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私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

A 回答 (81件中71~80件)

しまった。

すみません。
×ピュティス

ピュシスです!
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1535655.html
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ピュシスが自然でノモスは法律・慣習ですか。
動物なんかだとビュシスだけでいけそうですが、人間は厄介ですね。
本能の壊れた動物と評した人がいましたが、このあたりも関係してくるのかもしれません。
 

お礼日時:2009/04/02 15:26

 hakobuluさん こんばんは。


 ★ 少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さ
 ☆ について 今村仁司が 《第三項排除》の理論として述べているところを 勝手に 脚色して 紹介してみます。

 まづ 《承認欲望》が 人にはあると言います。
 人は 存在として・つまりは存在の関係として 社会的である。しかも主観としては 独立した歴史知性であるゆえ 自由な関係を希求する。さらにしかも その自由への変身を まちがって追い求める傾向があると。

 独立主観であっても 初めに基本的に 関係的な存在であるからには 互いによる承認を喜ばしいものとして受け取る。そのとき ややもすると この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つのだそうです。
 この承認欲望がおのれの身にはたらくと 《みんなと同じでありたい願望》=《模倣欲望》を持つ。そしておそらく この模倣が世の中全般に行き届いた段階でも その一様性あるいは同じ歌の合唱という情況だけでは まだ 相互の承認が 完成したとは見なされない。
 そこでさらには 一定の基準を持とうとし 基準というものをこしらえる。この誰にも共通の基準となるものが 《第三項》である。

 第三項とは みんなから隅へ追いやられるものである。その一定の輪の境界にまで押し遣られ 必ずしも当事者どうしではなくなるという意味で 第三項と称される。このとき 一定の単位社会は 《一》対《他の皆》という構図をつくるようになる。さらには 一般にこの《他の皆》は 第三項として隅に追いやられた者を たしかに 《除け者》として扱うようになる。
 このように 第三項を 皆で排除する構造が出来て初めて 互いの承認が実現し 人びとは 安心して安定した《仲良し》状態とその社会的な《秩序》を楽しむことができると言います。
 このような傾向を 人類は 悲しいかな 残念なことに 持っているのだと。
 《いじめ》論でもありますね。
 『排除の構造――力の一般経済序説』1992です。

 もっとも そもそもにおいて 自由を見ていたように その自由への変身をも説いています。それは 第三項やあるいは《異者》の 受容をとおして わたしたちは獲得することができるとも言います。
 また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。

 排除された第三項は 歴史的に キリスト・イエスであるとも言い あるいは 資本主義社会における貨幣のことであるとも 論じていたはづです。
 〔第三項は それが いわば見事な排除であった場合には 排除し切ったあとで ぎゃくに それを 聖化すると言います。呪われたかのような除け者を いわゆる生け贄と見なし それに 聖性を付与する。したがって 今度は 聖なる第三項を みなで あがめるという体制を敷く。このことを通して あらためて 秩序と安寧をたしかなものにするのだそうです。そういう仲好し倶楽部なのでしょうね。ですから そこでは はっきりした敵が出来たなら 戦争にまでも 容易に 発展させることができる。うんぬんと〕。

 ★ 「排他を発揮しなくとも生きることができる」
 ☆ までの議論には到っていませんが その情況への過程として この理論に従えば まづは 《第三項ないし異者 の受容》を みづからの生活における態度や実践として かかげる。言論活動として そしてその言論内容の実現に向けて 踏み出すことが 求められるということのようです。

 つまりは 話し合いということに帰着するようなのですが どうなのでしょう?

