一回も披露したことのない豆知識

 まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。
 ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。

 (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。

 (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。

 (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。
 (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。

 (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。
 
 (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。

 (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?

 ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。
 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html
 
 日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

A 回答 (91件中61~70件)

α救う人がいてこそ救われる人の相手をするのも疲れます。



これをもう少し解りやすくすると

α改 救われない人間を想定し、他者を救う(ことを演じる)ことで満たされ、救われる(と思っている人)の相手をするのも疲れます。

という意味です。どうだろう、こういった姿勢を取らないというのであれば、No.34の問いかけに応じても良いが。

β.たぶん そのように自分の都合だけでわたしが締めたとあなたがうたがったのは この前の質問からこの質問へ場を移したとき この一回きりであろう。これは むろん継続するかたちで場を移したのである。

◇「日本人は死んだのでしょうか」は、誰が締めたのですか?運営者側ですか?

β.こころが凍ってしまっている。解凍の必要があるという見立てである。

◇この見立ては勘違いであると言っておく。しかし、少なくとも、こういった前提であれば、対応できない。

No.34の補足より
β.いいかい 《わたし( brag. )の質問は 答えを自らの中に持っている》と言ったのは ki何とかという人間である。これで問題は氷解するであろう。

◇これは、http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5389895.htmlのNo.13の回答における
 <<あらかじめ「こうだ」と思ったことに回答者が思考するように誘導する質問内容だと、それは答えを自らの中に持っているので、>>

 という記述に対しての見解のようですね。しかし、ここで理解しなければならないのは、 

 それは『自分なりの』答えを自らの中にもっているので

 と、読み解かなければならないということです。

 もし、言語学をやっていて、厳密にしか物事を考えることが出来ず、行間から真意を読み解く能力がないのなら、それはbragelonne君がまじめすぎるからだろうか、それとも、デジタル脳であるからだろうか

◇No.34の補足とお礼 に対応するかどうかは返答次第とする。
 また、聖書を読んだことのない人間に、馴染みのない聖書などを引用するのは余り適切であるとは言えないだろう。イエスが聖書を片手に説教したのか?

この回答への補足

 ううーん。いくつかわたしの気づかなかったところで 妨げるものがあったのですね。一つひとつ考えてまいりましょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 α改 救われない人間を想定し、他者を救う(ことを演じる)ことで満たされ、救われる(と思っている人)の相手をするのも疲れます。

 という意味です。どうだろう、こういった姿勢を取らないというのであれば、No.34の問いかけに応じても良いが。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは いわゆる売り言葉に買い言葉です。
 悪口を言われると 相手にもその悪口を言って言い返す人がいるようですが わたしはほとんど言いません。相手の言った言葉(つまり ののしりなど)をそのまま返すことはありますが 基本的に言い争いはしません。けれども その言い争いを引き起こすような謗りなどをやめなさいという意味で 救いにつながるような言葉をかけることはあります。そのことのようですね。
 これは 《姿勢》ではありません。誹謗・中傷の言葉をやめなさいという意味で言っているのみです。
 ただし 別の意味で《先輩》のつらをしたりその風を吹かすことはあります。明らかに一日の長があると見た場合 かえって上からものを言うと見られることをおそれずに言ったりします。これは そうしないと恰好をつけるかたちになるのではないでしょうか?

 ★ ◇「日本人は死んだのでしょうか」は、誰が締めたのですか?運営者側ですか?
 ☆ これは もう覚えていません。ですが いま読み返してみると あなたはまさしく応答を望むなら 金を支払えと言い出している。これは もうやり取りをつづける意志がないも同然だとわたしは採ったのだろうと いま考えます。これもそれでよいと判断した結果だったでしょう。(ただ質問を締めるのは 次の続編へとつなぐ場合を除き いつも二三日は寝かしておいてから締めるのをつねとしていますよ)。早かったですか?

