プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

当カテゴリで、いまだ未締め切りの質問を抱えている者です。

「哲学」がなんたる学問かについては良く知らず、
自分の質問内容が投稿先の候補としていた「心理学」や「国語」には多分当たらないであろうとの
消去法で「哲学」カテゴリに投稿した次第です。

私が投稿した質問はごく日常的な疑問です。。
何人かの方がすぐに回答下さり、とてもありがたく思いました。

しかし、ふと「哲学」カテゴリの質問リスト(回答数も載ってる)をみてみると、
タイトルに宗教的なものが多いように感じたのです。

聖書がどうしたこうした、仏がどうしたこうした、神がどうしたこうした…

しかも、宗教的な質問ほど多くの回答が集まっているように見える。
これは私が考えていた「哲学」とは異なる傾向です。
「哲学」は宗教などから離れて、あるいは少なくとも宗教の教え等は第三者的な視点から捉えて、
人間の真理を追究する学問と思っていたからです。

ざっとみた感じなので申し訳ないのですが、
どうにも「哲学」カテゴリが「宗教」に巻き込まれているように思えてならないのです。

たとえば、本カテゴリで興味深い質問をみつけ、少し見てみたのですが、
回答された内容に、「輪廻転生」を前提としたものが複数見られました。
私は「輪廻転生」自体は否定しません。
しかし、「哲学」カテゴリで、
「人間は生き返るのだから大丈夫だよ」などとする意見はどうしても受け入れ難い。

これってまさに宗教的じゃない?気持ちわるーい!と思うのです。

私の「哲学」に対する認識は間違っているのでしょうか?

A 回答 (24件中11~20件)

noname#94393です。


全く地で話しますが、言わねばならぬと思い、改めてきました。
・・・
俺は、あなたのその天邪鬼なところが大嫌いです。
ほんとうは温かいこころがあるのに、自らそれを認めない甚だ頑固なところが大嫌いです。

人の善意ばかりを退けて、なぜ悪を取り入れようとばかりするのか?
宗教とか、哲学とか、そんなの関係ない。立派とか(ここではね)もっとどうでもいい。
いったい、発言してくれる他者の事をなんと考えておられるのか。
どうして、そのように、人の事を信じられないのか。
もっと信じなきゃダメだ。それは、語られた言葉の上面の示唆するところじゃない。
その、中身=ハート、おもいやり、そのこころをしらなければ、聞いたことにはならない。
人とはなすって、そういうことだよ。
君のために、君自身が、為すべきことは、それだけだよ。

俺の期待なんか、そんなもの要らん。応えてくれるな。(俺が何か頼んだかよ。。)
だが、君は、君自身に応えなきゃいけない。
そんなことではダメだよ。まっとうな道にもどれ。

言葉を儀礼的に整えても、君の天邪鬼は甚だ鋭く、人を切り付けるようだ。自分の説いたことばを振り返ったことがあるか?
この質問が、何であるかを知っているのか?
なんで君のために来た人々を常に、虐げるのか。どこまで人の忍耐に甘んじる気なのか。

どうして、そのように、人と開けるべきでない距離を開けるのか?
なんのために、問うてるのか。
そんな、ロボットみたいな知識がほしいのかよ。
いい加減にしろよ。

俺がいたときは、皆が俺を助けてくれた。なのになんで、しばらくたったらこうなの。芯がないの。

しっかりしろよ、おまえわ。。どうなってるんだよ。。そんなに独りかよ。。

ともかく、君の言い回しは酷すぎる。嫌味すぎんだよ。正せ。
なんか、自分を叱ってくれる人の気持ちになってきたよ。。

心配しすぎなんだよそもそも。。もっと人の事を信じろよ。。君の周り(つまり回答者ね)に、そんなに敵がいんのかよ・・・

・・・
あと、輪廻の事だけど、普通、死後とか、生前とか、分からんと思う。俺も大して知らん。問題は、俺の場合は、知らないことは、是非を分けない。知らんからね。輪廻については無理に語らない。
知ってもいないのに、それは本当だとか、まして虚だとか、ましてその詳細を、どうして言えるんだろう。
ただね、一つ思うところは、抗いようもなく生まれて、抗いようもなく死んでゆく人々があるとする。
そのような事実を(まじめに、本気で)省みれた人が、生存の真実の姿を知って、輪廻とは何かを知ることが、よもやあるやも知れない。

PS
あと、全と、一についての知見は確かに在る。もし、知りたかったら、質問を立てるといいよ。一を知って、全を知ることは在る。知ることができれば、もしくは知ろうとすることが、正しい道の歩みに役立つかもしれない。応えられることは答えるから。
とかく君は、欲しいものを要らないといい、友が来ると返って退く。
まぁ、そういう人間も悪くはないよ。君のような人柄も、別にわるかぁないよ・・
少なくとも俺については、なにも遠慮しなくていいから。何でも言ってくれていいから。いいたい事は言ってくれ。俺も遠慮してないし。管理人さんには怒られるかもしれないけどね。m(_ _)mスミマセン
じゃあ、、またな。。

この回答への補足

ここでは、回答内容に対し、順を追って私の考えを述べたいと思います。

>俺は、あなたのその天邪鬼なところが大嫌いです。

私は、私のこの天邪鬼なところが大好きです。
なので、これを変えるつもりは当面ありません。

>人の善意ばかりを退けて、なぜ悪を取り入れようとばかりするのか?

