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私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

A 回答 (81件中31~40件)

動物だと「種」で行動パターンが決まっております。

で生活スタイルの違う別種を排除しようという生活様式になります。しかし人間はただ一種なのに、生活様式は非常に段階バリエーション豊富で、これが排他の根本にありますね。なので本能的には極自然な状態ではないかなと
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>人間はただ一種なのに、生活様式は非常に段階バリエーション豊富で、これが排他の根本にありますね。
:なるほど。
そういう見方もできますか。
同種の動物でも排他はありそうですが、文明が人間をより排他的にしてきたのかもしれませんね。

>本能的には極自然な状態
:ということもわかります。
そうなると、段階バレーション豊富にできたのは本能以外の一種の能力だろうと思うのですが、この能力の片面の開発に留意していければいいかもしれませんね。
 

お礼日時:2009/04/03 20:20

hakobuluさんは哲学が非情なもの、不条理なものいいに感じてきている?



心理学は直接的に観察、統計したり演繹する学問に対して、哲学は主に直観を含めて思考実験による理想や逆説を述べることが多いので、哲学の専門家であっても実証が難しいのです。体系として確立された理論もあまりないらしく。

「子供に言葉によって物を教えても間違った観念(観念は言語とともに現われるものだから)で覚えてしまうので、猫のしつけと同じく必ず経験から学ばせるようにする(ルソー)」「」「望まれるのは行動です(師匠)」というように自分が教育者となるか生徒になって共に体験しなければ殆ど仮説の粋を超えない空論です。

>互いの利益がぶつかり合う関係であっても排他を発揮しなくとも生きられる哲学とは?

「スピノザの世界」からの引用、エチカ第4部定理を要約したものでは

「徳を欲して自己の利益を追求するなら、何の問題もなく欲する徳(善)を他の人々のためにも欲するだろう。問題は妬みや憎しみに妨げられて、そうしようとしないところから生じる」

問題は利益というのが徳ではなく、潤う得を誰でも欲するところですよね。
徳は損する、見返らないイメージがあることですね。
ましてや現実の生活が一杯いっぱいな、優雅に振れる袖もない者にとっては、花より団子欲しい。

武士道に出てきた徳にどんなものがあるか並べてみます。
・平常心(運命に服従する)
・勇猛(勇者にとって知的な教義、遊戯に過ぎない陽気な側面もある)
・我慢
・主君に対する忠節・祖先に対する崇拝・親に対する孝行
・道徳の手段としての智恵
・仁(良き友とする価値のあるものを敵とする勇気)
   ↑ライオンの子育てみたいなもの?
・誠実、正直(所徳の中で一番幼いそう)

あぁ、ここまで調べましたが、武士道には一杯“徳”な説明があったけどどれもストイックですね。
徳や善について私が質問したいぐらいですが、今、それどころじゃない問題が山積みで、しばらく書き込めません。
もっと良い回答が届きますよう~。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>哲学が非情なもの、不条理なものいいに感じてきている?
:いえいえ、そんなことは全くありませんよ。
どうして?^^:

>自分が教育者となるか生徒になって共に体験しなければ殆ど仮説の粋を超えない空論です。
:なるほど。
でも、(ほとんど読んだことありませんが)哲学書など読むのは面白そうです。
miko-desi さんはたくさん読んでいるほうじゃないかと思いますけど、有意義なことも多いでしょうね。

>「徳を欲して自己の利益を追求するなら、何の問題もなく欲する徳(善)を他の人々のためにも欲するだろう。問題は妬みや憎しみに妨げられて、そうしようとしないところから生じる」
:わかりやすくて、良い箴言になってますね。
色紙にできそう。
徳だけじゃ生きていけないのが悩ましいところなんでしょうね。

>徳は損する、見返らないイメージがあることですね。
:#29さんもおっっしゃってましたが、それはあるようです。
自分が自分に納得させられるといいのでしょうけどね。
宗教とかじゃなく。

