りという意味で徳川家の血筋の者の土地にしたのでしょうね。
水戸家の藩主も水戸に帰ったのは、藩主を引退し、息子に藩主を讓ってからだったそうです。
綱豊の場合は将軍になったので、ずっと江戸に住んでいたのでしょうね。甲府より江戸の方が住みやすくて良かったと思いますが。
ありがとうございました。
No.3
- 回答日時:
水戸が定府になったのはたまたまの結果です。
徳川家康が1616年に亡くなると、義直以下の兄弟は江戸城で暮らすことになり、間もなく義直、頼宣兄弟は尾張と紀州にお国入りしますが、頼房だけは兄の秀忠の手元に置かれ、3代将軍家光のご学友といった役割を期待されます。
その後、家光が将軍になりますと、家光は内向的な性格で、心を開ける人間が少なく、本音をさらせる数少ない人物として、頼房を手元に留め、これが常態化したと見る考えがあります。
参勤交代は大体この頃に定まったので、この頼房の例が先例となり、水戸家当主は在府ということになったと思います。
また水戸藩の成立を考えると、武田信吉(家康5男)を始まりとし、その後頼将(紀州頼宣)を経て、頼房に受け継がれます。
つまり藩士は旧武田家遺臣を中心にしており、江戸の北の守りですから、そんなところに若君を送ってもどうしようもないというのが、家康・秀忠の考えだったとも思われます。
話を戻すと、甲府も館林も江戸近在の土地で、名目的に将軍ゆかりの者が配され、石高も水戸家に近いわけですから、前例に習ったということなのかも知れません。
甲府は柳沢家が一時治めた以外は幕府の直轄領ですし、館林はその後徳川綱重の次男清武が領するところとなります。
家光の血筋では、清武の長男清方が最後の男子になったと思います。
尚、綱豊に関しては桜田門の屋敷に住んでお国入りはないとされていますけど、医師の桂川邦教が甲府に随行したと書いていますので、ひょっとしたらお忍びでというロマンはありますけど・・・・。
この回答への補足
水戸の第二代藩主、徳川光圀は5歳から隠居する62歳までずっと、江戸に住んでいて水戸にはいなかったそうです。
(参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D% …)
江戸時代は江戸、京、大坂が三都と言われ、それ以外の場所はすごく田舎だったそうですから、江戸にいた方が便利だったかもしれませんね。
ありがとうございました。
甲府と館林は江戸に近いから、名目的に将軍ゆかりの者が配されたのですね。
正式な書物では、綱豊はずっと江戸の屋敷に住んでいて、甲府に行ったことはないことになっていますが、医師の桂川邦教は綱豊が甲府を訪れたことがあると書いているのですね。
ずっと前に「水戸黄門」で綱豊が江戸から甲府に行って、しばらくそこ(甲府)に住んでいて、綱豊が徳川綱吉の養子に決まったので、徳川光圀が江戸から甲府に綱豊を迎えにいく、という話がありました。
その話はもしかしたら、医師の桂川邦教の書いた話をもとに作っていたのかもしれませんね。
No.1
- 回答日時:
ありがとうございました。
やはり、綱豊も甲府には行かず、江戸に住んでいたのですね。
よくわかりました。
ありがとうございました。
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