よく分かりません。いつ私が悪を取り入れようとしたでしょう?
そもそも「悪」とは?
具体例を示して下さい。

>いったい、発言してくれる他者の事をなんと考えておられるのか。

ありがたいと思っています。はい。

>どうして、そのように、人の事を信じられないのか。
>もっと信じなきゃダメだ。

なぜに、「信じられないのか」とか「信じろ」とかを軽々しく使うのでしょうか?
「信じる」こととはものすごく重大な心情です。
あるものを「信じる」べきか「信じない」べきかの判断は、簡単ではないと思います。
なのに、ある種の人々はすぐに「信じなさい」とか言いたがる。
その言葉が他者に与える影響について真剣に考えているのか?と私は思います。

なので、

>信じなきゃダメだ。

などとは、とてもじゃないが言えません。逆にダメですよ。他人にこんな事を言っちゃ。
無責任極まりない。
ですので、これに対しては明確に、
「承服できかねる」と申し上げます。

>おもいやり、そのこころをしらなければ、聞いたことにはならない。

私は、回答下さった方の思いやり等を考えればこそ、お礼コメントに窮しているのです。
回答頂いた内容が全て納得できるものばかりではありません。
しかし、皆様は貴重な時間を割いて私に付き合って下さったのです。
このようなケースでのお礼コメには非常に悩みます。
結果的にお礼が遅くなり…

>俺の期待なんか、そんなもの要らん。応えてくれるな。(俺が何か頼んだかよ。。)

すみません。上でも言いましたが、コメントは悩みに悩んで書いています。
ですが、私の文章力は決定的に足りないのです。
「期待」という言葉が適切でないことを分かりながら用いて…すみません。

>そんなことではダメだよ。まっとうな道にもどれ。

「まっとうな道」とは??
あなたが思う「まっとうな道」が、「他者にとってもまっとうか」は分かりませんよ。

>自分の説いたことばを振り返ったことがあるか?

何度も振り返ります。あなたはどうですか?

>この質問が、何であるかを知っているのか?

知っているといえば知っていますが、あなたはどうですか?
(#4さんへの補足の後半部分を参照下さい)

>なんで君のために来た人々を常に、虐げるのか。

「虐げる」??…しかも「常に」??
んんー??虐げる??この私が??この私が回答下さった方を常に虐げる??バカな……!!
ご面倒とは思いますが、回答に対する私のコメントを最初から読んでみて貰えませんか。
それでも同様の感を抱かれるとは考えにくいのです。

>どこまで人の忍耐に甘んじる気なのか。

忍耐してるのは誰ですか?あなたというのなら納得です。
が、他の方が忍耐してるかどうかなんてあなたには分からないでしょう?

>そんな、ロボットみたいな知識がほしいのかよ。

意味が分かりません。思い込みでの発言は控えましょう。

>俺がいたときは、皆が俺を助けてくれた。なのになんで、しばらくたったらこうなの。芯がないの。

知りませんよ(笑)(失礼。ホントに笑ってしまいました)
えーと、泣き言はどこか他所でお願いします。

>しっかりしろよ、おまえわ。。

あのね。しっかりしなくても良いのですよ。ご自身を追い詰めなさるな。

>ともかく、君の言い回しは酷すぎる。嫌味すぎんだよ。正せ。

これは、私も直したい点です。
気を付けてはいるのですが、時として人に不快な思いを与えてしまうようです。
ホント直したい…

>君の周り(つまり回答者ね)に、そんなに敵がいんのかよ

「敵」とは??
よく分かりませんが、私は回答者の方々を「敵」と思ったことはありませんよ。
思い込みでの発言は控えましょう。

>あと、輪廻の事だけど~

なぜ、ここで輪廻云々を持ち出すのか分かりませんが、
あなたの仰ってることは私の考えとそう変わりないと思いますよ。
あなたは、この件に関するここでのやりとりを理解しておられないと思います。

ふー。えーーと。きりが無いですねぇ。

小マトメ)
あのですね。
他者の意見に真摯に耳を傾けることと、それを肯定することとは別のことです。
また、肯定しても、それを実践するかはこれまた別のことです。
当たり前すぎて改めて言うのもはばかられるくらいです。
ですが、あなたの物言いは、「他人の意見を全て信じ、受け入れろ」
と言ってるようです。
これに納得できないワケはもうお分かりかと思います。

補足日時:2009/10/15 02:04
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

#9さんですよね?
あまりに口調が異なるので、同一人物かを疑いたくなりますが、
同じ方であるとしてコメントしたいと思います。

>いいたい事は言ってくれ。

というお言葉に甘えまして、そのように致したいと思います。
ただ、この欄のみでは足りないので補足欄も利用します。
タイムラグが発生すると考えますので、
しばらく時間をおいて補足欄もご覧下さいませ。

まず、私がこの質問をいつまでも締め切らずにいる理由を書きます。
それは、#13さんのお礼欄に、少々批判めいた文章を私が書いたことが要因です。
#13さんからは、それに対する返答が未だ無いのですが、
それ以前にどうやらサイトへのカキコミすらなさっておられないようなのです。
(今では#13さんの状況が少し気掛かりでもあります)
このような状態で締め切ったのでは、私の「言いっぱなし」になるような気がして中々締め切れません。
つまり「書き逃げ」になってしまうのではないかと…。

