時代劇などでよく柳生家は徳川家康の剣術指南役として出てきますが、柳生家が徳川家康に仕えるようになったのは西暦何年くらいで何がきっかけだったのでしょうか。

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A 回答 (2件)

文禄3年、西暦で言うと、1594年5月3日。


黒田長政の仲介により、徳川家康と出会った柳生宗厳が、家康の前で「無刀取り」を披露したことによって、兵法指南役に迎えたいと家康より申し出を受けました。
しかし、宗厳はその当時で、すでに66歳。
代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として押しました。
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ありがとうございます。

お礼日時:2009/02/21 07:02

きっかけは、


文禄三年(1594)、柳生宗矩の父・石舟斎宗厳が家康の召しに応じて、自得の剣法を示して賞せられた。家康は宗巌に誓詞を差し出し、兵法師範として直ちに仕えるようにいった。しかし、宗巌は老齢の故をもって辞退し、従えていった又右衛門宗矩を出仕させるとみずからは柳生に帰った。これが、柳生氏が剣をもって世に出るきっかけとなった。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yagyu_k.html

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B3%E7%94%9F% …
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この回答へのお礼

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お礼日時:2009/02/21 07:00

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この連休に「柳生の里」へドライブを計画しています。どのルートが一番安く行けるでしょうか?また、近辺の駐車場情報も教えて下さい。

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京都の場所にもよりますよね

宇治に近ければ
大津市の「鹿跳橋」まで出て国道422号線で「朝宮」までいったん出ます。
「朝宮」から国道307/422号線を経由して府道5号線(木津信楽線)で和束を経由して「加茂」の国道163号線に出れば、「笠置」の鉄橋を渡って柳生まで行けます。

京田辺に近ければ、上記のように遠回りせずに直接国道24号線で木津に出るか、国道307/422号線で「宇治田原」→府道62号線(宇治木屋線)→「和束」→「加茂」→「笠木」

個人的には、国道24号線は好きではないので、時間がかかっても県道/府道を使います。
宇治田原のあたりは茶畑も綺麗ですし(時期が悪いか)和束のあたりはノホホンとしてるし…

柳生の駐車場事情は判りません(空いている時期にしか行ったことが無いので…ごめんなさい)

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江戸時代の水戸藩の藩主は全員が、徳川頼房の男系の子孫なのでしょうか?

江戸時代の水戸藩の藩主の全員が、家康の11男・徳川頼房の男系の子孫なのかどうかを教えてください。

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頼房以降はそうですが、頼房が水戸に入る前も水戸藩はありました。
ですので、江戸時代の最初の頃は違います。

Q柳生家が徳川家康に仕えるようになったのは西暦何年くらいで何がきっかけだったのでしょうか。

時代劇などでよく柳生家は徳川家康の剣術指南役として出てきますが、柳生家が徳川家康に仕えるようになったのは西暦何年くらいで何がきっかけだったのでしょうか。

Aベストアンサー

文禄3年、西暦で言うと、1594年5月3日。
黒田長政の仲介により、徳川家康と出会った柳生宗厳が、家康の前で「無刀取り」を披露したことによって、兵法指南役に迎えたいと家康より申し出を受けました。
しかし、宗厳はその当時で、すでに66歳。
代わりに、五男の柳生宗矩を指南役として押しました。

Q徳川家康の時代において・

豊臣秀頼をほろぼしその戦後処理が終わったあとの時点で
家康の家臣で最も領地が多かったのは誰でしょうか?
そして何万石くらいの領地をもらっていたのでしょうか?(親藩のぞく)

また外様大名ではだれでしょうか?

当時の戦国時代で一族ほとんど優秀と思われたのは
どの一族だと思いますか?(大名じゃなくても構いません)
真田家でしょうか?

Aベストアンサー

連合池田家
http://ja.wikipedia.org/wiki/池田輝政
ここも結構いただいてる。

譜代としては
井伊家でしょう

Q柳生十兵衛関連の映画、テレビ

柳生十兵衛関連の映画、テレビで成田三樹男氏以外が、
公家で剣豪を演じた作品はありますでしょうか?

