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私自身は、ずっと紫の上の身分は「女王」だと思ういます。
でも、自分は中国人ですから、日本の事よくは知らないのです。
今日は、他人と検討する時は、異なる意見を受けました。
あの人は、紫の上は親王の娘だとしても、自分の生母は妻ではなく、其れに両親の関係は私通なんだから、紫の上は事実に認められる娘じゃないと、紫の上の「女王」の身分を否定したのです。
それで困ります。私ならずっと紫の上の女王の身分を認めているのですから。
そして、謝野晶子訳の源氏物語も見て、確かに紫の事は「女王」と称されます。
これで、平安時代の「私通」の意味も解りたいのです。一体紫が、「女王」と称せますか?

A 回答 (2件)

こんにちは,源氏物語および平安時代の虜になって?十年の主婦です。


 
角川文庫発行の全三巻を飽きもせず、この?十年間、ほぼ毎日欠かさず読みふけっている程の与謝野源氏ファンです。いや勿論、至上は原文なのですが、与謝野源氏はやはり別格・・・。それにしましても与謝野源氏の「女王さん」呼び、いわん方なく典雅な響きを漂わせていて私は大好きです。「わかんどほり」の姫君への溢れんばかりの敬慕の情を表す術として、これ以上のふさわしい呼称が他にありますでしょうか。
 
 さて、ご質問の<紫上の身位は女王か、否か>という問題、研究者でも翻訳者でもない、いち愛好家の自分の私見ですが・・・<女王>だと思います。女王否定論を唱えた方は「兵部卿宮が紫の上を認めなかったと言って、絶対に紫の上は正式の娘じゃないと、兵部卿宮自身がこの娘を捨てた」とおっしゃったのですよね?しかし実際には宮は彼女を娘として認知していたし、捨ててもいません。祖母亡き後紫を本邸に引き取ろうとしており、源氏が攫った為生き別れになってしまっただけなのです。突然の行方知れずに「今後の生活を不安に思った乳母などがどこぞに隠したのだろうか」と歎き「もし居所が判明したら教えてくれ」と女房たちに言った、とはっきりと書いてあります。知人の方はこの部分を読み落としていらっしゃるのではないでしょうか?可能ならば今一度読んで頂くよう、お伝え願えませんでしょうか。
 また「紫の上は親王の娘だとしても、自分の生母は妻ではなく、其れに両親の関係は私通なんだから」ともおっしゃったとか。確かに、原文には「いかなる人のしわざにか(中略)忍びて語らひつきたまへりける」とあります。宮は保護者である尼君を通さず、女房に手引きさせこっそり姫君の寝所を訪れる・・・俗に言う「夜這い」から始まった関係だったのでしょう。大納言の娘という高貴な身分でありながら屈辱的な「忍び」での結婚。これは社会的な後見者・父親の不在と、宮の本妻・北の方の存在といった事情が重なった為の不幸でしょう。たとえ「忍び」から関係が始まっても按察大納言が存命していれば、北の方もあまり高圧的な態度に出るわけにも行かず、宮も堂々と姫君を第二夫人として遇していたはずです。後年鬚黒大将が玉葛と結婚したせいで北の方の長女が実家に逃げ帰ってそのまま離縁という羽目になり、これなどは<結婚歴の長い妻でも状況によっては新しい妻に圧倒されてしまう>という例です。
 こういったことが物語の中だけではなく現実にも起こりえた事が『大和物語』などの歴史物を読むと判ります。この時代の結婚生活は、実家の社会的勢力と男性本人の意思により、夫人同士の力関係が変化しやすい非常に不安定なものだった、と私は考えています。実は以前他の方の御質問『紫の上は正妻か?』への回答として、平安時代の婚姻に関する拙考を記述しました。関連する内容かと思いますので、よろしければこちらも御覧下さいませ。(下記URL参照)
 確かに紫の母君の立場は弱いものでしたが、宮との結婚生活が細々とでも続いていたとすれば、紛れも無く彼女は宮の<妻>であろうし、その間に生まれた子供を宮が認知しないとは考えにくいのです。仰る通り、葵巻での裳着をきっかけに認知され女王となったとも考えられます。しかし私としてはもっとそれ以前から、つまり紫の上が誕生した時点で<女王>の身位を獲得していた、と認識しています。
 天皇の御子は親王宣旨が下りる前または臣籍降下される前までは、生母の身分に関わらず一律に<皇子・皇女>と呼称されていました。親王の子供の場合は、臣籍降下するか王氏にそのまま残るかの二択で、源姓とか平姓を賜らなければ自動的に王氏を名乗っていたのです。
 
 上記の理由から、紫の上の身位は<女王>であったとしてもおかしくはないと考えております。とりとめもなく長くなってしまいましたが、質問者様に少しでも参考にして頂ければ幸いです。

参考URL:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4187657.html

この回答への補足

回答してくださってありがとうございます。

実は、私も私と検討していた他の方も平安時代の皇族の資料をたくさん捜しました。
あの時代の皇女は多いでしたが、記録に残された女王の数は、皇女と比べるならば、本当に少ないでした。

