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当カテゴリで、いまだ未締め切りの質問を抱えている者です。

「哲学」がなんたる学問かについては良く知らず、
自分の質問内容が投稿先の候補としていた「心理学」や「国語」には多分当たらないであろうとの
消去法で「哲学」カテゴリに投稿した次第です。

私が投稿した質問はごく日常的な疑問です。。
何人かの方がすぐに回答下さり、とてもありがたく思いました。

しかし、ふと「哲学」カテゴリの質問リスト(回答数も載ってる)をみてみると、
タイトルに宗教的なものが多いように感じたのです。

聖書がどうしたこうした、仏がどうしたこうした、神がどうしたこうした…

しかも、宗教的な質問ほど多くの回答が集まっているように見える。
これは私が考えていた「哲学」とは異なる傾向です。
「哲学」は宗教などから離れて、あるいは少なくとも宗教の教え等は第三者的な視点から捉えて、
人間の真理を追究する学問と思っていたからです。

ざっとみた感じなので申し訳ないのですが、
どうにも「哲学」カテゴリが「宗教」に巻き込まれているように思えてならないのです。

たとえば、本カテゴリで興味深い質問をみつけ、少し見てみたのですが、
回答された内容に、「輪廻転生」を前提としたものが複数見られました。
私は「輪廻転生」自体は否定しません。
しかし、「哲学」カテゴリで、
「人間は生き返るのだから大丈夫だよ」などとする意見はどうしても受け入れ難い。

これってまさに宗教的じゃない?気持ちわるーい!と思うのです。

私の「哲学」に対する認識は間違っているのでしょうか?

A 回答 (24件中1~10件)

 


哲学は人間の真理を追究する学問・・・正しい理解だと思います

宗教は、人間の真理を広め、共有する集団です

 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>宗教は、人間の真理を広め、共有する集団です
怖い…。理由は分かりませんが、とにかくとても怖い一文です。

お礼日時:2009/08/29 22:50

そもそも「宗教カテ」が無い。


何故か「哲学カテ」に宗教の質問をする人や宗教に詳しい回答者が多い。

この回答への補足

今さらですが、他サイト「Yahoo!知恵袋」の中に「宗教」カテを見つけました。
「マナー、冠婚葬祭」の下に設定されているので、宗教論議を想定したカテゴリではないと思われますが…
…うーむ。これは、荒れてるというのでしょうか。
マナー、冠婚葬祭など全く関係ない質問が多数見受けられますねぇ。
やはり、行き場が見当たらないため、強引に投稿している感じがします。

補足日時:2009/09/05 00:17
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

「宗教カテ」…あれっ?あったよなぁ…、チェック…
無い!確かに無いです。
他サイトと勘違いしたかなぁ…??
無い!!どこにも無い!!
完全に私の間違った思い込みです。
「宗教カテ」が無いんじゃ、宗教を議論したい方々が
「哲学カテ」に雪崩れ込んでもしょうがない。
いや、しょうがなくはないが、他に行き場が無さそう…
まさに流浪の民…
調査不足でした。みなさんすみませんm(_ _)m

