プロが教えるわが家の防犯対策術!

私が、私や私が所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることは当然のことでしょう。
ならば、、
彼が、彼や彼の所属する集合体を守ろうとする、あるいは利益をもたらそうとすることも当然のことのはずです。
しかし、この当然のことをしているだけのはずが、互いに排他の関係に陥ることがしばしばあります。
互いの利益がぶつかり合う関係というのは日常茶飯事的に立ち上がってくる問題です。

「排他性」は相手を悩ませるともに、自分自身の精神性にも好ましくない影響を与えます。
しかし、生きようとすると排他の関係にならざるを得ない。
「いや、案外みんな仲良くやってるんじゃないの」という見解もあるかと思いますが、
それは通常の場合、少数者、あるいは弱者に対する排他の上に成立している仲良さであるように私は感じます。
ここで言う「私」や「彼」は個人はもちろんですが、家族、学校、地域、会社、国家、宗教などの代名詞でもあります。
排他性は、イジメ、虐待、商品偽装、収賄、殺人、戦争、テロなどなど、あらゆる場面で発揮されています。

一見なにごともなく過ごしているように見える私たちも実は、この排他性によって互いに影響を受け合い、
また、それが私たちの精神形成にも影響を与えているはずです。
どう考えても「良い影響」であるとは思われません。

「生きようとすると排他の関係になる」から「排他を発揮しなくとも生きることができる」へと転換するためには、どのような哲学が必要と思われますか?

A 回答 (81件中11~20件)

お手数をおかけしました。

また、締切延長ありがとうございます。
しかしいっぺんに書こうと詰め込むと難解になってしまいますね。
抽出例を再構成し一般化をほどこして表そうとするためですが、反応をいただいたおかげで、一般化から応用する段階に進むことができます。再検討へ戻す段階でもあります。
そうしてhakobuluさんと一緒に考えているわけですから講義などというのはとんでもないことです。

> >他者性を、つねに自己の領域概念を共有する他者として抱え持つこと、すなわち自己を形成する属性を合意形成から逸らすこと、
> それは、均一化されたいかなる手段も用いないことではないのか。均質の交換を約束しないことではないのか。(3)
> :という箇所ですが、
> 常に他者との共存を徹底して図ろうとするならば、自らの排他性を完全に封じ込める必要がある。
> それはあたかも理想的なアナーキズムのような実現不可能なものを目指すことになる。
> ということでしょうか。

排他性を封じ込めるというよりは、自分を従来の属性から外す、というある程度から先は不可能なところを見据えているのですね。
7のシフトさんのお考えが近いところです。また、hakobuluさんがすでにキータームとしている想像力も深く関わる筈です。
わたしたちは社会的な存在として在るとき、社会的な属性を必要としています。社会的な属性は、合意形成から成り立っているにすぎない限られたカテゴリー、限られた力(ダイナミズム)や限られた系(システム)、限られた場(ミリュー)や限られた系統話(ヒストリー)への、自己参照の能力といえるかと思います。
穏やかな例で言えば、小学校において日本人の子供がフィリピン人の同級生を他者とするのに、日本人であるという領域を用いるかどうかなのです。
領域を共有する他者であるために、この子供は同じ小学校の同じクラスという領域を用いるでしょう。それではよその小学校に通うコロンビア人の子供に対して、どのような領域を共有するか。地球の裏側で小学校に行けない子供に対して、どのような領域を共有するか。このように領域の拡大があり、属性の鎖がはずれるたびに、均質性は減少するでしょう。
平和な国の社会的な属性がわずかにしかない小学生ならば、同じ地球にいるという領域にも立ちやすいでしょうが、たとえば問題はホームレス襲撃のサラリーマンや少年は、ホームレスをどの領域で共有できるかという話です。同じ地球人だからという路線へ拡大できるケースは、宇宙人と総力戦にでもなった有事の時ではないでしょうか。
外国との戦争ならばより現実的な話です。日本人を共有することで彼らはホームレスの生きる価値を認めるでしょう。つまり、何らかの合意形成された価値のもとで、他者は自分と交換されうる価値があるとわかるのであって、ここに生じた均質性の外部には、領域を共有しない他者が生じています。日本人でない者、兵役のつとまらない者など。
しかし、ホームレスにも産んだお母さんがあるとか、幸せな子供だった思い出があるとか、ごはんを味わって生きているとか、そういう領域もいろいろと共有可能なところがあります。そう思ってやめる襲撃者がいれば幸いです。
実際は、納税者(の子)、住居の所有者や賃貸人(の子)、品物やサーヴィスの購入者であり消費者といったような領域を、襲撃者は自己に見出すことをやめないでしょう。他者がそれを共有できないからといって、自分がそこから出ることがない。均質の交換が約束できない他者として、ホームレスを外部に置き続けることになります。
ならば均質の交換をはじめから期待しないような社会とはどういうものなのか。
わたしはこれを理想上のアナーキズムと呼んだのです。

> >合意形成が、貨幣であるとか言語であるとか共同主観であるとかの均一化された手段にもとづいてなされ
> :ることとの関連

はこれで少し解けたでしょうか。

> >属性から免れないわたしたちが他者に均質の交換を要求しないということは、
> 他者を自由にする経済、思想、何より他者を自由にする話法(4) を必要とすることであって、
> これらはほとんど不可能とも思える機構の技術なのです。
> :(現状のまま)イスラエルとパレスチナが共存することは無理、みたいなことをおっしゃっているのかな

それもありそうですね。。。散逸構造のお話が出ていましたが、属性というのは結局、モザイク状にあり、系統を作っているわけです。その間の交換性があって連絡があるということが、属性を持ちつ持たれつに保持しているわけです。他者があること、他者性を含んでいることが、属性のレゾンデートルになっているのでしょう。
交換性の均衡は、当然必要とされています。そうでなくては破綻します。北朝鮮の経済と思想あたりの話を出せればいいのかもしれませんが、あまり得意ではありません。フランスはカメルーン通貨に1000:1くらいのレートを保証することによって、原油、綿花、コーヒー、カカオといった生産物の貿易価格を安定させ輸入し続けています。均質な交換を作り出していますがなかなか不自由な関係です。
イスラエルとパレスチナでは、まさに民族の属性を共有できない他者同士、自己との均質の交換が約束できない他者同士ですね。いまのところイスラエル人ではパレスチナ人を補完できないし、パレスチナ人ではイスラエル人を補完できないのですね。

