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近代までの(あるいはつい最近の漫画描写までか)日本画で、人物の顔面アップというのはついになかった気がするのですが、どうしてでしょうか?
あるいは、絵巻物的なものは遠景的俯瞰的な構図のみに終止し、変化に乏しいということがありますが、これはまたどうしてなんでしょうか?
構図に変化をつけ、クローズアップするとか、地面から這い上がる構図とか、なぜもっとダイナミックな視点を持とうとしなかったのでしょうか?

A 回答 (15件中1~10件)

私の専攻していた洋画の画法の知識と西洋、東洋、美術史の範囲を越えて


しまったので、知り合いのその道に詳しい人にご講義してもらって
きました。またぎきになると思いますので、分からない点の補足は
文書等でご確認ください。また注釈できるようであれば返信いたします。

まず、絵巻物を鑑賞するにあったって重要なところはビューが一定して
いないと言う点だそうです。簡単に用語で説明すると、「心理遠近法」
という画法で逆遠近法というのなら東洋美術では頻繁に使われている
遠近法ですが、逆遠近法だけでなく透視図法的な画法とのハイブリッド
であるという特殊な遠近を持っているという点に特徴があるそうです。

なぜこのような遠近法を用いているかと言うと、物語で使われている
文法や用法と画法に統制を与えるためなのだそうですが、私の専門外
なのでなぜ統制を与えることが出来るのかは深くは理解できてません。
ただ、西洋の透視図のようなスナップショットでは無く、文章の中に
ある心情や時間や風景を画像に起こした場合一見混沌とした画面
ではあるが、文章を読むに当たってその絵巻物の世界に没入したり
また自分の世界に返ってきたりしやすいような画法であり、読み手
(鑑賞者)があたかも経験したかのような魂の交感を助ける
作品であるらしいです。要するに(その知り合いの話によれば)
RPGゲームのフィールド画面のようなものであり、自分が文章を
読み進めるとともにその世界の文章とは関係のない場所の思いをはせて
みたり、登場人物になりきって絵からこちらの世界(現実世界)を
覗き込むことが可能であると言えるのではないかとのことです。

ですので、ある一定以上の絵画的情報の偏りがある場合その世界に
没入しにくく現実世界の個人を特定できるほどの情報や、特徴的な
情報はあまり必要ではないらしいですね。主人公や主要人物は別らしい
ですが画面の構成上あまりにもそれだけ目立つようにはしないようです。
最小限でなおかつしっかりした要素の顔であるほうがよいらしいですね。
(その人は懐古ゲーマーなので最近の3DビューのRPGより昔の
 2Dキャラはこちらの想像力しだいで泣いたり笑ったりするだろ
 それと同じさ、という説明つきでしたが)

また、日本の文章にはよくある主語が不明確であったり、話の主体が変化
したりという表現と心理遠近法はマッチするらしいです。
完結的な絵が無いと疑問をお持ちでしたようですが、ある文章の
ワンシーンを切り取るということを選択せずに長文をそのままに
画像として再現しているところにあの独特の構図の秘密がありそうです。
もしワンシーンを選択していたならもう少し大きめの絵が存在して
いたかもしれないですね。透視図は無理だとおもいますが。
透視図だと建物を隔てた背後の人など描けない角度が増えてしまう
のではないかとのことです。

ここからは私の私的な感想なので飛ばしてもらっても構いません。
西洋絵画が自然主義とするなら日本の絵画はどちらかと言えば表現主義
であり、主観と客観が曖昧で表裏一体となっています。
西洋絵画が個人を特定でき、表情を捉えて心情を表現したが、対象物と
同化することは表現上難しいが、日本の美術は自然を客観視する
目を多少犠牲にしながら逆に作品内の対象物と鑑賞者が同化し、客観と
主観の間を行き来することが出来る表現ではないでしょうか?
自分の心理状態によって印象が変容し、作品の無機物や動植物を擬人化
しやすいというメリットがあります。対象物との明確な距離がないが
心的距離を近づけたかったら対象物と一体になることで可能。

(デメリットあるけどもそれを克服するため表現が発展してきた)

