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 まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。
 ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。

 (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。

 (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。

 (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。
 (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。

 (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。
 
 (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。

 (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?

 ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。
 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html
 
 日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

A 回答 (91件中41~50件)

なぞ???



われわれ???
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えっわわたしもですww。



ますますなぞww。

われわれは?
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 あ、それから私は酒を飲まない(飲めない)んですよ♪よろしく。

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この回答へのお礼

 なおわるい。

お礼日時:2009/10/28 09:19

 訂正:



誤:◇8.これは読み違いです. No45と46を良くみれば分かります.

正:◇8.これは読み違いです. No44と45を良くみれば分かります.

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *

β1.くだを巻いているのみ。よって却下します。

◇1.上記の「訂正」を見直し、「くだを巻いているのみ」かどうか、もう一度吟味してみてください。

β2. ☆ ただしわたしは 裁判官でも警察官でもない。原告でもない。被告扱いは これも 却下します。

◇2.分かった、では却下を認める。

β3.★ ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。

 ☆ 弁明も要らないよ。

◇3.弁明ではなく、「解説」もしくは「説明」と理解してください。
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この回答へのお礼

 ★ (No.54) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 β2.要するに 論理がきわめて曖昧であり 整合性を捉えないで勝手に多義的に解釈できるようになっている。

 ◇2.ですので、「勘違い」ではなく「多義的」に解釈できるということです.

 β3.この確認までです。

 ◇3.誤確認終了と言うことで。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《「多義的」に解釈できるということです》というふうに自己弁明しておいて ――ただしその弁明は《整合性》を修復していないからには通らないが―― そのあと 《多義的な解釈をゆるす文章であるという確認》を――それはわたし( brag. )の文章だからというので 《誤確認》だと言って否定している。つまり 弁明のために用いた確認内容をみづからが否定している。
 これは 《くだを巻いている》どころのさわぎではない。それ以上の破廉恥である。

 ★ ◇2.分かった、では却下を認める。
 ☆ この言い草では 何も相手に伝えられないと知りなさい。話し合いになっていません。分かりましたか。

 ただしわたしは たとえあなたが人間不信に陥っていたとしても その責任をもう感じないと決めました。そういうことです。

お礼日時:2009/10/28 09:33

β1.次の文章の読みについて見直します。



◇.他者の解釈の「読みについて見直します」とのことで。

β2.要するに 論理がきわめて曖昧であり 整合性を捉えないで勝手に多義的に解釈できるようになっている。

◇2.ですので、「勘違い」ではなく「多義的」に解釈できるということです.

β3.この確認までです。

◇3.誤確認終了と言うことで。

β4.それでは重箱の隅をつつきましょう。

◇4.まともな、建設的な会話をするつもりがないと判断しました。

β5.★ ◇自分の言葉でないなら、誰をも導くことは出来ないはず。
   ☆ この一文は あくまでヨハネ福音の引用をめぐって出た言葉ですから 《引用するかしないか》が問題です。

◇5.「この一文」は「あくまでヨハネ福音の引用をめぐって出た言葉」ではなく、引用を「そのまま」用いたことに対しての指摘です。
 従って

β6.しかるに

◇6. 以降の論理展開は全て却下となります。

β7.《サトゥルヌス》の例の回答について それをめぐってのやり取りは傑作でした。

◇7.自分の窮状をごまかし、優位性を第三者にアピールし、錯覚させるための「傑作」発言であると認識しました。

β8. つねに★ 在り様☆ だけで話をしようというわけですね。

◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。

 被告の審議し直し。弁明があるなら聞こう。
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この回答へのお礼

 くだを巻いているのみ。よって却下します。
 ★ ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。

 ☆ ただしわたしは 裁判官でも警察官でもない。原告でもない。
 被告扱いは これも 却下します。
 ★ ◇8.内容についての発言ではなく、「消えろ」という誹謗中傷に対しての対応としては妥当でしょう。

 ☆ 弁明も要らないよ。

お礼日時:2009/10/28 01:03

こんばんは、夜分恐れ入ります。

Hidocchiです。
 
> 思いつつそれでも前へ進んで行きたい。こういう腹積もりです。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

> 何だか地味な議論になってしまったかなという思いもありますが 信仰と宗教との区別・峻別という主題について 信仰内面を重んじるという命題をもって ひとまづの結論としましてもよろしいでしょうか。

 憂鬱感を覚えてしまう内容となってしまい、誠に申し訳ございませんでした。
 ひとまづは、結論としてくださる件につきましては、愚生と致しましては、一向に問題はございません。