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 β.こころが凍ってしまっている。解凍の必要があるという見立てである。

 ◇この見立ては勘違いであると言っておく。しかし、少なくとも、こういった前提であれば、対応できない。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 次の投稿への応答で それをわたしが感じた文章を示しました。言い方が悪かったかも知れない。ただこのように 一たんやり取りはじゅうぶんだと思ったあと 思い留まったのは そういう《見立て》を持ったからであることは 残念ながら ほんとうです。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 しかし、ここで理解しなければならないのは、 

 それは『自分なりの』答えを自らの中にもっているので

 と、読み解かなければならないということです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ それは読み落としでした。字面ではそのほうが 妥当な読みのようです。
 ただ とやはり続くのですが ki某がわたしの質問に投稿してきた場合には つねに わたしの応答での補足要求に答えられなくなって 去っていくのです。これは 残っているやり取りをじっくり読んでみるとわかるでしょう。

 ★ また、聖書を読んだことのない人間に、馴染みのない聖書などを引用するのは余り適切であるとは言えないだろう。
 ☆ たしかにそれは 注意すべきことである。もし文脈を知らなければならないという場合には たしかに無視されてもわたしは何も言えないかも知れない。
 言いかえると わたしの引用の文章だけで その趣旨が明らかになって主題についての問い求めに参考になるというのであれば 使えるかも知れない。というところでしょう。

 事実とわたしの思っている真実のみを記して答えとします。

補足日時:2009/10/27 00:14
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 こんばんは、ご返答いただきましてどうもありがとうございました。

Hidocchiです。
 
> 襞をかき分け病原菌を見つけようという探究では鋭く迫って行かれます。それでもなかなか一筋縄では行かないということのようにも見受けられました。
 
 確かに、一筋縄ではいかないようでございます。
「病原菌を見つける」? もしかしますと、愚生の専門がお分かりのようなのですね。やはり、文言には出さずとも、お分かりになる方には、わかるものなのですね。

> わたしは まだ思弁的に観念の分野で考えているかも分かりません。

 いえいえ、思弁的観念の洞察力の深さはbragelonne様の真骨頂でございます。愚生などは足元にも及ばないと思っております。

> 生徒は疑問を持つものです。これを掲げさせていただきます。

 もしかしますと、bragelonne様が“生徒”ということでしょうか? 愚生にはそのようなお教えできるようなものはもってはおりません(一応、先生と言われる職には就いてはおりますが)。ですが、微力を尽くしたいと思っております。

 (1) 結社の自由
> ☆ ドイツは政治団体でなければ 宗教団体としての結社の自由は認められていると受け取っていましたし アメリカでも条文の規定がなくても自由なのだと採ったのですが それとは別に ご見解があるということですね。
 どうなのでしょう。制限する・許可が必要だとするということでしょうか? 
 
 別段、深い意味はございません。ただ、以下のサイトの「問題点」の箇所では、「アメリカやドイツでは宗教活動に実質的に関連したものだけに限り優遇措置を適用するとしており、実際に優遇する際にはその団体が政治団体化、営利団体化しているかなどを審査するという」という記述が見られます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99% …

 実際、アメリカでも、宗教法人(religious corporation)は州等の認可が必要のようでございます(以下サイトをご参照くださいませ)。ただ、“アメリカでは、「結社の自由」を、わざわざ憲法にて条文化するほどのレベルの問題ではないと 考えられている。”と愚生は解釈致しております。従いまして、日本においても、憲法に盛り込む必要性はないものと思っております。

http://en.wikipedia.org/wiki/Religious_corporation 
「Often these types of corporations are recognized under the law on a subnational level, for instance by astate or province government.」

> (3) 《信者を教化育成すること》
 ★ 実を申しまして、この《信者を教化育成する》という言葉には、愚生も幾分、不快感を持っております。と申しますのも、必然的に、”直接内面にまで押し入ってしまう”から でございます。
 ★ 13条に抵触する可能性が大きいと考えられるからでございます。
 ▲ 憲法第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 ☆ 十三条につきましては その規定が総括的でそのぶん抽象的であるように見受けますが かえって一般性をもってその《自由》はきびしいものがあると見るべきでしょうか。

