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少し長くなります。
僕は高校時代、宗教にハマり、その反動から大学ではニーチェなどに傾倒して哲学書を自己流に読み漁りました。
大学では理系にいたのですが、哲学趣味が高じて卒業後は文学部哲学科に学士入学をしたいと強く考えるようになりました。しかし、親の反対や、哲学という学問としての不毛さを考えるにあたり、去年の夏(四回生)、周囲に流されるまま理系の大学院を受験することとなりました。
その際、将来を悩むあまりノイローゼになりつつ死ぬ気で勉強した僕は、入試が終わった次の日に急に、人生はなんて無意味なんだ…というネガティブな感情や漠然とした不安に急に襲われました。あの時はただひたすら時間が過ぎるのを待つしかできず、何をしていても死ぬのが怖いという感情しか持つことができませんでした。
冬まで我慢しても状況はよくならなかったので、病院に行ったところ鬱病と診断されました。薬のおかげでなんとか最近は、快の感情も感じられるようになったのでした。

しかしついさっき、去年の夏に鬱病を発病した瞬間がフラッシュバックしてきて、今にも押しつぶされそうになりました。
今現在、その感覚を紛らわすために質問を書いています。
単に蒸し暑くて去年を思い出したせいか、はたまた昼に読んだ、中島義道さんの『カイン』のせいか。
この感情が続くのなら様子を見てまた病院に行こうと思います。

うーん、結局何が言いたいのか自分でもわからなくなってきました。
つまり、皆さんは哲学的に悩みまくって、すごく虚無的な気分を感じたりすることはありませんか?そのときは何を思って気分転換していますか?
僕は、哲学の本なんて手を出すんじゃなかったと思ってしまうんですが、哲学をやってよかったことがあれば教えてください。

A 回答 (16件中11~16件)

人生は無意味ですが、自分にとって無価値ではないでしょう。

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 こんにちは。



 引用だけのぶっきらぼうにですが。
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 たしかに時間的なものと永遠的なものの違いは次の点にある。

 時間的なものはそれを手にする前にはとても大切に思われる。しかしいったんそれが手に入ると 値打ちがなくなる。永遠だけが真実の確かな住み処である人にとって 時間的なものはたましいを満たしてくれないからである。

 ところが永遠的なものはそれを獲得しようと願っていたときよりも ひとたび獲得すると 以前よりもいっそう熱烈に愛するものとなる。
 (アウグスティヌス:クリスチア二スムのおしえ 1・38)
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人間の心そのものを学ぶ事で貴方は活路を見出すと思います。

人間の心は子供時代がが天国と言う風になっています。学問をしてゆく過程で人間は「分別心」が育ってゆきます。分別心とはものを二つにして見てゆく見方の事です。その分別心が人間を苦しめています。

ものを二つにして見てゆくという事は、世の中を良いものと悪いものと言う風にして見てゆく見方の事ですが、貴方の場合には今は「心が落ち着かなくなった」と言う事と「今まではそんな風な心の違和感はなかった」と言う風な心自身の比較のことです。今までには感じなかった心の違和感と言うものが無い状態の事を「キリスト教」では天国と言う風に形容しています。

意識をした事によって違和感が(或いは漠然とした不安や罪悪感)が増大していく事に不安や恐怖心を抱いている事と推察しますが、この事を「知恵のリンゴを食べて、天国から追放された」と言う風に聖書には書いて在ります。

この事は、或いはこの心の違和感をあまり説明してくれる人や、理解してくれる人はいないように見えますが、この事が現代の心の病が多くみられることと関係が有ります。この事は人間の心が成長する段階での生みの苦しみとなっています。この事を詳しく説明しますので、学んでいって克服して成長する事を願っています。

人間の脳が成長する時に、分別心も一緒に成長してゆきます。ものを分析的に見てゆく見方の事ですが、この考え方が人間の心を、又悩みの世界へと誘い込むという事になっています。それは見たものを比較検討して、それに反省を加えてゆく見方の事です。この事を外界にも、自分の心の内面にも適用してゆく事になります。

