限定しりとり

 まづこのイエスの言葉の出典は マタイ22:15-22 / マルコ2:13-17 / ルカ20:20-26です。
 ただし 解釈を《ゆがめ》て 哲学の視点から問います。次のように解釈しますが それについて自由なご見解をおしえてください。

 (ω) 《まつりごと(政治・宗教)》は社会の経験行為としてのまつりごとであり 《信仰》はあくまで内面の問題である。

 (ω‐1) まつりごとが 人びとの信仰ないし内面にかかわる《まつり》に介入してはならない。

 (ω‐2) ただしそのように言うときには 《まつり》が 個人と内と外との両面に分かれるかと思います。家族のにしろ社会全般のにしろ生活の奥や底に湧き起こったよろこびや祝いにかかわる個人の内面における《まつり》と ムラのまつりとです。
 (初穂を神にまつる祭りは 共同体としての生活において 個人とムラとが一体であったでしょうか)。

 (ω‐3) ですから 内面から外に出たムラのまつりを 内面の信仰ないしその《まつり》から自由なかたちでおこなうことが出来るか。これも問いのひとつです。《まつりごと》から自由であるのは 当然とします。
 
 (ω‐4) 《まつり》は 神〔ないしけっきょくは同じ意味で神々〕との共食だととると分かりやすいようです。《まつりごと》は そのムラムラのまつりを二階から知ろしめし 収穫のいくらかの部分を吸い上げる仕組みであったようです。

 (ω‐5) 現代にあっては 社会が国家としてありその家の第二階も存続していますので その《カエサルのまつりごとのものはカエサルに納めるべし》という見解が残っていましょうか?

 ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です。おわかりのように次の質問を継いでいます。そこでの質疑応答をも承けて 問い求めを自由に発展させてください。
 【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】 
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html
 
 日本人の哲学はここにありという言論を魅せてください。

A 回答 (91件中81~90件)

☆わしをこんなに「攻撃」しているのは、一人か二人に違いない、なぜならわしは正しいのぢゃから☆



 と、思って「貴方はひょっとしてowlsjpさんですか?」と思ったのですね、しかしお前が知っているように、お前に対してはSOLAR_RAYとowlsjpでしか対応していません。他は1回か2回くらいしか使っていないしね

 確かに、他の人もお前の在り様についてだけ言及してはいますが、それは自分が答えられなくなると「生き返りましたね」とか「これだけは自分の言葉であるようです」などと、内容についてではなく、他者の在り様について、結局はそれだけでしか返していないかのだから、仕方なくそういった対応をしているのです。なにしろ、言葉による理論的な話し合いはもうできないのだから。従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。
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この回答へのお礼

 そうですか。
 それにしても 三者は 同じような文体である。

 ★ なにしろ、言葉による理論的な話し合いはもうできないのだから。
 ☆ えええええええっ? いつからそうなったの? それぢゃ回答にも投稿にもならないのでは?
 ★ 従い、他者が自分の「在り様」について言及することに対して、批判、非難するのは控えたほうが良いでしょう。
 ☆ おれさまの言うことをすなおに受け容れよという意味? 
 受け容れるの容れないの へのかっぱをどうしろこうしろもないでしょう。

 ▲ 先の者があとになり あとの者が先になる。
 ☆ 思い出したかな?

お礼日時:2009/10/24 20:22

仲間さえ許すことが出来ない被害妄想のおじじ。

貴方はキリスト教者ではありませんね。残念です。もっと成長しなさい。(このQ&Aでのびることをいっているのではありせん。野比のび太したいなら国語文学へいきなさい)

では分析をはじめます。

(オーケイ問答集13:4-9より)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
たまたましいじゃ!今の日本人はなってない!

かみたまはそんざいする!
ぢぢこそ最高!
わしは、何をやっても救われる!

