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私自身は哲学について素人です。

中央公論新社より
「哲学の歴史」という12巻組の本が
出版されていますが、
縁あって、その本が企画段階だった頃に
その説明をいただく機会がありました。
そのとき、私は哲学に歴史があるということに
おどろきを感じました。

哲学は、それぞれの個人が考えることで
それは、その時代に一からその人の中でまとめられるものだと
思っていたからです。

誰かがまとめたものを下敷きに
その考えを推し進めるということもあるとおもうのですが、
だとしたら、ある疑問の答えは
歴史をさかのぼれば、どこかで出ていることになります。

おそらく答えが出ているに違いない事を
わざわざ自分で考えるのも徒労に感じますが、
歴史を調べて答えを探す事は、
哲学ではないようにも思います。

哲学には、どうして歴史があるのでしょうか。

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A 回答 (19件中1~10件)

>おそらく答えが出ているに違いない事を


わざわざ自分で考えるのも徒労に感じますが、
歴史を調べて答えを探す事は、
哲学ではないようにも思います。

数学の公式

これは自分が考えるよりも、
先人が考えた公式を用いるほうが楽ですよね。
一々数列を計算して、公式を導き出すよりも、
最初から歴史的に発見された公式を用いる方が計算が早いから。

そのように考えると、
思考による時間的ロスがかなり軽減されます。
つまり更に複雑なことを考えられ、発見することができるようになります。

それが科学の発見ですよね。
哲学もそうです。
先人の考えを立証し(テーゼ)、
その考えを反証し(アンチテーゼ)、
そしてその二つの考えを昇華して更により良い思考を立証する(シンテーゼ)。

だから歴史が必要なんだと思います。
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哲学とは、どの次元のものか?というところで答えは違ってきます。



あなたのおっしゃるものは、安全対策でも作るときにやる「3人寄れば文殊の知恵」という程度の哲学でしょうか?

それとも、人生を扱う「人生哲学」でしょうか?
 それとも、生命感を扱う「生命哲学」でしょうか?

哲学といっても、コンピューターのことを考える」程度の哲学(認識を無意識から強く意識化していく作業)から
 生命哲学まで幅は広いです。
 昔から人生の謎や生命の謎に挑んだ人たちがいたわけですから、積み重なって歴史があるのは当然ですが、科学も歴史があり、新しい発見で今までの認識が逆転するというのは歴史ではよく言われてることですね。
 地動説と天動説などは、その時代の人たちの認識と意識をあらわしますが、この例でもわかるように、自分から見えるレベルを信じていれば、つまり主観だけで答えるなら、天動説しかその時代の人は信じられなかったでしょう。
 そこから、主観とはまったく事実とは逆の形で世界を認識するという証明でもありますね。
 自己認識の歴史とでもいえるでしょうか?
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過去に答えがあったらそれはそれでいいのでは?

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それが生まれた時が今より前である以上は哲学に限らず歴史があるというのは当然です。

物理学なり数学なり社会学なり。別にneue_haasのおっしゃるように哲学だけが特別に不易だというわけではありません。
哲学は誰かの考えをただ押し進めるだけのものでもありません。むしろ先人の部分的なものを継承しつつ前にはなかった別の要素(オリジナルだったり時代の影響なり)を付け加えることではないでしょうか。逆に言えば先人の思想をそのまま押し進めている人なんていません。アリストテレスの思想を受容して今日日それをそのまま押し進めている人なんていると思いますか?
それに、哲学とて時代から独立なものではなく、時代や社会背景の影響を受けるものです。プラトンの時代にクーンの科学革命論が生まれ得るでしょうか? 科学文明批判を唱える人が果たしているでしょうか? したがって、哲学者はすでに結論が出ているものを自分で考える徒労をしているのではないと思います。
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例えばニーチェの永劫回帰は、生への強い肯定の思想、前世→現世→来世と‘生まれ変わり’を繰り返し、ひとの経験や思想は永劫的に繰り返すという哲学ですが、『歴史の終わり』を書いたフランシス・フクヤマは、永劫回帰の思想は誤りで、哲学は不変に繰り返すようで実は歴史とともに弁証法的に進化していくものであると考えます。