> >しかし、この合意の輪は実際には連鎖しない。この機構は排他を生む。均質でない者のあいだの合意において、均質の交換は最善で近似値であり、
> 均質の交換が可能かそれに近づけられる間柄で、排他性が生じる。
> じつに解決困難といえます。
> :という結論に至る理由が判然としていない状況です。

結論はこのちょっと前の「合意形成への誘導がある」というところかもしれません。現状悲観をくっつけた形です。
政治経済の機構としての、対話による合意の輪ですね。交通的な、生産的な合意です。利益を損ない合わずもたらしあうような合意をとりつけます。均質に近づける努力というのは、持ちつ持たれつで長期的にペイし合うというものでしょう。
強国間の対話では長期的な期待もかけられ、利益の均衡もはかれますが、弱小国はその信用に値しません。
合意形成によってひとつの属性になる、属性の拡大をはかるということの難しさがあります。EUなどですね。いくつかの輪はあっても連鎖は機能しない建前にすぎないでしょう。
対話の場で、対話の中に合意を綱引きしあうのではなく、外に期待を先送りするためにどのように対話するかという政治などもあるはずで、それもまあ、不自由な束縛の方法のひとつになっているのが現実だと思います。
均質の交換を求めない何か、属性をはずしながら領域を共有できる他者となりあうための何か、合意でなく期待で機構が造りかえられるための何か、そういうもので他者を自由にすることができれば排他性というものはないだろうと考える次第です。
これは、生産性から完全に気持ちが離れるということになるでしょう。

もう、宇宙戦争とかね、そうでなければ涅槃の境地というかね。完全なパラダイム変換になるわけでしょうね。
あともう一度は来られないかもしれません。粗論ですがご容赦ください。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。
要望にお答えいただき感謝いたします。

「>社会的な属性」の一語を拝見して、少し理解がしやすくなったようにも思います。
「属性=属性としての排他性」と勝手に思い込んでいたので。
それにしても、
「>フィリピン人の同級生」の例は大変わかりやすくて参考になりました。
>属性の鎖がはずれるたびに、均質性は減少する
:とは、
「私たち喧嘩なんかするはず無いじゃん」
「どうして?」
「だっておんなじクラスだもん」
「じゃあ、おんなじクラスじゃない人とは仲良くできないの?」
「う~ん・・・だってクラス違うし・・・」
「でも、同じ学校でしょ?」
「あ、そうかも・・・。じゃ同じ学校だったら仲良くしようかな」
「隣町の学校の人とは?」
「え~?あんな遠いとこの人と仲良くしなきゃなんないの?」
「でも同じ日本の学校でしょ?」
「う~ん・・・そう言えばそうなんだろうけど・・・」
などあり、これが、
>属性の鎖がはずれるたびに、均質性は減少する。
:ということになるのでしょう。
日常的な利害や共通点が薄まっていく。
ここを個人の内面として、どのように考え、乗り越えていけるのか、ということになるのでしょうね。

「各国対抗世界のど自慢大会」などに参加することになれば、クラスが違おうが隣町だろうが関係なくなる。
同じクラスだと宿題をお互いに教え合えるし、一緒にお話もできてお互いが楽しいし、もしかしていじめられた時なんかでもお互いに助け合えるかもしれない。
お小遣い足りないときにちょっと貸し借りだってできるはず。
大人社会であれば仕事や思想や経済活動など様々な場面で交錯することになる、ギブアンドテイク。
たとえばこれが「>均質の交換」ですね。
こういったことを最初から期待しないことが「>理想上のアナーキズム」である、と。
アナーキズムとは、是非は別にして、完全なる主体性の発揮ということになるでしょうか。
しかし、完全に(自己の内なる)他者性を否定することはできないし、その意味で「>理想上の」という注釈がつく。

補足日時:2009/04/16 23:44
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづく)
>散逸構造のお話が出ていましたが、属性というのは結局、モザイク状にあり、系統を作っているわけです。その間の交換性があって連絡があるということが、属性を持ちつ持たれつに保持しているわけです。
:とおっしゃる内容もわかったように思います。

#82では、
>相互の交通可能性、交通利便性、相互利益、生産性ということに目を向けるかぎり、強固な合意形成への誘導がある。
:という箇所がおっしゃりたかったことだったのですね。
肝心の点を読み違えていたようで失礼しました。

>均質の交換を求めない何か、属性をはずしながら領域を共有できる他者となりあうための何か、合意でなく期待で機構が造りかえられるための何か、そういうもので他者を自由にすることができれば排他性というものはないだろう
:適確な現状認識の上にこういった可能性も示していただいたものと思います。
もうしばらくしつこく探ってみたいと思っています。
お手数おかけしました。
ありがとうございました。
 

お礼日時:2009/04/16 23:36

人類の文字の発明の由来とも言われる私有財産の概念ですが、これは合意(記号による対話可能性)によって排他性を自己の属性として曝け出したとするなら


合意形成が、貨幣であるとか言語であるとか共同主観であるとかの均一化された手段にもとづいてなされ、属性(atribute)が自己を形成するとき、
そのような自己とは、他者性を前提に含んだものとしてしか表出しない。(1)  また、自己の領域・領分の概念を共有する他者と、共有しない他者とが出現する。(2)
他者性を、つねに自己の領域概念を共有する他者として抱え持つこと、すなわち自己を形成する属性を合意形成から逸らすこと、
それは、均一化されたいかなる手段も用いないことではないのか。均質の交換を約束しないことではないのか。(3)

ここには、他者の参照不可能性を前提に自己を形成するとする自己同一性(identity)だけが不可侵に残りうる。
もとより何によっても奪われないものであるから、排他性と結びつきえないことを承知しておく必要がある。

属性から免れないわたしたちが他者に均質の交換を要求しないということは、
他者を自由にする経済、思想、何より他者を自由にする話法(4) を必要とすることであって、
これらはほとんど不可能とも思える機構の技術なのです。
相互の交通可能性、交通利便性、相互利益、生産性ということに目を向けるかぎり、強固な合意形成への誘導がある。
対話はむしろこれらの合意形成によって政治的駆引きをその本質としているはず。
少なくともヨーロッパの文明では対話は政治であり、合意の輪が連鎖するような政治経済の機構に従っていたといえます。
しかし、この合意の輪は実際には連鎖しない。この機構は排他を生む。均質でない者のあいだの合意において、均質の交換は最善で近似値であり、
均質の交換が可能かそれに近づけられる間柄で、排他性が生じる。
じつに解決困難といえます。