あの方は、「もしかしたらこれは、側室の産んだ子が女王として認めなかったから、歴史から消されたと言う事だと思う」と、おしゃっいました。
そして、定家本源氏物語では、他の女王は「宮」と言う呼称がありましたが、唯紫の上は「姫君」しか他の身分象徴らしい呼称がありませんでした。
「それでは、もしかすると紫式部本人も紫の女王の身分を否定する事を示すじゃないのでしょうか」と、あの方がこう言う意見を発表しました。

私はその意見を認めないのですが。

補足日時:2009/07/06 22:28
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源氏物語が大好きな日本人女性です。



源氏物語では「若紫」の巻に、紫の上の素性が書かれています。
紫の上の生母については「故按察使大納言の娘」と書かれています。
紫の上の父親については、原文ではこのように書かれています。

【いかなる人のしわざにか兵部卿宮なむ忍びて語らひつきたまへりける】

これを現在の日本語に直しますと
【誰が手引をしたものか兵部卿宮がこっそり通って来られるようになった】
となります。

「私通」は「男女が、ひそかに肉体関係を持つこと」を意味します。
【誰が手引をしたものか兵部卿宮がこっそり通って】ですから、確かに「親が知らない間に」と捉えることができ、「私通」と言えなくもありません。

ですが、源氏物語の背景となっている時代の婚姻制度を考えますと、紫の上の父母の関係を「私通」としまうことについては、判断に悩みます。
源氏物語の背景となっている時代は、日本では「平安時代」と言います。
平安時代の婚姻制度の特徴は、「招婿婚」と「一夫多妻制」にあります。

このうち、「私通」については「招婿婚」に関係しまして、当初は「私通」のような形であっても、結果的に「正式に婚姻関係を成立させる」ということがあるからです。
「招婿婚」の儀式の1つに『露顕(ところあらわし)』というものがあり、これは、現在の結婚披露宴に当たるようなものなのですが、「夫となる人が妻となる人のところへ『通い』始めて3日目」に行われる儀式なんです。
ですから、『通う』=肉体関係が先になりますので、紫の上の父である兵部卿宮が、紫の上の母である故按察使大納言の娘について、正式に「妻」の1人としたかどうかについては、分からないんです。

紫の上の母の身分が低いので「妻」と認められなかった…と言う人がいますが、光源氏の生母「桐壺更衣」も「故按察大納言の娘」です。
それが、天皇の妻である「更衣」として入内していますから、決して低い身分ではありません。

また、紫の上の『裳着(もぎ)』については、「葵」の巻で少し触れられています。
『裳着』というのは、当時の身分ある女性の「成人式」で、これを行うことによって、「私には結婚適齢期の娘がいますよ。」とアピールすることにもつながります。

原文では、
【この姫君を今まで世人もその人とも知りきこえぬも物げなきやうなり父宮に知らせきこえてむと思ほしなりて御裳着のこと人にあまねくはのたまはねどなべてならぬさまに思しまうくる御用意など…】
となっています。
現代語訳をすれば、
【「この姫君を今まで世間の人も誰とも存じ上げなかったが、(このままでは)世間に認められていないままになってしまう。父宮にお知らせしよう。」と、お考えになって、御裳着のお祝いについて、人に広くお知らせにはならないが、並々でなく立派にご準備なさるお心づかいなど…】
となります。

このことから、光源氏が兵部卿宮に連絡をし、紫の上の『裳着』を執り行ったと思われます。
ここで、兵部卿宮は「自分が紫の上の父親である」と認知したことにもなり、逆に言えば「紫の上は兵部卿宮の娘」であると、世間に周知されたことにもなります。
これによって、紫の上は「『律令制』における皇族の女性」を表す「女王(にょおう)」の身分が確定した…と言えるのではないかと思います(文字は同じですが、QUEENではなくPRINCESS(Her Imperial Highness)ですね)。

> 謝野晶子訳の源氏物語も見て、確かに紫の事は「女王」と称されます。
与謝野晶子の源氏物語は、私は、「現代語訳」とは思えません。
「小説」の色が濃いように思いますので、「与謝野晶子の源氏物語にこう書かれているから、こうである」というのは、論拠としては弱いと思います。

この回答への補足

>このことから、光源氏が兵部卿宮に連絡をし、紫の上の『裳着』を執り行ったと思われます。
ここで、兵部卿宮は「自分が紫の上の父親である」と認知したことにもなり、逆に言えば「紫の上は兵部卿宮の娘」であると、世間に周知されたことにもなります。

私もそう思いますから。でも私を反駁した人の話では、兵部卿宮が紫の上を認めなかったと言って、絶対に紫の上は正式の娘じゃないと、兵部卿宮自身がこの娘を捨てたと言う意見を持っていました。
私なら、兵部卿宮は紫の上を認めたから、確かに紫の上は女王であることを信じます。

与謝野晶子の源氏物語なら、唯の参考なんですから。唯私は、日本人の意見は知りたいんです。

補足日時:2009/06/25 15:59
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