>ましてや現実の生活が一杯いっぱいな、優雅に振れる袖もない者にとっては、花より団子欲しい。
:同感です。

>・主君に対する忠節・祖先に対する崇拝・親に対する孝行
:私には殆んど欠けています。(-_-;)

>・仁(良き友とする価値のあるものを敵とする勇気)
:自分にとって良い友でも、信義的に問題があれば対決する勇気、といったようなことなんですかね?
>↑ライオンの子育てみたいなもの?
:自分にとってかわいい子供でも、大自然の掟のためには突き落とす、という意味で?
「>みたいなもの」と言えば「みたいなもの」かもしれませんね。^^;

>武士道には一杯“徳”な説明があったけどどれもストイックですね。
:何しろ三島由紀夫ですからね。
()内の説明がどれもどても面白かったです。
端折らないで書いてくれてありがとうございました。

>徳や善について私が質問したいぐらいですが、今、それどころじゃない問題が山積みで、しばらく書き込めません。
:わかりました。
この質問ともなにか共通点があるかもしれませんね。

>もっと良い回答が届きますよう~。
:そんな~。^^;
十分良い回答ばかりですよ。
理解力不足でご迷惑ばかりおかけしているところです。
 

お礼日時:2009/04/03 23:33

#28です。


質問者さんの認識に概ね賛成です。ただし、

>私の考えるところは、均質性を求めているものではなく、程度の低い異質性にこだわることを無くしていくことが、おっしゃるところの「>前よりより複雑で豊富な存在形態に移行」できる、むしろ条件にさえなり得るのではないか、ということにもなりそうです。

と言うところに、私個人的には同意しきれないところがあります。不安定性を引き起こす原因は、もともとその存在にとって不愉快な事や物ですから、それに、程度が高い異質性とか、程度の低い異質性という分類が意味をなすかどうかに、一抹の不安を覚えるのです。新しい構造が出来上がるためには、ぎりぎりの、最早どうにもならない不安定点の近傍まで立ち行く必要があると言うのが、散逸構造理論の結論です。場合によっては目に余る不条理が、その後のより多様で豊富な構造の出現に必要になってくることもしばしば在るのです。

散逸構造その物は、一旦出来上がると、それが環境との成り行きで出来たと言うその理由により、暫くの間、大変安定して存在できるのです。ただしその構造が出現する過程では、不安定性が不可欠だと言っているのです。そして、多様性の寛容はその安定期に対して当てはまる事であり、その反対の、多様性への不寛容は、散逸構造が出来上がる不安定期の原動力になっていると言うことです。

ただし、こう言ってしまうと不安になりますが、自然界を見てみると、どうしてどうして、そんなに悲観する事もなさそうです。例えば、散逸構造理論のもう一つの好例として、我々人間の誰にでもやって来る思春期を思い出して下さい。この場合、個体を不安定に持ち込む要因は、個体の外部の変化ではなくて、個体の体内に起こるホルモンのバランスの変化などの肉体的変化や、成長とともに増加する知識量の変化です。それによって、本人の目の前で世の中が変わっているわけではなく、本人の世の中の見方が変わって来ているにも拘らず、それを、世の中が変化していると誤解するのが通常の反応です。若者にとっての共通した誤解は、世の中が急速に進歩していると思い込む誤解です。車に乗っている者が、自分でなくて周りの景色が動いていると誤解するようなものです。

いずれにしても、本人の内部に起こるこの変化が、その個体を不安定系へと誘導して行きます。そのとき、個体の内部での世界観や行動様式の小さな揺らぎが、その不安定性故にどんどん増幅され、信じられないような僅かな偶然による外部状況の変化で、その個体は、自分自身に途轍もなく自信をつけたり、あるいは、失望のあまり自殺したりします。このような揺らぎの増幅は、安定系では決して起こりません。思春期は、子供と言う安定期から、大人と言う新しい構造を持った安定期に移行する過程ですので、新しく、より複雑な散逸構造が出来上がるための、分岐点なのです。だからこそ、新しい構造を産み出すために思春期にいる者は、自分にとっての異質物に過剰反応を起こし、多様性に対する異常な排他性を示しているです。