お礼日時:2009/08/29 23:10

哲学⇒物事の真理・根底を追求する学問


宗教⇒真理を仮定(神)して、信仰するもの

学問の行き着くところとしては似ているのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

似てるのですか…
ちょっとがっかりしてしまいました。
似てはいけないものだと思ってたもので。

お礼日時:2009/08/31 23:49

 はじめまして。


浅学非才の輩ですが、少し私の愚見をお聞きください。
 宗教学というのは、哲学の一分野であり大きなウエイトを占めていると思います。
 哲学をインド哲学と西洋哲学に分けてみましょう。
 インド哲学で勉強するのは、ウパニシャッド哲学(バラモン教)や仏教、ヒンズー教が主ですし、西洋哲学でもスコラ哲学はキリスト教の教理を研究する学問です。また、西洋近代哲学もキリスト教から派生したものや神の否定から出発したものなど宗教学と密接に関わっています。
 しかし宗教と宗教学は違いますよ。前者は、信仰の対象であり、後者は宗教を論理的に研究するものです。
 このカテゴリーに来る人が、宗教信仰者と宗教学愛好者の2種類いるので紛らわしいのですよ。
 「哲学」というのは、英語のphilosophyを和訳したものですが、判りにくい訳ですよね。原語は、ギリシャ語で,philo=love 、sohia=wisedom です。
 直訳すれば,「知恵を愛する学問」とでもなりましょうか。
 哲学は「万学の女王」と称せられるように、あらゆる学問の元となった学問です。
 そうゆう意味からも「哲学」は全ての分野を扱う学問であるという認識が正しかろうと思うのです。
 貴兄の哲学に対する認識は、狭義であると思います。

この回答への補足

すみません。今になって気づいたのですが、

頂いた回答の最後の文、

>貴兄の哲学に対する認識は、狭義であると思います。

について。

お礼欄では反射的にお詫びしてしまいましたが、
(いや、お詫び自体は良いのです。勉強不足であることに変わりはないのですから)
直前の文も含めよくよく読みますと、回答者様は別に私の無学を責めているわけではありませんよね?
単に、私の考えが狭義だとご指摘なさってるだけで、
他に広義の考え方もあり、そちらの方がより適切とおっしゃっている、
と理解したところです…が…
この理解ですらまたしても間違いであるかもしれません。
恥の上塗りでしたかね……

もう一つ、お詫びがございます。

これは回答者様(#4さん)だけでなく、皆様に対してです。
この欄をお借りする理由は#4さんの回答内容を引用したかったためです。

>しかし宗教と宗教学は違いますよ。

#7さんへのお礼欄にも少し書いたのですが、
私のこの質問自体、宗教と宗教学がごちゃ混ぜになってる気がします。
タイトルでは「宗教学」としていますが、
質問本文では広く「宗教」が対象になっていると考えます。
皆様を混乱させてしまったかもしれません。お詫びいたします。

補足日時:2009/09/11 08:17
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。

>宗教学というのは、哲学の一分野であり大きなウエイトを占めている

私は哲学と宗教学をかなり遠い存在と思っていました。
しかし考えてみれば、メジャーな宗教の教えは多くの人を惹きつけているわけで、
それらを哲学の研究対象とするのは少しも不思議ではありませんね。
また、紹介頂いたインド哲学やスコラ哲学を私なりに調べてみますと、元々宗教的な議論から発展した哲学もあるのかなと思ったりもします。

>このカテゴリーに来る人が、宗教信仰者と宗教学愛好者の2種類いるので紛らわしいのですよ。

ですよね。それを感じます。
そのせいで質問と回答が噛み合わないケースも発生するのではと考えます。

>貴兄の哲学に対する認識は、狭義であると思います。

勉強不足でした。すみません。

お礼日時:2009/09/03 00:10

 こんにちは。



 宗教は 個人の信仰にまで還元すべきであると考えるものです。
 信仰は 哲学ないし科学をひとつの目安としてできるところま知解しておくべきだと考えます。
 その考え方において 参考までにですが 次のようなやり取りをおこなって来ております。
 【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html
 【Q:因果応報説は 愚の骨頂】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5096821.html

 ただし 次のような見解を持って模索しております。よろしかったら参考にしてください。
 【Q:現在時における《復活》について】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4442055.html

この回答への補足

お礼コメントを書いてからずいぶん経ちますが、

お礼欄の

私)>現実社会においては「死んだら終わり」論者

について、
「そうとばかりは言えないかなぁ」と思えてきました。

遠い昔、それもごくまれにですが、死後の存在を意識したことがありました。
そのことを思い出したのです。
また、自分の不思議体験もいくつか思い出してしまいました。

ですので、私の上記コメントには「基本的には」とかの注を付けるべきかもしれません。

まあ、皆様方にはどうでも良いことですね。
なんと言いますか、何か自分のコメントがウソになってしまう気がしたものですから。

私的事情で欄を汚してしまい、申し訳ありません。

補足日時:2009/09/13 08:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。

リンク先のやりとりを読ませて頂きましたが、私の頭には難しかったようで、
残念ながら内容はあまり理解できませんでした。

ただ、内容とは別のところで感心させられました。
リンク先の質問にはとても多くの回答が寄せられてましたが、
一つ一つにしっかりと補足なりお礼なりが付けられていました。
私など、本件の応対ですら、手一杯、一杯一杯です。