注1 相対化された自己。ローマ帝国人の気質、という説明よりも、身近な例で、他者が価値を決められる物事に囲まれてわたしたちは暮らしていると同時に、それを自己の認識の一部としている。
注2 ホームレスを撲殺する者はホームレスを、自己の領域を共有する者と見ない。そのような者の自己の属性には優先順位付きで収入とか職とか税金とか住居とか衛生とか労働とか有用性とか税務署と厚生省の喜びそうな項目が自己の価値として根を生やしている。
注3 理想上のアナーキズム。
注4 経済の哲学があるように、話法の哲学が求められるかもしれません。たとえばどう話すかという機構のほうに意識が向けられる。非交通的に、また利益を前提的に与えるのではなく勝手に見出すように、生産を対話の外において始めるように、といった思慮によって、合意でなく期待の連鎖を生み出すなら、これは相場のようなものかもしれません。利益の発生する場所が偏らないよう、均質の交換性に到達するには広大な場所に対話がなくてはならないことになりますがね。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

印刷して何度も読み返してみたのですが、いや~難解でしたね。
小学生が大学教授の講義を受けているような感覚でした。^^;
でも、基本的には非常に興味深い印象を受けます。
(一方的に私の能力不足であると認識していますが)よく理解できていないかもしれないながらも、感想を述べてみたいと思います。

前半部に関しては、個別の内容はわかったような気がしたのですが、どのように関連していくのか、という肝心の点について理解できませんでした。
個別の内容自体もよくわかっていないのかもしれません。

たとえば、
>他者性を、つねに自己の領域概念を共有する他者として抱え持つこと、すなわち自己を形成する属性を合意形成から逸らすこと、
それは、均一化されたいかなる手段も用いないことではないのか。均質の交換を約束しないことではないのか。(3)
:という箇所ですが、
常に他者との共存を徹底して図ろうとするならば、自らの排他性を完全に封じ込める必要がある。
それはあたかも理想的なアナーキズムのような実現不可能なものを目指すことになる。
ということでしょうか。
よくわかりません。

そのため、
>合意形成が、貨幣であるとか言語であるとか共同主観であるとかの均一化された手段にもとづいてなされ
:ることとの関連がよくつかめないのです。

補足日時:2009/04/15 17:44
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
>属性から免れないわたしたちが他者に均質の交換を要求しないということは、
他者を自由にする経済、思想、何より他者を自由にする話法(4) を必要とすることであって、
これらはほとんど不可能とも思える機構の技術なのです。
:この部分も難しいです。
(現状のまま)イスラエルとパレスチナが共存することは無理、みたいなことをおっしゃっているのかな、と思いましたが、やはり不明。

>しかし、この合意の輪は実際には連鎖しない。この機構は排他を生む。均質でない者のあいだの合意において、均質の交換は最善で近似値であり、
均質の交換が可能かそれに近づけられる間柄で、排他性が生じる。
じつに解決困難といえます。
:という結論に至る理由が判然としていない状況です。

小学生とまでは言いませんが、、中学生にも理解できるような表現で(また、可能であれば今回の内容に沿った形で)改めて解説し直していただくわけにはいかないでしょうか。

とてもおいしそうなものが目の前にあり、食べようとして持ち上げるまではできるが、いざ口に入れて租借しようとすると、つるりと零れ落ちてしまう。
といったような印象でしょうか。
箸の使い方も満足に知らない子供に教えるように噛み砕いていただけると大変ありがたいと思います。

今日で閉める予定でしたが、日付が4/21に替わるまでは開けておくつもりです。
お忙しいとは思いますが、ここを見ている他の方々のためにもご尽力をお願いできれば有難いと思います。
  

お礼日時:2009/04/15 17:44

こんばんわ。

78番です。



論議が退行するかもしれませんが、
hakobuluさまの「排他」の定義というのは何なのでしょうね。



このような飽和的なご時世においてさえ
「【排他】しなければ」「生きていられない」
というのも

「これは【排他性】である」と「認識」「してしまう」
というのも


「イラショナルビリーフ」ではなかろうか。









                          
    • good
    • 0
この回答へのお礼

どうも、こんばんは。
ご回答ありがとうございます。

>「【排他】しなければ」「生きていられない」
:(自らの内なる)排他性というのは、ほんの些細なきっかけで立ち現れてくるものではないか、という気がします。
極論ですが、たとえば食物として他の生命を奪うことも排他の一種でしょう。
私たちはそれをやめることはできません。
排他性は人間の属性であるようにも思われます。
見ず知らずの人とすれちがっただけで排他性が頭をもたげる場合すらあります。

つまり、
>「これは【排他性】である」と「認識」「してしまう」
:ことが必ずしもイラショナルビリーフ(不合理な思い込み)である、とばかりは言えないかもしれませんね。

しかし、逆に、イラショナルビリーフである場合もまた同じぐらいに多いでしょう。
それは個別の関係性によるものでしょうが、以前おっしゃっていただいたように「話し合いの姿勢」を保持することによってしか、その解明はできないのかもしれませんね。
この質問の続編としての課題はまだ山積みのように感じています。
  

お礼日時:2009/04/14 00:18

訂正



真ん中あたり

×だから私は他社の存在に無関心な者が「本質」を語ろうとするとき

→だから私は他者に無関心な者が「本質」を語ろうとするとき

以上でございます。おやすみなさい。

この回答への補足

『 総括 』(次へのステップのために)

として、今までに寄せられたご回答を参考にさせていただきながら私なりの考えを整理してみたいと思います。

この質問は、前回の「管理不要社会にするためには」(質問番号:4795926)の続編です。
ちょっと復習してみます。
前回のご回答でも何人かの方がおっしゃっていたように、
『 対話を継続すること、表現し合い想像し合うこと 』
がお互いの理解のためには重要です。
ここを意味なく、あるいは、つまらぬ理由で拒絶するような人は、人間同士の理解を放棄しているものと解釈されても致し方ありません。

「意味なく」「つまらぬ理由」に対する価値観の相違という問題も残るのですが、
『 私の認識が変れば、世界も今とは違ったものに見えてくる 』
とおっしゃった方もいて、いずれにせよ、
『 自己変革を怖れない 』
ことが重要になってくるのだと思われます。