また西洋古典絵画を科学技術の応用と人間の絵画と取ることも出来ます。
日本の絵画は文学や詩のなどの内的世界の絵画と言えることも出来ます。

西洋古典絵画の特色上変化は化学反応のように変化は早いですが、
日本の絵画は親が子を子が孫に遺伝子を伝えるようにゆっくりと環境に
適応していたようです。停滞というわけではなく海外の表現も取り込み
つつ、内包して徐々に変容していくスタイルが日本の美術のようです。
(司馬好漢や渡辺崋山のような絵師もいたようですし頑固だったわけで
 もないようです。政治や身分制度のように厳しかったようではない感じ ですね。)
ただ、ビューの固定は洋画が流行するまであまり採用しなかったし、
トリミングはなかなか発展しなかった。トリミングに関しては対象物が
画面内で生きていると考えて生き物はなかなか切れなかったとも考えら
れのではないか?
と私は仮説を立てています。
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この回答へのお礼

非常にわかりやすいご説明で、感銘しました。ありがとうございます。
西洋的なあるいは東洋的な人間関係的文化と深く結びついているし、また、絵巻という構造上にも理由があるのですね。それと、日本語との調和とか心理的距離など、さまざまに理由が錯綜して、おっしゃるようなところに落ち着いているのでしょうね。たしかに、日本画のほうが、鑑賞者を持つ積み込む配慮がなされている、という面はありますからね。
後は、好みなのでしょう。

画面の中で生きているというのは仏教的みたいですかね。

お礼日時:2008/11/08 11:08

お坊さんの絵を調べて見るとこっちを見ている絵が多くありますね。


なにか関係があるんでしょうか?仏画でもお釈迦者やお不動さんは
こっちを見ていますね。

視線は凝視しているところを描いているか、動いているところを描いている
かによってかわっても来ると思いますよ。たとえば流し目とか。
一番いい姿を描いてねってコミュニケーションとって描いたかもしれない
のにやけに独断的だね。
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この回答へのお礼

お坊さんでありましたね。一休禅師でしたでしょうか。宗教関係の対象になると正対することもあるようです。そのてんちょっと認識不足でしたかね。しかし、6圧倒的に一般人は生体しないんですよね。

お礼日時:2008/11/07 07:25

絵”巻物”だからページ無いでしょ?絵本はあるけど。


最初がアップの構図だったら横方向にアップを延々描けと・・・・!?
やけに見る人に不親切な作品ですね。そんなのあったら。
No12番さんがせっかく懇切丁寧に説明してくれてるんだから
ちゃんと読みましょうよ・・・。
それと巻物の鑑賞の仕方として地面または机に置いて読むモノなので
それと同じようにおいて絵を見てみれば奥行きを感じるということは
鑑賞者が上方から見ている視点と同じなので入り込み易いのかも
しれませんね。

ちなみに、巻物、屏風、掛け軸、ふすま、天井どれも奥行きを表す
傾きはちがいますけど同じに見えたんですか?
タブローの飾る場所や観賞場所を想定して傾きを決めるのは
東洋、西洋同じなんですが・・・・。
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この回答へのお礼

本とは違いますね。画面構成の方向性というもんがあって、左から右に流していくという作業が、あの俯瞰図に心地よいことはわかるのですが
それにしても、もうちょっと、絵本的な完結的な挿絵が合って何が悪いだろうと感じますけどね。巻物、掛け軸、屏風、ふすま、天井は、それぞれ画面サイズも違うので、必然的に構図や対象を選んでいるのではないでしょうか。でも、共通して「なにか対象に近づいていない」という印象が全般にあります。

お礼日時:2008/11/07 07:28

少し興味があるのと、時間があったので回答してみます。



>近代までの(あるいはつい最近の漫画描写までか)日本画で、人物の顔面アップというのはついになかった気がするのですが、どうしてでしょうか?

現代の構図(特に漫画・アニメ等)はカメラ・映像視点です。
それまで見ることが出来なかった構図と言う事です。
それ以前は舞台芸術的と言いますか、普通に人間が見ることの
出来る構図ですね。

>あるいは、絵巻物的なものは遠景的俯瞰的な構図のみに終止し、変化に乏しいということがありますが、これはまたどうしてなんでしょうか?