わしこそあらひとガミじゃ。どぢゃ!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

がみがみじじいのゴニョゴョニョ狂に関しその核となる教えは…

重要!!
「三位一体(=酸味痛いともいう)」論です。

I)たまたましい(両替論)
「世直しじゃ!一揆じゃ!」の根拠←○×主義(インターゴニョゴニョ主義)

II) かみたま(現人神=唯爺信論)
「自分が絶対正しい」の根拠←偽キリスト教(絶対神=おれさま)

III)ぢぢ(悪人成ぶつぶつ説)
「斬ってきた!論戦では一番強い!ご愁傷さま!」の根拠=浄土真宗(仁侠映画=ナゾのゴノゴニョ猿尊)

純粋な
OX主義者/キリスト教者/浄土真宗信徒に議論を求め、その方に「他の宗派の教条」について評価を求めれば、それぞれの思想・思考傾向というのは、区別しうるものであって、ひとつではありません。

しかし、あなたは、「ヒトツの統合されたもの」として騙っている。ヒトツではないものをヒトツであるとして騙っている。

その上、貴方は、これこそ「哲学じゃ」と主張しています。この三つを統合しているのは、一体ナンでしょう。

答は簡単です。

OX主義・似非キリスト教・浄土猿臭は、一義的に「オレオレテーマ」としてつながっているだけなのです。

あなたがあやまることを待っていたのですが…


暴露してすみません。貴方が、「少しは素直である」ということを見せていたとしたらこんな論議はしなかったのです。

ふつう、人は自分のオレオレテーマを持っているものですからね。貴方は、これからも自分のまぜこぜ三位一体論を主張していくでしょう。でも読む人は、その前提から結論をアプリオリに知っています。

前提の整理
I)○×主義(インタームダイズム)
反日本人的行動(脳内社会主義⇔でも年金はしっかりもらう)
II)カミタマ主義(聖典利用)
「反カトリック的」プロパガンダ⇔勝手聖典自由主義
III)親ビン成仏説(一味痔痔水)
何デモ反対同盟(涎強硬主義)⇔自分と手下以外は、正しくない。(憲法の意味も知らない)無法の手下が逆らえばその場で除名。猿と雉がいれば安泰(ぽこさん・がこさん帰ってきて!と思っているのは内緒)。

これから貴方の述べることは、「ああオレオレ神の三位一体説ね」と一蹴されるようになります。

哲学に関し
OX主義・キリスト教・浄土真宗…どれをとっても学問ではありません。
信条・テキストに対し、対象としての距離さえない。学的分析など貴方にとっては想定外です。自分が、「迫害されている」などという被害妄想=はき違えは捨てなさい。

被害妄想=幻想は哲学ではありませんから。
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この回答へのお礼

 nananisse くん ご投稿をありがとう。お世話様です。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 純粋な
 OX主義者/キリスト教者/浄土真宗信徒に議論を求め、その方に「他の宗派の教条」について評価を求めれば、それぞれの思想・思考傾向というのは、区別しうるものであって、ひとつではありません。

 しかし、あなたは、「ヒトツの統合されたもの」として騙っている。ヒトツではないものをヒトツであるとして騙っている。

 その上、貴方は、これこそ「哲学じゃ」と主張しています。この三つを統合しているのは、一体ナンでしょう。

 答は簡単です。

 OX主義・似非キリスト教・浄土猿臭は、一義的に「オレオレテーマ」としてつながっているだけなのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この箇所に注目しました。その中には ひとつの真実が隠されています。
 ○ 神〔あるいは無神論の無神 あるいは ブッディズムでは阿弥陀仏 要するに絶対者=真理=無限=なぞ=非経験=・・・〕は 同じひとつの存在である。仮りの名前が違うだけだ。
 ☆ この共同主観(常識)を導きだしたということは とうといことです。敬意を表します。
 どうですか?

 ほかの部分に触れませんが 触れたほうがいいですか? こてんぱんに叩きのめされたと思うくらいに批判し尽くしたほうがいいですか?