さて、私が「輪廻転生」(や「因果応報」)説を否定しないのは、
自分の個人的楽しみを保ちたいとの極めて単純な理由からであり、宗教信仰とは全く関係ありません。

というのは、映画や書物(主に漫画ですが(汗))をみるとき、
それらが出てきたからといって、作品自体を「つまらないモノ」として捉えるのは、
それこそつまらない行為と考えるからです。

一方、Q&Aサイト等でこれらの実在を前提としたアドバイスを回答するのはどうかと思いますし、
テレビのスピリチュアル番組などには激しい嫌悪を覚えます。
(「公共の電波を使って何をやっているのだ!?」と、ザッピング中に一瞬映っただけで非常に不快になります。)

こういった私の心の動きを考えますと、
「輪廻転生」「因果応報」、
一つの考え方として個人的にたのしむのはOK。
公の場でその実在を前提とした論を展開するのはNG、ということになりましょうか。

もちろん、回答者様のように研究対象としてこれらを真剣に論ずる場合はこの限りではありません。

改めて申したいのですが、私は映画、小説、漫画等をたのしむ際にはこれらの考えを否定しませんが、現実社会においては「死んだら終わり」論者?です。
(といいながら、お墓や仏壇には普通に手を合わせてますねぇ。なぜだろ?宗教的な意味合いではないと思うのですが…。うーん…手を合わすことによって自分自身を見つめ直そうとしてるのかな?それとも先祖に対する感謝か?両方か?いや、お願いもしてるような…。よく分かりませんですわ)

お礼日時:2009/09/04 00:21

哲学は、いろいろな考えを網羅し、吟味することであると思います。



宗教学は、人々の信仰を調査、考察するものであると思います。


全く、別のものであるとは思うのですが、
確かに、混乱してしまう理由はあるでしょう。

それは、どちらも「神」という言葉を使用することです。

ちなみに、数学でも、「無限」という言葉を使用しますが、
宗教学と混乱することは少ないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。

>それは、どちらも「神」という言葉を使用することです。

「神」という言葉は、それを使っただけで宗教的になってしまうものと思ってました。
ですが、大辞林にて
「哲学で、世界や人間の在り方を支配する超越的・究極的な最高存在。」
との表記を発見しました。
なるほど。おっしゃるように宗教を離れた部分の哲学でも使われるようですね。

>ちなみに、数学でも、「無限」という言葉を使用しますが、

すでにご承知かもしれませんが、数学の「無限」には幾つかの種類があるそうです。
たとえば、整数の無限と実数の無限では大きさが違うとか…(うろ覚えなのであまり信用なさらぬよう)。
数学って面白いなぁ、と今更ながら思う今日この頃です。

お礼日時:2009/09/04 01:21

キリスト教にせよ仏教にせよ、このQ&Aカテゴリーでは、おれおれテーマをひろげたい人が多いようです。

無理強いといっていいほど、一方的に、聞かせるという意味でです。何かにつけ自分の意見を言いたがる。

重要:
哲学と宗教では、「プロ」と「アマ」ほどの「大きな隔たり」と「明確な違い」があります。

特に哲学的「流派の評価」の際、公平さを保つように振舞うのが、「プロ」のやり方です。つまり、哲学的立場です。よい面と悪い面・利害関係についてもフェアに議論してゆこうとします。