絵巻物、きちんと鑑賞したことがありますか?
巻物ならではの鑑賞法でページをめくるのではなく
ずっと流れる画面で見るので、自然と連続した構図取りになっています
(と言っても実際は段落区切りで場面展開するものが多数ですが)
おそらく、初期には様々な構図を使ったものもあったと思いますが
淘汰されたのでしょう。

また、西洋の肖像画が目線をこちらに向けている等々書かれていますが
元々、肖像画は貴族・資産家が自分の自慢として有名画家に
描かせている性質が多分にあります。ですので、男性はよりかっこよく
女性はより美しくされています。
技術的には優れていますが芸術性はどうなの?と思う物も多いですよ。
口を糊する為に描いていたという作家も多いですし。

対して日本画は主に風俗画ですが、人々の日常を描いているため
特定の対象を取らない物が多くなります。
(ですので、風俗の記録と言う意味でモチーフがカメラ目線等で
ある必要がないわけです。)
また、日本画の組み立てとして、一つのモチーフを何度もスケッチし
一番美しい形同士を組み合わせるという手法をとりますので。
そもそもの画面の作り方が違いますよね。

若干、話が戻りますが、構図に関しては江戸時代の浮世絵
(北斎の富嶽三十六景などの構図取りはゴッホなど当時の画家が
こぞって参考にしていますよ。)

好き・嫌いと言う気持ちと優劣は結びつかないので
切り離されて考えたほうがよいと思いますよ。
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この回答へのお礼

アニメ映像文化の前に、西洋画はいろいろその準備をやっていたわけですよね。柔軟性があった。もちろん初期の映像カメラは性能の限界から風景的描写を中心にしたということはあったのかもしれません。馬が亜汁写真ができて初めてちゃんと馬の動的構図が描けた歴史もあり、双方向的でしょうか。
絵巻物で、さまざまな構図が淘汰されなければならない理由がどこにあったのか、もしあったとすれば、革新性を好まない頭の固いかよっぽど後ろ向き趣味の鑑賞者しかいなかった(今のテレビの前にいる大半の人間?)からですかね。
西洋画も口にのりするための動機なのはそうですが、基本的に画家と対話があるわけですね。この心のあり方がやはり違う。向き合っている(たとえ後姿であっても)
以降、風景画の中に人物が点在するようなものは数多くあるのですが、人物をクローズアップしまたは中心素材としたもののなんとまれなことかと思います。浮世絵はまた別次元の文化ではないでしょうか。特に北斎広重は伝統を脱した新世界です。これとて、人物には向き合えませんが。ゴッホをはじめ西洋画の巨匠たちは浮世絵とはむきいましたが、伝統的日本画とはあまり親和点や評価を与えなかったのではないでしょうか?その閉鎖性は、とてもヨーロッパ絵画とは肩を並べていない。。

お礼日時:2008/11/06 10:13

>ソッポをむいている


メダルに刻まれたような肖像画で横顔の肖像画は西洋で古くから
ありますね。
それに三分の一傾けたの肖像画が西洋でも多いのはなぜでしょうか?
この際精神性がどうとかという考えだけで求めるのは一旦置いといて
考えたほうがより答えに近くなるような気がするのは私だけですか?

どうせお前は外国人なんだから日本の何がわかるって言ってしまったら
私達もその時代の人間じゃないので分からないことだらけです。
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この回答へのお礼

そっぽをむいているのもあるし、こっちをむいているのもある。対して、日本画は、こっちを向いていても画家を見ていない(対話していない)、人物でもあくまでもものとしてしか扱われないということです。心を描かない。描写的には描くけれども、積極的にはです。仏像だけですよね、表情をあらわにするのは。家康の三方が原合戦後肖像なんていう例外はあるとしてもです。
その時代の日本人になることにこの質問の意義を感じています。

お礼日時:2008/11/06 10:05

最初の回答で答えたとおりなのですが、絵巻物がモチーフと画家との


関係性を結ばないのは、アナタ、絵巻物限ったことですが
創作話や御伽噺を扱っているというところを忘れてないですか?
そのような想像を描くのだから現世との現象の共通点や、構成上必要の
ないものを入れる積極的な理由は見当たらないと思いますが。
あなたが思ってることは無駄だってことかもしれません。
(現に絵巻物では屋根が描かれていません俯瞰図なのに)
共通点を必要していないのはその絵巻物を楽しむその時代の人がその
想像の世界に入り込むのであって、私どもの世界(現世)に置き換える
必要があまり無いからでは無いでしょうか?
想像の力を借りて読む(見る)ことで自由度が増す。しかしディテール
はほしいそれを満たした描き方が俯瞰図という考えは無いでしょうか?
そして、それがスタンダードになり他を必要としなくなった。

どうもアナタは作品全体の構成とか空間における形体の重要性や作品に
存在する細やかな演出を見分けることをぞんざいに扱ってますね。
視線なんかもそう。なぜ必ず画面方向に視線をや顔を送らねばならない
のでしょう?造形において無駄な形や視線がジャマになるという
考えがアナタは逆に無いだけではないでしょうか?
でそれがアナタは目に付くと。
それと、アナタは視線恐怖症の気がありますね。

