最速怪談選手権

最近自分は4年前に何かチャットや掲示板で脅迫的な事をしたのではないかと悩んでおりまして・・・警察もしくは弁護士様々に相談しました。 そしたら「過去を悔やんでも仕方がないし、4年前だと時効だ!」とどちらも過去は過去だと言われて安心したのですが、
そのとたん今度は間近に自分が「たとえば数年前に脅迫や名誉毀損をやったような気がしたりする。」ような症状が微妙に出てきたんです・・・  しかしそれは明らかにやっていないと言い切れるほどでありまず考えられないいのですが・・・ 安心したとたんまたそんな不安
が出てきました。 辛いです。 精神化には抗不安薬を処方していただいています。 しかし症状は以前よりもだいぶ落ち着きました。
自分は今何を考えたらよいのでしょうか?  
しかもよくよく考えると4年前の事ですらやったかやってないかはっきりしないくらいの取り越し苦労だったほどです。 
自分はどういう精神状態を持てばこの苦しみから抜けられるのでしょうか? またこれは強迫性障害なのでしょうか? 
どこかで打ち切らなければならないとは分かっているのですが今
そのポイントを模索中です。 

A 回答 (4件)

貴方の書いたものを読んで感じられるのは、貴方が神経症の内に入ると思われるという事です。

そこで神経症と言うものが何であり、そして神経症の治りと言う事がどういうものかを説明してみます。

神経症は意識をしたものが「症状となっています」貴方の場合は心に浮んだ事を「心の異物」として、あってはならない感情として処理をしています。その事でなおさら意識に上って来て苦しんでいる状態です。貴方が意識をした事が、そっくり貴方の苦しさ、辛さになっています。

貴方の辛い原因を書いてみます。貴方が辛い、不安な感情を抱いているのは、貴方が意識をしてその意識から離れられない事に因ります。それは別の面から書いた方が分かりやすいかも知れません。

貴方は今までにも心配症と言う気質があったと思います。ですがこれほど苦しい思いを持続させた事はなかったと思います。人間の苦しみはお釈迦様の時代、キリストの時代からの人間の宿命と言えます。そうして宗教文化の発展と言うものが有ります。それはいかにしたら人間の苦しみを乗り越えられるのか、という人間の永遠のテーマと言えます。

そこで貴方に人間の苦しみの原理と、その苦しみを超越するという事を書いてみます。人間の苦しみ、或いは辛い想いで生きてゆくという事は人間が「意識」している事に因ります。そうして心が一か所に停滞する事が不安を呼んで、又苦しみを作り出しています。

聖書の中のエデンの園を追放された事とは「意識して善悪を引き当て比べている」と言う事です。貴方にあてはめるなら、心の状態は何時も軽やかであるべきである、と言う事と今の不安を比べているという事になります。それが知恵のリンゴを食べて善悪を知ったという事になります。

仏教的に言うならば、意識地獄の中で妄想によって苦しんでいるという事になります。

それは人間の勘違いによって引き起こされています。どういう勘違いかと言いますと、「人間は自我意識だけで生きている」と言う勘違いです。本当は人間が一番の幸せを感じている時、或いは一番仕事がはかどっている時などは「自我意識」が無い時と言えます。本当の仕事が出来る時は「自我意識」が関与していない時と言えます。

それは子供の心持と言えます、それは脳の機能分化が完成していないという意味です。天国に近い者は幼子と言う事は脳が十分に発達していないという意味です。思春期になる頃に悩みが生じてきます、これは脳の機能分化が完成に近ずいたという事を意味しています。意識するという事は左脳の働きです。左脳は分別する事が専門の脳です。

その事が人間を苦しめる事になります、どういう事かと言いますと、「意識」をするという時は左脳の自我意識が主導権を握っている事になるからです。自我意識が自我意識だけで何かをしようとしても、うまくいかないからです。意識がない時に仕事をはかどらせているものが人間の頭には組み込まれています。これが精神疾患の辛い症状を自我意識に罪悪感とか、漠然とした得体のしれない不安、圧迫感として自我意識に与えてきます。