子供の頃に、剣豪の公家と戦うシーンを見た記憶があるのですが、
 ※しかもその公家はストーリー中、結構主要人物

なんとなく烏丸少将を演じた成田氏とは違うような気がするのです(記憶が定かではないです)。
また、柳生十兵衛も北大路欣也氏だったような気がしています(実際に演じたことはあるみたいですね)。

最近、柳生一族の陰謀を見て、ちょっと気になり、質問させていただきました。
正直かなりすっきりしません・・・
ご存知の方いらっしゃいましたら、教えていただけると助かります。

Aベストアンサー

風雲柳生武芸帳で間違いないと思います。
1985年に放映された北大路欣也氏主演の12時間ドラマです。
役者さんは覚えていないのですが確かに剣豪の公家が出てました。
途中までは「~でおじゃる」などの台詞を連発する軟弱公家と思わせて、実は剣豪。と、まるで柳生一族の陰謀の烏丸少将のようなキャラでした。
実は私はこのドラマが大好きで色々調べた事があるのですが、この公家を演じた役者さんについては不明でした。
(私の記憶では成田三樹夫さんなのですが柳生一族の陰謀とゴッチャになっている可能性が高いです)
残念ながらビデオ化もDVD化もされていないので記憶だけが頼りです。

Q徳川家康はそれほど脅威だったのか?

昨日、仇討ちについて質問させて頂いた者です。皆さんの豊富な知識を是非お借りしたく、新たな質問(長年の疑問でした)をさせて下さい。

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信長にしろ秀吉にしろ、そんなに家康が脅威だったのでしょうか?あるいは脅威として、どうして排除しなかったのでしょうか?
どなたか、ご意見をお聞かせ下さい。

Aベストアンサー

信長が家康と同盟を結んだのは、京都への進出をするために当方の守りを
固めたかったからです。

武田氏が滅亡しても、上杉や北条といった有力な戦国大名が残っており、
東方への押さえの要として期待していたのでしょう。

また、実際に家康率いる徳川軍は強かったんですね。戦力として大いに期待し
ていたのでしょう。
兵農分離を断行した結果、織田の軍隊は1年中稼動できるようになりましたが、
素性の悪い人を雇うことが多かったようで、粘りが全然なく、大規模な白兵戦
になると脆さを出すことがたびたびありました。

そのことがよく現れたのが、姉川の戦いです。
浅井・朝倉vs織田・徳川の連合軍が姉川で戦いますが、織田軍は白兵戦に弱く
浅井軍に攻め立てられ、信長の本陣までせまる勢いでした。
それに引き換え、三河のビンボー田舎侍であったけれども、主従の結束が強かっ
た徳川軍は兵数を上回る朝倉軍を追い散らした後、苦戦している織田軍を助け、
浅井軍を敗退させることに成功しました。

しかし疑い深い信長は、機会あらば徳川を潰そうとしていたかもしれません。
天下統一の途上で役に立つ間は生かしておくでしょうが、有力な敵がいなく
なった時点で、家康を潰しにいく可能性は大いに考えられます。
実際、家康の正妻と長男が自害に追い込まれたのは、信長の猜疑心ゆえの結果です。
幸いにして、信長が天下統一を果たす前に本能寺の変で倒れたために、徳川家は
潰されずにすみました。


一方の秀吉ですが、信長と違い敵対する大名を滅ぼすようなことは積極的にせず、
むしろ相手を降参させて自分の陣営に取り込む方法で天下統一を成し遂げました。
これは天下を統一するまでの秀吉の美点だと思いますが、人を殺すことを好まな
い性格によるものと思います。

小牧・長久手の戦いで破れた秀吉は外交で家康を取り込みますが、自分の方が
勢力が大きいにも関わらず人質を出すことまでします。
これは家康の猜疑心を解くためでもありますが、むしろ今後天下統一を進める
上で、自分の方針(味方になれば領国は安堵し、命をとるようなことはしない)
を他の戦国大名にアピールするためでもあったかと思います。