実は、#13さんの回答に対してはスルーを考えたのですが、
回答者様が#9で注意下さった「語らいの姿勢」を思い出し、
「少し意見を書いてみよう」と長いコメントを書いてみたのです。
結果、上記理由から、締め切るに締め切れない、悩ましい状況に陥ってしまっています。
今となっては、お礼コメントをマジメに書いたことを後悔しつつあります。
(回答者様のせいですよ!!責任とって下さい!!(笑))

その中で、#9さんの出現は思わぬものであったわけですが、
#13さんへのものと同様に、お礼として相応しくない、まあ異存ありげなことを書いていたため、
反応があったことは私にとって少し嬉しくもありました。
ですが、回答内容をみると…、
「ウーン…メンド臭い…」が率直な感想です。

そもそも、回答者様は今回の回答で何をなさりたいのでしょう?
なぜ私のコメントによって、回答者様が言語を乱す程に嘆き苦しまれているのか分かりません。
(短絡的な説明は付けられますが、#9での冷静な姿と合致しません。人間の面白いところですかね)

私の印象では、
「俺は素敵なアドバイスをしてやったのにコイツの態度は何だ!
 コイツのココロは捻じ曲がってやがる!俺が修正してやらねば!
 昔みんなが俺を助けてくれたように、今度は俺がコイツを助けてやるのだ!!」
なのですが…。いかがでしょう?

お礼日時:2009/10/15 01:57

哲学は、脳の論理思考に依存して、回答を得ます。

宗教は、論理思考で排除された、自然の情緒や、脳の思考の限界を、超えたところの回答を追求します。だからカテゴリーが違いますが、宗教カテゴリーがないからしかたないです。しかし論理思考は、自然の情緒思考を、排除するので、科学は自然を破壊しました。だから宇宙の調和は、脳の論理思考と、自然の情緒思考の、融合が必要です。だから哲学と宗教の融合により、完全な宇宙の仕組みが、理解できます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>カテゴリーが違いますが、宗教カテゴリーがないからしかたない

そのようですね。#2さんの回答で気づきました。(#2さんの回答、私のお礼、補足をご参照下さい)

>哲学と宗教の融合により、完全な宇宙の仕組みが、理解できます。

いやぁ、それはちょっと…いくらなんでも言い過ぎでしょう。

お礼日時:2009/09/25 06:13

哲学は論理で或いは理性で或いは理論で人生の事を割り切ってゆこうとするものです、宗教はその割り切れない部分までもカバーしているという言い方になると思います。



それは人間と云うもいのが論理だけで納得できないという側面が有ると云う意味になります。それは感情と云う事になります。哲学は感情面を強調していないという意味になります。感情を抜きにしたところの理性による学問と云う意味になります。

宗教はあべこべに、感情面を強調しているという側面があると思います。感情面の代表と云う事になると不安や恐怖感、言い方を替えたなら「人生」に対する畏れと云う事になります。その解決方法を教えようとしているという事になります。もっと言うならば有限の人生、有限の命を抱えながら、その有限の世界から飛び出して、有限に縛られないで永遠の中で安楽に暮す事は出来ないか?という理想を抱かせようとしているという事になります。

有限の中で割り切れる言葉で割り切れる問題を、或いは割り切れない問題を割り切ってゆこうとしている学問が哲学と云う事になるかと思います。

宗教は有限の中で永遠と云う意味或いは概念を手にしようとしている事に相当していると思います。矛盾した問題が人生には沢山あるからです。矛盾した問題或いは割り切れない問題は無限と云う事です。無限と云う事は永遠の又の名と云う事です。

従って哲学は分別脳で人生の問題を解決する事に相当しています。宗教は分別脳の他にも人間には備わっているという事を実証としています。それは誰にでも在るものです。矛盾をした問題を解く事が出来るという事を歴史的にも証明してきました。

禅問答などが分かり易い例ですが、禅問答は分からない事の代表の様に言われています。ですが是は人間の悩みの究極的な癒しの効果が有ります。その事を簡単に書いてみます。

人間の脳は割り切れる部分を司っている脳が有ります、是には言葉が有ります。自我意識と呼ばれているものです。この脳は分別脳と云う名の通り割り切れる問題しか解く事が出来ません。

余り知られてはいませんが、人間にはもう一つの人格が、自我意識の他に存在しています。それは分離脳の研究によって明らかにされたものです。「脳. 脳研究の2つの古典. 右脳・左脳の研究: 1964年ロジャースペリーの仮説にはじまり、後に認められ1981年にノーベル医学生理学賞を受賞。 左脳は言語的、論理的、数学的な精神活動を司り、右脳は非言語的、非数学的、映像的な精神活動を司るとしたもの ...
そして右脳の人格と左脳の人格はまったく異なっているという事を証明した。」

この右脳の人格が書いたものが禅問答と言えます。左脳の分別脳では歯が立たないようになっています。

又人間の悩みや苦しみについても、結論を出す事が出来ます。人間の悩みとは心の矛盾です。悩むという事は自我意識が悩んでいる事に相当します。それは矛盾をした問題、例えば感情が絡んだ事や、この人と結婚をしたら幸せになれるのか?等の結論は左脳の分別脳だけでは解決できません。何故ならば論理では割り切れない部分があるからです。