例として、スポーツシューズの「ブランド」について考えてみてください。

現役を退いてコーチとして働いているマラソンの選手がいるとします。

「私は30年も経験がある」と主張するコーチもいるでしょう。その選手が使っているシューズのメーカーは何か考えてみてください。たとえば、アシックXX(伏字)。

元プロ選手が、今でもその靴を愛用しており、弟子にあたる選手に同社の最新モデルを他の会社と比較してお勧めするということは、するでしょう。

でも、弟子が、どの会社とプロ契約をするかという事は別の話。利害関係です。

そのお弟子さんがアディダXXそと広告契約をしており、実際に競技で使う靴は、その会社のシューズかもしれません。

お弟子さんも、プロですから、「おれは、師匠からこの靴がいいと教わった。競技ではアシックXXを使う」とは言わないかもしれません。

評価の基準は、しかしながら、コーチの選手時代の業績+其の弟子にどんな人がいるかということです。

(また、お弟子さんの業績もある意味、大事でしょう。)

素人の方は?というと…
たとえば40歳になって、マラソンを始め、今年で30年のキャリアがあるとします。

そのひとは、とにかく、「つXX☆」がすき!

どんな人にでも、会えば必ず、「つきXX」はいいよゥ!。どうだこれを履いてみるか?私も30年の経験があるが、これ以外はずぇったい認められない!

もちろんこの方もプロが参加する大きな大会に出たことがあるかもしれません。でも「かっこわるい」んです!

その人が健康で楽しければいい。とにかく一人でも多くの人が「つXX☆」のシューズを使えば、自分が偉いような気になる。たったそれだけのこと…

プロとアマの共通点は、「30年マラソンを続けている」ということだけです。シューズのブランドは、流派・トレンド。「走る」ということは、「取り扱うテーマ」とお考えください。「利害関係」は、実際どういう家族環境に生まれ、人生を体験する中で、どの宗教を信奉してきたかということに置き換えられます。

哲学は、科学的です。

宗教は、教義的・文学的・(特に自分の流派に)無批判です。

科学と文学が同じというなら、それはそれでいいでしょう。プロもアマも根本的には同じですから… 

でも「プロとアマは、ある意味、同じようなものである」とは普通、『激励』を意図した「プロフェッショナルな立場」からのコメントです。

一般常識に属しますが、「哲学は神学の、ハシタメ」と呼ばれてきました。哲学は宗教を尊敬しています。宗教は哲学を馬鹿にしています。

其の証拠に、社交的常識を重く見て、「文学カテゴリー」なら絶対くだらない質問はしないくせに、「哲学カテゴリー」になら、「取るに足らない、くだらない宗教的質問」も「敢えて」している人が多いようです。特に自分の流派以外の考えをヘリクツで馬鹿にする為だけにです。

「其の人たちが、どういう意図で質問をしているのか」掘り下げてみてください。特に何教をひろげようとしているのか。(厳密に言うと、これは、このQ&Aの利用規約違反です。)

私的立場からすると、どの世界宗教が一番「科学的か」ということも、自明ですが…
其の人たちの行動を観察してみてください。すぐわかりますよ。多くの場合、宗教ともいえない「おれおれ電波教」ですが…
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が大変遅くなってしまいました。申し訳ありません。

>哲学と宗教では、「プロ」と「アマ」ほどの「大きな隔たり」と「明確な違い」があります。

この考えは、私が当初抱いていたものと似てるのかもしれません。
(「似てる」は、知識の無い私の勘違いである可能性が大いにあります)
私は哲学と宗教は殆ど関連性が無いと思ってました。
ですが皆様の回答をみて、哲学の中に宗教に関連する部分もあるのかなと思い始めています。
今改めて自分の質問を読み返すと、私の質問は、宗教、宗教学、宗教哲学等をごっちゃにしている感があります。

シューズ云々のお話。
非常に申し訳ないのですが、私の頭はますます混乱してしまいました。
これは私の読解力のなさのせいです。すみません。

>哲学は、科学的です。

その通りだと思います。

>宗教は、…(特に自分の流派に)無批判です。

ここが宗教の大きな問題点だと思います。私が気持ち悪く思う一因でもあります。

また、
>特に自分の流派以外の考えをヘリクツで馬鹿にする為だけにです。
>特に何教をひろげようとしているのか。

私がとても不思議に思うのは、布教活動に熱心になってるこれらの人達です。
仰るようにネット上にも現れますよね。

自分の信じる宗教があるとしても、それを広めることに何の意味があるのでしょう?
「ありがとうポイント」ならぬ「よくやったポイント」でも付くと思ってるのでしょうか?
それによって天国へ行けたり成仏できる確率が高くなるとでも?
あるいは戦争でも起こそうとしているのでしょうか?(それなら納得できますけどね)

自分の信ずる宗教の信者が多くなった…、それが一体何になるのか??