 * ここでは 強い批判をともなっての対話は むつかしいようです。と実感しました。それは 規約の問題であるよりも 対面ではないという条件 したがって 対話において批判を実行するときに必要な信頼関係を築くのがむつかしい といった事由であるようです。

この回答への補足

どうも、こんばんは。
ご回答ありがとうございます。

難しい本を読んでますねえ。
前半の論理展開などはほとんど理解できませんでした。
あ~、いやだいやだ。^^:
でも、
> この承認を 自分から 追い求めて行く傾向を持つのだそうです。
>このような傾向を 人類は 悲しいかな 残念なことに 持っている
:このへんのことはわかりますね、一応。
なぜそうなのかも知りたいですが。

> また 模倣欲望を実行している最終の過程で 《流行》現象の反面には起こると思われるように 《みんなと違いたい願望》が 同時にこれも はたらいてくれるとよいとも考えられています。
:なぜ「よい」のかが、よくわかりませんでした。

> 排除された第三項は 歴史的に キリスト・イエスであるとも言い
:ここはなんとなくわかりそうな気もします。
> あるいは 資本主義社会における貨幣のことである
:このへんになると私には難しいで寸ね。

>まづは 《第三項ないし異者 の受容》を みづからの生活における態度や実践として かかげる。言論活動として そしてその言論内容の実現に向けて 踏み出すことが 求められるということのようです。
:そうですね。
ですが、人間は納得できなければ踏み出しても長続きはしないでしょう。
私たちが素直に納得できるような哲学的論理はないものでしょうか。
イジメ論ということで言えば、「排斥、あるいは支配」というのがその本質だろうと思っています。
2年ほど前、拙ログにも記しているのですが、その心は、他者の中に異質を捏造することによって自己アイデンティティを確立しようとする。
です。
つまり、《第三項ないし異者 の排他(排斥)》が、ある個人においてはもはや必然であるわけでしょう。

補足日時:2009/04/02 20:06
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この回答へのお礼

(つづき)
ここに至って、もはや、
「かかげる」
ではなく、
「かかげざるを得ない」
哲学はないものでしょうか。

>つまりは 話し合いということに帰着するようなのですが どうなのでしょう?
:一手法であるとは思うのですが、なにしろ、話し合うにも土台作りは必要です。
しかも、本物の話合いをしようとするのであれば、その土台作り自体に本質が含まれているはずで「>(話し合うことに)帰着する」とまでは感じていません。

>ここでは 強い批判をともなっての対話は むつかしいようです。
:批判と批難を混同されてる方が多いように見受けられましたね。
基本的にbragelonne さんのおっしゃっていることは正しいと思います。
ただ、【せっかち】すぎますね。
結論を急ぎすぎます。
人は自発的つまり主体的アプローチを経なければ納得しませんから、その分のゆとりというか遊びを見越しておく必要はあるのではないでしょうか。
偉そうなこと言える立場ではありませんが、ほんのつまらぬおみやげです。
 

お礼日時:2009/04/02 20:05

こんばんはhakobuluさん


今回はいつもの私と違う感じの思想を。
wikipediaからの引用ばかりで申し訳ないですが

進化論。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E5%8C%96% …

ちょうど今日はピュティスとノモスについて考えることになったけど
自然は偉大だなぁと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6

アダムスミスの道徳感情論と見えざる手
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%80% …

力への意志
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%9B%E3%81%B8% …

レジスタンス運動
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B8% …

もちろん、武力による争いはまずいけど
血を流さなくて済む、言論によって
解決できるなら。

言論の自由
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AB%96% …
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この回答へのお礼

どうも、こんにちは。
ご回答ありがとうございます。

ちらちらとだけですがURL 拝見しました。
どれも面白そうですね。
そのうちじっくり読んでみたいと思います。

>もちろん、武力による争いはまずいけど
:もちろん、いじめは良くないけれど、
もちろん、殺人は良くないけれど、
もちろん、排他は良くないけれど、
・・・・・。

みんな知っているのにできていないわけですよね。
なぜか、ということと同時に、
もちろん、というのなら、どのようにすれば実現できるようになるのか、それを知りたいと思い質問させていただきました。
 