それまでの戦国大名の戦いは、信長のように相手を攻め滅ぼし一族全てを抹殺
する方が主流でしたから、秀吉が自分の考えを天下に示すよい前例になったよう
に思います。

一方の家康も、秀吉が「生きている」間は彼によく仕え、相手に猜疑心を抱かせ
るような素振りは見せませんでしたので、豊臣政権下での実力No.1の位置を保つ
ことができたのではないでしょうか。

信長が家康と同盟を結んだのは、京都への進出をするために当方の守りを
固めたかったからです。

武田氏が滅亡しても、上杉や北条といった有力な戦国大名が残っており、
東方への押さえの要として期待していたのでしょう。

また、実際に家康率いる徳川軍は強かったんですね。戦力として大いに期待し
ていたのでしょう。
兵農分離を断行した結果、織田の軍隊は1年中稼動できるようになりましたが、
素性の悪い人を雇うことが多かったようで、粘りが全然なく、大規模な白兵戦
になると脆さを出すことが...続きを読む

Q柳生の隠し田

初歩的な質問で恐縮ですが、一般に云われる「柳生の隠し田」とはいったいどの当りに存在したのですか?柳生方面へは何度か往っていますが、私共には、どの当りに在ったのか想像も付きません、何方か優しく詳しく教えて下さい。

Aベストアンサー

柳生下町の東、布目川沿いの興ヶ原町あたりではないでしょうか。
このあたりではそれなりに平地がありますが、布目川下流・上流とも険しい渓谷で、比較的容易な出入り口は柳生方面のみです。
ここを押さえてしまえば、十分に隠し通せると思っていたのかもしれません。

Q織田信長と徳川家康の弱点

織田信長と徳川家康の弱点を教えてください。
学校の授業で、討論をします。
私は、豊臣秀吉派です。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。
 何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。

 まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信には強攻策を出さない代わりに、弱い大名や烏合の衆である百姓一揆、非戦闘員に対しての無差別の虐殺を多数行いました。それだけでなく、神仏を破壊し続け、将軍だけでなく天皇をないがしろにすることはなはだしかった等々の記録が多数残っています。それだけに留まらず、部下に対しては恐怖政治を行い、吝嗇家(ケチですね)であったようです。
 その結果、当たり前ではありますが、多数の人に恨みを買いまくり、非業の死を遂げました。自業自得ですね。

 秀吉はひょうきんで人に愛される人柄で、工夫上手であったことから、一介の農民から前代未聞の出世を遂げました。しかし、本人は名も亡き家出身ということを常にコンプレックスを持っていました。将軍になりたかったのに、それができなかったのは家柄のせいですね。実績は問題ありませんから。
 一番人気のある人に思われることが多いですが、それは太閤記という御用作家の書いた書物(曲げられて書かれた事実)と、没後十数年で豊臣家が滅亡したことに対しての同情があったものと思われます。
 この人の欠点は、やはり家柄コンプレックスだったと思われます。自分の出身階級である農民層に対する虐殺や、農民を非人間的目的で使った戦闘などの記録が残っています。また、全国統一した後に、信長の夢であった朝鮮・中国(明)支配目的とした出兵を行ってしまったこと・・・これは許されることではありません。これにより、戦乱で疲れていた国内はますます疲弊し、豊臣家の支配に対する疑念を各大名に与えることになりました。また、晩年は一子秀頼のことしか頭になく、為政者としての責任を果たしたとは言えなかったと思います。