割り切れない問題を分別脳に抱え込んでいる事が人間の苦悩になっています。言い方を替えたなら、分別脳にはこの問題を振り向けないで、右脳にこの問題を解いて貰うなら簡単に出来てしまうという事です。

このためのテキストが禅問答と云う事になります。

自我意識には解けない「永遠」が絡んだ問題を、もう一つの意識である右脳の意識に出てきて解いて貰おうという事の意味が禅問答が生まれた背景となっています。

有限の世界しか理解出来ない機能で苦しんでいる自我意識に、永遠の概念を教えて呉れる事になります。それは、肉体の死を恐れていた者にそれ以上のものを見せて、肉体の死はそれほど重要な事では無かったという事を分からせるという事になります。

禅問答が解けた事を「生死の問題が解決した。」と云います。それは言い方を替えたなら、左脳の自我意識が解けない問題で苦しんでいます。そこへ自我意識が解けない事が分かって全てを諦めるという機会が有ります。「全てを放下した時」或いは「大死一番」した時に、右脳の意識が出てきてすべての問題を問いて呉れます。

この事以後は死に対する恐れが無くなってしまいます。この事をキリスト教では「神と和解する」と云う言い方をします。仏教の他力本願では阿弥陀様が向こうから来て救ってくれると云います。自力本願ならば悟りを開いて生死の問題を解決したと云います。

悩みとは自我意識に割り切れない問題を抱えてしまって立ち往生している姿の事です。或いは自我意識だけで人生を渡ってゆこうとしている事です。もう一つの意識を無視していてもう一つの意識の助けを断っている姿が、罪悪感や、漠然とした不安や恐怖感や精神疾患などの心と心の対話となっています。つまり心の矛盾と云う事になります。

何時も心が騒がしくて収まる事が無いという状態です。つまり悪循環と云う事です。是は自我意識が「自分の」主導権を握っているという意味です。その為に右脳が右脳の存在をアピールをします、是を自我意識が分からない者からの圧迫として感じています。

自分自身の心の矛盾が解決した後は「自分の」主導権は右脳が握っているという事になります。自我意識は「神の御心のままに」と云う事になります。自我意識は現在を肯定できなくて苦しんでいました。今度は絶対肯定と云う足場に立っています。全てを受け入れる事が出来るようになります。

この事が人間の救いとなります。救いの無い人生にを求めていた事が迷いで有り。救いが無かった事を知った時が救われた時と言えます。迷いとは「今現在を自分は受け入れたくないという妄想」であったという事になります。」

哲学だけでは感情面を納得できないという側面も人間は持っている事になります。人はパンのみにて生きるものでは無いという事です。

この回答への補足

遅すぎるとは思いますが、お詫びです。

私、こちらのお礼欄の中ごろで、

私)>ワナが仕掛けてあります。

と書きました。

今では、「ワナ」が具体的になんであったかすらよく覚えていないのですが、
たしか、相手(つまり回答者様)の反論内容によっては、
ご自身にそれが跳ね返ってくる、といったようなモノであったと思います。

であれば、そのように表記すれば良かったのです。

「ワナ」などといった含みのある書き方では、
相手(つまり回答者様)が有力な反論を持っていたとしても、
その発言を躊躇してしまうことでしょう。

私は、「ワナ」という言葉で回答者様の反論を封じてしまっていたかもしれません。

誠にすみませんでした。

補足日時:2009/11/12 00:18
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。

僭越ながら、回答者様のご説明には、
多分の「思い込み」と「押し付け」があるように感じます。
悪気がないことは分かりますので、
おそらく回答者様の親切心の強さから出たものでしょう。

回答者様は、色々な苦悩を抱え、それを解決しようとして、
回答者様なりの「すがるモノ」をお見つけになったようですが、
それを他者に押し付けるのは良くありません。

少し危惧するのは、回答者様がご自身の考えに
「思い込み」が存在することを、自覚しておられないのでは?
との点。
これまた大変失礼な、且つ差し出がましい提案ですが、
ご自身の回答内容をお読み直しになり、
個々の説明がホントに、絶対に、万人に対しても、正しいか?自分の単なる想像ではないか?
を確認してみては如何でしょう?

参考)
「思い込み」と思われる箇所。(たくさんありすぎるので一例)

>この右脳の人格が書いたものが禅問答と言えます

本当ですか?あなたの理論を用いれば、右脳は禅問答を「書けません」。
(禅問答かどうかは別として、私は右脳でも「書けるかもしれない」と思ってますよ。それくらい、脳の機能は未だに謎が多いと考えていますので。なお、上の文「右脳は禅~」にはワナが仕掛けてあります。もし反論なさるときにはご注意を…)

いずれにしろ、上記意見はあなたの想像の世界にしか過ぎません。なので

>~が禅問答と言えます

いえ。「言えません」。
注意!:「禅問答は右脳の人格が書いたものではない」とは言ってませんよ。違いがお分かりになりますか?

参終)

>人はパンのみにて生きるものでは無い

昔、ある知人がよく用いていた言葉です。
何もかもを全て知った"気"になってるヒトでした。


もう一つ。
回答者様の考えを伝えるのに、
ノーベル賞だの右脳左脳だのを持ち出す必要はないと思います。
権威にとらわれる人、とにかく何かにすがりつきたい人、等には有効でしょうが、
私のような天邪鬼にとっては逆効果です。
「このヒト怪しすぎる…」と思います。
また、このようなものに頼るのはご自身にとっても宜しくないと思います。
「ノーベル賞をとったから永久に正しい」とは言えないでしょう?