自我意識が単独で行動しようとした場合、人間はスムーズに事が運ばなくなります、それをしようとするのが「神経症」の症状を作り出しています。それは人に会う事を意識した場合は対人恐怖と言う事です、人前で話をする時は上がり症と言う事です。話す事なら吃音、書く事なら書痙、不安を意識した時は、その時の状態によって、心臓になったり、狭い所になったり、広場になったりと様々です。

自我意識に対するものを「もう一つの意識」と言う事にします。自我意識が意識をした場合、何をしてもうまくいきません。その事でますます自我意識は意識をする事になります。その時にうまくいかない自我意識に対して、「もう一つの意識」が手助けを申し込みます。これが「得体の知れないところの不安感」と言えます。

自我意識が意識をするという事は、無意識を使わないという事を意味しています、或いは無意識に入れなくるという事です。その事で行動はちんぷんかんになります。自我意識はもう一つの意識の無言の圧力に苦しい想いをする事になります。それは自分の心が分裂をして争っている状態です。心と心が喧嘩をしているという事です。

眠れないという事は眠れないという事を必要以上に意識しているという事です。眠るという事は眠る前に自我意識がおとなしくなって無意識に身を任せるという事です。吃音にしても話す前に意識しすぎて、無意識の力を借りられなくて、自我意識が口を使うという事になります。健常者は、気が付きにくいのですが、話す時には自我意識は話す少し前に無意識にバトンタッチをしています。

最後に神経症の治し方と言う事と、治ったという事を書いてみます。自我意識がその症状を毛嫌いして、症状を無くすための努力をします。或いは症状を追い出す努力をします。ですがこの症状を良くない事として追い出しに掛かっている事そのものが症状を作っています。治りたいという心そのものが症状を生み出しています。それは認識の誤りと言えます。目の前の一つしかない事実を「善悪」というふうにして、二つにして見ているという認識です。

神経症の治し方と言うものは「症状」を相手にしていては一生掛かっても治りません。それは今言ったジレンマに落ちるだけかと思います。症状は無視してかかります。森田療法では症状は不問と言う事になります。症状を訴えても、それを聞いても何にもならないからです。そして普通に暮らす事です。森田療法というものを学ぶ事が良い事と思います。そして意識性の強い人がそれを乗り越えるために、意識と無意識を学ぶと良いと思います。

神経症が治るという事は、認識を変えるという事です。心に起っている嫌な感情を追い出そうとしなくなるという事です。追い出そうとする心が「症状」を呼び込んでいます。その嫌な感じと言うものを受け入れるという事です。それが出来た時には「症状が」消えます。

それは自我意識が禅問答に取り組んでいる姿と同じです。自我意識、分別脳、左脳で取り組んでも禅問答は解けません。無意識にあるもう一つの意識の出番を待たないと禅問答は解けません。精神疾患とは意識が無意識を無視、或いは、分からないでいるという事です。判る事を「見性」するといいます。悟りを開くという事です。それが出来たなら精神疾患の完治と言う事になるからです。

欲しいという心をを捨てないと手に出来ない。と言う事が分かります。症状を追い出したいという気持ちではなくて、症状をあっても良いものと受け入れる事。これだけで良かったと分かります。症状は善悪を分別するという心が作り出している妄想です、分別を捨てる事で妄想も消えます。これが薬を使わない精神疾患の解決法です。
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<br /> >またこれは強迫性障害なのでしょうか? <br /> <br /> 私には正確なことは分からないです。でも、既

、不安神経症に
ついても主治医に質問なさると良いと思います。
自分で判断して、悩みを深めるのはあまり良いことだとは思えないからです。
医師に質問するまではあまり病名に拘らなくて良いと思います。

>この症状はいつまで・・・

ありのままの自分を受け入れるところから、始めると良いと思います。
自分では気が付いていないのかも知れませんが、質問者さんが欠点と思っているところも、決して欠点
とは言い切れないのです。(このことは後でまた、説明します。)

