アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

『天皇独白録』(文春文庫)では(「西園寺公望と政局」)からの引用で
>昭和13年7月11日豆満江北岸の張鼓峰での日ソ両軍衝突の際、天皇は明確な統帥命令を下している。
「元来陸軍のやり方はけしからん。満州事変の柳条溝の場合といい、今回の最初の盧溝橋のやり方といい、中央の命令には全く服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてあるまじき卑劣な方法を用いるようなこともしばしばある。まことにけしからん話であると思う。このたびはそんなようなことがあってはならんが・・・今後は朕の命令なくして一兵でも動かすことはならん」
 と書かれてあります。それのも関わらず、翌年満蒙国境で関東軍はノモンハン事件を半ば意図的に起こし、大敗を喫し、それを国民にはひたかくしに隠し、かつ上記の本でも天皇に正確な戦況報告を入れたとも思えません。
 司馬遼太郎氏もノモンハン事件が昭和の転換点と考えていますが、正直に大敗したことを国民に報道していたら、国民は開戦にOKを出したでしょうか?
 国民は情報操作で戦争やむなしと思ったようですが、戦前、戦中を通して嘘で固められたら国民は戦争責任のとりようがないように思っています。大日本憲法では国民主権が保証されていない以上、国民にも責任があるとは法的にも考えられません。国民に責任を押し付けるのは、やはり軍部の責任を軽減しようとする卑怯な考え方と思います。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (12件中1~10件)

大日本(帝国)憲法では「天皇ハ神聖ニシテ犯スベカラズ」とあります。


人ではなくて神なのです。そして、「犯スベカラズ」なので、責任もとらせることができません。
開戦しましょう、と多数決で閣議決定をもちこんだ内閣、つまり「天皇を輔弼(ほひつ)する臣下」に責任があります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
 天皇を「玉」としてしか位置づけなかった関東軍は一番の責任があります。天皇の気持ちなど「どこ吹く風」でした。

お礼日時:2009/04/16 10:12

質問者様の質問内容は首記の題そのものでいいのですね。


日本は明治時代から議会制民主主義を採っていましたから、国民の総意でなされる対外戦争に国民の意思が全く反映されていなかったとするのはやはり無理があるのではないでしょうか。
近年多くの昭和史とその時代の分析が出版されていて、対米戦争の直接のきっかけになった瑣末な内部事情なども多く知られるようになって居ます。これらはこれで非常に貴重な歴史として興味があり、未来を考える上での糧ともなると思いますが、(対米戦において)誰が引き金を引いたのかというようなことは余り意味がないようにも思うようになってきました。むしろそれはほとんどオートまチックな動きになっていて、その原因をたどれば、次々に過去へとさかのぼることになってしまうようにも思われます。
つまり、対米戦争の原因究明は日露戦争以後の日本の国民の国民感情の変遷と世界の動きを大きく捉える視点がなければ間違うのではないでしょうか。比較的自由な言論が出来た大正期から昭和にかけて、日本国民の思想やら対外感情に好戦的な思いがなかったとはとてもいえないと思いますし、それを軍部の誘導やジャーナリズムの責任に全部を押し付けることも出来ないとは思います。
ともかく一国を動かす大きな動きは単なる一高官の言動だけではどうなるものではなかったろうということです。だからこそ彼らは言語統制や様々な議会工作をして国民多数を味方に引き込み、侵略の合法性を着々整えていったのでしょう。
対米戦争そのものは米国の意思と様々な(米国での)国内世論工作、対外工作があって、日本はその罠に嵌ったという面が大きいと私は思います。だとすれば、質問者様の仰る「戦争責任」というものはむしろ米国において大きいともいえるのでしょうね。
昭和十年台でも、あの不自由な言論統制の時代にあっても、ごく少数の政治家、言論人は危険をおかして議会などで反軍部演説を行ったりしています。これらをよく取り上げるジャーナリズムがなかったというのも、やはりつきつめれば国民のレベルの問題であり、国民多数に真の国益というものをを考える力がなかったということなのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>日本は明治時代から議会制民主主義を採っていましたから、国民の総意でなされる対外戦争に国民の意思が全く反映されていなかったとするのはやはり無理があるのではないでしょうか。
 明治までさかのぼろうとはおもいません。昭和の初期からと考えています。軍部が張作霖爆死事件張本人河本大作を厳重に処罰できなかったことを始めとして強引な戦略を大陸で取り出したころからです。
 