ひょっとしたらアナタは美術鑑賞に向いていないのも知れません
どちらかというと芸術家タイプで創る側なのかも知れないですね。
絵や彫刻でも始めたらどうです?
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この回答へのお礼

たとえば、現在の絵本だって創作御伽噺の一種であり、それらはいろいろな構図、スタイルで描かれています。なぜ、1000年前から500年前か200年前かまでか知りませんが、そうはしなかったのか?
素材の見せ方はいろいろあると思いますよ。当時の画家だって日常生活では、柿を見るのだって、アップで見てディテールをつかんだり、遠くにに柿木を見て風景と溶け込ましたり、いろいろ考えたのではないかと思うのですが、「絵」というスタイルがそれらのアイディアを奪ってしまったように思います。

お礼日時:2008/11/06 10:02

それともう一つ、視線を画面外の一定方向に向けている西洋画っていう


のは実は少ない。こちらを見ているようで瞳が分散しているパターンが
多い。斜視っていうのかな一度調べて見たらどうです?
昔のアイドルもわずかな斜視のほうが人気が高かったとか・・・。

画面の方向に視線を向けないっていうのはのぞき窓から相手を見ている
と考えれば作為的なポーズではなく自然な振る舞いがいいと感じてるって
ことになりますね。ポーズに作為っていうものを嫌うってのもあるんじゃ
ないかな。日本は慎ましさを美徳って感じるもんね。
まあ矛盾するけど、そういうポーズは取ってもらってるんだろうけどね
肖像画なら。
西洋画は図像学のようにポーズにメッセージを込めることがあるので
その影響が強い、ボディーランゲージの強い国ならではだよね。

ニュース映像とかもインタビューの素材では視線はカメラじゃ
なく違う方向が多いですね。覗いているという意識とともに、どちらか
に顔が傾いているほうが顔として認識しやすくヘンな影が出ない
ていう理由もあります。理由は一個じゃなくていろいろあるんですよ。
結論は急がずにゆっくりいきましょう。
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この回答へのお礼

注視していなくても、画家との関係性というか、モデルの存在感が圧倒的。日本画は空気の中の人物でしかない。いかにアップの(胸像)肖像であろうと。そういうのは、美徳なのかそれとも精神性の弱さなのか私にはわかりませんが。わたしは、つつましさとか、ボディランゲージの強弱とか言う些細な問題でなく、本質的に芸術に対するアプローチが違うように思える。深いところでね。これは、現在もマスメディアやその他のスタイルに影響しているのかもしれませんが、西洋のそれを輸入したものだから微々たる差でしょう。しかし、日本独自の芸術であった時代、けっして画材対象と関係性を結ばないという姿勢があったような気がしてなりませんね。で、それが、質問のはじめのほうから言っている、絵巻の決まりきった偏執狂的俯瞰構図に最も印象的です。

お礼日時:2008/11/04 08:53

西洋でもあえて様式から飛び出そうとした動きが活発になったのは


19世紀後半から。日本だけが停滞していたと考えるにはちょっと
どうかなと思うね。
実際、西洋画古典絵画では風景画は圧倒的に少ない。背景の習作として
研究家がどこからほじくり出してきたものが多数ですね。
それに、日本の浮世絵や工芸品に魅了されて評価し、たぐいまれなる
技巧に驚嘆したのは西洋人だからね。革新的だったら日本みたいな
様式はとっくに存在してて、それほど驚かなかったんじゃないの?

様式の純度は日本のほうがある時期までは上だと確信しているよ。
あくまで純度だけだけどな。
ヨーロッパとくにフランス絵画は第一次世界大戦以後その様式を引き継ぐ
機関が崩壊して新しい様式に移行せざるえなくなった外的な要員も
大きいからね。同じことが日本でも第二次世界大戦以後に起きている。
上から下へ伝統を受け継いでいく流れが途切れてしまったことを、
手放しで喜べるほどいいことだとは思えない。

革新性を追及する西洋が日本の伝統文化に理解を示し賞賛し、逆に日本が
伝統に縛られているからこそ、革新性に憧れてアプローチを展開する。
その土地や人間によって考え方や価値観はちがうさ。気に入らなかったら
今は海外に住んじゃえば良いんだよ。

どっちが上とか下とか考えたことはないね。停滞と考えるかそうじゃない
かはあなたが決めてください。わたしは興味がないんで。
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この回答へのお礼