 これも愚見なのですが、信仰といった内面に潜在しているものにつきましては、その個人の人格面、また行動面の、両面において、かかわりを持っていると思うのです。従いまして、十三条の“個人”≒“信仰に培われた個人” と解しております。
 つきましては、当然“信仰”と共に尊重されなくてはならない と考えている私大でございます。

> ☆ これにつきましては 同感です。《よく学力がついたね》と声をかけるのと 《信仰が深まったね / きみの信仰はゆがんでいるよ》と継続的に権限関係をともなって言い渡すのとでは どうも違うと思われるのです。褒めた場合でも 人格内面に土足で踏み入るという意味で内政干渉になるように思います。
 信仰ではなく経験思想としてなら 深まった・片寄ったなどと批評しあってもよいと思います。

まさしく、仰るとおりかと存じます。

> ▲ 日本の経済、大丈夫? / 今の日本は危機的状況
 ☆ という言葉を出しているようですね。非力を感じます。

 この数値を見ますと、決して、明るい将来を日本で描くのは非常に困難かと思いました。No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。

ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」

 単なる気のせいであればいいのですが.....

 ご一読いただきまして。厚くお礼申し上げます。

この回答への補足

 むつかしいですね。
 今回は 特別に議論の分かれるところもないように思われ――あぁ Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます―― 日本経済のことも一般的な話であるはずでしょうから それほど議論の分かれる問題であるよりも施策にかかわるものとも思えるのですが 放っておける性格のものでもなく 何だかうっすらとした閉塞感のごとき・いくらか停滞感のような雰囲気が漂わないでもない。そんなまえがきを要請しているようにも感じました。

 いつぞやほかの方の質問においてでしたか 環境ホルモンについて研究なさっているとか。病原菌は それででした。

 ★ ただ、“アメリカでは、「結社の自由」を、わざわざ憲法にて条文化するほどのレベルの問題ではないと 考えられている。”と愚生は解釈致しております。従いまして、日本においても、憲法に盛り込む必要性はないものと思っております。
 ☆ 分かりました。自由は自由なのですね。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 これも愚見なのですが、信仰といった内面に潜在しているものにつきましては、その個人の人格面、また行動面の、両面において、かかわりを持っていると思うのです。従いまして、十三条の“個人”≒“信仰に培われた個人” と解しております。
 つきましては、当然“信仰”と共に尊重されなくてはならない と考えている次第でございます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ あぁ そういう含みなのでしたか。逆に言うと・そして極論して言うと 信仰がなければ個人は互いに――社会の全体的な観点からは―― 《〈掛け替え〉が効く》とさえ見られる方向へ片寄るのかも知れません。と思いました。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ・・・No.34の回答者様が「哀れみを覚えた場合はどうですか?」との記述を見た際に、ふと次の言葉が頭をよぎりました。

 ルカ 23章28節 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。」

 単なる気のせいであればいいのですが.....
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これにつきましては 評言が出て来ません。はりつけにされる直前での発言ですよね。
 ううーん。思いきって感じているところを述べますと たぶん十字架上に去ったあとでは その発言内容をどう捉えればよいかを思案するような話になる。こう思いました。つまり定まった中身を捉え難い。こうも感じています。
 ペテロが鶏が鳴く前に三度イエスのことを否定すると言われていてそのとおりになった。これは イエスが去って復活したあとでは 意味がなくなるのではないけれど 過去のペテロ(つまり代表して弟子たち)の姿にかかわるものとなると思います。
 おおまかに言って この婦人たちへの言葉も はりつけ前のペテロへの予言と同じような性質のもののように 思いたい気持ちがあります。
 でも 意味が分からないための言い訳であるかも知れません。どうでしょう。

 きょうは 所信表明の演説がありました。

補足日時:2009/10/26 22:16
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 連続投稿となるが。



 「時間」が与えられて居らず、と、「何時締められるかわからない」といった心境では、まともな回答も出来ないのだよ。どうだろうか?自分の都合が悪くなったらすぐに締めるということをしなければ、「宿題」に当っても良いと思うのだが。

もちろん、優位な立場でなければ「怖くて相手できない」と言うのであれば、拒否しても構わないが。
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この回答へのお礼