回答者様の経験と、そこから得た"個人的"所見を伝えれば、
悩める人々への助けとしては十分と考えます。

お礼日時:2009/09/25 05:59

 spongetbl さん こんにちは。


 No.5&10です。

 参考の質疑応答を読んでいただいていくらか恐縮しています。澄みませんという思いとともに ありがとうございます。

 それにお応えいただいた内容につきましては 案外かんたんにご返事できると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 私は今ではこう考えます。

 a. 輪廻転生や因果応報を実在のものと前提とした論は、「哲学カテゴリ」に(いえ、広くQ&Aサイトにおいても)相応しくない。
 b. 輪廻転生説や因果応報説のような「説」を対象に議論するのは「哲学カテゴリ」でも許される。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これはもう見解の相違として互いに理解しておくことになるのかと思いますが わたしの見解をさらに明らかにしてこの対話に応じたいと考えます。
 すなわち ( a )は互いに共通の認識のようです。そこで( b )ですが これは――少し詭弁のように聞こえるかも知れませんが―― 
 ○ ( a )の内容をきちんと説明をつけて明らかにするためには 必要である。
 ☆ という意味でわたしも賛成するというかたちになります。どうでしょう。
 (でも もう相互理解は得られていると思いますので 特別にご返答をわづらわせ申し上げることはないと思います)。
 とりあえず きちっと応答いただきましてありがとうございました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
返答不要とのことですが、お礼だけ言わせて下さい。

>いくらか恐縮しています。

いえいえ…いえいえいえ!
とんでもないことでございます。
私のほうこそ、低レベルな考えを聞いていただき大変恐縮しております。

>相互理解は得られていると思いますので

私の拙い文で自分の考えが伝わるか心配だったのですが、
お察しいただけたようで、ホッとしています。
ありがとうございました。

お礼日時:2009/09/18 23:52

全ての学問は、哲学から派生したものです。


経済学や数学、科学、もちろん国語や心理学も同様です。

哲学は、真理を論理的にいかに理解し、説明することができるのかに未だ挑戦中の学問です。ソクラテスの時代から答えを探し求めています。

宗教は真理自体を創造主と規定し、神や仏としています。

創造主がどんな存在なのか、なぜこの世の全てを生み出すことができているのかを説明しようとするのが哲学。信じるという世界で終わらせているのが宗教です。

「人間は生き返るのだから大丈夫だよ」だと、生き返るのはなぜか、そもそも人間とは何かを説明しようとするのが哲学。信じることだよで終わらせるのが宗教ですね。
信じる世界は主観なので、気持ち悪く感じてしまうのかもしれませんね。真理とはほど遠いですからね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が大変遅くなってしまいました…
遅すぎて、回答者様も回答したこと自体覚えておられないかもしれません。
とにかくすみません。

>全ての学問は、哲学から派生したものです。
>経済学や数学、科学、もちろん国語や心理学も同様です。

そのようですね。
私は今、数学などの学問が哲学から分かれて(離れて)いった経緯について考えています。
考えてるというか、ちょっと気になるって程度で、特に突き詰めるつもりは無いわけですが…。

>信じる世界は主観なので、気持ち悪く感じてしまうのかも

そうなんですよ。主観なんですよね。
しかも「信じる」という行為は、哲学が持つ「疑う」という要素と真逆なので、
哲学カテゴリで「信じなさい!」が幅を利かせるのは好ましくないと思うのです。

お礼日時:2009/09/18 23:48

 No.5です。



 ★ (No.5お礼欄) もちろん、回答者様のように研究対象としてこれらを真剣に論ずる場合はこの限りではありません。
 ☆ お礼欄に述べておられる内容は 全体として 賛成ですが このように認識される点など微妙に違うと思いましたので ひとこと添えて回答を補っておきたいと考えます。
 わたしの言おうとしていることは 
 ○ 輪廻転生説や因果応報説は 哲学の取り扱う対象にはならない。
 ☆ というものです。文学がそれらをどう扱おうと それも哲学の知ったこっちゃない。これです。

 * なぜ対象にならないかは 切りがないからです。論じても切りのない架空のことがらであるからです。経験科学としては無理だという意味です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。またまたお礼が遅くなってしまいました。
しかも尋常ならざる遅れです。もはやどんな言い訳も通用しません。とにかく申し訳ない。

さて、
私は、紛らわしい文を書いてしまったようです。
いや、#5リンク先の内容が理解できなかったために、
わざと曖昧な文にしてしまった感もあります。
「よく分からんから、この程度でお茶を濁しちゃお!」的な考えです。
ごめんなさい。

自分の態度を反省し、もう一度#5リンク先、
【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
【Q:因果応報説は 愚の骨頂】
にトライしてみました。
結果、前よりはいくらか理解を深められました。

そこで、少し生意気を言わせて下さい。

>○ 輪廻転生説や因果応報説は 哲学の取り扱う対象にはならない。

この表現はいささか大雑把であると思います。
どこがかというと、「取り扱う対象にならない」のが、
「輪廻転生」なのか「輪廻転生"説"」なのかはっきりしないという点です。
(「因果応報…」については少々毛色が違うみたいなので置いときます)
私の印象では、回答者様は、
「輪廻転生」が哲学の対象とならないと言ってるだけであり、
「~説」については哲学で扱って構わないと考えてらっしゃるのではと思います。
(分かりにくい言い方ですよね。どうも上手く表現できません。)
そうでなければ、回答者様が投げかけられた上記質問さえ、
価値のないものとなってしまいます。
私はそうは思いません。
リンク先のやりとりのほとんどは有意義であると思いました。

