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山月記について質問します。

文の中で李徴は袁さんのことを「友」ではなく「故人」と表現していますが、なぜなのでしょうか??
別に死んでしまった友達ではないと思うのですがどうしてか知っている方がいらっしゃったら教えてください。

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A 回答 (4件)

袁慘が李徴のことを[友]と呼ぶのに対して、李徴が袁慘を[故人]とするのは、


文中の『かつて君の友李徴であったこの自分』から考えて李徴が自分はもう袁慘の友とは言えないと思っていることがわかります。

つまり李徴は虎と成り果てたあさましい自分は袁慘を友人とは呼べないと思っているんだと思います。
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この「故人」は、漢文的な使い方です。


この場合「故」は「古」です。
「故人」は「古人」となる訳で、ここでは漢文的に「旧友」の意味で使っています。
これは、発表当時は漢文力が今とは格段に違っていたため、このようの漢文的の表現をしても読み誤れる心配がなかったためと、作者の所謂支那趣味から来ているでしょう。

註。「支那」は当時の日本で行われた「禹域」を指す呼び方。
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「故人」とは、現代日本語では「死んでしまった人」の意味ですが、昔の中国語では「旧友」という意味で、そちらの意味で使っているからです。

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漢和辞典を引きなさい。

或いは「故人とは」で検索しなさい。自分で調べなさい。
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Q山月記

袁さんが、「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」といっていますが、欠けるところというのは率直に言うとどこなのでしょう?
色々調べてみたのですが、あまり良く分からなくて困っています。
分かる方がいましたら、解答お願いします。

Aベストアンサー

ものすごく簡単に言えば、天才と秀才の違いです。

李徴は秀才だったけど天才ではなかった。
天才と秀才の差は袁サンのような凡人には僅かな差にしか見えない(だから袁サンは「何処か(非常に微妙な点において)欠けるところがある」としか表現できなかった)、しかし李徴当人はこの差は絶望的なものに見えます。

それゆえ、

  凡人に比べれば才に恵まれている→尊大で傍若無人に振舞う
  天才とは決定的に差があるとの自覚がある→猛烈な劣等感にさいなまされる

ということになります。


この辺の事情がわかりにくければ、「アマデウス」という映画をお勧めします。
古い映画ですが名作ですし未見でしたら一度ご覧あれ。

「アマデウス」の主人公サリエリ氏は自他共に認める大作曲家でしたが、モーツァルトに接して初めて、モーツァルトこそ真の天才であり自分はたんなる秀才に過ぎないと気が付きます。
しかしこの差をはっきり認識しているのは当のサリエリだけで(モーツァルトは最初からサリエリなど眼中にないので気にも止めていない!)、周囲は気がつきません。

サリエリは今までどおり大作曲家として振舞いながらも、モーツァルトに対する嫉妬と劣等感に苦しめられ、とうとう…。

この映画のサリエリ氏の最期を中国伝記小説風に表現すると、「虎になった」になるのでしょう。


さて、ではこの天才と秀才の差、袁サンが「何処か欠ける」と表現したものは何なのか?

これを言葉で説明するのはやはり難しいです。
でも確実に存在するのですよ。

文学でも音楽でも美術でも何でも、それなりに真剣に取り組んだことのある人間には明確に把握できます。
そしてそれを把握できた人間の大多数は「ああ、自分はどんなに頑張ってもこの域には達することができない。つまり自分は天才ではないな」とはっきり認識することになります。

若いころ、この苦い思いを味わったことのある人間にとっては、「山月記」は非常に分かりやすい、そして身につまされる小説なのです(苦笑。

ものすごく簡単に言えば、天才と秀才の違いです。

李徴は秀才だったけど天才ではなかった。
天才と秀才の差は袁サンのような凡人には僅かな差にしか見えない(だから袁サンは「何処か(非常に微妙な点において)欠けるところがある」としか表現できなかった)、しかし李徴当人はこの差は絶望的なものに見えます。

それゆえ、

  凡人に比べれば才に恵まれている→尊大で傍若無人に振舞う
  天才とは決定的に差があるとの自覚がある→猛烈な劣等感にさいなまされる

ということになります。


こ...続きを読む

Q「カフェの開店準備」 [一]教科書P243・2行目「それ自体に光が当たるものではありません」について

「カフェの開店準備」
[一]教科書P243・2行目「それ自体に光が当たるものではありません」について、
(1)「それ」のさす内容を、本文中から10字以内で抜き出して答えなさい。

(2)「光が当たる」とはどういうことか。次の中から一つ選び、記号で答えなさい。
ア店の窓から入る太陽の光で照らしだされること。
イその行為を正当に評価されること。
ウ他人から注目され、関心をもたれること。
エお金を払う価値があると判断されること。

[二]教科書P245・11行目に「そういう構造」とあるが、どのような構造なのか。解答欄に合うよう、本文中から25字以内(句読点を含む)で抜き出して説明を完成させなさい。

[三]教科書P245・5行目に「分別」とあるが、文脈から考えて、ここではどう読むべきか。その読みを答えなさい。

[四]教科書P246・2行目に「すべてが、いつも本番ということになる」とあるが、筆者がこのように述べるのはなぜか。次の中から一つ選び、記号で答えなさい。
ア練習といえども本番のつもりで行うべきだから。
イ今という時間にすべての行為が存在するから。
ウ本番を意識しなくては、立派なものが生み出されないから。
エ多くの実績は、本番を想定した練習によって生じるから。

[五]教科書P246・11~12行目「一つの事柄を、特別考えもせずに、うまく手際よくできるようになること」とあるが、本文中の語句を用いて、これを10字以内で言い換えなさい。