この場合、
『 人間には、自分が認識したものを自分のものにしたいという非常に強い基本的欲求があるので、
自分の排他性を常に監視し、改め、行動に反映していくということが重要 』
という視点を提示してくれた方がいらして、私としてはいたく共感した次第です。
文字にしてみれば当たり前のことのように思えるかもしれませんが、
『(自らの内なる)排他性の監視 』
というフレーズは、単に哲学の言葉遊びを超えて実践的な手法であると感じたわけです。
とはいえ、個体が存在していく以上、自愛も必須のはずです。
この自愛と排他のバランスをとるための哲学的手法を求めたのが今回の質問でした。

------------------------------------------------------------------------------

#4さん(#35さん)は、
『 排他の逆は、主体性 』
である、とおっしゃいます。つまり、
『 排他の要因は恐怖であるはずなので、ちょっとでいいので勇気出して主体的に確かめる必要がある。
自分の固定観念に固まらずに、全く自由な視点で捉える。つまり変化を怖れないことである。 』
と。

『 もし私たちが、自らの所属する集合体を(主体的にではなく)無意識的によりどころとしているのであれば、
それは排他を生み出すだろう 』ともおっしゃいます。
たとえば会社であれば、給料をもらえて自分や家族の生活を守ってくれるところだ、というだけのよりかかった姿勢であれば社外の人間に対しては排他的になってしまう要素が大きいだろう、ということだと思いますが、
なかなか的を射たご見解のように思われました。

#25さん(#59、#60さん)は、
『 それぞれ相手がどの方向から見ているかわかれば、相互理解が深まり、解決につながる。 』
とおっしゃいます。
『 それでも自分を形つくるには、異質が絶対に必要。
自分という唯一の個性を形作るには、異質の存在を望むしかない。 』
と続けます。

『 排除だと思っていたが、排除ではなかったのか となれば、扉は開くでしょう。 』
とおっしゃった点は重要だと感じます。
人間から排他の要素を全て抜き去ることができないとすれば、
最初に「排他である」と感じてしまうのは、もしかすると止むを得ないのかもしれません。
そこで、「排他ではありません」と知らしめること。
逆に、「排他ではないのかもしれない」と想像すること。
こういった想像力を働かせつつ会話を継続する。
ということが有効になってくるのでしょう。
ジミーカーターのエピソードもあげておられて、
「どんな相手とも対話するその先に美しい何かがあるという希望がある」と彼は考えていたようだ、と触れています。

#78さん、おっしゃるところの、
『 言うなれば、みんな、いつだって、崖っぷち、』
なんですよね。わたしたちは。
そのことに対して目を逸らそうとしているために、他者への想像力も働かないのかもしれません。
『 おのれの責任を放棄するほど他人に期待しないこと。』
というのは主体性の定義のひとつであるかもしれませんね。

#27さんからは、
『 この問題を考えるのに神話を分析すると良いかもしれません。
というのも神話はこういったことが時間と空間を越えて
物語として表現されているからです。』
というアドバイスをいただきました。
神話とは人類の無意識である、という言葉もあったように思いますし、おっしゃるように有効なて手がかりになり得ることでしょう。

補足日時:2009/04/13 15:18
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
#19さんは、
排他性に関して、
『 国家の形成という問題が いちばん 起点になっていると考えます。 』
とおっしゃいます。
『 その起点は じつは 排他性では必ずしもなく 統合・統括の能力に発すると考えられるのではないでしょうか。
つまりは クラスを統合し その一段上から統括するという・実に《経営能力》に発し それは 大きくは《愛》の行為であるとさえ捉えられます。』
とお続けになりましたが、その起点がどのような必然性によって生じてきたのだろうか、という肝心の質問に関しては、私が礼儀知らずであったためだと思いますがお答えいただけませんでした。
興味はありますが、これはキャパシティの問題ですから止むを得ません。

#7さんの
『 すべての一体化をやめたら私は何者にも属さないので排他する理由がなくなるんじゃないでしょうか。』
という明快な、つまり本質を端的に示したご見解もいただきました。
全ての起点とも言えるでしょう。

#14さんの、
『 人間も、排他によって各々が強化される動機付けが出来上がる、ということのような気がします。』
や、

#52さんの、
『 成熟した社会においては、我が身を守るための排他性は唾棄すべきもの。しかしあまりに未成熟な社会においては必要悪。』
などでは、現社会の実相を指摘していただきました。
実相と言えば、

#28さんの、
『 散逸構造の理論 』は、大変興味深く拝見しました。
『 人間もこの宇宙の一員であり、全ての存在を支配する大局的な宇宙の法則に支配されていることを教えてくれています。』
まだごらんになっていない方は、ぜひ、#28のご回答欄に目をお通しになってみてください。

#17さん(#26さん)の
『 こういった風景がすなわち人間社会なのだとあきらめて流されるか、それとも社会を離れて山奥で超然と生きるか、これは個人の中で彼なりの哲学を見つけて解決するべき問題だと思います。
人間が社会的動物であることをやめることです。一切の欲を捨てることです。右の頬を打たれたら左の頬を出すことです。あらゆることを自分を勘定にいれないことです。悪をなさず善を行い、身を清く保って生きることです。』
というご見解もひとつの手法かもしれません。
(#79の補足欄へ続きます)

お礼日時:2009/04/13 15:23

質問1について。


あります。
実際の会話においては、話しながら考えるので
一旦納得したように感じたあとで、あれ?と思って
逆説で話をつなぐことは多々あります。
文章においては主に意図的に逆説でつなぐときであり
一種の演出効果を狙ってのことです>当たり前か・・・
後は、行き当たりばったりで文章を書いていて
ついうっかり、書いてしまう場合と
(これは実際の会話と一緒か・・・)
適当にお茶を濁して会話を収束させる方向に導こうと思いながらも
遂、悪態をついてしまう場合かしら。

質問2~5
自己分析するよりも
http://okwave.jp/qa4803472.html
ここのNo.25、No.42、No.68、No.70、No.71、No.73、No.74、No.77
を見せちゃった方が嘘がないですね。
自分としては不利な証拠かも・・・

No.77の回答をした後で
もしかしたら自分はhakobuluさんに較べて
「本質」へのこだわりが弱い、もしくは
「本質」という概念をあんまり信用してないのかも知れないと
思い始めました。