人は皆、良い面、悪い面で出来ています。
質問者さんが悩んでいらっしゃるのも、自分で短所と思っている面が受け入れられないからだと思いま
す。
なぜ、受け入れることが出来ないかというと、より完璧でありたいと思うから、
また、そのことのよって思考や行動範囲に制限が課せられるからからだと思います。

他を罰することなら、幼児でも出来ます。
でも、あなたがそれをしないで内省的なのも、今が成長の途中だからです。
そして、より完璧になろうと思うのも、自己の成長を意識しているからです。
ですので、内省的になることは成長することには必要で、そのこと自体は自分に「気付き」を促すこと
なので、その行為自体は間違っていないのです。なぜなら、「気付き」無くしては成長が有り得ないか
らです。これは、あなたの長所なのです。

なのに苦しめられてしまうのは、「拘りが強すぎるから」です。
この世界が対で出来ていることや、物事には中間があることをつい忘れてしまうからです。長所も強く
働き過ぎると短所になってしまいます。
自分で自分の粗を探してしまうことは、つまりあなたが他人にもしてしまうことでもあるのです。マイ
ナス面ばかり見つめすぎると、お互い辛いことになってしまいます。辛すぎると言うことは、良い面を
見なさすぎる、見失っているという状況です。力みが入りすぎて、常に身構えている状態になっている
から苦しいのです。

物事を複雑に分析することに終始すると、全体像が見えなくなってしまいます。
物事を見ることは、絵を描くことに似ていると思います。
人物像を描くときも、風景画を描くときも大まかに形を捉えて、全体のバランスを見ながら細部を描き
込んでいくと自分がイメージした絵に近づいていくと思います。一点だけを拘って描いてしまうと、遠
くから見たときにバランスの悪い絵になってしまいます。光ばかり描こうとしても、影がなければ光は
見えません。
影を描かなければ、光は見えてこないし、光を描かなければ全体像は見えないのです。闇の中では輪郭
が見えませんよね。

今、私が上に書いた言葉で、光を「長所」に影を「短所」に、そして描くを「見る」に置き換えてもう
一度読んで下さい。言わんとしていることがイメージし易いと思います。光と影が調和していれば魅力
のある絵になるように、あなたの内面も、外の世界も調和していれば欠点ではないのです。調和という
のは完璧と必ずしもイコールではないかもしれません。だからといって不安定ではなく、自然の安定し
た姿なのです。


>自分はどういう精神状態を持てばこの苦しみから抜けられるのでしょうか?

細かいことに囚わらないことだと思います。先程、物の見方を絵を描くことに例えましたが大きな絵を
描きたければ、尚更、細部に拘らないことです。影ばかり見ないことです。真っ黒な絵になってしまい
ますから。
(つまり、目標が大きければ大きいほど失敗に拘るな、短所ばかり見るなと言うことです。)
絵を描くときに綺麗な色が冴えて見えるのは、抑えた色や影があるからです。
それは自然もそうです。短所と長所どちらもあるのが自然な人間の姿なのだから、
自分も他人も自然の一部だと思えば、それほど身構える必要はないのだと思います。

いつも近くばかり見ていないで時折、離れて見ること、視点を変えることが人生の苦しみを乗り越えて
行くことに繋がっていくと思います。
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こんばんは


私は強迫神経症です、今は強迫性障害といいますね。
私は書店で見つけた『どう生きるか』という本で救われました。
『森田療法』の本です。御質問者様にも呼んでいただきたいと思いして
版元・アマゾンを探しましたが1978年初版の本ですのでありませんでした。
版元 白揚社
著者 高良武久 
高良先生の神経症について書かれた本はまだ他にも出ているものがありますのでご質問者様がいいと感じられる本をお読みになられてはと思います。

ちなみに高良先生は東京慈恵会医科大学名誉教授であり傍ら高良興生院顧問として神経症の治療に当たっておられましたが御高齢で永眠されました。

御参考まで。
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強迫性障害ではなく、不安神経症に近い症状と思われます。


なかなか自分一人では区切りがつかないという状態ですから、医師に
相談されたほうがよいと思います。
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