「カフェの開店準備」
[一]教科書P243・2行目「それ自体に光が当たるものではありません」について、
(1)「それ」のさす内容を、本文中から10字以内で抜き出して答えなさい。

(2)「光が当たる」とはどういうことか。次の中から一つ選び、記号で答えなさい。
ア店の窓から入る太陽の光で照らしだされること。
イその行為を正当に評価されること。
ウ他人から注目され、関心をもたれること。
エお金を払う価値があると判断されること。

[二]教科書P245・11行目に「そういう構造」とあるが、どのような構造なのか。解答欄に合...続きを読む

Aベストアンサー

No.1 です。私なりの答。「正解」とは限りません。

[一](1)「カフェの開店準備」

(2) ウ

 ここでは一般論として「ウ」でしょう。
 状況によっては「イ」や「エ」のこともあるでしょうが。(きれいに準備すると報奨金が出るとか、店長さんがしっかり見て評価してくれるとかがあれば。でも、この文章の作者はそんなことは知らないし、書いてはいない。)

[二]「汚れが落ちる、そのことが楽しくなって、夢中になる」(意識の変化の)構造

「いったん窓を磨きだすと、磨くことが目的になる」(意識の変化の)構造
もありかもしれませんが、その本質は上のようなことなので、上の方がよいかな。

[三]「ぶんべつ」

 「練習」とか「本番」に「区分けする」ということですから、「ゴミの分別収集」と同じく「ぶんべつ」でしょう。
 「ふんべつ」(=道理をよくわきまえていること。また、物事の善悪・損得などをよく考えること。)とは違うでしょう。

ふんべつ
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/197717/meaning/m0u/

ぶんべつ
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/197718/meaning/m0u/

[四]イ

文脈からすると「イ」でしょう。「練習、準備」と「本番、開店」を一般化した表現ですから。

[五]「習慣化という作業」

「行為の習慣化」と言いたいところですが、これがありません。「行為を習慣化」「行為が習慣化」はありますが、これだと言い換えの言葉としてはふさわしくないでしょう。ということで、次点の策で「習慣化という作業」。
好きなようにかけと言われたら、私なら「習慣化による効率向上」とでもするかな。


いずれの問題も、なんか、「一つの正解を導け」「唯一無二の解釈せよ」ということで、文章の「含蓄」や「行間」を読むことを拒絶するような「文章の読ませ方」ですね。ああ、窮屈でいやだなあ、と思います。なので、上に書いたことは「正解」でない可能性も高いです。

受験生の方は、本当にご苦労様です。
くれぐれも、読書が嫌いになることがないことを祈ります。本当の読書は、もっと「想像力」や「ファンタジー」に満ちた、楽しいものですからね。

文学や小説の好きな、理科系人間でした。

No.1 です。私なりの答。「正解」とは限りません。

[一](1)「カフェの開店準備」

(2) ウ

 ここでは一般論として「ウ」でしょう。
 状況によっては「イ」や「エ」のこともあるでしょうが。(きれいに準備すると報奨金が出るとか、店長さんがしっかり見て評価してくれるとかがあれば。でも、この文章の作者はそんなことは知らないし、書いてはいない。)

[二]「汚れが落ちる、そのことが楽しくなって、夢中になる」(意識の変化の)構造

「いったん窓を磨きだすと、磨くことが目的になる」(意識の変化の)構...続きを読む

Q中島敦さんの「山月記」についての質問です。

山月記の中の月の役割を教えて下さい!
主題にもかかわっているらしいのですが、全く解らなくて。
ところどころにでてきて微妙に変化している月の意味?を教えて下さい。
6月15、6日ごろまでにお願いします。

Aベストアンサー

旧友との再会の場面は、「残月」つまり明け方近く、月が日の光に見えなくなってしまうまでの、ほんのわずかな間の物語です。
出立時にはまだ暗く残月とはいえはっきりと見える。これは意識の大部分を占めつつある虎の野生を日の光とするなら、それがない間だけ人の心がわずかな光を放てるということを表現していると思います。それも現れるのが暗い闇の中でだけというのが、人の心のある時間彼をとりまいている絶望と対応しています。
最後の「白く光を失った月」が何を表しているかは説明はいりませんよね?
さらには、旧友と話している間、主人公は決して姿を見せようとしません。これも、太陽の前に姿を表せない月にかけての表現だと思います。旧友との立場の違いを主人公がどう感じているかがわかりますね。

Q山月記

学校で山月記を学んでいます。
なぜ中島敦は、山月記と題したのでしょうか?
月が大切なようですが・・・。
教えてください。

Aベストアンサー

「山・月」の語は、小説中の詩に「此夕渓山対明月」とあるところからのイメージかと思われます。
 「月」は作品全体に度々情景描写として描かれます。最後に「虎は、既に白く光を失った月を仰いで、」とあり、人間としての理性・知性の喪失と同期するように描かれ、月はこの主人公の人間性と読むことも可能ではないでしょうか。

Q叢中の意味!

山月記で 叢中 というのが出てきたのですが、国語辞書でもyahoo辞書でも意味が出てきません!叢中の意味わかるかた教えてください!

Aベストアンサー

先ほど、誤字があったのに間違えて投稿してしまったので、、、

もう答えは出ていますが、、、
例えば、「叢中」でしたら文章の流れで「中」の意味はわかりますよね?普通に考えても、なか(中)です。
そのときは、国語辞書で「叢中」で引いて意味を調べるのではありません。漢和辞典(新字源がお勧め)で「叢」を調べます。そうすると「叢」=くさむらの意味が書いてあります。そうすると、「叢中」は{くさむらのなか}という意味になります。
漢文を勉強するときは、漢字を勉強するようなものです。
勉強の仕方を変えないと、この先も行き詰りますよ。
(因みに大学が漢文学科卒業で、予備校で漢文教えていました)


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