お礼日時:2009/04/02 15:20

>>洗脳する手段に有効とされるのが暴力や恐怖を使うこと、道徳を使うこと。

そして新たな価値観を植えつけることですね。それだから宗教は広まるのですね。
>:たしかに有効かもしれません。
ただ、あくまで対症療法のような気もしますが。

加害者が被害者に対して「このぐらいのことをしてやるから恩義に着ろ」となったら誰でも反発しますよね。被害者側が立ち直るのに必要な額面を明示してから交渉となるのが一般的です。

新たな価値観を植えつける以前に確実に決定的ものを書き損じていました。【無意味なことを延々やらせる】
こうすることで矛盾や苦痛に対して忍耐力(?)がつきます。苦痛から逃れるというだけで解決されたかのような幸福感が得られます。既成の常識や理想としていた判断力を失わせるのです。

判断力(主体性)がない状態となれば能動的に動くことが出来なくなります。なので新たな価値観を導入しやすくなるのです。子供が我侭なのは不安や不満を回避するために甘えを実行しているだけなのですが、洗脳された人は甘えないことが楽な甘えとなって洗脳は対処程度のものもあれば自己正当化の目的になってしまい根治療法(それが健全である状態)とまでなるケースもあると思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>加害者が被害者に対して「このぐらいのことをしてやるから恩義に着ろ」となったら誰でも反発しますよね。
:この場合の「加害者と被害者」が何を意図しているのか、私自身よく理解できていないような気もするのですが、とりあえずそういうことは言えるでしょうね。

>こうすることで矛盾や苦痛に対して忍耐力(?)がつきます。苦痛から逃れるというだけで解決されたかのような幸福感が得られます。既成の常識や理想としていた判断力を失わせるのです。
:「>新たな価値観」は、本人が納得しないと身にはつかないような気がしますけどね。
その意味で、

>判断力(主体性)がない状態となれば能動的に動くことが出来なくなります。なので新たな価値観を導入しやすくなるのです。
:というのは誤った見解ではないでしょうか。

お礼日時:2009/04/02 15:10

あらゆる一体化をやめるしかないんじゃないでしょうか。



私は日本人です。
私は白人です。
私は○〇会社の社員です。
私は仏教徒です。

などなど、

すべての一体化をやめたら私は何者にも属さないので排他する理由がなくなるんじゃないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>すべての一体化をやめたら私は何者にも属さないので排他する理由がなくなるんじゃないでしょうか。
:なるほど。
明快ですね。
そうすると、
なぜ、所属するようになっていたり、あるいは所属したがるのだろうか、という視点からアプローチするのも面白いかもしれませんね。
 

お礼日時:2009/04/02 14:54

そういえば最近街角でナンパされたけど相手にせず無視したら


男が女性の顔を切りつけたという事件があった。
無視は排除だからイチャモンつけたという感じなんだろうか。
思考回路がなんか似てない?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>無視は排除だからイチャモンつけた
:「ナンパする男を排除(無視)することには正当性が無い」と感じたわけでしょうね。

>思考回路がなんか似てない?
:読み返してみると、そのようなニュアンスに取られかねない表現だったかもしれませんね。

「この当然のこと(自分を守ること)をしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。」
と書きましたが、自分を守ることの正当性を否定しているわけではありません。
「互いの利益がぶつかり合う関係」とも書きましたが、「明らかに正当性が無い利益」については考慮していませんでした。

しかし、正当性があると思ってしまうその人は実にかわいそうな方ですよね。
 

お礼日時:2009/04/02 14:50

http://blog.livedoor.jp/elladan/archives/5113761 …

これかなぁ と思うんですけど。

<残された道は、プラグマティックな目標に焦点を絞ることだ。
その目標とは、戦争を回避し、苦痛を軽減し、残酷で圧制的な体制のドアを開き、前向きの変革をもたらすことである。
多くの場合それは、権力を掌握している者がどれほど嫌な相手であろうと、私たちが対話を厭わない時にのみ可能となる。
対話を厭わない気持ちのみが、私たちに妥協の余地を見出させる>