くどいようですが、散逸構造の出現は本質的に偶然に支配されております。ですから、思春期の若者がどういう道筋で、どういう構造に落ち着くかは、神様でも分からないと言うのが、散逸構造の理論から示唆されます。ところが、その理由がどうしてなのかは私には判りませんが、確かに思春期には自殺等の異常な結末に至る例が他の世代よりは目立って多いのですが、それでも、その時期を無事に通過して、新しい安定した大人に成長する人の数の方が圧倒的に多いというのが、経験的な事実です。多分、私の個人的な性格によるのかもしれませんが、私は、この経験事実の重みを簡単に受け入れてしまう単純で楽観的なところがあるようですので、「散逸構造の理論によると、人間万事塞翁が馬、世の中、成り行きに任せていれば、なるようになるよ」と高を括っております。

僭越ではありますが、私は、「お前ら、もっと散逸構造の理論を勉強せい、私は塞翁が馬の現人神、あるいは権化であるぞよ」と不届きな事を物理を勉強している若者達に捲し立てております。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>不安定性を引き起こす原因は、もともとその存在にとって不愉快な事や物ですから、それに、程度が高い異質性とか、程度の低い異質性という分類が意味をなすかどうかに、一抹の不安を覚えるのです。
:「>不愉快」とは相対ではないでしょうかね。
ウィルスにとってワクチンは不愉快でしょうが、これによってウィルスは進化しますし、進化したウィルスに対抗するためにさらにワクチンも進化します。
この繰り返しによって、異質性のせめぎ合う水準が高くなるように思ったわけですが、
程度の高低は曖昧性を含みますし、とりあえず次の段階へ進むことができそう、と言い直したほうが良いかもしれませんね。

>多様性の寛容はその安定期に対して当てはまる事であり、その反対の、多様性への不寛容は、散逸構造が出来上がる不安定期の原動力になっていると言うことです。
:雨降って地固まる的なことなんでしょうね。

>若者にとっての共通した誤解は、世の中が急速に進歩していると思い込む誤解です。
:私にも一応若い頃はありましたが、たしかにそういう面はあったかもしれません。
ただ、よくも悪くもですが、文明の発達は本能性から遠ざかることになります。
本能が四つん這い、あるいは地に足をつけて歩くことだとすれば、文明の発達は(必ずしも否定的な意味ではなく)背伸びをし、思考の守備範囲を広げて行こうとするものでしょう。
思春期とは、ここに至る過渡期であり、どうしても不安定になります。
たしかに内的要因ではあるのですが、その内的要因は外部刺激によって相当の影響を受けるのが通常ではないか、と思われます。
しかし、このへんに関しては、基本的には大体同じことを言っているのかもしれませんね。

補足日時:2009/04/04 14:22
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この回答へのお礼

(つづき)
>新しい構造を産み出すために思春期にいる者は、自分にとっての異質物に過剰反応を起こし、多様性に対する異常な排他性を示してい
:ここはちょっと見解の相違がありそうです。
排他性を剥き出しにするかしないか、の違いであって、剥き出しにするぶん、性質はいいんじゃないでしょうか。
その質の内容にもよりますけれど。

>くどいようですが、散逸構造の出現は本質的に偶然に支配されております。
:はい。
ここは大変参考になったところです。

>「散逸構造の理論によると、人間万事塞翁が馬、世の中、成り行きに任せていれば、なるようになるよ」と高を括っております。
:ははあ、怖れ多いですが?私の座右の銘のひとつと同じですね。^^;
ただ、人事を尽くして天命を待つ、といったようなことに思いを馳せることも時折あります。
 