 最後に家康ですが、幼年時より苦渋の人質生活を余儀なくされ、そんな中で強いものにうまく巻かれる生き方を学び、信長の同盟者として、秀吉の同盟者として、難しい時代を生き抜きました。この忍耐力はまことにすばらしいでしょう。大器晩成の見本のようです。
 豊臣秀吉の没した直後は、一応の天下統一が成った後とはいえ、まだ安定とは程遠い時代でもありました。そこで五大老の筆頭という立場にいながら、豊臣家家臣に相互不信の種をまき、戦乱で疲れた日本に、無駄な戦乱を起こしました。関が原の戦いや大阪の陣は、日本一の所領を持つ家康にとっては、避けて通れたものであったと私は考えます。家康が、そうまでして豊臣家を滅ぼしにかかったのは、「徳川家が政権をとる形で平和な日本を作ること」であって、「日本を平和にできるのなら、誰がそれを行ってもかまわない」という民百姓の心とは無縁なものでした。
 その証拠に、信長が実行して秀吉が模倣した民百姓への仕打ちを継承し、「民は生かさず殺さず」という江戸時代が出来上がっていったのです。戦乱の収まった平和な時代に士農工商制度が必要だったとは私は思いません。大勢の貧しい人の上にあぐらをかく武士、その上で更にのんびりしている将軍・・・そういった中で、民衆に不満が溜まり、いくつかの乱に発展したと思われます。
 また、徳川家の政治をひっくり返されることを恐れての鎖国政策もうなずけません。これがあったからこそ、明治の幕開けで、日本は西欧諸国に大きな遅れをとるのです。そして、その遅れが焦りにつながり、西欧諸国に負けないような国になろうと奔走した結果、朝鮮や中国への出兵となり、暴走した軍部がアメリカに戦争をしかけて敗戦となるわけです。
 敗戦の責任が徳川だけにあるとは言いませんが(笑)。

 弱点というのは討論になりえるのでしょうか?ちょっとその辺りがピンと来ないのです。何故なら信長も秀吉も家康も歴史上では勝者です。弱点と言われて思いつきませんでした。欠点や失敗ならいくらでも出るのですが(笑)。
 何か参考になる部分があれば、そこだけ拾って下さいね。

 まず信長ですが、この人の欠点と言えば、気性や性格だったでしょう。小さい頃から負けず嫌いで、人を見下すことによってしか自我を保てない人だったと思われます。それは大人になっても続き、自分より強そうな信玄や謙信に...続きを読む

Q宮本武蔵と柳生十兵衛は歴史上、実際に剣を交えた事があったのでしょうか?

皆様どうもこんにちは。
つい先日、映画「魔界転生」が上映開始されその数日前に20年程前の旧作「魔界転生(沢田研二と千葉真一出演)」が深夜TV放映されていました。
この中で柳生十兵衛と宮本武蔵は闘っていました。
数年前にも正月長時間時代劇ドラマで「宮本武蔵」がTV東京系で放映され、その中でも北大路欣也扮する「宮本武蔵」と藤岡弘扮する「柳生十兵衛」が闘っています。
どちらも単なる娯楽作品中での戦闘ですが、ただ単純に「この2人は歴史上実際に剣を交えた、もしくは何かしらの接触や接点があったのだろうか?」と素朴な疑問を持ちました。
年代的にも同時代の人物の様ですし、共に歴史に名を残す剣豪で何かしらの接点があったのではないかと思ってしまうのですが、歴史には疎い者でして、そこらへんについて詳しい方が居られましたらば、「宮本武蔵」と「柳生十兵衛三厳(柳生一族全般)」についての歴史的関係等を御教授頂ければ幸いでございます。
何卒宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

時代小説や時代劇は同年代に生きた人(有名人)に接点を無理矢理作って話をおもしろくしてるだけです。
実際に二人にはほぼまったく接点はありません。(史料上)
十兵衛の実像すらはっきりわかっていないのです。
こういった謎の人物ほど小説に登場しやすいのです。なぜなら好き勝手に想像で書けるから。

Q泉岳寺と徳川家康について

泉岳寺は徳川家康が創建したことで有名ですが、徳川家康が創建した寺院で他に知られている寺がありましたら、教えてください。

その他、関連情報もありましたらお願いします。

Aベストアンサー

景徳院http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E5%BE%B3%E9%99%A2
有名なのは武田ファンに有名な武田勝頼の菩提を弔う為に創建した景徳院です。
武田滅亡の後、領民、旧臣の人心掌握の意味もあったのかもしれませんが秀吉に対して行った豊国神社の神号:豊国大明神を廃したりしたのとは対照的扱いです。

大光院
徳川家康が新田一族の世良田・得川氏の後裔と称した為、
幕府開いた後に新田義重を祀る為に創建。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%85%89%E9%99%A2


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