 ★ 自分の都合が悪くなったらすぐに締めるということをしなければ
 ☆ たぶん そのように自分の都合だけでわたしが締めたとあなたがうたがったのは この前の質問からこの質問へ場を移したとき この一回きりであろう。これは むろん継続するかたちで場を移したのである。
 質問を締めるときは むろん以前から情況を見てよいと判断して締める。
 それでも 二週間投稿が途絶えたときに締めた場合でも なぜ締めるの? と言われたことはあった。いづれにしても わたしの場合は次の新しい質問をもうけているから だいじょうぶだとその人も知っていて言っているのだが。

 ともかく 世間は世知辛く悪貨は良貨を駆逐するというけれど あなたもその影響を少なからず受けているようだ。こころが凍ってしまっている。解凍の必要があるという見立てである。宿題はそのためである。

 《救う人》だからと言うよりも 旧い世代として責任がある。

お礼日時:2009/10/26 13:25

 メンドクサイのでテキトーでよいですか?救う人がいてこそ救われる人の相手をするのも疲れます。

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この回答へのお礼

 ★ 救う人がいてこそ救われる人の相手をするのも疲れます。
 ☆ 救う人がいなければ 救われる人の相手をうまく疲れることなくすることができる。こういう意味ですか?
 そして 《救う人》というのは わたしのことですか?

 だったら わたしに投稿してくることはないのでは?
 被告でも何でもなく 《すくう人》なのだから。

お礼日時:2009/10/26 13:16

brag6.(ヨハネ福音15:18~19)


  世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。

◇   ▲ ~ ―
 こういった、記号やスペースを使ってわざとらしい演出をし、それらしい言葉を並べても、私には通じない。自分のない、おバカさんを騙せてもね。

 要は「私を憎んだら世から憎まれまれるぞ、どぢゃ!参ったか」と言いたいようで。
「えーい、パウロは止めて、やっぱ よはねだ!どうだ!」ということみたいで。

brag7.反撥をおぼえたなら 当面のちからになるだろう。

◇哀れみを覚えた場合はどうですか?

この回答への補足

 直前の補足欄に述べたように まだ訓練が必要のようである。
 分かっていることでもいちいち対応しておかないと 前へ進まないようだ。
 その一点のみだが 次のようである。

 ★★ (【Q:農耕の神クロノス=サトゥルヌス】) ~~~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5389895.html
 (No.14お礼欄)
  β1.もし《能力に非常に大きな開きがある》というのであれば なぜわたしの質問は《答えを自らの中に持っている》ことになるのでしょう? 

  ◇1.《答えを自らの中に持っている》 ことの、証明がなされていない。精神錯乱者が妄想を以って「私は答えを持っている」という事も可能である。今までの自家撞着を見ても、間違った前提であると判断できる。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ いいかい 《わたし( brag. )の質問は 答えを自らの中に持っている》と言ったのは ki何とかという人間である。これで問題は氷解するであろう。

 いいかい。いちどこころを白紙に戻しなさい。と言っても 容易にできるものではない。けれども そういう考えをあたまの片隅にでも置いておくと いい効果が現われるはずだ。
 ki 何とかさんの議論は あそこのスーパーでは安いよ こちらでは高いよ 安くできるのは店長の能力がすぐれているからだよ その秘密はねうんぬんというたぐいの世間話である。その範囲を出ない。
 よく読みよく考えるようにしなさい。知能指数などは関係ない。白紙から出発しなさい。何でも吸収できるから よくものが見えてくる。要らんものは 棄てるようにしなさい。大事なものごとを自分の宝のように積み重ねていくとよい。
 おまけとしては それをだれのために・何のためにやるか。これをも考えてすすむと おもしろいはずだ。しばらくは モウレツにつとめてみなさい。

補足日時:2009/10/26 11:19
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この回答へのお礼

 解釈がちょっとずれたようで。
 たしかにふつうの日常の会話に出てくる話ではないが ほぼそのまま受けとめればよいようだよ。ただその意味内容にあんたは反撥すると思ったのさ。