お礼日時:2009/04/04 14:22

>僭越ではありますが、私は、「お前ら、もっと散逸構造の理論を勉強せい、私は塞翁が馬の現人神、あるいは権化であるぞよ」と不届きな事を物理を勉強している若者達に捲し立てております。



始まったよ。
こういうのが一番危ない。
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この回答へのお礼

「どこが危ないのか」をさりげなく反論できるようにならなくちゃ・・・。

異論歓迎(建設的なので)
排他反対(不毛なので)
ってとこかな。

正当防衛の場合は認めるけど、今回はその必然性が無いしね。
 
 

お礼日時:2009/04/04 14:29

NO4です。


質問もらってたので、続きになります。
ちょっと質問にダイレクトな返事じゃないですが、
私が所属する集合体ー小さいのは家族から、大きいのは世界や地球全体などまであります。極論として。
で、自分はあらゆる集合体のレベルに属してる、と思うのですが、どれか一つを優先するなら、それはそういう依存心だ、と思います。別にそれが悪いという意味ではないですが。
自分にとって例えば日本の国ー国家レベルの集合体が一番本質と感じるか、地域社会か、家族か、会社か、もっと大きいのか小さいのか、いろいろあると思いますが。
こういう分類の仕組みは、階層上になって存在してると思ってます。
排他的かどうかについては、それらの概念に対して自覚があるかどうか、あるいは無意識によりどころにしてるかどうか? が、本質的な違いじゃないか、と考えてます。
自覚的であるなら、それによりどころを求めてるのでなく、精神的な自律と主体性がともない、いろんな概念は、社会がうまく回るために必要な小道具、という位置づけになります(理想論としてです)

>ちょっとでいいので勇気」が出る一助になると思われますか
これは、勇気を出す、主体性を発揮する、というのは、習慣づけ、という方向しか浮かばないですが。
癖です。
現実に対して、どう直面するか、というのは、いざというときは、普段の習慣がそのまま顔を出しますし、いきなりそもそもできないです。
一番根本的な、自分や他者への信頼をある程度分かった上で、
その上で、固定観念に寄っかかって手抜きしていた現実をちょっとずつかみ砕いていく、僕はそんなイメージを持ってます。いきなり大きなこともできないですし。
ごくごく極小小さな、そんなことは自分が今まで怖くてやってなかったんだ、とは気付かなかったようなミクロなすごく小さい怖いこと、から手をつけます。ちょっとした家具の配置を見直したりとか、そんな話しです。
それは、大きく言うと変化を恐れない、みたいなことです。(僕はまだ怖いですがもちろん)
怖いことに対して、意志の力でどんどん立ち向かう、とかではなく、そんなことしても長続きしないですし。
信じることーあるいは信念と、勇気をうまく結びつけることで、無理なく心の偏りから抜け出るイメージをーー現在鋭意努力中、ということで。
実際行動を起こす、というより、まず現実認識ー自分の本音を自覚することにしてます。
気取って言えば、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、みたいなことで。自分と戦うくらいばからしいこともないので。
個人的には、この手の分析では、学問的には心理学が一番で、それに宗教哲学を混ぜてます。頼らずに参考にするなら、です。

>概念が分裂する以前の高い集中状態
これは持論ですし、他の人が皆うなずいてるわけじゃないですが。
主体的に怖い物を確かめる、と書いたんですが、そんなしんどいことは長続きしません。ちょっとならできますが。だから癖にしよう、ということですが、
一心不乱に集中してる状態ーー起きて活動してるとき、ものすごく本気でやりたいことがあって、そういう日常を過ごしてる場合、極論として、その時は「自分」は存在しません。「感情」もありません。
瞬間最大風速としてなら僕も経験あるのですが、そこから推論して、人生すごく輝いてる人って、人生全部をある目的に使用してもかまわない、と判断した人のことですが、
人生の一定期間一週間とかを目的のために使うか、人生全体か、過去も未来も全部使いたいか、などのスパンによって、こちら側の人格が変化し、発想、感性が変化する、と考えてます。
無意識レベルの集中が強い人、と言ってます。
何かをやる、ということに集中してる人は、それにそれこそ腹の底から集中してるので、自分のことを考えたり、あるいは、喜怒哀楽を催したりする暇がありません(と想像します)