今は出来れば他人の受け売りで哲学を語りたくないのですが
(それは形而上学としての哲学よりも人生哲学を大事にしたいということなのですが)
久々に形而上学的な話をすると
hakobuluさんの仰る「本質」とはイデア論で
「それを説く理論こそが大事」というのはロゴス主義だと思っているのですが
まず、その認識は合っていますか?
合っているなら次へ。

私が形而上学、すなわち西洋哲学を最初に学んだのは
高校の世界史の勉強を通じてだったと思います。
倫理・哲学への関心は高かったので
学校の授業とは関係なく自発的に本などで形而上学を学んでいったのですが
一方で、当時はポストモダン哲学の全盛期でした。
要するに、本で学んでいた形而上学(イデア論とロゴス主義)は
実生活の中では「もはや通用しない過去の遺物」として扱われていたわけ。
つまり、今自分が生きている時代の哲学が否定したものの
内容を確認する意味で形而上学を調べていたわけ。

このQ&Aの最初の方でどなたかが
・ヴィトゲンシュタインからやりなおせ
みたいなことを言っていたと思うのですが
私はヴィトゲンシュタイン以後から入っているわけ。
だから、原体験として「本質」という概念には
不信感があるのかも知れないと思いました。

その後の道のりは省略しますが
今は「本質」なる概念を絶対的なものとは捉えていません。
本質なる概念は「関係」から生成されると捉えています。
関係をつくりだすのは「存在」です。
だから私は他社の存在に無関心な者が「本質」を語ろうとするとき
頭の中に「警戒宣言」のようなものが響きだすのです。
>「本質をおろそかにしないために私は人を排除します」
> と思っているつもりはないのですが
その警戒宣言が見方を歪めたかな?と
ちょっと大袈裟にとらえ過ぎたかな?と
今、反省モードに入っております。

ご存じのこととは思いますが
現代哲学は本質や論理の脱構築までは成功したものの
その後に代わるモノを生み出せていないと思います。
本質や論理を壊したのはイイけれど
更地にしただけで新しいモノを生み出していません。
私は今は「動いてみないと、トライ&エラーを繰り返さないと
分からんよ」が、多分本音です。
質問2~5について、最初
・そういう場面に出くわさないと、一般論で語ったり
 信念を述べても嘘になるだろうな
と思って悩んでいたところ「そうだ、実例があった」ことに気づいたのでした。
こんな回答で宜しいでしょうか?

来週・再来週は忙しくなりそうなので
あんまり難しい質問には回答が出来ないかも知れません。
最初のご質問文の内容については
一通り回答が出来たと思っているのですが
もしまだ何か「決定的に重要な疑問」がありましたら
少しお時間を頂きます、という了承の下、補足を下さいまし。
では。

この回答への補足

CUE009 さん、すみませんがここの補足欄も貸してください。
(以下は、#80お礼欄からのつづきです)

#29さん(#77さん)は、
礼節の重要性にも言及されておられます。
『 礼節が必要なのは、争うのであれば本質で争うべきだから 』
というご見解は至言でしょう。
本質で争うためになぜ礼節が必要になってくるのだろうかという課題は残りますが、奥が深くなりそうな予感もあり、必要であれば別質問とすべき点と判断しました。
さらに、
『「個」と「環境(社会など)」のバランスで考える視点、環境に対する個の位置づけをきちんと持たなければならない筈で
個の位置づけを持たずに個の内面ばかりを膨張させて、無限に膨らんだ個がメリット/デメリットを論じようとするのがイケナイのだと思います。』
というご指摘も受けました。
『 環境に対する個の位置づけ 』というフレーズもひとつの重要なキーワードであるかもしれません。
たしかに、世界なくしての自我は存在しないわけで、おっしゃるとおりと感じました。
うっかりすると忘れがちな新鮮な視点を示していただいたように思います。

#63さんの
『 良い影響を受けたい、人にも良い影響を自分が与えられたら…これは自然が与えた、本能レベルにある「精神の自己保存」超自我ではないでしょうか。 』
も共感できました。
超自我さえも本能的欲求から派生してきたものに違いありません。
このことや、

#68さん、おっしゃるところの、
『 無論共通の欲みたいなものは主体にありますので、 』
というご見解に共感しつつ考えてみたいと思います。

有体に申し上げてしまえば、今回のご回答の中で最も印象に残るのは、
「 排他の逆は主体性 」
というフレーズです。
前回のフレーズと合体させて、

『 主体的に生きることによって(自らの内なる)排他性を監視すること 』

が重要である、と表現できるように思います。
主体的であるとは、

「 環境に対する個の位置づけ 」をしっかりと行うことであり、

『(他者も含めた)環境によりかからずに精神的に自立して生きること』

でしょう。
たとえば、排他としてのホームレス襲撃が、それらができていない精神的に未熟な者によって為されていることなどから見ても、このように言っていいように思われます。
ところで、排他性を監視するためには、まず自らが排他的(要素を持った)生き物であることを認める必要があるのではないでしょうか。
トラが人間を傷つけまいと意志するならば、自らが凶暴な爪の持ち主であることを自覚する必要があるでしょう。
であるならば、

『 私は排他する生き物である 』

と自覚することが排他の監視を実践できる有効なフレーズになるかもしれません。
私がそうであるならば相手もそうである、ということになります。
つまり、相手だけがそうである、という発想から脱却しやすくなるはずです。
ここを糊塗していくら努力しても、

『 対話を放棄しないこと 』

が有効になるはずもないのでしょう。

少なくとも日付が4月16日に替わるまでは開けておく予定です。
関連した質問をまた立てるかもしれませんが、その際にもみなさん、よろしくお願いします。
 

補足日時:2009/04/13 15:28
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>仰る「本質」とはイデア論で
「それを説く理論こそが大事」というのはロゴス主義だと思っているのですが
まず、その認識は合っていますか?
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa1825775.html?from=na …
こちらから、
『ちなみに「完璧な姿」を哲学用語で「イデア」といいます。
完璧な美を「美のイデア」みたいに言います。
また「概念的/論理的には語ること」を「ロゴス」といいます。
この「イデア」を「ロゴス」で解き明かすのが「形而上学」です。』
という一節を発見しまして、このような意味であればそのような気もしますが、
イデア論なるものの、それこそ本質を知らないのでなんとも断定することはできません。

>他者の存在に無関心な者が「本質」を語ろうとするとき
頭の中に「警戒宣言」のようなものが響きだすのです。
:おこがましいですが、同感ですよ。
ただ(また出ました^^;)、全てに関心を持つ必要性も有効性も無いわけでしょうから、
存在の何に対して無関心なのか、ということによって違ってはきますけどね。