 ◇ 哀れみを覚えた場合はどうですか?
 ◆ 自分で考えなさい。
 

お礼日時:2009/10/26 09:49

brag1.《裁判官》であるなら 判決文を示しなさい。

ほかのところの文章ぢゃ恥づかしいよ。

◇理由は書いている。良く読みなさい。痴漢をして恥ずかしいのはおまえである。

brag2.裁判官であってもなくても 口先だけの文章からは卒業しなさい。

◇痴漢行為(に該当する)の常習犯が、自分で言う言葉ではない。

brag3、質問を《締める》のとあんたに《あばよ》とは別のことだ。

◇それでは、まずおまえから見本を示せ。私の質問に「出て」こないとでも言うのか?

brag4.《発酵》という言葉が適切でなかったなら意を汲んで受け取りなさい。

◇「意を汲め」とは浅ましい人間が自分で言う言葉ではない。

brag5.泣いているのか。

◇自分の心情を表しているようで。

この回答への補足

 SOLAR_RAY くん きみは――ほかのところで知ったのだが――そうとう人間不信に陥っているようだね。
 ただ洗脳されているだけだと思っていたが 少し解凍が必要なようだ。
 たとえばきみは 破廉恥だとか痴漢ということばを出すが いちど次のような議論によく耳を傾けて考え抜いてみたまえ。得るものがあるはずだ。
 ▲ (アウグスティヌス:情欲について) ~~~~~~~~~~~~~~
 だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく 公共的なものとしてこのようなもの(*)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なるものの無知によって――魂はこのことを時間的に(* 相対的な価値判断によって)為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくても それは 人間の試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。

  * 《このようなもの》とは 端的には 情欲です。一般化して 
  《理想のようなもの あるいは 理念とその美 これらのたぐいを
  みづからに心地よい観念としての想像をとおして その表象に自分
  から依り憑いていく心の片向き つまりは その弱さ》です。

 それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。
 しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験し それらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。
 魂は自分自身の身体に対して罪を犯しつつ姦淫を行なう。また物体的なものの虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。
 自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。しかも魂はこのように恥ずべき 惨めな姦淫に はじめから直ちにとびこむのではなく 《小さなものを軽蔑する人は次第に堕落する》(『集会の書=ベン・シラの知恵』19:1)と聖書に記されているようになるのである。
 (アウグスティヌス:『三位一体論』中澤宣夫訳 12・10)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ○ 【Q:情欲は 罪ですか(続編)】
 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4172511.html

 宿題である。

補足日時:2009/10/26 11:03
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この回答へのお礼

 ◇ それでは、まずおまえから見本を示せ。私の質問に「出て」こないとでも言うのか?
 ◆ 見本を示せということで。
 どの質問であろうと 自由に投稿する。あんたの質問の場合 名誉を守るために必要なときには投稿する。

 あとは ほんとうに何が知りたいか 何が訊きたいか これを胸に手をあてて考えた結果 たずねて来なさい。

お礼日時:2009/10/26 09:44

訂正:



 良心に苛まされて脂汗をかかいている 

⇒良心の呵責に苛まされて脂汗をかいている 

この回答への補足

 ▲ (ヨハネ福音15:18~19)~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ――・・・世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわた
   しを憎んでいたことを覚えなさい。
    あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内とし
   て愛したはずである。
    だが、あなたがたは世に属していない。
    わたしがあなたがたを世から選び出した。
    だから、世はあなたがたを憎むのである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 反撥をおぼえたなら 当面のちからになるだろう。

補足日時:2009/10/26 06:38
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この回答へのお礼

 よく気がついたね。

お礼日時:2009/10/26 06:20

brag1.いつから裁判官になったんだい。

《たとえば》とはどういうこったい?