で、そういう精神集中と人格のレベルの人にとっては、主体的ーというか、能動的な感覚と、受動的な感覚は一致してます。
それは、やろうと思えば勝手にやってる状態であって、意志を使うわけでもなく、盲目的でもない状態、と言って解ってもらえるか自信ないですが。
レベルが下がりますが、普通の話しだと、帰宅時に玄関の鍵を特別なにも考えずに開けるとき、それは能動的でしょうか?受動的だろうか? と考えると、これは両方が混じってる、と思われないでしょうか?
それは癖になってるので、もちろん扉開けようと思って開けてますが、その意味では能動的ですが、でもごちゃごちゃ考えてやるわけではなく、自然に、ある意味癖でさらっと、受け身、と言っていいか迷いますが、受動的に開けてます。そこに鍵があるから開ける、と言うようなイメージもあります。
僕はこのレベルでもちろん生活全体が回るわけではないですが、深い意味で目的意識のある人は、現実、このレベルで生活全体を回してますーーこれも極論としてですが。

その集中は、意志による物ではなく、自分と自分を取り巻く環境の組み合わせによって発生する、無意識レベルの人生に対するーー主観的な時間と空間を使用することに対してのー高い自然な集中状態、と考えてます。というか想像してます。
上の鍵の例とかの、低いレベルでは、誰でも経験することなんですが。
暗示、催眠、自己洗脳など、最近はアメリカを中心に、主に軍事方面の要請で、ずいぶん発達したそうです。
僕はこういうんは気持ち悪いイメージがあったのですが、もう怖がってる時代じゃなく、技術として使う時代がもう来てる、と思ってます。
固定観念に依存することを選択するのが催眠、洗脳です(催眠も洗脳も、すべて自分でかかろうと選択するからこそかかるのだ、暗示は、すべてが自己暗示だ、というのは専門家の意見だそうです)

間違った宗教や、主義、テロなど、暗示や洗脳が使われる場面は多いですが、それを技術として理解し、人にかけられる前に、自分らが使用する技術にすべきだ、と、主張している人も居ますが、基本同意してます。
と言ってごりごり勉強する気はさらさら無いですが。
概念も技術も、無かったことにする、と言うわけにはいかないですし。
頭に浮かんだまま書いたので、話の内容があまり論理的でもなく順不同ですが、こんなんでいいでしょうか?
かみ砕けてます?
漠然と考えてることを言葉に起こしたので、なんなんですが。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>排他的かどうかについては、それらの概念に対して自覚があるかどうか、あるいは無意識によりどころにしてるかどうか? が、本質的な違いじゃないか、と考えてます。
自覚的であるなら、それによりどころを求めてるのでなく、精神的な自律と主体性がともない、いろんな概念は、社会がうまく回るために必要な小道具、という位置づけになります(理想論としてです)
:なるほど。
「>無意識によりどころにしてるかどうか?」
ここが分かれ目ですか。
なかなかしっくりとくるご見解です。

依存しているという事実に気付いているかどうか、ということですね。
気付いていれば、全面的依存に流れて自己を見失ったり、依存対象を失うまいとして無闇に排他に走る可能性も少なくなる。
このように解釈しました。
少し違うのかな・・・。

具体的手法としては、
>勇気を出す、主体性を発揮する、というのは、習慣づけ、という方向しか浮かばないですが。
癖です。
:たしかに習慣として身につくことは重要でしょうね。
習慣づけのためのモチベーションがネックになってきます。

>固定観念に寄っかかって手抜きしていた現実をちょっとずつかみ砕いていく、
:これもうまい表現ですね。
寄っかかることの不都合に対する気付きや、噛み砕いていくことによって新たな地平が見えてくるのだ、と確信させてくれるような契機なり、言辞が求められるようです。