ニーチェは、弁証法を否定することによって、近代化や進歩史観そのものを覆そうとしたとされています。当時ポスト・モダンの近代批判の最たるものであるといえるでしょう。
ある時代の歴史の終わりはその時代の哲学や思想の終結をも示唆するものであるとおもいます。幸福の定義が永遠に変化するように哲学も歴史とともに変化する今の幸福、あるいは自由を追求する科学を導いている学問であると考えます。
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>「探求」と「問うこと」は


違うものなのでしょうか。

違います。
問いは客観的、探求は主観的ということ。
問いに対して=対等反対が答えですね。
1+1=2
左辺と右辺の長さは違っても両辺の量は客観的には同じということにな
りますが、主観的パターンは違います。主観を持つ脳は綿密にデーター
を記憶することよりも情報を都合よく減らしたり変容させて工夫を凝ら
して?イメージすること、想像することに快感を覚えるように進化して
きてるようです。

正確な記録を残すならノートやパソコンの方が人間より正確に覚えてく
れ正確に伝えられます。知りたい時調べれば済むから人間にとって便利
です。

人間はよく「知ってる」と表明しますが、例えば「人間が住む星、地球
って知ってる?」と問われたら言葉の意味が分かるなら知ってると表明
します。地球について書かれた書物や映画を全部見聞きし覚えた上では
なくとも。


>探求が問いかけなのであれば、
応えは常に可能性として並列し保存されていても
問題ないと思うのですが

サバン症候群とか記憶力が優れた人もいるようですが、何から何まで保
存していては「工夫する脳」の空き容量がなくなりデフォルトします。
なので探求は覚えるのではなくて、情報を減らしたり圧縮して軽量化す
ることでもあります。
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No.3です。



ご回答ありがとうございます。

>そうすると、生物は最終的に1つの完璧な生物だけが
生き残るはずですね。私はそもそもその考え方が
疑問なのですけれども、その考え方にも
いずれパラダイムの転換があるということでしょうか。

確かに、そういう考えもあったようですけど、対抗する有力な説も出ていたように記憶します。既に転換はあったと思います・・・
生物カテで質問してみる方が確実かもしれません。

>そもそも哲学は、正しい必要があるのでしょうか。

ベストを尽くした学説や解釈という意味の正しさは必要ですが、他の学説や解釈を寄せ付けない完璧な正しさというの不可能だし期待されてもいないと思います。
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この回答へのお礼

再度のご回答
感謝いたします。

哲学の歴史が直線的な時間の中にあるのではなく、
幅を持った、もうすこし立体的なものだということが
わかってきたように思います。
また、哲学の歴史は、
ある人の発見が過去に固定されていくというよりは、
過去も含めて、今も動き続けているというような
イメージを持ちました。

正しいとか正しくないという判断も
動いているということですね。

お礼日時:2009/07/28 23:57

>おそらく答えが出ているに違いない事を


わざわざ自分で考えるのも徒労に感じますが、
歴史を調べて答えを探す事は、
哲学ではないようにも思います。

>あるテーマに対する様々な答えを
並列的に羅列してくれた方がありがたいのです。
その答えが時間とともに増えていくことを
歴史と呼ぶのなら、私にも納得できます。

答えを可能性として並列し保存すると、それは答えではなく問うただけ
になりかねなく、誘導、操作目的の答えは最初から限定されていて、考
える必要がなく!?そのままありがたく利用すればいいだけなんですよね。

完成した数学の証明(公式)を生徒自身が発見するまで研究させたりし
ませんよね。なので学問は固定した物事を個別化させること。

しかし、哲学は学問の祖、探求といいますが、現実の模写をしようと反
証が失敗に終わっても執着や固定したものの見方は探求を鈍らせるため
頑固とした理論体系を持てないので学問とは少し違ってます。
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この回答へのお礼

