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鎌倉幕府を頼朝さんは何故開けたのか出来るだけわかりやすくお願いします^^;

A 回答 (7件)

「北条政子」のお陰です。

詳しくは、これ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1% …

「永井路子」さんの「北条政子」をお読みになればよく分かります。
http://www.amazon.co.jp/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%94 …


歴史は女が「夜」造る、、、、
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この回答へのお礼

なるほど。。。ありがとうございます^^

お礼日時:2008/08/21 12:56

最近の歴史研究では「鎌倉幕府を開いた」という考え方はしないようですよ。


頼朝が武士の棟梁として祭り上げられ、北条氏や三浦氏などの有力豪族と
それに連なろうとする諸豪族武士団との統制を図っていく過程で必要から
侍所と呼ばれる役所機能を設置、その後、朝廷に権力を認められる過程で
政所を開設、また揉め事の仲裁を頼まれるから問注所を作るとか、だんだん
政治基盤が整ってきて初めて「幕府」=「政府」という認識が広まったと
考えるみたいです。かなり乱暴なまとめ方をしていますので、割り引いて
読んでください。でも最近の歴史の本を読むとそのような論旨で書かれていると
思いますよ。
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この回答へのお礼

そうなんですか。歴史のことは全然わからないもので;;ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/21 12:58

>鎌倉幕府を頼朝さんは何故開けたのか出来るだけわかりやすくお願いします^^;



荘園や公領の現地支配者としての地頭の任命(自領の現地管理者との考えもあり)。地頭任命などを通じて、各地の武士団を家人化(西国中心との考えもあり)。知行国に国守護人を設置。内裏大番催促の命令を独占的に出す。東海道・東山道・山陽道・南海道の軍事警察権の獲得。畿内の総管職の任命による軍事独裁。
以上を見ると一見鎌倉幕府の記述のように見えますが、平氏政権についての記述です。特に、地頭と国守護人については、鎌倉幕府の守護・地頭の先駆との評価が定着しつつあります。また、東海道・東山道・山陽道・南海道の軍事警察権の獲得は、鎌倉幕府の成立時期の一つにも考えられている頼朝の得た寿永二年十月の宣旨=東海道・東山道の支配権の承認の宣旨との共通性が指摘されています。
このように、鎌倉幕府に先行する平氏政権があり、武家政権としての各種の施策を不完全ながら実施したことにより、鎌倉幕府の成立が容易だったと思います。
そのため、現在では武家政権は平氏政権に始まるとの説が有力です。ただし、まだ平氏政権について完全に解明されていませんから、評価が動くことも考えられますが、最初の武家政権との評価は動かないと思います。

以上、参考までに。
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この回答へのお礼

なるほど。。。なんか歴史の授業内容とは全然違うような感じですね;ありがとうございました。参考になりました(?)。

お礼日時:2008/08/21 13:00

わかりやすくということで



やくざ同士が
睨みあったり、警察の手入れを受けたりして
「こらぁ、儲かりませんな」
と、思っていたら、いいとこのボンボンが20年ほど近所でぶらぶらしていた。
ボンボンを旗頭に大入りの喧嘩をしたところ、勝ってボンボンが警察の親分になれたので、やくざさんたちは各所の警察署長を名乗れました。

これが鎌倉幕府のできあがり方。
頼朝が手にしたのは政権ではなく、全国の検断権で、裏切り者の弟義経を全国くまなく捜査できるという公の許可になります。
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この回答へのお礼

ヤクザが絡んでいたんですか!!ありがとうございます!よくわかりました。

お礼日時:2008/08/21 13:05

平安時代までは《関東以北にいる野蛮人を朝廷に恭順させるために派遣される将軍》という意味です。

 #4の方の指摘が当を得ていると思われます。 東国平泉に逃げ込んだ義経を追いかけるための権威付けに必要だったのでしょう。 

しかし、これによって頼朝は東国武士の棟梁として当時台頭してきた武士を統括し、次第に力を得て来ます。 鎌倉幕府が京都の公家政権を凌駕し、日本国の最高権力者となったのは、西暦1221年の承久の乱以降のことです。

参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85% …
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この回答へのお礼

そうなんですかぁ。参考になりました^^ありがとうございます。

お礼日時:2008/08/21 13:06

NO2です。

大事なことを忘れていたので、追記させてください。なお、お礼の言葉の中に気になることがありましたので、合わせて追記させて下さい。

まず、鎌倉幕府の成立の背景として、武士団の成長があります。武士がどのような階層から出てきたのかはいろいろな説があって一定しませんが、山野を開墾して田畑にした開発領主や、地方に土着した国司の子孫などから武士となったものが、徐々に結びついて大きな武士団に成長していきます。また、中央貴族の侍として奉仕したり、滝口の武士や、北面の武士となって宮中や院の武力になったりして中央との関係を結ぶと同時に、地方では押領使や追捕使に任命されたり、在庁官人として国衙機構の実務を分担し、公領を共同の領地のように管理したりし、力を伸ばしていきます。これらの在地武士団が、武家の棟梁と呼ばれる清和源氏や桓武平氏の下に組織化されて行き、より大きな勢力となっていったわけです。
保元・平治の乱では貴族社会が、政敵を政治力によって打倒するだけの力を失い、武士の武力で政争が解決されることがはっきりとし、武士の力が公然化し、平家政権の成立だけでなく、鎌倉幕府の成立のバックボーンとなったわけです。

平家政権が武家政権のさきがけとする考え方の一部は、実は高校の教科書にも記載されています。
ちなみに例を挙げると、山川出版社の「詳説 日本史」(高校)では次のように記述しています。
第4章「中世社会の成立」の中の、「平氏政権」
「-略―平氏が全盛をむかえるようになった背景には、各地での武士団の成長があった。清盛は彼らの一部を荘園や公領の地頭に任命し、畿内から瀬戸内海をへて九州までの西国一帯の武士を家人とすることに成功した。-以下略-」
そして、このような考え方の基礎には、知行国に国守護人を設置。内裏大番催促の命令を独占的に出す。東海道・東山道・山陽道・南海道の軍事警察権の獲得。畿内の総管職の任命による軍事独裁などを含め平氏政権の施策が、武家政権のさきがけとなるものであるとする考え方があります。

以上、補足まで。
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木曽義仲が京に上洛を果たしたのを忘れてはなりません。



征夷大将軍にまで上り詰めますし、
頼朝追討の院宣まで得ますが、平家に大敗し転落します。

公家は元より義仲はノーでしたし、
頼朝が義仲を討つ条件として出した東海の領地を天皇に認めせせます。

義理高いお願いをして来ているのですから、頼朝は使える。
恩を売る絶好の機会と判断したのでしょう。

頼朝は良い棟梁と思えたのです。

遂に大局は動き、源氏優勢は決定的になりました。
天皇は頼朝に征夷大将軍を授けるのは流れでもあります。

棟梁としての地位に立つ。
ここまでは互いの利益でもありました。

官位、征夷大将軍、武家への国司任命と、
良い国家と良い統治。

色めいてきましたが、思惑は外れます。

頼朝は鎌倉からは動けず、武家は棟梁の許し無く官位を受けられなくなっていたのです。
また、勝手に国司がいる所へ地頭を送り込んできました。

義経を使い、何とか頼朝を無き者にしようと試みます。
これに失敗、奥州藤原氏も破れ、東国は完全に幕府の手中に落ちます。

天皇もこれを挽回しようと承久の乱を起こしますが敗戦。
公家の領地は没収されます。

この時点で天皇と幕府とのミリタリーバランスは崩壊。
幕府の令は院宣同様となったのだと思います。
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