 また、再度ご質問者様のスレッドの立ち上げを 期待しつつ、愚生の回答なるものも、結びとさせて頂きたく存じます。

 それでは、どうもお疲れ様でございました。

 Hidocchi拝
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この回答へのお礼

 あぁ Hidocchi さん ごめんなさい。
 《見苦しくなっているやり取り》と《何だか地味な議論になってしまったかに感じる》のとは まったく別のやり取りのことです。御察しください。
 しかも《地味な》というのも 何だか変ですね。変でした。内面の必ずしもただちに捉えうるとは言えないところのこころをめぐってのことで 何だか命題を発するには衝撃力が薄いみたい と思ったものですから 書いてしまいました。

 むろんここでさらに突っ込んでいただいてもいいですし Hidocchi さんご自身が質問を立ちあげられてもよいでしょうし まったく自由だと思います。

 とにかく 変な質疑応答――御察しください――が 部分的にできてしまったとの感を Hidocchi さんに〔ご返答を求めるというのではなく〕吐露してしまったというのが 実際でした。

 この主題は ほかの国の人びとではなく日本人として 何か特徴的な回答が得られるのではないかと初めに予想したものですから このところで地味なという言葉が出てしまったようです。じっさいわたしも Hidocchi さんとともに問い求めた以上のことが得られていません。
 一筋縄では行かないと言いますか 社会の政治から経済からいろんな分野や側面がからんでいつつ そう見える割りには それでいて 信仰内面を重んじよという一点を推し進めるかたちになる。何だかあっけないような感じがしませんか? あっ 信仰と宗教の関係という分野にわたしが限定したからでしたか。
 でも その限定した理由は ほかの分野では 結社の自由と思想の自由などのせめぎ合いは 一般に相対的なあたかも程度問題であるかのような主張内容が互いに綱引きをすると思われたからでした。それは 具体的な社会学法学経済学等々に固有の課題として 後回しにしてもよいのではないかと考えたのでした。
 これの見直しが必要でしょうか? 
 ううーん。だとしても 信仰内面の問題は そこではあまり関係して来ないようにも思いますが。

 あっ それと《今回は》と書きましたのは 《今回のご回答につきましては》です。この質問じたいではないのです。
 ただし 現段階の結論が得られたと思われることも 実際ですけれど。

 ふらふらして来ましたが 曖昧さをお詫びして思いと実際の事実関係をお伝えしました。

お礼日時:2009/10/28 00:57

 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> ☆ あぁ そういう含みなのでしたか。逆に言うと・そして極論して言うと 信仰がなければ個人は互いに――社会の全体的な観点からは―― 《〈掛け替え〉が効く》とさえ見られる方向へ片寄るのかも知れません。と思いました。

 誤解を恐れずに申しますと、「そのひとにとって、かけがえのない信仰心」がなければ、仰るとおりかと存じます。

> No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。

 ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」

 申し訳ございません。説明不足でございました。

(1)今の日本は危機的状況
(2)「哀れみを覚えた場合はどうですか?」と他の回答者様(たぶん、お若い方かと存じます)

 これらを重ねて合わせてみた印象と致しまして、
「哀れみを覚える」 → 「むしろ、自分たちの子供たちに哀れみを覚えるだろう」

 と解釈してしまった訳でございます。
 
 鳩山総理に就任演説がございましたが、「博愛」という言葉を発しておられましたが、とにかく期待をしたいと思っております。特に、一般国民にはあまりいい印象が持たれていない亀井氏(以外と面白い経歴の持ち主です。以下のサイトをご参照くださいませ)には、金融大臣としての任を全うしてもらいたいと願っております(この不景気からくる閉塞感には、日本国民も辟易しているかと思っております)。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%80%E4%BA%95% … 

 ご一読いただきまして、厚くお礼申し上げます。
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この回答へのお礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。
 
 これまでは多少見苦しくても 必要で大事なやり取りだと思っていたのですが ここまで来ると 十割もろとも見苦しい質疑応答の場になってしまいました。
 まぁ こうなっても へとも思っていないわたしがいますが ときは貴重であると思っていますし 思いつつそれでも前へ進んで行きたい。こういう腹積もりです。

 何だか地味な議論になってしまったかなという思いもありますが 信仰と宗教との区別・峻別という主題について 信仰内面を重んじるという命題をもって ひとまづの結論としましてもよろしいでしょうか。
 きょうかきのうかの新聞記事では 中国では宗教の自由がいくぶん緩められ認められそうだと言います。でもわたしたちはいま 宗教団体の・信仰をめぐる自己矛盾を問うています。