で、現実は、何度話しても平行線を辿るので、対話しても無理だってなる。
「もう 話は終わり。いくらやっても不毛だから無理だ」ってなる。

私は人と対話して、平行線をいつまでも辿った場合、「まあ いいか」って身を引く。

打っても鈍い反応しかしないとか、対話にならない、とか、どういう言葉なら相手が理解するか私の能力じゃわからん、とかなったら、撤退する。

で、多勢の無勢なら、たとえ「それ失敗するよ」と思っても、もう口出ししない。
実際やらせる。
そして相手が失敗して心の中で、「だーかーら 言ったでしょ」と思っても、言わない。

本人が自分の考えは間違いだったと経験したわけだから 言う必要がもう無いから。


で、また性懲りも無く同じことをしようとしたら、なるだけ目をそらし、イライラしないようにする努力をする。

要するに無視なわけですが、これもダメ?
排除に入ります?
礼儀的な無視は、排除とは違うと思うんですけど。


囚われすぎない心って、健全だと思うんですね。
といっても 某宗教信者と取っ組み合いの喧嘩とかしますが、打てば響く相手の場合、好戦だと思ってやりあいます。
ボケボケな返事する信者は、目的がなければ無視する。
だってそいつ相手にエネルギー使うの勿体ないし、建設的な戦いじゃないから疲れ損なんですもの。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>残された道は、プラグマティックな目標に焦点を絞ることだ。
:ここですよねえ。

>対話を厭わない気持ちのみが、私たちに妥協の余地を見出させる。
:カーターさんのおっしゃるとおりですよね。
この点についてはみなさんの見解も大差無いかと思われますが、どうすれば「>対話を厭わない気持ち」になれるのか、ということになりそうです。

>で、現実は、何度話しても平行線を辿るので、対話しても無理だってなる。
「もう 話は終わり。いくらやっても不毛だから無理だ」ってなる。
:そうなりがちです。
>私は人と対話して、平行線をいつまでも辿った場合、「まあ いいか」って身を引く。
:これもひとつの手法ですね。
対話を拒否するということではなく、時宜を変えてみる、といったようなことになるのでしょう。

>礼儀的な無視は、排除とは違うと思うんですけど。
:確かにそれは必然性として大いにあり得ると思います。
ただ、礼儀と慇懃無礼が似て非なるものであるのと同様、礼儀という仮面をかぶった無視もあるにはあるわけで、難しいところですね。

>囚われすぎない心って、健全だと思うんですね。
:同感です。
ただ、固執すべきとこで固執しないと伝わらない、見えてこないものもまたあるような気はします。
その兼ね合いが難しいのかもしれません。
 

お礼日時:2009/04/02 14:37

こんばんはー。


ちょっと考えてみました。
排他、と言うときに書いておられる、カテゴリー分けのような物ーレッテルや、固定観念、仮面、ペルソナなどは、主体的に扱う限り排他的ではないと思います。
流されれば、当然排他的になります。
排他、とは、恐怖が土台にあり、そのため、自分の意志でやっているようで、実は受動的だと思います。
概念は、ただの概念です。包丁と同じで使いようだと思います。
ーーこれは理想論というか、目標というか、ある極論として、成立する、というはなしです。

排他の逆は、主体性、とも表現できると思います。
恐怖ー排他において、幽霊の正体見たり枯れ尾花、と気付くには、ちょっとでいいので勇気出して主体的に確かめる必要があります。自分の固定観念に固まらずに、全く自由な視点で捉える、そういう作業です。
そうすれば、幽霊怖いーと言ってのけ者にする必要もなくなる、と思います、理屈上。

ただ、もっとも正確には、たどり着きたいゴールは、受動でも能動でもない状態、と思います。
概念が分裂する以前の高い集中状態=自他肯定状態、という意味です。

あんまり上手くない説明で済みませんが。ニュアンスだけ伝われば・・・
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この回答へのお礼