お礼日時:2009/10/24 18:04

ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。

Hidocchiです。

> ★ 裁判員制
 また、マニアックな内容になってしまい、こちらこそ申し訳ございませんでした。

> ★ 納税
 ☆ にかんしましては その使い道について一般市民納税者がどこまで関与することができるか。これがさしあたっての課題でしょうか。あるいは政治家を介しての間接的な関与ということになるでしょうか。

 予算案の作成、つまり、総収入(=税金、近年では、国債にも頼っている状況ではございますが)を、国民の利益・国益を考え、いかにその収入(=税金)を割り振るかというのは、政治家の最も重要な仕事かと考えております。従いまして、納税者も、納税意識をもっと持ってもいいのではないか と思ったりも致します。

> ☆(ω‐1) 
この為政者を介してかどうかを別として 《宗教団体に対して国民が縛りをかける》という側面については どうなんでしょうか。一たん自由意志において入会したなら 退会するのでない限り その組織内でのやり取りは 信仰内面の論議であっても 自由であるということになるでしょうか? これは前質問を受けての課題です。

(1)憲法からです
 一般には、「為政者 対 私人」の構図から成り立つようでございます。では、「私人 対 私人」の場合では、原則、憲法は適用されないようでございます(間接適用説、無適用説)。以下にその判例を列記してございますが、ともに、「私人 対 私人」の争いについては、私法を用いる との判決が下されています。従いまして、“宗教法人(宗教団体)”も法的には私人扱いとなりますので、憲法から攻めるのは困難かと考えております。従いまして、ケースバイケースにより、民法(契約法)から判断せざるをえないかもしれません。

“三菱樹脂事件”(「思想・信条の自由」を問題とした判例です)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%8F%B1% …

“昭和女子大事件”(「人権」を問題とした判例です)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C% …

 ですが、幾つかの疑問もございます。「結社の自由」でございますが、例えば、アメリカ合衆国憲法には、それを謳った条文が存在しません。ただ、修正1条を準用するという形で、実際の裁判判決が下されているようでございます。また、ドイツでも、その自由については、厳しく制限を課しているようでございます(以下のサイトをご参照くださいませ)。

“結社の自由”の“ドイツ”の項目からでございます
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E7%A4%BE% …

「合衆国憲法 修正第一条」 連邦議会は、国教を樹立し、あるいは信教上の自由な行為を禁止する法律、または言論あるいは出版の自由を制限し、または人民が平穏に集会し、また苦痛の救済を求めるため政府に請願する権利を侵す法律を制定してはならない。

 もしかしますと、この“結社の自由”も考えなおされるときが来るかもしれません。例えば、労働組合等の“結社”には、憲法28条があり、他の条文にて保障されているからです。

(2)宗教法人法からです
 「2条 この法律において「宗教団体」とは、宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成することを主たる目的とする左に掲げる団体をいう。」
 と かような条文が存在します。