>質問者様の仰る「戦争責任」というものはむしろ米国において大きいともいえるのでしょうね。
確かに日本移民拒否などアメリカで排日運動があったのが遠因といえなくはありませんが、それは戦争責任を負わせる事件といえば強引過ぎます。
 満州帝国でさえ当時のアメリカでは仕方なく認知しそうであったし、ノモンハン事件についてはアメリカはほとんど関心がなかったということで、アメリカに戦争責任を押し付けるなど考えられません。
 私のいいたいのは、軍部が国民に嘘をつくようになったということです。国民の怒りが怖かったのかもしれませんが、ノモンハン事件の戦況にしろ正直に国民に報告すべきでした。日本の国力分析を、列国との比較して報道すべきでした。敵を過小評価し、自らを過大評価したままで国民をひきずっていったのです。国民に情報公開もせずに(大日本帝国憲法からいえば問題ないのですが)、国民に責任を押し付けられるかというのが私の質問の要点です。
 また、統帥権でみられるよう皇軍と称されるように、天皇の平和の意思に沿うべきでした。 

お礼日時:2009/04/16 20:45

 回答番号:No.10


 ☆まだ民主主義の面倒くさいけど大切な一票の重みを理解していないのですね。こんど大事件があったら国民の責任は問われることでしょう。
 ★常に歴史的転換を経ていますね。縄文や弥生の流れは悠々汪汪でしょうが、時代が下がるに従い、その流れは、河も水も急激な変動をしております。常に大きな変化に直面しております。
 その中で生きる国民に一面、仕方ないのだという同情と、多面是認をしない批判をしているわけです。
 そういう国民という多の中に埋没させないで個を自覚しなければいけないと、責任性を受けてたつ人が、昔と量的にどれだけおりましょうか。
 どういう資質と判断力、そして情報の批判力を持って、その責任性を自覚している人がいるのでしょうか?
 法制度としての国民という所属属性は希薄ではないでしょうか。
 空しいことばになってきました。
 どこかの国のように隣国を仮想敵国にしたり、煽ったりしていればみんな敵愾心で所属観念も強化するのでしょうが。
 国民ということばは、歴史的には正体がないのではないのでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ちょっとわかりにくい文面なので、どうお礼を述べればいいのかこまっていますが、国民というものは正体がない?といっていたら何も始まりません。
 情報公開でいえば、ソ連ではそれをきっかけに共産主義体制は崩壊しました。真実を知ると不誠実な、うそつきな国家は転覆されるのです。
 中国でも、国家権力を維持するために情報を制限していますし、北朝鮮では明らかに嘘をいっています。
 たとえば北朝鮮が外部の圧力で崩壊したら、国に騙された国民にも責任があるといえるのでしょうか?私の判断では国民に責任はないと思います。責任性を受けてたつひとがどれくらいいるかと疑問に思っておられるらしいのですが、歴史を観察して現在と未来を考えてみれば、たとえば選挙制度のある日本で国民年金の問題が起こりましたが、あれを国民が監視を怠ったからと非難する人はどれくらいいるでしょうか。
 あれは数字を操作した役人に責任を求めます。真実を公開されなければ責任のとりようがありません。国家の政策によって、大いに国民に利害関係が生じています。借金が多くなれば、最終的に国民につけが回されます。所属属性が希薄であれば税金を負担しなくてもいいのなら別ですが、そんな呑気なことを言っていると役人にしっかり搾り取られます。

お礼日時:2009/04/16 18:02

 歴史の責任ですから、不可抗力の責任ではありませんか。


 一定の思想などから、戦争に反対して方々もおりましたが、その特別な切断面での判断だったと存じます。
 まだinterコミュニズム思想と運動という事からの判断もありましたでしょう。

  今次、大東亜戦争はゲルマン移動や十字軍、そして大航海に引き続く西欧の東洋とアメリカ大陸の領土拡張と、食い物化に原因があり、その防衛の一環がわが国の政治の役目でありました。