>ご存じのこととは思いますが
現代哲学は本質や論理の脱構築までは成功したものの
その後に代わるモノを生み出せていないと思います。
:素人ゆえにそういったことに関しては全く無知です。

>こんな回答で宜しいでしょうか?
:十分参考になりました。
 
CUE009 さん、すみませんが、#80の欄全面的にお借りします。
いや~グッドタイミングで、ありがとうございます。

お礼日時:2009/04/13 15:14

hakobuluさん。

こんばんわ。
オツムが弱いので哲学は苦手ですが、
イヤよイヤよも好きのうち、ということにして、ときどき回答している者です。



まず、
当方は、「排他性」「だけ」でも「親和性」「だけ」でも
生きていくことはでないと思っております。
また、
他者批判・知力というのは
「タナトス」の「超自我的発露」である、
ということを以前恋人から教わり、このことに、納得しています。





ある詩からの抜粋です。
>正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい
:「排他」を受ける側は、すでに崖っぷちに立っている、
崖っぷちに立っているのがどんな気分なのか、
「排他」をする側は「余裕があれば」「想像する」ことができる、
そして、すでに「崖っぷちに立っている」相手を、
わざわざ突き落とす必要がないことが、分かる。
それぞれの立っている場所「立場」は、
その人本人が「わかり」「決める」ということを、
当然に「想像すること」ができ、
他人が決めるのではないということが、分かる。


さらに、
>互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい
:崖っぷちに立つことのない人なんかめったにいないでしょう、
言うなれば、みんな、いつだって、崖っぷち、
そのことを、知っていて、それがどんな気分か分かるかってこと。


> 完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだ
:だから「完璧ではないよ、キミは。ここが、歪んでる。」
という意見のやりとりは当然あるべきで、
それを「排他」であると
憶測によって決め付けない程度の想像力を持っていたい。


>  自分を愛することをやめるとき
  ひとは
  他人を愛することをやめ
  世界を見失ってしまう。
:自分の立っている場所を分かろうとしないと、
他人の立っている場所を想像することもできない。
まず、自分を分かり、伝えるべき。
そこに、「排他」の要素を「わざわざ探さない」。
「悪は存在しない」。

> 自分があるとき
  他人があり
  世界がある
:まず、自分の盾と矛を大切にするべき。
他人の盾や矛にけちをつけるより、
まず、自分の盾や矛を大切にするべき。
そうして、初めて、他人が同じことをするのも当然と思える。


>お前に多くを期待しないだろう。
:期待→裏切られ→排他され感。




ふたたび、ある童話からの抜粋です。
>みんな、宇宙のみなしご。
 だから、ときどき、こうして、ともだちと手をつなぐ必要がある。
:自分の身を守ることができるのは、自分だけ、
だから、みんな、自分の身を守ってる、
手は、人を殴るためだけにあるのではない、
自分の身を守ることができるのは、自分だけ、なのだけど、
みんな、そうだから、
そのことを分かってるから、
ときどき手を貸しあうことができ、そのためにも手がある。


1.想像することができる余裕をみずから感じること。
2.おのれの責任を放棄するほど他人に期待しないこと。




.

この回答への補足

あ、どうもこんばんは。
ご回答ありがとうございます。

>「排他性」「だけ」でも「親和性」「だけ」でも
生きていくことはでないと思っております。
:おっしゃるとおりですよね。

>正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい
:なるほど。
深い詩ですねえ。
勉強になります。

>「排他」をする側は「余裕があれば」「想像する」ことができる、
:どのようにすれば余裕を持てるのだろうか、ということになるのでしょうね。

>そして、すでに「崖っぷちに立っている」相手を、
わざわざ突き落とす必要がないことが、分かる。
それぞれの立っている場所「立場」は、
その人本人が「わかり」「決める」ということを、
当然に「想像すること」ができ、
他人が決めるのではないということが、分かる。
:これができるヒトはもはや排他から抜け出しているのでしょう。
#4さんがおっしゃるところの、
「 排他の要因は恐怖であるはずなので、ちょっとでいいので勇気出して主体的に確かめる必要がある。」
に通じるご見解ですね。
ここは重視したい点です。
「想像すること」に関して、neutralは前のご回答でも触れておられましたね。
大事なことと思います。

>言うなれば、みんな、いつだって、崖っぷち、
そのことを、知っていて、それがどんな気分か分かるかってこと。
:たぶんですが、崖っぷちという事実から目を逸らしている人が多いんだと思いますけどね。
だから、相手のそれを想像することも難しい、という現状になっているのではないでしょうか。

補足日時:2009/04/12 21:10
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
>それを「排他」であると
憶測によって決め付けない程度の想像力を持っていたい。
:それが必要ですね。
同様に、そう思わせないようにすることも必要ですが。
両方の視点が必要になるのでしょう。

>まず、自分を分かり、伝えるべき。
:ここがね、難しいとこですね。
分かるというよりは、分かろうとすること、と言った方がいいような気もしますが、いずれにせよ大事なことと私も思います。、

>まず、自分の盾や矛を大切にするべき。
そうして、初めて、他人が同じことをするのも当然と思える。
:同感です。
大切にする段階で、他人の盾や矛とぶつかりあわないようにする必要があるということになりますかね。

>みんな、宇宙のみなしご。
 だから、ときどき、こうして、ともだちと手をつなぐ必要がある。
:実際には、いや私だけはみなしごじゃない、と思っている人が多いということの裏返しなんでしょうね。