>それは、大きく言うと変化を恐れない、みたいなことです。
:大いに同感です。

補足日時:2009/04/04 20:07
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この回答へのお礼

(つづき)
>信じることーあるいは信念と、勇気をうまく結びつけることで、無理なく心の偏りから抜け出るイメージをーー現在鋭意努力中、ということで。
:この場合の信念に対する変化も怖れないようになりたいものですが、難しいかもしれませんね。
信念は自信にも結びつくわけですが、自信を持ちながらも変革を怖れない、ということになるでしょうか。
信念によって何を求めているのか、ということも検証課題として浮かび上がってくるような気もしてきました。

>実際行動を起こす、というより、まず現実認識ー自分の本音を自覚することにしてます。
気取って言えば、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、みたいなことで。自分と戦うくらいばからしいこともないので。
:このへんはクールですね。
行動によってしか得られない反応なり真実もあるかもしれませんけどね。

>人生の一定期間一週間とかを目的のために使うか、人生全体か、過去も未来も全部使いたいか、などのスパンによって、こちら側の人格が変化し、発想、感性が変化する、と考えてます。
無意識レベルの集中が強い人、と言ってます。
:方法論だったわけですか。
非常にわかりやすくて、有効な考え方ですね。
大変参考になりました。
その【目的】が何か、ということになるのでしょうね。

>その集中は、意志による物ではなく、自分と自分を取り巻く環境の組み合わせによって発生する、無意識レベルの人生に対するーー主観的な時間と空間を使用することに対してのー高い自然な集中状態、と考えてます。
:う~む・・・(-_-;)。
なるほど。
瞑想か何かされていらっしゃるような気もしてきました。

>こんなんでいいでしょうか?
かみ砕けてます?
:おかげさまで、おっしゃることの意図が一応理解できたように思います。
懇切丁寧に解説していただきありがとうございました。
 

お礼日時:2009/04/04 20:07

#33です。



>:ははあ、怖れ多いですが?私の座右の銘のひとつと同じですね。^^;
ただ、人事を尽くして天命を待つ、といったようなことに思いを馳せることも時折あります。

ななな、なんと、この両方の至言に関して、全くの同意見とは。私も、両方とも座右の銘にして居ります。や~~驚き々き、人生の極致に到達したのは、南方熊楠大明神の言を借りれば、我を金粟王如来にも比すべきに、その域に達せし如来がこの地球上に他にも居られたとは。朋有り遠方より来たる、亦た楽しからずや、の心境です。

どの文化や文明にも、似たような金言や逸話があるものですが、南方大明神に言わせると、塞翁が馬系統の話は西洋には無いそうです。実は、私は前に触れた散逸構造の理論の生みの親、プリゴジン教授とお会いしたことがあり、教授に塞翁が馬の話を紹介したことがあります。教授は「中々面白い話だ。だけど、その話は人生の入門編だね」とおっしゃいました。そして、なるほど、とまた教わってしまいました。

 幾春秋 分岐分岐を掻い潜り やっと辿り来し 山の入り口

や~~~目出度い目出度い
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「中々面白い話だ。だけど、その話は人生の入門編だね」とおっしゃいました。
:ははあ、入門編ですか。
裏を返せばそれだけ普遍性のある諺だったわけですね。
安心しました。
いや~良かった良かった。

楽しいエピソードありがとうございました。
 
 

お礼日時:2009/04/04 23:38

その二つの座右の銘が


散逸構造理論のほころびを予見していたりして。
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この回答へのお礼

ご迷答ありがとうございます。

そこは、ほら入門編だからどうしても柔軟というだけだよね。
コンピュータより風呂敷のほうが応用利くのと同じじゃないかな。
適時適用していけばいいだけ。
  

お礼日時:2009/04/04 23:45

またまた#33です。



目出度ついでに、僭越ながら金粟王如来ジュニアの正確な座右の銘を紹介させて頂きます。

さいおうがむまいことなどおこりしは あとからうしがくるとおもへや

むまのあとうしがくるかとおもいしに わがいきざまにしかがくるなり

始めの一首は江戸時代から伝わる狂歌です。後のは、金粟王如来ジュニアの返歌です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