布教活動が修行の一つであると考えられなくはないです。
他人にある事を伝えるためには、自分がより深くその事柄を理解しなければならないからです。
しかし私には単純に仲間を増やそうとしている印象のほうが強いです。
他者を取り込もうと試みる暇があるなら、それを自分と向き合う事とかに使うほうが余程有意義な気がするのですが。

>宗教は哲学を馬鹿にしています。

驚きました。逆は考えられるのですけど。
いや、逆もマズイか…な。
どちらの立場にも、あまり感心できない態度をとる"個人"がいる事は想像できますが、
全体を馬鹿にするのはどうかと思いますね。

お礼日時:2009/09/06 01:10

テツガク初学者の意見ですがご参考までに。


(ちなみに、私も質問者さんと同じ疑問を少なからず持つ者です。)


一つに、「哲学」という言葉が曖昧なままに用いられ過ぎると思うのです。
もはや単に「論理的に成り立っている分析の体系」程度の意味合いしかなく、
もう「学」としての骨子しか残っていないようにも思えます。
ここでの「哲学」という言葉は時折「煙に巻く」と同義だとさえ感じます。
元来哲学は普遍的で明快な知識を追う学問のはずで、そのスタートとなる確かな前提(例えば神)を出してくるにも一定の明証性が必要です。
こうした「客観的な知を求める」というのは、哲学のエッセンスであり、私が語るのもこの哲学についてです。(もちろん、異論があればどうぞ。)
私の知る限り、神の存在証明が現在、一般に学問的に認められている訳ではなく、
つまり哲学では宗教の理論体系を少なくとも一度括弧に入れて保留しておくべきだと考えられます。
超越論的な概念(輪廻など)についても同様です。

話が混み入ります。
ここで、客観的な「リアル」と主観的な「リアリティ」があって、人間の認識のスタートは後者であるとする現象学の立場を考えると、
その「リアリティ」の中で神を論じることは哲学的に許されると思います。
ただし、その神はあくまで主観的事実に留まるものです。
そして、そこで神を論じること自体は宗教学の仕事です。

詳論すべきところは山ほどありますが(すみません)、
結論として「哲学」と「宗教」は別ですし、ここでそれが混同されているのは否めないと思います。

カテゴリ、分けてもらいたいですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が大変遅くなってしまいました…
遅すぎて、回答者様も回答したこと自体覚えておられないかもしれません。

実は、皆様方へのお礼コメントに非常に苦労しておりまして、
交通渋滞の如く次々とお礼が遅れていってるわけです。
投げ出したい衝動を何とか抑えつつ、チビチビとお礼をしているのですが、
どうやら私は、自分の身の丈を超える質問をしてしまったようであります。

以上、言い訳でした。

>「哲学」という言葉が曖昧なままに用いられ過ぎると思うのです。

ある意味便利な言葉なんですよね。
かくいう私も、こちらで別質問をした際、
「適当なカテゴリが見つからん…。哲学カテでいいや!」
とのいい加減な気持ちがありました。
(となると今回の質問は、自分を棚に上げながら、他者の投稿に「これおかしくない?皆さんどうですか?ねぇねぇ?」と離れた場所からケチを付けてるとも言えます。我ながら実にけしからん態度です。が、この点については暫しお忘れ願いたく)

>ここでの「哲学」という言葉は時折「煙に巻く」と同義だとさえ感じます。

確かにそのような面も感じられます。単にディベート技術を競ってるだけではと…

一方、回答者様の以下の明快な見解があります。

>「客観的な知を求める」というのは、哲学のエッセンスであり、私が語るのもこの哲学についてです。(もちろん、異論があればどうぞ。)