◇1.《たとえば》は、例えばです、そのままの意味です(辞書引いてね)実際、「原告」はたくさん居ますが。

brag2.どうころんでも あばよだ。

◇2.不利になるとすぐさま締めるのはいつものことです。ご自由に♪ しかし、「智恵を共有してくれ、分けてくれ!うわーん(泣)」と申し出ている質問者であれば、「何時締めます」と宣言するのが普通だと思うのだが。

brag3.だいじょうぶ。もうすでに《慈悲の放射もどき》は こころにじゅうぶんしみ込んでおる。あとは 発酵してきて こころのもぢゃもぢゃを溶かすのみ。

◇3.例えば、怒りをすぐに処理せずに発酵させると憎しみ、恨みとなります。悲しみを発酵させれば 切なさ になるでしょう。従い、「溶かす」事にはならず、bragelonne君の勘違いであると言うことだ。

brag4.ちいっと痛みをもともなうかも知れん。自業自得と知りなさい。耐えられぬ試練は課されないから 心配するな。一丁上がりぃー。

◇4.イタいのは質問者さんの普段の在り方と今の心情のようで。
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この回答へのお礼

 《裁判官》であるなら 判決文を示しなさい。
 ほかのところの文章ぢゃ恥づかしいよ。

 裁判官であってもなくても 口先だけの文章からは卒業しなさい。

 質問を《締める》のとあんたに《あばよ》とは別のことだ。

 《発酵》という言葉が適切でなかったなら意を汲んで受け取りなさい。

 泣いているのか。

お礼日時:2009/10/26 06:19

γ1.どこの文章がどのように《自家撞着》しているのか分からぬ。

わたしが某氏の《自家撞着》を指摘したことをどう扱おうとしているのか。そのあと先とは どういう意味か? さっぱり分からぬ。

◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。


γ2.★ 「反省」が かちん ときましたか。☆ 《あばよ》がやっぱしこたえたようだ。

◇《あばよ》といくら被告人が言ったところでこの通り、いつでもこうやって尋問を続けることが出来ます。従い、《あばよ》は無効です。例えば(例えばです)裁判官にむかって被告人が「あばよ」と言って逃げようとしても逃げられません。
 というわけですので、「かちん」ではなく、良心に苛まされて脂汗をかかいている と言ったほうが適切でしたね。

α:いずれにせよ、パソコンの前にずーっと張り付いたままでは

 ☆お気の毒ですよ☆
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この回答へのお礼

 あんたも洗脳された口か。それも三者の文体が似ているしるしのようだ。

 いつから裁判官になったんだい。《たとえば》とはどういうこったい?
 ほんとうにそうだとは言えないから 《たとえば》か。では うそで《裁判官である》とは どういうこったい?
 どうころんでも あばよだ。

 だいじょうぶ。もうすでに《慈悲の放射もどき》は こころにじゅうぶんしみ込んでおる。あとは 発酵してきて こころのもぢゃもぢゃを溶かすのみ。
 ちいっと痛みをもともなうかも知れん。自業自得と知りなさい。耐えられぬ試練は課されないから 心配するな。一丁上がりぃー。

 * 《◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。》という《◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。》という《◇「わしは正しい、どぢゃ!」という心的態度、基本姿勢を治さないと何を指摘しても、何を言っても「わからぬ!わからぬのぬぢゃ!うわーん(泣)」ということになります。》よ。

お礼日時:2009/10/25 23:44

オコリザルです。


けんか腰パート2です。
かの権現様のお言葉はどこかで聞いたようなお言葉のみで塗り固められており、要するに誰の弟子にでもなるようです。
ここで問題になるのがbragelonneさんが、ペットを飼ったことが無いことでしょう。
すでに高次元の霊体そのものと化していますので、人間とは考えないで、珍獣として飼いならしてはいかがでしょうか。
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この回答へのお礼

 ううーん。
 残念ながら
 ★ 人間とは考えないで、珍獣として飼いなら
 ☆ す趣味はないですね。
 人間は人間として見ます。
 人間ではない状態に陥った人間というふうに見ることはあります。
 むかしは 人間以前の状態にある人間とも見ることがありました。

 いづれにしましても おっしゃるようにペットを飼ったことがないですし 珍獣を飼うことに興味はないですね。
 つまり 放っておくということだと思います。少しでも意味がとれる部分で対話をすすめます。
 そういったところでしょうか。

お礼日時:2009/10/25 23:14
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