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人は何のために生きているのでしょうか?
誰もが1度は考えたことのある悩みを抱いている大学生です。このことを考えていると、他のことなどどうでもよくなり、こんなことをして何の意味があるのか?とすぐ考えてしまいます。何か打ち込める趣味でもあればいいのですが、こんなものにハマっても仕方がない、と考えてしまい、自分でも何がしたいのかよく分からなくなります。この悩みの答えを見つけ、この状態から早く抜け出して昔の様に楽しく1日1日を過ごしたいです。
このことを考え始めてから自分では相当勉強(特に物理学)し、考えたつもりです。
まず、現在の僕の考えを箇条書きで書かせていただきます。
・やはり答えというものは普遍的で誰もが納得するものであるべきで、自分が納得できる答えもそういうものだと信じています。
・科学的根拠のない神や死後の世界、魂が出てくるような仮想的な話は馬鹿らしいです。
・宗教的な話も全く納得できません。
・答えなどない。人は悩むために生きている。といった回答は答えになっていません。
他の同じような質問も見たのですが、上のような回答が多いと感じます。

ここでこの悩みの答えが見つかることは思っていませんが、答えに近づけると考えています。
みなさんの考え、この悩みのヒントになると思われる本や思想を教えてください。

A 回答 (107件中101~107件)

唯一の実在、創造意識の中にその当為(立脚根拠と価値理念)はあるのです。

創造者においては究極ですから、それ以上の、それから先もない。そこにおいて無目的である。
 私たちは創造意識にいくためにあるが、目的はそこまでで(向上だけで)それ以上の目的はない。
 というわけです。
 これはアプリオリの要請課題というわけです。

という回答をhttp://kikitai.teacup.com/qa4291956.htmlにおいて致しました。
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一般論あるいは抽象論になってしまいますが、まず「何のために生きるか。

。。」という言い方は生きていることが何かの手段であるという前提があって初めて成立すると思います。もし生きているということが手段ではなく目的だったらこの質問は成り立たないと思います。なぜならば目的には何のためにという質問に対する答えがないからであす。あるとすれば目的が別の目的を達成するための手段あるいは前提に変わったときです。目的には意味がないということを少しじっくりと考えてみてはどうでしょうか。人間は目的が達成されると直ちにそれを別の目的を達成するための手段に変えてしまうのではないでしょうか。たとえば平和などは目的と言っていますが、いざ実現したら平和の意味など誰にもわからないことがはっきりしてきます。平和だから云々というのはすでに平和が手段に変わってしまっています。どうも人間は目的に対面すると不安になるのではないでしょうか。

この回答への補足

>目的には何のためにという質問に対する答えがない
そうかもしれません。
ただ、今僕は生きていることは手段であると考えています。仮に生きていることが目的であるとすると、それはつまり僕のいう答えでしょう。しかし、生きているコトが目的であるというのは仮定であってそれを答えにすることはできません。僕が納得のいく証明があれば、僕の悩みは解決します。

補足日時:2008/09/02 00:29
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人は生まれると同時に生きる権利と義務を有します。


ですから、わたしは「何のために生きているのか」ではなく、「生きる為に何をするか」と常々考えて居りました。
が、以前、テレビで難病で苦しむ小学生の放映を観、彼が「生きているだけでも人の役に立つんだね」と言う言葉に痛感させられると同時に考え方が少し変わりました。

ただ“生きる”と言う事が我等生き物としての本質ではないでしょうか?

動物は刹那的に“生”を全うしてます。
だが、人間であるから「生きる為に目標を見出さなければならない」とはならないと思うのです。

質問者さんが「ここでこの悩みの答えが見つかることは思っていません」と否定的な偏った考えをお持ち続ける限りは、どんな回答が寄せられようが結して答えを得られるとは思うのです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
>人間であるから「生きる為に目標を見出さなければならない」とはならないと思うのです。
人間も他の生物と同じだと考えると回答者さんの言うと通りな気はしますが、それで自分が納得いかないところを見ると、今のところは、それは僕の求めている答えではないようです。

お礼日時:2008/09/02 00:06

人生に意味を求めても無駄でしょう。

だからこそ今のような状態に陥っているはず。

私はどうしているかというと、至高の死を得るために人生を使っています。なぜなら死を最高の贅沢だと考えているからです。
この「死」を豪奢なもの、官能的なものとして捉える思想は、ジョルジュ・バタイユの『エロティシズム』という本を読めば触れることができます。
また寺山修司などが好んで使う「一点豪華主義」というのも共通点があるように思えますので、『書を捨てよ町に出よう』というエッセイを読まれるのも良いかもしれません。

「至高の死」とは、幸福の絶頂にいるときにその生を捨てるところにあるものだと私は考えています。
つまり、生命になんらかの価値が宿った(ように見える)ときにそれを無駄にする、ここに美学があると思うのです。
この思考は九鬼周造の『いきの構造』に近しいものがあるかもしれませんね。

しかしそういえば深沢七郎という小説家は「生きているのは暇つぶし」なんてことも言ってましたっけ。
私の場合前段までのように考えていますが、この言葉を取ると、結局暇の潰し方は人それぞれなんだとも言えるんですよね。

まあ自分が楽しいと思える人生を過ごせれば良いじゃないですか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
無駄ですか、そう考えることも多々あります。

お礼日時:2008/08/31 13:07

なんで「わからない」と言うことを受け入れようとしないの?


負けた気にでもなるのかい?
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私の生きている意味は


生きていることに意味がないように
死ぬことにも意味がありません。
ならば生きていようということです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2008/08/31 10:13

物理学(自然科学)を勉強しても答えが出るようなものではありません。


自然科学とは、すなわち実験や観測から得られる結果を論理的に考察し、仮定を立て、さらに実験や観測で確認し、と進んでいくものです。
それはすなわち、実験や観測といった過去の経験を元に世界の仕組みを理解しようとする行為です。
こういった行為で分かるのは、形而下の事象、つまり我々が認知していること、結果、そうなっているのだからそうであるということだけです。
自然科学の世界に、“意味”なんてものはありません。ただ原因があって結果がある。という世界です。
そして、形而下の事象をすべてとするならば、我々は宇宙の熱が均質化していく過程の一片にしかすぎません。

生きている理由、人生の意味、そういったものは形而上のことで、科学が不可知として切り捨てている部分のことです。
ですから質問の答えとしては、科学的根拠を持ち普遍的な生きる理由、という文章自体が矛盾しているので存在し得ないということです。

こういったことへの洞察が深い学問は、なんといっても哲学です。
自然科学と人生の意味というところならカントあたりを勉強すると良いかもしれません。

この回答への補足

まずはこの世界がどうなっているか知ることが答えに近づくコトと考え、物理学は勉強していました。
na10wさんの言う通り、自然科学だけを勉強していても答えが出ないとも思っています。
最近、よりそう思うようになり哲学も勉強しようとしています。
カントですか、勉強してみます。
よろしければ、na10wさんのお薦めの本を教えてください。

補足日時:2008/08/31 10:03
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