親子におすすめの新型プラネタリウムとは?

昭和14(1939)年5月11日、満州国とモンゴル共和国との国境線を巡ってモンゴル軍と満州国軍が衝突し、これを切っ掛けに、日本軍(関東軍)とソ連軍との間の大規模な戦闘が起こりました。ノモンハン事件です(ロシア名:ハルハ河戦争)。

ところが3ヵ月後の8月23日、独ソ不可侵条約が締結され、続いて9月1日にドイツ軍が電撃的に西部ポーランドへの進攻を開始し、第二次世界大戦が始まりました。

9月3日、東京の大本営は関東軍にノモンハン作戦の停止を指令し、関東軍と現地ソ連軍との間で停戦交渉が始まりました。

9月15日に停戦交渉が成立しました。

2日後の9月17日、ソ連軍が東部ポーランドへの進攻を開始しました。独ソ間にポーランドを東西に二分する密約があったのです。

以上の経過に関して質問です。

9月3日に大本営が関東軍に作戦の停止を指令しましたが、最初に相手に停戦を申し入れたのはソ連側でしょうか、それとも日本側でしょうか。

停戦成立の2日後に、ソ連軍が東部ポーランドへの進攻を開始したので、ノモンハン停戦とポーランド進攻の間には密接な関係があるように感じるので質問しました。

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

日本側です。



9月3日の関東軍への命令は攻勢作戦の中止であり停戦命令ではありません。

9月8日にモスクワにいる東郷大使に外務省と大本営が共同で策定した停戦案が届きます。
東郷大使は翌日の9月9日よりソ連政府のモロトフ外務人民委員(外務大臣)と交渉を始めます。
そして何度か会談がもたれ停戦案の内容について話し合われ、モスクワ時間で9月16日の午前二時に停戦協定が成立します。

満州では、9月16日午後一時十分に出された大本営命令で、関東軍司令官にノモンハン全域でのソ連軍に対する一切の敵対行為を停止するよう命じられました。

現地で戦っていた日本軍とソ連軍の交渉(停戦ラインの確認、遺体や捕虜の交換等について)は9月16日の夕方から開始されました。

ソ連軍のポーランドでの行動開始はノモンハンの停戦交渉成立を待ってのものです。
モロトフ外務人民委員は、この停戦交渉の成立した日にドイツ大使に17日か18日にソ連軍は行動を開始すると伝えています。

ノモンハンでの戦いが拡大する事なく終結し、日本との全面戦争にならなかったため、ソ連は安心してポーランドに攻め込みました。

この回答への補足

有難うございます。

>日本側です。

日本側ですか。どうも釈然としないのですが・・

8月23日、独ソ不可侵条約が締結(ポーランド分割の密約があった)。

9月1日には早くもドイツ軍が西部ポーランドへの進攻を開始した。

となればソ連としては、ノモンハンで、モンゴルの代理として3カ月に亘って強力な日本軍と戦ったが、さして得るものがなかった(ソ連側の戦死傷者2万人)。が、ポーランドへ進攻すれば、ドイツとの密約があるので確実にポーランドを占領できる。ポーランドの戦力は脆弱だ。

だから、戦線を東から西へ移したいと考えてソ連政府から日本政府へ停戦を申し入れた、と考えるのが妥当ではないかと思ったのですが。

一方ではノモンハンで日本と戦いながら、他方ではドイツとポーランド分割交渉を進めていたのですからロシア人はしたたかですよ。

補足日時:2009/09/20 08:44
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、有難うございます。

お礼日時:2009/10/23 19:06

 ノモンハン事件の終結に関して、ソ連側から積極的に働きかけたという事実は残念ながらありません。



 ノモンハン事件に関しては、内外を問わず実に多くの資料が刊行されていますが、そのすべてにおいて戦闘中止、つまりは停戦に至った端緒は、日本側からソ連への停戦の申し入れだということが事実として記載されています。これは現在では様々な資料によって、当時の外務省、内地の大本営、そして現地の関東軍司令部の時系列的な動きが正確かつ詳細に把握できていることからも断言できます。

当時の状況を詳細に分析すればたしかにソ連も事件勃発後のヨーロッパ情勢の政治的軍事的変化や事情もあり、本心では早急な戦闘中止、あるいは停戦を望んでいたことも事実です。

 スターリンは恐怖政治をもって軍部と民心を掌握していたこともあって、僻地の国境線争いであってもそれに敗れるようなことがあれば、それこそ自身の権勢のほころびの始まりになるという認識を持っていました。さらにはこの紛争が日本との全面戦争にはならないという根拠ある認識をも持っていました。とはいえ、小さな紛争がいつ本格的な戦争の火種とならないとも限らないことは歴史が示しており、なるべくならヨーロッパとアジアという二正面戦争だけは避けたいというのが本音でした。とはいえもし二正面作戦が避けようのない状況になったならば、間違いなくソ連は万難を排してでも戦いを始めたはずです。しかしそれはあくまでも日本には気取られたくないソ連のお家の事情であって、表面的にはこの戦闘に関しては一歩も引かない姿勢を堅持していました。
 
 あらゆる分野において「駆け引き」という国の呈をなすための必須条件に乏しかった当時の(今にいたるもまったく変わっていないのが情けないですが)日本の実情を考えれば、彼我の情報力と交渉力の差は疑いようのない事実です。軍事面だけではなく外交面での戦いでも遅れを取ったのは当然の成り行きであったと考えます。ソ連が停戦を受け入れたときの東郷全権大使と外務省の驚きと喜びようは、もう無残というかいじらしいというか…。