 ★ 「哀れみを覚える」 → 「むしろ、自分たちの子供たちに哀れみを覚えるだろう」
 ☆ 若い人びと そしてさらに新しい世代 これについては日ごろ特に意識していませんが それもこれもいまをしっかりと生きるという考えです。根源的に批判をしてまいりたいと思っています。

 新政権にはわたしも
 ★ とにかく期待をしたいと思っております。
 ☆ 亀井静香の 中小企業の金融面での援助は方向性として また考えとして そういう発言が出てくるのは いいことだと思ったことを覚えています。
 自助の精神を それに対しては説いて反対するのですが 大企業や金融機関に対しては 自助を超えて援助するわけですから 何らかの施策があたらしく施されてしかるべきだと思いました。(具体的な政策について それほど考えたわけではないので この程度です)。
 それよりも やはり小沢一郎の存在は やや疑問の方向に傾きます わたしは。すでに過去の政治家だと思って来ましたから いまさらどうなのかというところですが 考えてみますと どうも感覚的な嫌悪感によるというあやふやな見方であるようです。こう白状せざるを得ないようです。

 聖書の関連で 社会哲学ないし社会思想にかかわるような主題を持つものについて もっとお聞きしたい感じですね。
 今回はこのようです。

お礼日時:2009/10/27 22:13

β.SOLAR_RAYさんよ、いい加減に消えろや!



α.ごきぶりが「太陽光線がまぶしいんですけど」ガサゴソ...チョロチョロ... ということのようです。

 おまえが消えろ、ごきぶり。
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この回答へのお礼

 つねに
 ★ 在り様
 ☆ だけで話をしようというわけですね。

お礼日時:2009/10/27 22:49

訂正:



誤:それに、仮に誰かが(お)であったとして、bragelonne君が「自分の言葉」で 他者に説教できるとは思えないんですけど(失礼)。

正:それに、仮に誰かが(え)であったとして、bragelonne君が「自分の言葉」で 他者に説教できるとは思えないんですけど(失礼)。


補足:

β12. ★(え) 「キリストはその活動においては徹底的な現実主義だっただろう。」
 ☆ と答えることができるあなたと

◇12.「キリストは~だっただろう」と思うのは、聖書など読んだことなどなくても、今現在に生き、この場で生きている人であればだれでもそうだろうと思うのだが...
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この回答へのお礼

 ★ 正:それに、仮に誰かが(え)であったとして、bragelonne君が「自分の言葉」で 他者に説教できるとは思えないんですけど(失礼)。
 ☆ これについては No.48の補足欄をみてください。文脈が違って来ているから 見解も行き違っている。つまり そのまままともに応答できないというのが 実際です。

 ★ ◇12.「キリストは~だっただろう」と思うのは、聖書など読んだことなどなくても、今現在に生き、この場で生きている人であればだれでもそうだろうと思うのだが...
 ☆ そういう見方は ふつう持たれている見方だとわたしも考えます。ゆえに――ゆえにです ゆえに―― 聖書になじんでいない人に対しての場合にも 必要で適切なものだと判断したなら 引用することもある。こう考えられますし その意味で採ったわたしの行動であったわけです。
 だったら 初めから 一般的な話としてなら 聖書を引いても 互いに議論をすることができるという一面も 言っておくとよかったでしょう。少々細かい文章の引用となったとしても その話を一般化して述べるなら ほとんど差し障りもないと考えられます。

 もしわたしが提示した引用箇所が 専門的で特殊な内容だったなら それは その提示の目的が特殊だったということです。すでに二つ三つ前のやり取りで説明をしていますが 引用だけの聖書の文章を提示して それだけで反応してくれたらいいがという特殊な場合であったわけです。これを一般化して話の土俵を別のほうへ持っていかないように願いたいです。

お礼日時:2009/10/27 22:46

SOLAR_RAYさんよ、いい加減に消えろや!

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この回答へのお礼

 ★ いい加減
 ☆ という言葉には 考えさせられるものがあります。
 初めっからのやり取りを見直してみることができますし いまどういう考え方や態度で対話に臨んでいるか これを省みることができます。

 わたしも 細かいことがらについては まだだと思って 批判をして来なかったです。このところやっと 批判らしい批判をすることができるようになっています。

 さて それで どうなりますか。

お礼日時:2009/10/27 22:54
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