異論ありません。と言いますか、「客観的な知を求める」、これこそ私が哲学に抱いていたイメージなのです。
だからこそ、「生まれ変わるから安心せよ」のようなアドバイスを気持ち悪く思うのです。
極めて主観的な決め付けを基にしており、さらにその押し付けではないか、と。
少なくとも、このような回答が哲学カテゴリに存在するのは、適当と思えないのです。

>カテゴリ、分けてもらいたいですね。

最初それで万事解決と考えました。
しかし、新設する「宗教」カテにおいては、#4さんが指摘された問題が解決しないように思います。
より細かく「宗教」と「宗教学」を分けても結局……。

大手Q&Aサイトに宗教(論議)カテがみられないのは、どうせ布教活動の場になってしまうとの、運営側の懸念があるのではとも考えます。

何か反論めいた文になってしまいましたが、
哲学カテを正常化する方策としては、カテゴリ分割で良いと思います。

お礼日時:2009/09/09 08:23

哲学とは、


「哲学(てつがく、希: φιλοσοφια=愛知)は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問の一種。その理性的な思考自体も研究対象になる。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。」
と、WIKIPEDIAにあります。
私は、この説明で良いと思います。

洋の東西問わず、哲学によって、宗教は論じられる対象であった。神は人間観のために、輪廻転生は一つの死生観として重要な研究対象となったでしょう。

提出されている問いの本質は、語らう人々そのもの、各々自身にまかされた事なのであると私は思う。その上で、答えたい。
宗教全般、または宗教教義に基づいているという理由によって、ある発言に対して、嫌悪感を抱くことは慎まれるべきであって、正しい語らいの姿勢であるとはいえません。信教の自由は個人の自由であり、その発言さる事を阻害してはならず、発言が不適切な場合は、浮ついた言葉で避けるのではなく、静粛にその旨を表明すべきであって、他者の発言を粗にすべきではありません。信教ある人とは語りえないというのであれば、それは一種の偏屈であると知られるのです。ただ、このQAコミュニティーサイトに、信教カテゴリが存在しないのは、なぜでしょうか。ニーズがあると私は思います。哲学カテゴリよりも、そちらに相応しいものが少なくは無く、諸信教の説くところについて知りたいという人も、少なくないと思うからです。

質問者の哲学に対する認識は、特別の差異ないと思います。
QAサイトであろうとなかろうと、真摯に問いを立て、真摯に思うところを究明しようとする姿勢のある人には、不埒なものは近づけない。そのことから、適切なカテゴリの不在は、実は、よき語らいの本質ではないと知られる。本質は、それを真剣に探しているという、只その一点、当人自体に基づくことであって、そのことが、自身を答えに近づける。質問者は、回答の性質にとらわれず、広く聞く耳を持って、自身の真剣な探究心を自身が疑わず、諸々の異なった立場からの意見を和して統べ、益するところを得て、探求の糧とされるとよいでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が大変遅くなってしまいました…
遅すぎて、回答者様も回答したこと自体覚えておられないかもしれません。

正直申しまして、どのようなコメントをお返しすべきか非常に迷っていたのです。
回答者様がお気を悪くなさらないか心配ではありますが、書いてみます。

さて、回答者様には大事なアドバイスをいくつか頂きました。
今回の質問の仕方には、確かに見直すべき点がありました。

回答者様が示された語らいの姿勢は、人間として非常に立派であると思います。

しかし私は今のところ、立派な人間になることを目指してはおりません。
ですから、回答者様のアドバイス全てを実践することはないと思います。
私にはきっと、回答者様の仰る、「偏屈」な部分があるのでしょう。
(ただ、
>信教ある人とは語りえない
ということはありませんよ。
自分の宗教を押し付けようとする人に関わりたくないのは確かですけど)

頂いた回答の中で、一つ気にかかる箇所がありました。

>ある発言に対して、嫌悪感を抱くことは慎まれるべきで

という箇所。
「嫌悪感を”あらわにする”ことは慎まれる」なら分かるのですが、
「嫌悪感を抱くこと」自体を慎まねばならないのでしょうか?
そのような高度な技が私に出来るとは思えません。
また、たとえ出来たとしても、
私はむしろ「嫌悪感」のような一次的感情(「一時的」ではない)を大切にしたいほうです。
ですので、この点に関しても回答者様のご期待にはそえそうにありません。
(言葉尻を気にするあまり、回答者様の本意を読み取れてないだけかもしれませんが)