私は今ではこう考えます。

a.輪廻転生や因果応報を実在のものと前提とした論は、「哲学カテゴリ」に(いえ、広くQ&Aサイトにおいても)相応しくない。
b.輪廻転生説や因果応報説のような「説」を対象に議論するのは「哲学カテゴリ」でも許される。

bの見解は、他の方々の回答からこう思えたとも言えます。
質問投稿時、私は「哲学」の意味を狭く考えていました。
ですが、皆様の回答から、もっと広い解釈もあると教わりました。

もし「~説」も対象にならないとすれば、その考えはその人が抱く「哲学」のイメージ上でしか正しくなく、
「哲学」という言葉の、だだっ広い意味においては当てはまらないと思います。

以上、哲学ド素人の世迷言でした。

お礼日時:2009/09/17 00:08

哲学とは、


「哲学(てつがく、希: φιλοσοφια=愛知)は、前提や問題点の明確化、概念の厳密化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な主題について論じて研究を進める学問の一種。その理性的な思考自体も研究対象になる。また、そのような思考を通じて形成される立場も哲学と呼ばれる(ソクラテスの哲学、など)。」
と、WIKIPEDIAにあります。
私は、この説明で良いと思います。

洋の東西問わず、哲学によって、宗教は論じられる対象であった。神は人間観のために、輪廻転生は一つの死生観として重要な研究対象となったでしょう。

提出されている問いの本質は、語らう人々そのもの、各々自身にまかされた事なのであると私は思う。その上で、答えたい。
宗教全般、または宗教教義に基づいているという理由によって、ある発言に対して、嫌悪感を抱くことは慎まれるべきであって、正しい語らいの姿勢であるとはいえません。信教の自由は個人の自由であり、その発言さる事を阻害してはならず、発言が不適切な場合は、浮ついた言葉で避けるのではなく、静粛にその旨を表明すべきであって、他者の発言を粗にすべきではありません。信教ある人とは語りえないというのであれば、それは一種の偏屈であると知られるのです。ただ、このQAコミュニティーサイトに、信教カテゴリが存在しないのは、なぜでしょうか。ニーズがあると私は思います。哲学カテゴリよりも、そちらに相応しいものが少なくは無く、諸信教の説くところについて知りたいという人も、少なくないと思うからです。

質問者の哲学に対する認識は、特別の差異ないと思います。
QAサイトであろうとなかろうと、真摯に問いを立て、真摯に思うところを究明しようとする姿勢のある人には、不埒なものは近づけない。そのことから、適切なカテゴリの不在は、実は、よき語らいの本質ではないと知られる。本質は、それを真剣に探しているという、只その一点、当人自体に基づくことであって、そのことが、自身を答えに近づける。質問者は、回答の性質にとらわれず、広く聞く耳を持って、自身の真剣な探究心を自身が疑わず、諸々の異なった立場からの意見を和して統べ、益するところを得て、探求の糧とされるとよいでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が大変遅くなってしまいました…
遅すぎて、回答者様も回答したこと自体覚えておられないかもしれません。

正直申しまして、どのようなコメントをお返しすべきか非常に迷っていたのです。
回答者様がお気を悪くなさらないか心配ではありますが、書いてみます。

さて、回答者様には大事なアドバイスをいくつか頂きました。
今回の質問の仕方には、確かに見直すべき点がありました。

回答者様が示された語らいの姿勢は、人間として非常に立派であると思います。

しかし私は今のところ、立派な人間になることを目指してはおりません。
ですから、回答者様のアドバイス全てを実践することはないと思います。
私にはきっと、回答者様の仰る、「偏屈」な部分があるのでしょう。
(ただ、
>信教ある人とは語りえない
ということはありませんよ。
自分の宗教を押し付けようとする人に関わりたくないのは確かですけど)

頂いた回答の中で、一つ気にかかる箇所がありました。

>ある発言に対して、嫌悪感を抱くことは慎まれるべきで

という箇所。
「嫌悪感を”あらわにする”ことは慎まれる」なら分かるのですが、
「嫌悪感を抱くこと」自体を慎まねばならないのでしょうか?
そのような高度な技が私に出来るとは思えません。
また、たとえ出来たとしても、
私はむしろ「嫌悪感」のような一次的感情(「一時的」ではない)を大切にしたいほうです。
ですので、この点に関しても回答者様のご期待にはそえそうにありません。
(言葉尻を気にするあまり、回答者様の本意を読み取れてないだけかもしれませんが)

もう一つ。
もしかして誤解なさってるのではと思うことがあります。(私の勘違いならごめんなさい)
私は、「生き返るのだから大丈夫」という回答を受けた本人ではありません。
そのやりとりの当事者ではないのです。
もちろん、どちらにせよ、回答者様の示された態度をとることは可能です。
私が今後そのようにするかは別ですが。

やはり自己弁護ばかりの文になってしまいました。
改めまして…
回答者様の指摘によって、私は自分の姿勢を見つめ直すことができました。
それが私の今後の行動に結びつかないのは、
私が、志の低い、情けない人間だからです。
どうかご容赦を。