西洋画の伝統的スタイルを言っているので。肖像画がこっちをみているでしょ。そしてあの描写力。写真がない当時の歴史的資料値があります。この精神性の違いは何なのだろうか。
腕はともかく、画家がモデルに向かうスタイルですね。
西洋が日本に感心するのは、その精神性までは達していなくて、表面だけだろうと思う。だから、モデルがそっぽ向いている絵しかないということに賛同するやつはほとんどいないでしょう。

お礼日時:2008/11/04 08:47

え~っと、ド素人の出しゃばりは嫌われるんでしょうけども。



日本画と西洋画の違いって、形の捉え方ではなかったろうかと想像します。
人物のアップが無かったことも、構図に変化が乏しいことにも共通してあるのはシルエットの重視じゃないでしょうか?

日本画って、背景を描かなくていいものという認識があって、「余白の美」とかいうものも鑑賞したりするんじゃなかったですかね。つまり、余白も含めて一枚の絵だと。その意味では、空白の有り様も含めて画面をデザインすることに腐心していたと考えてもいいんじゃないでしょうか。

また、絵巻物などは、シルエットを活かす、つまり、重なって形状が分からない部分を減らすにはちょうど良かったと。絵そのものに強いデザイン性があったりもするんでしょうけど、意図的に隠す場合でなければ、陰に入って判然としないってことは無かったように思います。

雷門だったかにある仁王像が、下から見上げた時によりよく見えるように造形されている点を考えても、形へのこだわりってのは強いと思うわけです。さらに、能や狂言の舞台背景も、とても簡素なものです。しかし、そこに背景が無いということではないわけでしょ?


で、そう考えると、日本画の細密画とボタニカルアートの表現方法がとても良く似ているってのが興味深いです。
純粋に、その形状だけで事実を記録するという形式ではありますが、自然のままにその形状をとらえるという意味では、日本画にもリアリズムは存在したと思うわけですね。
これは、西洋画でのリアリティーと違っているのではないでしょうか?

何故ダイナミックな視点を持たなかったか、については、たぶん、必要ではなかったんだと思います。
実際のところ、日本家屋で絵画を飾るスペースはかなり少ない上に、絵画すらも部屋の一部分に取り込むという部分では、絵が突出することを望まなかったろうと思うので。
一休さんの虎の屏風じゃないけれど、どこに何を置き、どう見せるのかってのは計算されていることだったろうし、寺院の天井画だってそうでしょう。

西洋画が画面の中だけにダイナミックさを求めたのに対して、日本画は、それを見るシチュエーションも含めてデザインされていたのではないかしらんと思います。
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この回答へのお礼

鑑賞姿勢が西洋とは違うということらしいです。そういうものからあえて飛び出そうとしなかった、革新を起こそうとしなかったという、芸術的な停滞というものがあった気がします。停滞を安定といってもいいのかもしれません。シルエットと空間性の重視という意味合いで鳥瞰というのがもっとも合っていたということらしいですか。

お礼日時:2008/11/03 07:37

それともう一つ、職業画家は技術で飯を食っているわけで、


安易なアップは手抜きと捉えれれる危険性があるということだろうな。
細かい書き込みや、きらびやかな色彩(高価な絵の具や画材)で
作られた芸術作品は教養があろうとなかろうと人を納得させる
力があったと言えるってことだろうね。
また、飾る場所や鑑賞する空間にあわなければ選択しないね。
典型的な写実的に描かれた絵を絵を描いた経験が少ない人が無条件で
うまいなーと褒めるのを考えれば分かるように分かり易く、人を
満足させるパターンとして残ったそういった構図の作品の数が増える
のは自然の流れであるのは当然でしょう。

だから下手人の人相書きは用途から考えてアップを描いたり
身体的な特徴の部分を切り取って描いていたはず。

長い間、ふるいにかけられて残った様式にはそれなりの理由がある
わけで、その点を踏まえずにただ似たようなものばかりと考えるのは
ちょっともったいない気がしますね。
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この回答へのお礼

たとえば、織田信長が本当に芸術にも革新的であったら、自らの肖像画を、なにかポーズを取って、こちらを指差しているとか、もちろん視線を交じり合わせるとか、画面の中で主張するという方法を思いつかなかったものかと。
おっしゃるところの、細かな距離を持った描写しか要求されないとすれば、なんと日本人の芸術的感性の貧しかったことかとも言えますよ。
そういう固定概念を崩すことがなかったという、鑑賞側製作側両方の停滞ぶりがある気がします。

お礼日時:2008/11/03 07:32

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