どうも、こんばんは。
ご回答ありがとうございます。

>排他、と言うときに書いておられる、カテゴリー分けのような物ーレッテルや、固定観念、仮面、ペルソナなどは、主体的に扱う限り排他的ではないと思います。
流されれば、当然排他的になります。
:この部分の意味がよくわからなかったのですが、少し噛み砕いていただけると有難いと思います。

>排他、とは、恐怖が土台にあり、そのため、自分の意志でやっているようで、実は受動的だと思います。
:おっしゃるとおり無意識的な言動なんですよね。
それゆえ根も深いということになりそうです。

>ちょっとでいいので勇気出して主体的に確かめる必要があります。
自分の固定観念に固まらずに、全く自由な視点で捉える、そういう作業です。
:同感です。
「>固定観念」から抜け出せないのも怖れがその根底にあるわけですしね。
どのように考えれば「>ちょっとでいいので勇気」が出る一助になると思われますか?

>ただ、もっとも正確には、たどり着きたいゴールは、受動でも能動でもない状態、と思います。
概念が分裂する以前の高い集中状態=自他肯定状態、という意味です。
:お手数おかけしますが、差し支えなければ、ここももう少し噛み砕いていただけないでしょうか。 
 

お礼日時:2009/04/01 20:20

 ものの見方が狭い印象を受けます。


>「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?
 
 生きるとは、単に「排他」でもなく、「排他を発揮しない」ことでもありません。「排他」の消極的な面にばかり目を向けず、積極的な面もあることを考えてください。人間世界とは、1個人の主観性ばかりでなく、間主観性によって成立していることを忘れないでください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> 生きるとは、単に「排他」でもなく、「排他を発揮しない」ことでもありません。
:ということは、「どちらかである」ということですよね。
そのうち「排他を発揮しない」ことについて、少し考えてみたいと思ったわけです。
私たちは、「排他が当たり前」「排他も止むを得ない」という諦念に流されているようなところはないでしょうかね。
 
>人間世界とは、1個人の主観性ばかりでなく、間主観性によって成立していることを忘れないでください。
:事実はそうでしょうが、事実と真理とは別物でしょう。
 

お礼日時:2009/04/01 19:31

排他性は本能に基づく原初的にある人間の本質です。


使命感とか努力以前に獲得された既成概念で、「既成」といっても量販店で出来上がった服を選ぶようなものではなく、生活を通じて次第に形成されて来たという意味になります。

価値観が多様化したことでお互いを啓発し合うこともあって、性欲とか恋愛感情がその例ですが、所詮は一時的な衝動(目的)に過ぎず、トルストイが言うには欺瞞と妥協の所産なのだそう。

排他性は共同倫理が崩壊しているということにもなりますが、規制の価値観を削除、つまり洗脳ですが、洗脳する手段に有効とされるのが暴力や恐怖を使うこと、道徳を使うこと。そして新たな価値観を植えつけることですね。それだから宗教は広まるのですね。

次善策としては価値観を無理矢理合致させることを放棄すること。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>排他性は本能に基づく原初的にある人間の本質です。
:そこが難しいところですよね。

>性欲とか恋愛感情がその例ですが、所詮は一時的な衝動(目的)に過ぎず、トルストイが言うには欺瞞と妥協の所産なのだそう。
:トルストイさんはそんなことを言っているのですか。
それだけじゃない何かが伴っているかどうか、が大事になってくるのでしょう。

>洗脳する手段に有効とされるのが暴力や恐怖を使うこと、道徳を使うこと。そして新たな価値観を植えつけることですね。それだから宗教は広まるのですね。
:たしかに有効かもしれません。
ただ、あくまで対症療法のような気もしますが。

>次善策としては価値観を無理矢理合致させることを放棄すること。
:どの程度で「>無理矢理」と感じるのか、という点も難しいところなんでしょうね。
 

お礼日時:2009/04/01 19:24

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