(適切なカテゴリの不在について、#8さんへのお礼欄に少し私見を書きました)

お礼日時:2009/09/13 01:25

キリスト教にせよ仏教にせよ、このQ&Aカテゴリーでは、おれおれテーマをひろげたい人が多いようです。

無理強いといっていいほど、一方的に、聞かせるという意味でです。何かにつけ自分の意見を言いたがる。

重要:
哲学と宗教では、「プロ」と「アマ」ほどの「大きな隔たり」と「明確な違い」があります。

特に哲学的「流派の評価」の際、公平さを保つように振舞うのが、「プロ」のやり方です。つまり、哲学的立場です。よい面と悪い面・利害関係についてもフェアに議論してゆこうとします。

例として、スポーツシューズの「ブランド」について考えてみてください。

現役を退いてコーチとして働いているマラソンの選手がいるとします。

「私は30年も経験がある」と主張するコーチもいるでしょう。その選手が使っているシューズのメーカーは何か考えてみてください。たとえば、アシックXX(伏字)。

元プロ選手が、今でもその靴を愛用しており、弟子にあたる選手に同社の最新モデルを他の会社と比較してお勧めするということは、するでしょう。

でも、弟子が、どの会社とプロ契約をするかという事は別の話。利害関係です。

そのお弟子さんがアディダXXそと広告契約をしており、実際に競技で使う靴は、その会社のシューズかもしれません。

お弟子さんも、プロですから、「おれは、師匠からこの靴がいいと教わった。競技ではアシックXXを使う」とは言わないかもしれません。

評価の基準は、しかしながら、コーチの選手時代の業績+其の弟子にどんな人がいるかということです。

(また、お弟子さんの業績もある意味、大事でしょう。)

素人の方は?というと…
たとえば40歳になって、マラソンを始め、今年で30年のキャリアがあるとします。

そのひとは、とにかく、「つXX☆」がすき!

どんな人にでも、会えば必ず、「つきXX」はいいよゥ!。どうだこれを履いてみるか?私も30年の経験があるが、これ以外はずぇったい認められない!

もちろんこの方もプロが参加する大きな大会に出たことがあるかもしれません。でも「かっこわるい」んです!

その人が健康で楽しければいい。とにかく一人でも多くの人が「つXX☆」のシューズを使えば、自分が偉いような気になる。たったそれだけのこと…

プロとアマの共通点は、「30年マラソンを続けている」ということだけです。シューズのブランドは、流派・トレンド。「走る」ということは、「取り扱うテーマ」とお考えください。「利害関係」は、実際どういう家族環境に生まれ、人生を体験する中で、どの宗教を信奉してきたかということに置き換えられます。

哲学は、科学的です。

宗教は、教義的・文学的・(特に自分の流派に)無批判です。

科学と文学が同じというなら、それはそれでいいでしょう。プロもアマも根本的には同じですから… 

でも「プロとアマは、ある意味、同じようなものである」とは普通、『激励』を意図した「プロフェッショナルな立場」からのコメントです。

一般常識に属しますが、「哲学は神学の、ハシタメ」と呼ばれてきました。哲学は宗教を尊敬しています。宗教は哲学を馬鹿にしています。

其の証拠に、社交的常識を重く見て、「文学カテゴリー」なら絶対くだらない質問はしないくせに、「哲学カテゴリー」になら、「取るに足らない、くだらない宗教的質問」も「敢えて」している人が多いようです。特に自分の流派以外の考えをヘリクツで馬鹿にする為だけにです。

「其の人たちが、どういう意図で質問をしているのか」掘り下げてみてください。特に何教をひろげようとしているのか。(厳密に言うと、これは、このQ&Aの利用規約違反です。)

私的立場からすると、どの世界宗教が一番「科学的か」ということも、自明ですが…
其の人たちの行動を観察してみてください。すぐわかりますよ。多くの場合、宗教ともいえない「おれおれ電波教」ですが…
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が大変遅くなってしまいました。申し訳ありません。

>哲学と宗教では、「プロ」と「アマ」ほどの「大きな隔たり」と「明確な違い」があります。

この考えは、私が当初抱いていたものと似てるのかもしれません。
(「似てる」は、知識の無い私の勘違いである可能性が大いにあります)
私は哲学と宗教は殆ど関連性が無いと思ってました。
ですが皆様の回答をみて、哲学の中に宗教に関連する部分もあるのかなと思い始めています。
今改めて自分の質問を読み返すと、私の質問は、宗教、宗教学、宗教哲学等をごっちゃにしている感があります。

シューズ云々のお話。
非常に申し訳ないのですが、私の頭はますます混乱してしまいました。
これは私の読解力のなさのせいです。すみません。

>哲学は、科学的です。

その通りだと思います。

>宗教は、…(特に自分の流派に)無批判です。

ここが宗教の大きな問題点だと思います。私が気持ち悪く思う一因でもあります。

また、
>特に自分の流派以外の考えをヘリクツで馬鹿にする為だけにです。
>特に何教をひろげようとしているのか。

私がとても不思議に思うのは、布教活動に熱心になってるこれらの人達です。
仰るようにネット上にも現れますよね。

自分の信じる宗教があるとしても、それを広めることに何の意味があるのでしょう?
「ありがとうポイント」ならぬ「よくやったポイント」でも付くと思ってるのでしょうか?
それによって天国へ行けたり成仏できる確率が高くなるとでも?
あるいは戦争でも起こそうとしているのでしょうか?(それなら納得できますけどね)

自分の信ずる宗教の信者が多くなった…、それが一体何になるのか??