 近隣の諸国も西欧の食い物にされないような状況であれば、わが国が西欧の侵攻に敢えて不安を持つことも無かった。
 そういう中でなお、一般国民として反省することを強いてあげれば、以下のとおりと存じます。

 しかし当時、このことを要求することは難しかろうし、具体的な方法や行動が考えられるとは思えません。
 西欧とその連合であるに過ぎない国際思潮はこのための行動や判断をとることを許すものではなかった。

  1)対外圧力に影響されて、対抗する思潮に乗っていったこと。
  2)ジャーナリズムの論調と報道に批判をする能力と情報、そしてそういう傾向を持ち得なかったこと。
  3)自国の存立を過大に偉大なこととした。そういう思潮への客観的視点を保持できなかったこと。

 以上のことが責任と存じます。
 戦争責任は欧米とその指導者の側のものと存じます。
 欧米からの歴史観では太平洋せんそうと呼称し、私もそういう教育をされてきました。
 西欧的民主主義とともに正しいとされてきましたが、このことこそ、あらためて振り返る必要のあることと存じます。
 軍国主義や、昔の天皇制の中の政治を懐古し、復古を願うものでは決して無いが。 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
 敗戦で得た国民主権の民主主義であり、有り余るくらいの情報が得られるのに段々低下する選挙の投票率をみると、まだ民主主義の面倒くさいけど大切な一票の重みを理解していないのですね。
 こんど大事件があったら国民の責任は問われることでしょう。

お礼日時:2009/04/16 11:55

ノモンハン事件ですが、これはソ連崩壊によって東側資料が公開され、多くのことがわかっています。



まずこれはどちらかがが一方的に仕掛けたものではありません。
系争地での遭遇戦闘がどんどん拡大していったものです。
軍として、撤退命令が中央からでない限り、領土保全のため戦うのは当たり前のことです。
そしてこれまで日本の大敗と思われていましたが、ソ連にとっても辛勝もいいところ、倍程度の戦力を繰り出しておきながら日本の倍近い損害を出しています。やられてもやられても次から次へと戦力をつぎ込むというソ連お得意の戦いでかろうじて勝ったに過ぎません。しかもそれで得たのはただの草原と砂漠です。
そしてこの戦争で軍部現場の問題と考えられるものは、許可無く相手の領土まで踏み込んで航空攻撃をしたことだけです。これも中央の指令で中止されています。

大本営発表のようなことが行われたのは事実ですが、軍の独断専行の例としては不適切です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。新しい資料の内容は知りませんが、司馬遼太郎対話選集6「戦争と国土」(文春文庫)で1990年ノモンハン事件を日本とソビエトの両資料をもとに調査研究してしたアルヴィン・D・クックスとの対談では、クックスは >ノモンハン事件のときのタンク(八九式中戦車)はジャンク、がらくただった。>日本は要するに肉弾攻撃。肉弾攻撃は安いからだったのでしょうか。
とのべ、司馬は>このノモンハンでもわかるように、日本軍がひどい条件下でなんとか持ちこたえたのは上等兵以下の力でしょう。威張っている偉い人は全部だめ。参謀肩章を釣った辻政信たちなど、全部だめでしょう。ノモンハンの状況では、普通の国の軍隊なら、ほとんど一日で崩壊しています。70%以上の死傷者を出しながらなんとか形をつけていったのは、小学生しか学歴のない兵士や下士官でした。
 と述べています
上記の「天皇独白録」の天皇の意向は無視されてもよかったのですか?
統帥権をあげる以上、天皇の意向を尊重すべきでした。
 天皇自身もノモンハンは明瞭でない国境線が原因であると認識され
>この事件に鑑み、その後命令を変更して国境の不明確なる地方および僻遠の地方の国境は厳守するに及ばずという事にした。
 とのことです。ただし、このときの日本側の被害が甚大であったことを報告されていたのかどうかは明記されていません。なお、天皇の分析した敗戦の原因は、以下のごとくで、正解と思います。やはり、陸軍の首脳部はいけなかったということです。
1)平方の研究が不十分であったこと。即孫子の、敵を知り、己を知らなば、百戦危うからずという根本原理を体得していなかったこと。2)余りに精神に重きを置き過ぎて科学の力を軽視した事。3)陸海軍の不一致。4)常識ある首脳者の存在しなかった事。
確かに日本兵が火炎瓶ーサイダービンに詰めたガソリンなど兵士が勝手に工夫した武器で被害を与えたのは事実ですが、あまりの被害の大きさに指揮官の更迭、責任をとっての自殺がありました。
 質問者の資料ではソ連の辛勝であったとしても、日本側の甚大な被害を国民に伝えなかったことは事実です。
 関東軍を抑制しようとした永田軍務司令官は、陸軍省内で白昼、皇軍派の将校に暗殺されています。中央の命令でとまるような戦争であったら「大東亜戦争」に発展しなかったでしょう。