金粟王如来ジュニアさんも、なかなかのしゃれ者ですね。
いや、お見事。

むまのあときたりししかもまねきいれ うしないしものなどかたりあかさむ
金棒猿悟空

お礼日時:2009/04/05 00:05

たしかに、物語は終わったので


めでたしめでたしなんですが
彼女の物語には、もう一つの結末があるので
一応、それを伝えにきました。
色々ここが違うとか言いたいこともあるのですが
まずは「ありがとう」
詳しいことは、語るとえっらく長くなってしまう女性に
きいてください。それに、個人的にまた以前のような文章が見たいから。


前回は多分これで、

「Air/まごころを、君に」


今回はこれです

「世界の中心でアイを叫んだけもの」



後、いつもおかしなこと言ってすみません。
散逸構造の理論の入門書があれば、よかったら教えてください。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

>後、いつもおかしなこと言ってすみません。
:これは私に対しての発言ではないんですよね。
そんなこと思ったことないですし・・・。
それに「>いつも」というほどお話したこともないはずですし・・・。
いずれにせよ、これからもよろしく。
 
 
  

お礼日時:2009/04/05 13:35

  No.30&19&10です。



 ★ (No.30補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 過去の(ふがいない)自分に復讐し、つまり精算行為であり、自己アイデンティティ確立の一環なのではないか、ということです。
 「いじめ続ける」目的で自分の手元に引き付けておく、支配としてのいじめの構図があると思います。
 これは支配の場合ですが、排斥の場合においても生育環境によって、その必要性に自ら駆り立てられるのではないかと考えます。
 よって、
   >それが 明確に現われるのは やはりおそらく 一定の社会全体に 支配構造が形作られたあとではないか
 :というご見解については、もう少し勉強してみてからというふうに思っています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 了解しました。

 ただし
 ★ 「いじめ続ける」目的で自分の手元に引き付けておく、支配としてのいじめの構図があると思います。
 ☆ という構図は 集団においての《クーデターによる首のすげ替え》問題として わたしが 物理的な力による制圧にかんしては 扱いませんと申し上げた事態です。

 ★ せっかち
 ☆ と言われるとすれば 伸びてしまったそばは あまり好きくありませんとお答えします。偶然の理論によって 偶然のもたらす新しい秩序の再形成が過程されるのではなく 自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行すると考えます。
 それでは。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

> ☆ という構図は 集団においての《クーデターによる首のすげ替え》問題として わたしが 物理的な力による制圧にかんしては 扱いませんと申し上げた事態です。
:あ、そういう事態の範疇に含まれるわけですね。
わかりました。
ご指摘いただきありがとうございました。

> ★ せっかち
 ☆ と言われるとすれば 伸びてしまったそばは あまり好きくありませんとお答えします。
:余計なこと言ったのにご丁寧に応じていただき感謝します。
私も伸びたそばは好きくありません。
そばは毎日のように湯がいて食べています。
今日も食べました。
面倒なので2、3日分ぐらいまとめて湯がいてしまうのですが、湯がきたてのそばはいくら水を切っても麺の間に水気が残ってしまい、そばつゆ本来の味が堪能しづらいようです。
伸びる伸びないの話とは違うのですが、湯がいた翌日とかに食べるそばのほうが腰もあるような気がして好みです。

>偶然のもたらす新しい秩序の再形成が過程されるのではなく 自由意志による井戸端会議における相互の批判を推し進めることによって あたらしい社会に移行すると考えます。
:同感です。
基本線は全く変わっていません。
「存在しているものとは残っているものだ」という事実と、その構造を興味深い視点から教えていただいたと思っています。
 

お礼日時:2009/04/05 14:11
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