もう一つ。
もしかして誤解なさってるのではと思うことがあります。(私の勘違いならごめんなさい)
私は、「生き返るのだから大丈夫」という回答を受けた本人ではありません。
そのやりとりの当事者ではないのです。
もちろん、どちらにせよ、回答者様の示された態度をとることは可能です。
私が今後そのようにするかは別ですが。

やはり自己弁護ばかりの文になってしまいました。
改めまして…
回答者様の指摘によって、私は自分の姿勢を見つめ直すことができました。
それが私の今後の行動に結びつかないのは、
私が、志の低い、情けない人間だからです。
どうかご容赦を。


(適切なカテゴリの不在について、#8さんへのお礼欄に少し私見を書きました)

お礼日時:2009/09/13 01:25

 No.5です。



 ★ (No.5お礼欄) もちろん、回答者様のように研究対象としてこれらを真剣に論ずる場合はこの限りではありません。
 ☆ お礼欄に述べておられる内容は 全体として 賛成ですが このように認識される点など微妙に違うと思いましたので ひとこと添えて回答を補っておきたいと考えます。
 わたしの言おうとしていることは 
 ○ 輪廻転生説や因果応報説は 哲学の取り扱う対象にはならない。
 ☆ というものです。文学がそれらをどう扱おうと それも哲学の知ったこっちゃない。これです。

 * なぜ対象にならないかは 切りがないからです。論じても切りのない架空のことがらであるからです。経験科学としては無理だという意味です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。またまたお礼が遅くなってしまいました。
しかも尋常ならざる遅れです。もはやどんな言い訳も通用しません。とにかく申し訳ない。

さて、
私は、紛らわしい文を書いてしまったようです。
いや、#5リンク先の内容が理解できなかったために、
わざと曖昧な文にしてしまった感もあります。
「よく分からんから、この程度でお茶を濁しちゃお!」的な考えです。
ごめんなさい。

自分の態度を反省し、もう一度#5リンク先、
【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
【Q:因果応報説は 愚の骨頂】
にトライしてみました。
結果、前よりはいくらか理解を深められました。

そこで、少し生意気を言わせて下さい。

>○ 輪廻転生説や因果応報説は 哲学の取り扱う対象にはならない。

この表現はいささか大雑把であると思います。
どこがかというと、「取り扱う対象にならない」のが、
「輪廻転生」なのか「輪廻転生"説"」なのかはっきりしないという点です。
(「因果応報…」については少々毛色が違うみたいなので置いときます)
私の印象では、回答者様は、
「輪廻転生」が哲学の対象とならないと言ってるだけであり、
「~説」については哲学で扱って構わないと考えてらっしゃるのではと思います。
(分かりにくい言い方ですよね。どうも上手く表現できません。)
そうでなければ、回答者様が投げかけられた上記質問さえ、
価値のないものとなってしまいます。
私はそうは思いません。
リンク先のやりとりのほとんどは有意義であると思いました。

私は今ではこう考えます。

a.輪廻転生や因果応報を実在のものと前提とした論は、「哲学カテゴリ」に(いえ、広くQ&Aサイトにおいても)相応しくない。
b.輪廻転生説や因果応報説のような「説」を対象に議論するのは「哲学カテゴリ」でも許される。

bの見解は、他の方々の回答からこう思えたとも言えます。
質問投稿時、私は「哲学」の意味を狭く考えていました。
ですが、皆様の回答から、もっと広い解釈もあると教わりました。

もし「~説」も対象にならないとすれば、その考えはその人が抱く「哲学」のイメージ上でしか正しくなく、
「哲学」という言葉の、だだっ広い意味においては当てはまらないと思います。

以上、哲学ド素人の世迷言でした。

お礼日時:2009/09/17 00:08

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