お礼日時:2009/04/16 11:45

 「戦争責任」などという、曖昧模糊とした一体何なのか分からない、そもそもそんな概念が必要なのかどうかすら分からないものに、「国民」というこれまた抽象的な概念を組み合わせたら、はっきり言って殆ど言葉遊びの世界になるのではないでしょうか。

「軍部」ですら大ざっぱ過ぎると思います。議論の実益があるのは「天皇」だけではないかと。
 と、回答にもなってませんしこんなこと恐らく承知の上でのご質問だと思いますが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

沢山の国民が死んだことにどう「落とし前」をつけるのかといえば、戦争責任の言葉しかないでしょう。
言葉の遊びといっておられるのは、「戦争を知らない子供たち」になっておられるからだと思います。
 やはり「賢者は歴史に学ぶ。愚者は経験に学ぶ」を念頭におきたいものです。
「天皇独白録」などみると、現人神である天皇も情けない存在でしたね。

お礼日時:2009/04/16 10:19

>国民は開戦にOKを出したでしょうか?


国民主権が保障されていないなら、NOも出せないでしょうね。

>国民に責任を押し付けるのは
いいえ。全部大本営と軍部に押し付けているだけですよ。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
 >いいえ。全部大本営と軍部に押し付けているだけですよ。
回答者の皮肉も感じられますが、そのまま受け取っておきます。
 「統帥権干犯」というアイディアを考案して、国事を壟断した罪は万死に値すると考えます。

お礼日時:2009/04/16 10:26

ちょっと待ってくれ。

当時すでに普通選挙が実現していたのを忘れてもらっちゃ困る。国会が東條内閣に対し、「国民の総意」として全会一致で開戦を要求する決議案を叩きつけたのを質問者はご存じだろうか。議会の議員を選んだのは国民である。チャーチルはこう云ってるぞ、「戦争責任?そんなもの、戦争に予算をつけたやつにあるに決まってる」
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>チャーチルはこう云ってるぞ、「戦争責任?そんなもの、戦争に予算をつけたやつにあるに決まってる」

 正直に情報を国民に流したく国では生きている科白です。ノモンハン事件の顛末をひたすら隠した経緯をみれば、陸軍が心配したのは戦意が下降することであったのです。戦時中国民の戦意を高揚させ、維持するためうその情報を流し続けたのです。陸軍の佐藤賢了などは国会で、軍部を批判するような演説があると「統帥権干犯!」と叫んだそうです。
その一方で、批判的政治家に対してはテロを含めた恐喝をしているんです。中野の反軍演説などありましたが、結局辞職に追い込まれ、残ったのは大政翼賛会でした。
 保坂正康『大本営発表という権力』(講談社文庫)
>私の見るところ、近代日本で昭和8年ごろから十五年ごろまでの“日本社会という空間”は正常な感覚を失った病的空間になっていたと思う。それが太平洋戦争を肯定する国民的心理に転化していったと断言していいであろう。国民をこのような酩酊状態に似た、つまり正常な感覚を失った状態にするには、四つの条件で縛り上げれば苦もない。
 その四つの条件とは、「教育の国家統制」「情報の一元化」「弾圧立法の適用」「暴力装置の発動」である。