 ノモンハンに関してはあなたもお詳しいようですし、かなりの文献を手にされていると思います。私もこの事件に関しては昔から非常な興味を持っていました。しかしどの資料を手にしてみても、結論的に関東軍の暴走、それを阻止し得なかった中央大本営の無能さと弱腰、さらには当時から露呈していた日本陸軍の軍という組織のトータル的な意味での欠陥などなどを思い知らされるばかりでした。

 日中戦争から太平洋戦争まで、日本は幾多の軍事的外交的な判断ミスの連鎖で多くの国民や兵士たちを無駄死にさせました。事の起こりの良し悪しや結果論的に甚大な損害を出したにしても、軍部が自制心をなんとか効かせることによって取り返しのつかない破滅的な結果から回避できたのがノモンハンだったと、個人的にはそう思います。つまりあの時期において日本側から停戦を申し出たことは、日本の外交史上まれに見るクリーンヒットだったと評価してもいいかと思います。

 そういう意味からも、この事件の軍事上外交上の諸様相を精査して、それなりの分析と研究に着手していれば、その後に起きた様々な国際的な懸案に対して多少は効果的かつ有利な駆け引きができ、ひいては今にいたるも戦争責任とかなんとかであちこちに頭を下げざるを得ないような醜態を見せることもなかったのかもしれません。

 ちょっと脱線しましたがお許しください。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。

やはり、先に日本側から停戦を申し入れたのですね。良く分りました。

しかしKITAIKKI様も先の戦争についてお詳しいですね。実際に出征された方のように感じます。将来、このカテゴリーで再び私を見かけられたら、ぜひとも教えて下さい。

お礼日時:2009/09/21 19:02

NO.1です。

ちょっと補足を・・・

日本では結構早い時期から停戦への動きが出ていました。

7月18日に開かれた五相会議(陸相や大蔵、外務などの5人の大臣会議)で政府としてはノモンハン事件がソ連との全面対決にならないよう全力を尽くす政策をとり、東郷駐ソ大使にあらゆる機会を通じて外交努力によって、急ぎ事件を解決するよう訓令を発すべきとの話が出て全員が賛成します。
こうした政府の方針により外務省は7月20日には東郷大使に訓令を発します。ただ、この時は、ソ連に対し事件の解決に熱心だという印象は与えぬようにするようにという注文もつけています。

なお、同じ7月20日には、関東軍の磯谷参謀が大本営に呼ばれ、そこで今は支那事変の処理が最優先課題であり、ソ連との全面戦争は回避する事と釘を刺されています。

8月22日、ソ連と樺太での利権問題を話し合う交渉の席で、東郷大使がロゾフスキー外務人民委員代理に、色々な懸案事項を解決する必要があると探りを入れたところ、ロゾフスキーはソ連としても関係正常化を望むと答えます。これに東郷大使が満州の国境問題に取り組むが事が肝要と、暗にノモンハンの事を言ったところ、ロゾフスキーもソ連は日本側のいかなる提案も進んで検討する用意があると返答します。
この時のロゾフスキーの発言により、ソ連が外交交渉においてノモンハン事件を解決する意思のある事が初めて外交ルートにより日本側は確認できました。

8月28日、外務省は遅滞なく停戦交渉に入るよう東郷大使に訓令しました。

つまり、独ソ不可侵条約締結前に日本側には既に停戦の意思がありましたし、ドイツのポーランド侵攻前に日本側は停戦交渉に動き始めていました。

日本からすれば、8月24日の独ソ不可侵条約の締結により、ソ連の欧州方面は安全となり、ソ連はその持てる力の多くを日本に対し投入できる事になります。
この時、日本ではドイツとソ連の間に結ばれたポーランド分割の協定を知りません。ソ連がポーランドに侵攻すめ計画があるとは知りませんでした。
支那事変が解決していない状況で、さらにソ連の相手はできません。
日本は停戦交渉を加速させていきました。


ソ連側からしてみれば、自分達から動かなくても日本側からアプローチがありました。
また、ドイツとの秘密協定によりポーランド侵攻は決定されましたが、軍の作戦準備には時間がかかります。
その期間、停戦交渉においてできるだけ都合の良い条件で停戦できるようソ連は日本と交渉します。
ソ連がポーランド侵攻の準備を整えたのは、9月14日です。
この翌日、モロトフ外務人民委員は東郷大使と会談を行い停戦交渉を成立させました。これは4回目の会談でした。
できるだけ都合のよい条件にするべくソ連側が粘ったからです。
そしてポーランド侵攻が開始されました。

ソ連は早い時期から停戦交渉に動いた日本の動きに乗っかり、その状況を利用してより有利になろうとし、それに成功したと言えると思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ノモンハン事件勃発の2カ月後には、すでに日本政府内で事件の収束を求める動きがあったのですね。それなら、日本側が先に停戦の提案をした理由が納得できます。

それにしても、先の戦争の経緯についてお詳しいですね。将来、このカテゴリーで再び私を見かけられたら、ぜひとも教えて下さい。

どうも有難うございました。

お礼日時:2009/09/21 18:44

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!


人気Q&Aランキング