1.想像することができる余裕をみずから感じること。
2.おのれの責任を放棄するほど他人に期待しないこと。
:大いに、特に2番目は同感です。
 

お礼日時:2009/04/12 21:10

CUE009でございます。



補足要求をかわすことなく真正面から受け止めて頂きました。
ありがとうございます。
私ももっと頑張らんとイケマセンね。

> 理由はわかります。
> 「そのような物言いとお感じになったのであれば」ということ
私も、これが不要だと思いました。
すまない、という思いを伝えるなら、むしろ余計です。
謝罪における形式的な文章スタイルが
この部分があることで形骸化したと思います。
要するに、とりあえず形式的に謝っただけなのかな?と思いました。
心をこめずに、調子をあわせただけに感じられました。
そんな疑問が浮かんだので、過去のQ&Aを少し調べたところ
寄せられた回答に対するhakobuluさんの返事の中に
「わかりました~しかし・・・」というパターンや
「すいませんでした~でも・・・」というパターンで
回答者が徐々に怒り始める、というケースが多いと感じました。
私はこれらのやりとりを読みながら
もう少し回答者側の目線に立って
「これで意図や心が伝わるかな?」と自分の表現をチェックすれば
無駄な争いが避けられて、より本質的な議論に集中できるのではないかと思いました。
なぜそれをしないのだろう?とさらに発言を読んでいるうちに
hakobuluさんは質問に対する回答文(テキスト)には関心があるけど
回答者(ヒト)にはあんまり関心がないのかな?と思いました。
要するに、自分の知りたいコトには関心があるけれど
自分に知らせようとしてくれるヒトには関心がないのかな?と思いました。
自分の関心ゴトに集中したいので
ヒトはできるだけ排除しておきたいのかな?と思いました。
> 怒らせるかもしれないことより、本質をおろそかにすることのほうを私は怖れます。
ああ「やっぱりそうなのか」と思いました。
同時に、私がhakobuluさんの発想に着いていけない理由も分かったように思います。
すなわち、片方で「排他を発揮するのはよくない」と言いながら
片方では「本質をおろそかにしないために私は人を排除します」と仰っています。
これは矛盾していませんか?
私は「本質が知りたい」という知的欲求を満たすために
自分以外の人間存在を排除すべしという発想には反対です。
> 礼節は整えているが本質から逃げる人と、
> 礼節は心得ていないが本質を探るに貪欲である人とでは、後者を尊敬します。
なぜ「礼節を心得て、本質を探ろうとする」という選択肢は見捨てられちゃうんでしょう?
礼節は、本質的でない、大したことのないことに起因する余計な争いを
極力起こさないために考えられたひとつの作法と所作だと思います。
> 『なぜ礼節は必要だと思われるのでしょうか?』
争うなら、本質で争うべきだと思うからです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>とりあえず形式的に謝っただけなのかな?と思いました。
:そういうことになるでしょうね。

>「わかりました~しかし・・・」というパターンや
「すいませんでした~でも・・・」というパターン
:たしかにそうですね。
自分でも「多いなあ・・・このパターン」といつも思いながら書いています。^^;

>hakobuluさんは質問に対する回答文(テキスト)には関心があるけど
回答者(ヒト)にはあんまり関心がないのかな?と思いました。
:全くそのとおりです。

>要するに、自分の知りたいコトには関心があるけれど
自分に知らせようとしてくれるヒトには関心がないのかな?と思いました。
:興味ないことはありませんが、関心を持ったからといってなにがどうなるものでもないと思いますが。
また、そこは深入りすべき領域とは違うのではないでしょうか。

>自分の関心ゴトに集中したいので
ヒトはできるだけ排除しておきたいのかな?と思いました。
:「>自分の関心ゴトに集中したい」気持ちはありますが、なぜここでいきない「排除」が出てくるのか理解に苦しみます。^^;
論理展開に飛躍があるように思うのですけどねえ・・・。

ご回答文を読み直してみたのですが、結局、
『>「わかりました~しかし・・・」というパターンや
「すいませんでした~でも・・・」というパターン』
が多いので、「ヒトを排除しておきたいのかな?」とおっしゃっているように思うのですが、無理がありません?
CUE009 さんは、このような表現をお使いにならないのでしょうか?
もしお使いになることもあるのであれば、そのときはどんな気持ちでお使いになるのか興味があるので、ご参考までに教えていただけないでしょうか。【質問 1】

>すなわち、片方で「排他を発揮するのはよくない」と言いながら
片方では「本質をおろそかにしないために私は人を排除します」と仰っています。
これは矛盾していませんか?
:「本質をおろそかにしないために私は人を排除します」と思っているつもりはないのですが、肝心なことは、
(少なくとも CUE009 さんには)「そう思わせてしまう」ということなのでしょうね。
ですから、この点に関してこれ以上弁解はいたしません。

しかし(←こういうとこがダメですか。^^;)、あえてお聞きしますが、
「人を排除しないためであれば、本質をおろそかにすることもやぶさかではない」
というのが CUE009 さんのポリシーでしょうか。
「ああ、このヒトはこれ以上、言ってもわからないんだなあ」
と思って引き下がるようなことは多いですか?
あるいは、相手を傷つけないように適当にお茶を濁して会話を収束させる方向に導く場合は多いですか?【質問2】

補足日時:2009/04/12 20:20
    • good
    • 0
この回答へのお礼

(つづき)
私はよほどのことがなければそれはしません。
それこそが最大の排他であり侮蔑だろうと思っているからです。
けんかになるぐらいのやりとりができなくて本質が究められると、本気で思っていらっしゃるのですか?【質問3】

>私は「本質が知りたい」という知的欲求を満たすために
自分以外の人間存在を排除すべしという発想には反対です。
:全く同感ですよ。
しかし、前述したように、何が排除になるのか、ということには留意が必要になってくるでしょうね。

>なぜ「礼節を心得て、本質を探ろうとする」という選択肢は見捨てられちゃうんでしょう?
:見捨ててるわけではありませんし、可能な限りはそのようにしてますよ。
過去のやりとりをご覧になっているのであればおわかりでしょう?
礼節というのは、きれいな言葉できれいごとだけを並べることではありませんよね?
ただ、見限るぐらいなら、その前に、大声で話し合うことが必要な場合もある、ということです。
これを否定なさいますか?【質問4】

>礼節は、本質的でない、大したことのないことに起因する余計な争いを極力起こさないために考えられたひとつの作法と所作だと思います。
:これはよくわかりました。
大変勉強になりました。
ですが(←またかよ?^^;)、作法と所作によって本質をおろそかにしようというのが偽善者の常套手段であることはご存知でしょう。
そのような場面に遭遇した場合、どのように対処されますか?【質問5】

>> 『なぜ礼節は必要だと思われるのでしょうか?』
争うなら、本質で争うべきだと思うからです。
:とても素晴らしい表現です。
こういったものが哲学的表現じゃないでしょうかね。
シンプルな表現で本質を突き、しかも机上の言葉遊びではなく、実践性においても有効である。
実に素晴らしい。
心から拍手を遅らせていただきます。

もし私の失礼な言辞のせいで礼節をわきまえていないと判断されるようなことがあれば、その限りではありませんが、そうでなければ、
本質で争うために、拙問にもよろしくご回答いただければ幸いです。
 