お礼日時:2009/04/16 10:06

質問者の方に一つのエピソードを紹介したいと思います。



東條英機が首相になった際、昭和天皇が彼に願っていたのは、陸軍の強硬派を抑えて、アメリカとの戦争を回避することでした。

天皇の意を受けた東條は開戦を回避すべく動いたのですが、当時の世論は開戦に向かって傾いており、和平を目指した東條は国民から弱腰だと非難されたのです。

『日本の戦争』(著者:田原総一郎)から引用。
<引用開始>
わたしはかつて東条(原文ママ)の用賀の家で、東条の娘光枝を取材したことがある。畳の部屋で行李一杯の手紙やはがきを見せられた。日本国中から寄せられた一般の国民からの郵便物だった。内容は二つに大別された。「米英撃滅」「鬼畜米英を倒せ」「猶予は亡国、即時立て」といった戦争を強く促す内容と、「何をぐずぐずしておる」「弱虫東条」「いくじなしはヤメロ」といった「ぐずぐずしている」東条批判である。東条が首相になってから開戦までの50日あまりに3000通以上来たということだ。
<引用終了>

昨年末に、ビートたけしが東條英機を演じたドラマを見た方も多いと思います。
どうもあれが、史実に近かったようです。

日本はヒトラーのドイツやスターリンのソ連と違い、開戦当時も議会制民主主義の国でした。
2.26事件以降、軍部の政治への介入が強まった結果、議会政治がきちんと機能しなくなったのですが、国民に責任がまったくないとは、とても言えないのです。

今もそういう雰囲気が一部にありますが、国民がマスメディアに煽られると、冷静かつ理論的な考えから逸脱する傾向にあります。
戦前の日本を開戦へと追いやった最後の一押しは、間違いなく世論の圧力でした。
そして、部数拡大のために開戦を煽った新聞各社、その新聞を盲信した当時の日本人すべてに責任があります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
 議会制民主主義が戦前まであったとのことですが、陸海軍が統帥権干犯の旗を振ったため、政治家が押さえ込まれてしまったんです。
 広田弘毅の後の林銑十郎内閣以降は露骨になっていきます。貧乏な日本にとっては過重な軍事費を国民は望んでいなかったとおもいます。

>戦前の日本を開戦へと追いやった最後の一押しは、間違いなく世論の圧力でした。
 もし、ノモンハン事件での大敗が国民に知らせたら、国民は開戦に同意しなかったのではないかと考えているのです。情報操作という近代戦争独特の手法が登場し、一元化され、操作された情報で責任を負えるかというのが論点です。

 「天皇独白録」(文春文庫)では
>戦時中国民を鼓舞激励するために詔書を出していただきたいといふことを、東条内閣の末期、小磯、鈴木と引き続き各内閣から要望があった。
が、出すとなると、速やかに平和に還れとも云われぬからどうしても、戦争を謳歌し、侵略に賛成する言葉しか使えない、そうなると皇室の伝統に反する事になるから断り続けた。
 この際私が17年12月10日伊勢神宮に参拝した時の気持ちを云って置きたい、あのときの告文を見ればわかるが、勝利を祈るよりも寧ろ速やかに平和の来る日を様にお祈りした次第である。
 
それをみても戦意高揚を煽っていたのは軍部で、国民は耐乏生活に疲労困憊していたことが窺える。

 

お礼日時:2009/04/16 09:31

難しい問題ですね。


強制的なものがあるからそこに巻き込まれる人間はなにも責任がないと言えるのかどうかという質問に換えてもいいでしょうね。
戦争が始まり、情報も限られている中で、また、是非を言う権利がないのだから、その時点では責任がないでしょうね。

だが、戦争に巻き込まれる中で、何をしてきたかは検証すべきでしょうね。殺戮や強姦が戦争を理由に行われた時に、責任はなにもないと言えるのかどうか、

もっと単純に、会社でいじめがあった時に自分はそこに加わらずに冷静に判断し、それを止めさせることができるのか?派遣切りが行われるときに、それはおかしいだろうと言えるかどうか?

戦争中よりも自由な現代で、正当な権利を主張できるかどうか?
何でもない一人一人が自分の考えを持ち、主張できるかどうか?
戦争責任の問題は昔の問題ではないように思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
 城山三郎『男子の本懐』(新潮文庫)をみると軍人以外の政治家は過剰な軍事費の出費に苦しみ、だれも戦争を好んでいません。
 軍部という猫にどうして鈴をつけようかといろいろ対策をねった政治家はテロに倒れて行きます。
 軍部+メディアに煽られて、次第に戦争へのめりこんで行くのです。

お礼日時:2009/04/16 08:56

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q「戦争責任は国民にあり」という論者は居ませんか?