再度のご回答、
感謝いたします。

「探求」と「問うこと」は
違うものなのでしょうか。

探求が問いかけなのであれば、
応えは常に可能性として並列し保存されていても
問題ないと思うのですが、
そのような意味として考えれば良いのでしょうか。

ごめんなさい。私には
うまくご回答を理解できていないようです。

お礼日時:2009/07/28 23:46

>>最近、脳死は死であるという法案が話題になっていますが、


哲学者がその議論に参加しているように感じられません。

市民の目に触れないからといって議論に参加していないということではありません。「脳死は人の死ではない。」という議論は各方面で多くされているのですね。ただメデイアが目先のお涙頂戴型視聴率のために意図的に取り上げないだけなのです。つまり、メデイアの操作ということでしょう。「メデイアの操作」そういうことも考慮に入れるといいですね。宗教家を含む哲学家と呼ばれる者はいつの時代でもシビアな問題に対しては警鐘を鳴らし続けているのですね。ミネルバの梟が出馬しない問題ではありませんね。ただ多数決民主主義は愚かな罪も犯すということは知っておくべきですね。

参考URL
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E8%84%B3 …
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この回答へのお礼

脳死のような問題は、
多くの人を哲学者にするものなのかもしれません。
その意味で、インターネットは哲学と相性のいい
メディアのように思います。

テレビのようなマスメディアに関して言えば、
哲学者を意図的に取り上げないのではなく、
取り上げるか取り上げないかという
選択肢に入っていないのではないでしょうか。

こういう機会に、
マスメディアを積極的に利用して、
議論を深める役割を果たす哲学者がいてくれたらと思います。
哲学者がそのような立場の人間として
社会的に認められていれば、
マスメディアは取り上げると思います。
それでも取り上げないのなら、
それは操作と呼べると思いますが、
現状はそこまでいっていないのでは?

私は警鐘を鳴らすのならば、
マスメディアを支える人たちにも聞こえるほどに
大きな音を鳴らすべきではないかと思います。

多数決民主主義は最良の選択をするためではなく
最悪の選択をしないためのシステムであると言う話を
聞いた事があります。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/28 02:07

>現代の数学者は


最先端の数学のテーマに取り組むまでに
お爺さんになってしまうそうですね。
時代が進めば進むほど、
数学者には歴史が重荷になる。

この中にも誤解がありますね。人間の世界の多様性、人間の思考の多様性、人間の論理の多様性は、どの時代の人間にも想像を絶するものがあります。その中でも、数学は人間の頭脳が生み出す整合した論理の形態のあらゆる可能性を探る学問です。この多様性ゆえに、少なくともこれから来るここ数万年、あるいはもっともっと長い間、その論理の新しい形態を見出し続けて行くことでしょう。確かに、ある一つの論理的形態に対しては「完成」が在り得るかも知れず、従ってそれを一個人が理解するのに大変長い時間を必要とする場合もあります。しかし、過去の歴史を振り返ってみると、学問は進歩すれば進歩するほど、今までに見えなかった全く新しい問題を以前よりももっと多く見つけて来たことに気付きます。そのような新しい問題は、今までの「完成」された論理では理解できず、それを解決するためにはしばしば全く新しい世界観を必要として来ました。数学でそんな新しい世界観を必要とした分野は、集合論然り、群論然り、超関数論しかり、まだまだ数え上げれば切りがありません。このことは数学ばかりでなく、あらゆる学問にも言えることです。

私は今から10年ほど前、20世紀から21世紀に移る直前に、日立の中央研究所で開かれた、世紀末および新しい世紀に向かっての物理学に関する講演会に参加したことがあります。そのとき、ノーベル賞を授賞した著名な二人の物理学者、「対称性の破れ」で有名なリーと、「散逸構造の理論」で有名なプリゴジンの講演を聴きました。

リー教授に言わせると、「物理学の基本的な問題は最早終わった。これからさき物理学者に出来ることは、基本的な問題の中の重箱の隅を突つく仕事か、あるいは今まで得られて来た物理学の成果の巧みな応用しか残されていない」という如何にも世紀末的講演でした。