そうして考えが永遠と有限と言うものを比較した時から、心の違和感が最大限に大きくなる場合が有ります。すなわち生と死を比べた場合です。自我意識は死を怖いものとして考えてしまうからです。処が人間の心には「永遠への憧れが」存在しています。この相容れないものとの比較が人間の宗教文化の発展を後押ししてきました。

このい相容れないものが心の矛盾として感じられることが人間の苦しみの元となっています。この事は事実人間の心に最大の危機感として襲ってきます。この解決方法が宗教の中にあります。どの宗教もこの解決が眼目となっています。

処がこの具体的な解決方法が提示できない事が、又宗教のジレンマにもなっています。このからくり、人間の苦しみのからくりを書いてみますので参考にして見てください。

心に矛盾を感じるという事は心には二つのものが存在している事になります。一つは分別をする機能の事です、自我意識の事です、有限と言うものの理解者です。自我意識には有限と言うものしか理解出来ません。何故ならば分けられるものは有限のものだからです。分けられないものを無限或いは永遠と言う風に言っています。

永遠と有限の対立と言う事は、心には既に永遠と言うものの概念が理解されているという事実が有ります。永遠の命を渇望しているという事実が心には存在しています。その事実が貴方に「人生はなんて無意味なんだ…というネガティブな感情や漠然とした不安に急に襲われました。あの時はただひたすら時間が過ぎるのを待つしかできず、何をしていても死ぬのが怖いという感情しか持つことができませんでした。」と言う事を突き付けています。

この事の解決方法が「禅」においては示されています。

それは自我意識ではない方の心に任せる、或いは引く出す、或いは自我意識が引っこむという事です。問題を自我意識が引き受けるのか?或いはもう一つの意識が引き受けるのか?と言う事になります。

禅問答は、わけのわからないように見えます、価値が無いように見えますが、自我意識では解けないように工夫されています。禅問答を解く事も、悩みを解消する事も同じ事です。自我意識が引っ込むように工夫されています。言い方を替えたなら、分別を捨てないと解けない事を教えています。それが分かる事が悩みの解消につながっていますが、大変に難しい事です。
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このカテゴリでも顕れていますが、哲学には、宗教に近い分野と数学に近い分野があるように感じます。



数学に近い哲学は実生活にも役に立つし習得の成果がはっきりするので虚無的にはなりません。むしろ達成感を感じます。

>僕は、哲学の本なんて手を出すんじゃなかったと思ってしまうんですが

真理への追求心が強くて自己流だったので追求の為の基盤固めが疎かになったのではないでしょうか。
例えれば、大海に乗り出すヨットの準備不足で遭難したようなものかも。
ちなみに、私も遭難しやすいタイプです。
失敗という高い授業料なしでは賢くなれないものと割り切ってます。
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今は理系の大学院に在籍しているのでしょうか。

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 たぶん、情報過多なんですね、詰め込みすぎなんです、他者の思想、考えを。

真の哲学あるいは自分の経験、行動に思索に基づいた観想 ―テオーリア― をするなら、鬱になることはないと思います。

 哲学書を読んで勉強することと哲学をすることは別だと思います。

 書物を捨て、自分なりの思推を積み重ねていくことです。それが、「無理をしない、心を苦しめない」方法でしょう。

 もうひとつ、
 ニーチェに傾倒したり、哲学書を読み漁ったりするだけの才能のある人はそうは居ないと思います。そう考えれば、自分の思いのまま、大学院に進めばよかったのに、親の言うことを聞いて、「周囲に流されるまま」理系の大学院を受けた。その結果、「人生はなんて無意味なんだ」と思った。因果関係がはっきりしているように思います。

 たぶん、きちんとした哲学科で、消化すれば精神的な苦悶を生じなかったのではないか。あらゆるものを系統だてずに読み漁りすぎたのが、やはり原因では。

 結論としては、自分の思うままに進めば、結果はどうあれ精神的に苦悶し、病になることもないかと。

 以上、自分のための投稿を終わります。
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