私はかつての戦争を起こしたのは、マスコミに煽られて、熱狂的軍国主義に陥っていた国民世論だと考えています。
当時の政治・軍事のトップたちはほとんど全て、アメリカと戦争をしてはいけない、と内心では思っていたことが明らかになっています。
それなのに真珠湾奇襲を決めたのは、国民世論にそむくことは出来ない、という民主主義の原理によるものでした。
従って、東京裁判は、間違った裁判で、平和の罪というものがあるならば、国民に罪があると言えます。

つまり民主主義的手続きで選ばれた政治家が、民主主義の手続きで開戦を決議したことを罪に問うことは出来ません。
アメリカ大統領を原爆投下について、犯罪者として有罪とすることは出来ない、と同じ原理です。

以上のような私の考えは、どこにも見たことがない、私の独自の考えですが、誰か?どこかで?こういう考えを述べた人がいるかどうか、ご存知ないでしょうか?

Aベストアンサー

「戦争責任は国民にあり」という論者は居ませんか?
とのことですが、元朝日新聞記者の田岡俊次さんはそうではないかと思います。
以前私はケーブルテレビでパックインジャーナルという番組を毎週見ていたのですが。そのなかで田岡さんは戦前の日本は軍国主義ではなく民主主義国家だった。民主主義だったから日本は戦争したんだと仰っていました。恐らく質問者さんと意見は近いのではと思います。

個人的には、軍部が暴走したと言いますが何で暴走したかというと国民の支持があったわけで、そういう意味でも国民の責任は重大なものがあると思います。ご存じかも知れませんが、小学館から出ている大日本帝国の民主主義という本は面白かったです。

参考URL:http://www.asyura.com/2002/dispute3/msg/164.html

Q東条英機は戦争に積極的だったのでしょうか??

インターネットを調べていると、
いろいろ全くの正反対の考えがあり、混乱しております。
どなたか、はっきり本当のことを教えて下さい。

東条英機は、日米開戦を積極的に願っていたのでしょうか?
彼は統制派だと聞いております。
統制派は中国への一撃を主張し、英米を敵とし、
ソ連との不可侵条約の締結を推進した。とあります。

実際問題、東条英機は日米開戦を元より
支持していたのでしょうか??よろしくお願いします。

Aベストアンサー

ANo.5です。 補足いただきましたので。

>けど、東条が、開戦をためらっていた近衛に
清水の舞台から飛び降りることもまた
必要であると忠言したのはどういうことなのでしょうか?

アメリカが条件を軟化させない以上は、開戦も仕方が
ないところまでいっていたという事です。
くるとこまでくれば、東条でなくても戦争を支持する
しかなくなるわけです。

何度でも言う様に、東条は別にアメリカと戦争をしたい
わけではありませんが、ここまでアメリカとの関係が
悪化すれば仕方がないような流れになるのです。
最終的には、ハルノートで皆が戦争を支持したわけですから。

近衛は優柔不断で、あまり褒められた総理ではありません。
日中戦争を泥沼化にしてしまったのも、近衛が元凶だと思います。
それに近衛はどちらかというと反英米派です。

私は東条英機はあまり好きではないのですが、仮に開戦に対して
誰か責任があるとすれば、ここまで日米関係を悪化させた人が
悪いのではないでしょうか。

もう東条内閣のときは開戦も仕方がないと思いますね。
作家の半藤一利さんに言わせれば、服部卓四郎、辻政信あたりが
日本を戦争に導いたと批判をしていましたが、私は個人的には
近衛文麿、松岡洋右あたりが、責任的には大きいような気がします。
確かに東条英機も責任はあるとはいえ、同情する面も多いです。

ANo.5です。 補足いただきましたので。

>けど、東条が、開戦をためらっていた近衛に
清水の舞台から飛び降りることもまた
必要であると忠言したのはどういうことなのでしょうか?

アメリカが条件を軟化させない以上は、開戦も仕方が
ないところまでいっていたという事です。
くるとこまでくれば、東条でなくても戦争を支持する
しかなくなるわけです。

何度でも言う様に、東条は別にアメリカと戦争をしたい
わけではありませんが、ここまでアメリカとの関係が
悪化すれば仕方がないような流れに...続きを読む

Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む


人気Q&Aランキング

おすすめ情報