布教活動が修行の一つであると考えられなくはないです。
他人にある事を伝えるためには、自分がより深くその事柄を理解しなければならないからです。
しかし私には単純に仲間を増やそうとしている印象のほうが強いです。
他者を取り込もうと試みる暇があるなら、それを自分と向き合う事とかに使うほうが余程有意義な気がするのですが。

>宗教は哲学を馬鹿にしています。

驚きました。逆は考えられるのですけど。
いや、逆もマズイか…な。
どちらの立場にも、あまり感心できない態度をとる"個人"がいる事は想像できますが、
全体を馬鹿にするのはどうかと思いますね。

お礼日時:2009/09/06 01:10

哲学は、いろいろな考えを網羅し、吟味することであると思います。



宗教学は、人々の信仰を調査、考察するものであると思います。


全く、別のものであるとは思うのですが、
確かに、混乱してしまう理由はあるでしょう。

それは、どちらも「神」という言葉を使用することです。

ちなみに、数学でも、「無限」という言葉を使用しますが、
宗教学と混乱することは少ないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。

>それは、どちらも「神」という言葉を使用することです。

「神」という言葉は、それを使っただけで宗教的になってしまうものと思ってました。
ですが、大辞林にて
「哲学で、世界や人間の在り方を支配する超越的・究極的な最高存在。」
との表記を発見しました。
なるほど。おっしゃるように宗教を離れた部分の哲学でも使われるようですね。

>ちなみに、数学でも、「無限」という言葉を使用しますが、

すでにご承知かもしれませんが、数学の「無限」には幾つかの種類があるそうです。
たとえば、整数の無限と実数の無限では大きさが違うとか…(うろ覚えなのであまり信用なさらぬよう)。
数学って面白いなぁ、と今更ながら思う今日この頃です。

お礼日時:2009/09/04 01:21

 こんにちは。



 宗教は 個人の信仰にまで還元すべきであると考えるものです。
 信仰は 哲学ないし科学をひとつの目安としてできるところま知解しておくべきだと考えます。
 その考え方において 参考までにですが 次のようなやり取りをおこなって来ております。
 【Q:輪廻転生説は 愚の骨頂】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4927327.html
 【Q:因果応報説は 愚の骨頂】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5096821.html

 ただし 次のような見解を持って模索しております。よろしかったら参考にしてください。
 【Q:現在時における《復活》について】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4442055.html

この回答への補足

お礼コメントを書いてからずいぶん経ちますが、

お礼欄の

私)>現実社会においては「死んだら終わり」論者

について、
「そうとばかりは言えないかなぁ」と思えてきました。

遠い昔、それもごくまれにですが、死後の存在を意識したことがありました。
そのことを思い出したのです。
また、自分の不思議体験もいくつか思い出してしまいました。

ですので、私の上記コメントには「基本的には」とかの注を付けるべきかもしれません。

まあ、皆様方にはどうでも良いことですね。
なんと言いますか、何か自分のコメントがウソになってしまう気がしたものですから。

私的事情で欄を汚してしまい、申し訳ありません。

補足日時:2009/09/13 08:37
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。お礼が遅くなり申し訳ありません。

リンク先のやりとりを読ませて頂きましたが、私の頭には難しかったようで、
残念ながら内容はあまり理解できませんでした。

ただ、内容とは別のところで感心させられました。
リンク先の質問にはとても多くの回答が寄せられてましたが、
一つ一つにしっかりと補足なりお礼なりが付けられていました。
私など、本件の応対ですら、手一杯、一杯一杯です。

さて、私が「輪廻転生」(や「因果応報」)説を否定しないのは、
自分の個人的楽しみを保ちたいとの極めて単純な理由からであり、宗教信仰とは全く関係ありません。

というのは、映画や書物(主に漫画ですが(汗))をみるとき、
それらが出てきたからといって、作品自体を「つまらないモノ」として捉えるのは、
それこそつまらない行為と考えるからです。

一方、Q&Aサイト等でこれらの実在を前提としたアドバイスを回答するのはどうかと思いますし、
テレビのスピリチュアル番組などには激しい嫌悪を覚えます。
(「公共の電波を使って何をやっているのだ!?」と、ザッピング中に一瞬映っただけで非常に不快になります。)

こういった私の心の動きを考えますと、
「輪廻転生」「因果応報」、
一つの考え方として個人的にたのしむのはOK。
公の場でその実在を前提とした論を展開するのはNG、ということになりましょうか。

もちろん、回答者様のように研究対象としてこれらを真剣に論ずる場合はこの限りではありません。

改めて申したいのですが、私は映画、小説、漫画等をたのしむ際にはこれらの考えを否定しませんが、現実社会においては「死んだら終わり」論者?です。
(といいながら、お墓や仏壇には普通に手を合わせてますねぇ。なぜだろ?宗教的な意味合いではないと思うのですが…。うーん…手を合わすことによって自分自身を見つめ直そうとしてるのかな?それとも先祖に対する感謝か?両方か?いや、お願いもしてるような…。よく分かりませんですわ)

お礼日時:2009/09/04 00:21

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