一方のプリゴジン教授の講演はそれとは全く違ったものでした。プリゴジン教授曰く、「確かに、素粒子論など今までの世界観に基づいた物理学は殆ど完成の域に達しているかも知れない。しかし、我々はその物理学の発展のおかげで今まで考えもしなかった新しい世界の存在に気が付き始めたではないか。今までは、「永遠」の概念に結びついた「安定性」に関して人類の関心が集中していたが、その発展のおおかげで、今や「変化」の概念い結びついた「不安定性」の役割を発見した。そしてその役割の理解のためには、未だ殆ど何も理解されていない「非線形性」に関する数学の発展が不可欠であることも判り始めた。「非平衡」の概念も殆ど何も判っていない。我々は21世紀に向かって、先人達がまだ見たことの無い未開で広大で肥沃な土地が目の前に広がっていることに気が付き始めた。いつの時代でも若者達はその意味で先人達よりも恵まれている。新しい世界が発見されるたびに、前よりももっと多様で肥沃な問題に巡り会え、したがって新しい寄与が可能になるのだ。実は学問の発展とはそう言うもので、今後もずっとそうなって行くのだ。」

過去の学問の歴史を振り返ってみると、私はプリゴジン教授の言っている方に軍配を上げます。

>哲学は、それぞれの個人が考えることで
それは、その時代に、その人の生きられる時間の中で
まとめられるものだと思っていたからです。

に関して。そのためにも、その時代が過去の何を背負い、これから何処に行こうとしているのかを理解しているかいないかで、そのまとめられた思索の深みや、有意義性に雲泥の差がついてしまうと思います。ただし、過去を知ると言うことは、過去の苦しみを先人達と同じ時間スケールで繰り返せと言っているわけではありません。もしそうなら、時代が進めば進むほど後から来る者の負担が増えてしまいます。ところが、この自然界は良く出来た物で、過去の経験を途轍もなく短いスピードで経験できるようになっているらしいと言う経験事実があります。質問者さんは多分生物学で言う、「個体発生は系統発生を繰り返す」という経験則をご存知だと思います。母体から生まれるあらゆる生物は、母の胎内で生物が過去数十億年掛かって種として系統的に経験して来た進化の過程を全て繰り返してから生まれてくるのです。貴方は母の胎内で先ず単細胞から始まり、分裂を繰り返し、エラができ、尻尾ができ、、、と次々と形を変えて、結局人間の形を手に入れてこの世に生まれて来たのです。生物はその進化に数十億年掛かりましたが、貴方はこの進化の過程を母親の胎内でたったの9ヶ月で全て経験してしまったのです。どうやら新しいものが生み出すには、過去の経験を繰り返さなくては不可能なようだと言うことを、この経験事実は教えてくれているようです。

私は自分の学生に向かって「学問もこれと同じことである。先人達の経験を自分自身が繰り返さずにいきなり新しいものを生み出すことは、どうやらできないらしい。したがって、貴方も先人達の経験を自ら追体験しなくてはならない。しかし、この母体の例が教えてくれていることは、その追体験を途轍もなく短い時間ですることが可能だということだ。先人達の苦しみを短期間に追体験し、目の前に出現した広大で肥沃な未開地に向かって突撃せよ」と檄を飛ばしております。
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この回答へのお礼

cyototu様

丁寧なご回答をいただき、感謝いたします。
とても貴重なお話を聞かせていただいたと感じています。

リー教授と、ブリゴジン教授の講演の違いは、
私自身が直面している課題への2つの態度として、
長く参考になることだろうと思います。

ブリゴジン教授の講演は、
人を元気にさせてくれる言葉ですね。
それがリー教授の講演とセットになっているところに
学問を追究する人たちの成熟した世界を感じました。

美術や芸術の分野では、
個人の文脈から生み出された作品に対して、
過去の先人の作品との類似を指摘し、
それを無知、もしくは模倣であるとして蔑むような
鑑賞の仕方があります。
そういう鑑賞者に多く出会ってしまうと、
自分の表現を歴史的な文脈の中で分析するようになり、
非常につまらない、頭でっかちな作品しか
つくれなくなる場合があります。
それはつまり、リー教授の立場に立って
表現を考えているからなのですね。

ブリゴジン教授の言葉は、
現代の「閉塞感」と呼ばれるものを
乗り越えていくという意味でも、
力のある回答だと感じました。

人体の尿管は明らかに不合理に湾曲しており、
それは進化の過程で、その湾曲が必要な時代があった
痕跡だと聞いた事があります。
進化はかならずしも進歩ではなく、
むしろ場当たり的な変化の繰り返しである。

回答を拝読しながら、そのような言葉を思い出しました。
どうもありがとうございました。

お礼日時:2009/07/28 01:10

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