お礼日時:2009/04/12 20:19

よく続きますね、私ならとっくに削除になってます。



ところで、これだけの回答数になったのでhakobuluさんなりの答えが出たんじゃないでしょうか。
そこら辺をお聞かせ願えないですか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

アドバイスありがとうございます。

シフトさんには敵いませんね。
実に鋭いご指摘です。^^;
タイミングばっちり。
そろそろ中間報告せねばと思い、昨日今日あたりから整理し始めているところです。

ただ、ここの回答とお礼自体が排他の実践現場としての要素も含んでいるために、実況中継しながらレポートを書くのに時間がかかっている、といった状況でしょうかね。
引き続きよろしくお願いいたします。
 

お礼日時:2009/04/12 00:49

#70です。


>少しでも共通項を探ることができればいいですよね。

に関してコメントさせてい頂きます。

私は米国に住んで長いのですが、米国人との共通項が見いだせず、それ故、私の中で彼等の物の見方を排斥し、相手からも私の物の見方を排斥されたことで、「文化」とは何かと言うことが体で判るようになった、あるいは目から鱗が落ちたという経験をして居ります。文化の違いとは、価値観の違いのことなのですね。

また、私は物理学のある研究分野に携わっておりますが、自分にとって重要で面白いと思う結果を得た時などの、相手にそれを打つけてみると、一緒に喜んでくれる方と、全然興味を示してくれない方が居られる。こんな時にも、ああ私はこの方と同じ価値観を共有しているが、あの方は私とは別な世界に住んでいるんだな、と感じることが屡々あります。

ついでに言ってしまうと、物理学では数学を話し言葉と同じ様に日常で使うので、数学の使い方のある意味でのプロなのですが、その物理学者は、数学に関して数学者とは殆どコミュニケーションが出来ないというのが、私の経験から得られた観測結果です。数学は、人間の脳味噌が創りあげることが出来る合理的な論理のあらゆる可能性を探る学問ですので、必然的に「一般化」にこだわります。ところが物理学は、その反対に、そのように無限にある合理的な論理の枠組みの中で、我々の埋め込まれている宇宙は、どの特殊な論理を実現させており、どの論理を実現させていないかを探るとこにより、この宇宙の個性を理解しようという学問です。すなわち、「あれもこれも」というのではなく「あれではなくて、これだ」と言うことにこだわります。したがって、物理学者の思考は、必然的に「特殊化」に向かいます。このように、数学者と物理学者では同じ数学を論じていても、その向きは完全に正反対ですので、お互いにコミュニケーションが出来ないのです。そんな時、私は自分の埋め込まれている文化と、他の方の埋め込まれている文化を、それぞれ如実に認識します。もちろん、私の周りに居る連中が偶然全て数学者だった時などには、「排他」の圧力を私の心の中で勝手に感じてしまい、何か場違いな所に居るような気がして、居心地が悪いです。でも、数学も物理学も共に人間の世界を豊かで面白い物にしてくれていますね。

そんな経験を通して私は文化とは何かを判るようになったものですから、多分「排他」という経験をしなかったら、私には一生文化とは何かが判らなかったかもしれませんね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ご経験を元にした考察で、大変興味深く拝見させていただきました。
物理学・数学・・・あこがれますね。
世の客観的真理はすべてそこにあるのではないか、と以前から感じています。
私たちが主観的存在であることもまた否定できない、という事実が色々と厄介な悩みごとを引き起こしているのでしょうけどね。

最後は塞翁が馬でしめていただいたようですね。
>「排他」という経験をしなかったら、私には一生文化とは何かが判らなかったかもしれませんね。
:それを消化する知恵と力があったということなのでしょうね。
 

お礼日時:2009/04/12 01:01

こんばんわ。


お返事ありがとうございました。
いいキッカケを頂いたように思います。
> これすらも排他性を遠ざけるための一つの下準備なわけですし
同じ思いで進めております。
これだけは信じてください。

さて、もうひとつの質問は少しヘビーです。
> これほど寛容でやさしいCUE009さんにこのように言わせてしまうは、
> 自らの不徳ゆえであろうと推測し忸怩たる思いが湧きます。
> そのような物言いとお感じになったのであれば謝罪いたします。
このお気持ちに嘘はないと思いますが
このような謝罪は火に油を注ぐようなもので
相手の怒りをむしろ大きくさせる可能性があるぞ
と感じたものですから
少し過去のhakobuluさんが立てたられた質問を覗いてみたのですが
結構、回答者を怒らしてますよね。
(削除されちゃったものまであるようで。)
私は、何となくhakobuluさんが相手の怒りを誘発してしまう
パターンのようなものを感じたのですが
hakobuluさんにはそのようなご自覚はありますか?
相手の怒りを誘発してしまう、どんなパターンがあると思いますか?

面倒くさい補足要求で申し訳ありませんが
怒りの誘発と排他の発揮はかなり密接な関係があると思いますので
もひとつだけ宜しくお願いします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>このような謝罪は火に油を注ぐようなもので
相手の怒りをむしろ大きくさせる可能性があるぞ
:勉強になります。
理由はわかります。
「そのような物言いとお感じになったのであれば」
ということは仮定ですからね。
つまり、何が怒らせてしまった理由なのかをわかってもいないのに形だけ謝罪していることになるからですよね。
でも、とりあえず不快な思いをさせてしまったのが申し訳ない、と思ったわけです。
子供っぽいですね。

>結構、回答者を怒らしてますよね。
(削除されちゃったものまであるようで。)
:はい。
そのとおりですね。

>hakobuluさんにはそのようなご自覚はありますか?
:そうですね。
そのときにもよりますが、そうなるかもしれない、という予測の上であえて発言することは多いと思います。

>相手の怒りを誘発してしまう、どんなパターンがあると思いますか?
:まずは、鐘の撞かれ方によって、ご希望の音を返している、というパターン。
次は、相手のキャパシティや思考形態に対する想像力不足。
といったようなことになりますかね・・・。

怒らせるかもしれないことより、本質をおろそかにすることのほうを私は怖れます。
私は礼節よりも本質が知りたいですね。
礼節は整えているが本質から逃げる人と、礼節は心得ていないが本質を探るに貪欲である人とでは、後者を尊敬します。
 

お礼日時:2009/04/11 00:36
←前の回答 1  2  3  4  5  6  7  8  9 次の回答→

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す