 そもそも、“宗教法人法”に関しまして、その歴史的経緯等から、矛盾を探していくしかないかとも考えております。

 ご参考になれず、まことに心苦しいのですが、以上が、現時点での愚見でございます。

 ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

この回答への補足

 Hidocchi さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ううーん。やはりむつかしいようですね。
 まづ 結社の自由にかんして わたしはやはり信仰を教義として基軸とする宗教団体とそしてそのほかの結社とに分けたいと思いました。
 ○ 思想・良心の自由 と 信教・良心の自由
 ☆ につきましては したがって 信教・良心の問題領域とそして思想を含むそのほかの領域というふうに分けたいと思いました。かんたんに言って 内面と外面とです。結社の自由につきましては 宗教団体をめぐって内面の問題がからみます。そのほかは外面です。
 ですから取り上げていただいたところの
 ★ “三菱樹脂事件”(「思想・信条の自由」を問題とした判例です) / “昭和女子大事件”(「人権」を問題とした判例です)
 ☆ につきましては 外面における社会行為の問題であると捉えました。その意味は 前者の結着の仕方が
 ▲ 訴訟上の和解
 ☆ であったというところにも現われていると考えるのですが それは けっきょくは相対的な妥当性の綱引きであると見えたからです。へたをすると 力関係の綱引きにもなりうるようだとです。
 その意味は ここではこれら外面の自由の問題は直接には扱わないと思いました。ですからとりあえずは
 ★ 「結社の自由」でございますが、例えば、アメリカ合衆国憲法には、それを謳った条文が存在しません。ただ、修正1条を準用するという形で、実際の裁判判決が下されているようでございます。また、ドイツでも、その自由については、厳しく制限を課しているようでございます。
 ☆ これらふたつの事例を挙げていただいたのですが そしてそれらはそれとしておもしろそうなのですが いまは信仰内面の問題に限りたいと考えます。と言っても アメリカもドイツも――ドイツは政治団体の制限のようですから―― 宗教団体は自由に結社できるということのようです。
 さて宗教団体ですが ひとつの定義を掲げていただきました。
 ▲ 宗教の教義をひろめ、儀式行事を行い、及び信者を教化育成する
 ☆ というとき 問題点をふたつ取り上げます。
 (1) 《教義をひろめる》ことは すでに信仰内面の領域から外に出かけている。なぜなら 教義は概念をとおして表象しうることがらを扱っている。それは それそのものとしては いわゆる信念になる。観念にかかわっている。信仰は観念になる以前の段階を言う。――だから それゆえに 結社が自由だと見なされているのでしょうか?
 (2) 《信者を教化育成する》ことは もし上の教義を介してなのだと言われれば それは外面における社会行為の問題にとどまるという弁解が成り立つかに思われます。内面における良心や信教を直接には問わないのだという弁明です。――だからこそ結社は自由なのでしょうか?
 ☆ したがいまして ふたつともわたしのおそれは 人格にまで触れて教義を教え込まれることはないかです。人格を左右するまでに信者を育成することはないかです。最もいぢ悪く見た場合には この人格への刷り込みやその誘導が おしえのためには 自由だという内容を 《結社の自由》は構造的に(つまり偶然的にではなく必然的に)認めているのではないかと疑われることです。

 * きのう(きょうの早朝)朝まで生テレビで 若者の問題を扱っていましたが そこで東浩紀が 直接政治制について語っていました。つまり納税・歳出の管理や監視にもからめてでした。

補足日時:2009/10/24 17:50
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 このところ、bragelooneさんへの攻撃が強いので、ここ何度かの私の回答コメントは応援のつもりでした。



 でも逆効果のようで怒らせてしまったようです。反省します。

 想像では「たぶん二千年後ですね」と言う言葉が、いけなかったのかなと思っていますが、当たっていますでしょうか。

 また、これまでのbragelooneさんと受け手のやり取りから察するに、bragelonneさんの議論に対し、受け手がそれを不快に思い、その心持が誹謗中傷と言う形になってしまうのでしょう。議論ではなくなってしまうのです。bragelonneさんは‘議論’しているのに。

 だから受け手が、議論で返さず誹謗中傷といった手段に出るのは、その時点で受け手の負けなのです。

 私なら、そのようなコメントは、無視するところですがbragelonneさんは答えています。それも相手の用意した土俵に上がって。

 これではbragelonneさん自身をも貶めることになってしまいます。

 私が今回の質問に参加した意図は、暗に議論してくださいというメッセージを込めたつもりでもあったのですが、独りよがりでありました。

 再度、私自身の言動に注意すると共に反省し、お気持ちを害したことをお詫びいたします。私のうぬぼれ心がまた出てしまいました。

 

 
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この回答へのお礼

 yy8yy8az さん こういうことです。

 あなたはわたしの応えをないがしろにしましたね。No.7に引用したとおりです。
 ☆☆ (No.7お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしの見解のほうが妥当だという意味では必ずしもありません。一度目のわたしの指摘を無視したとわたしが受け取ったことが 問題であり問題とします。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ と怒っています。ほかにはありません。今回もこのことに触れていませんね。

 問題は こういうことです。
 この無視をそのまま放っておくなら その次にもし同じ無視があった場合その今度は 欺かれたわたしのほうがわるいということになるからです。
 いづれかの将来において ともに行動しているというときが来るでしょう。そのとき もしたとえ小さな連絡のようなことであっても ひとりがないがしろにしてしまったなら どうなりますか? みなに差し障りが出てしまいます。これをおそれます。
 したがって 細かいことでもおろそかにすることは出来ません。
 どぢゃ?

 * 勘違いや知らずにしてしまった間違いは いいのです。気づかなかったり悪気はないつもりだったりという場合でも 二度目はだめです。通用しません。
 その場でただちにあやまちを認めれば済むことです。けれども 〔問題そのものについての〕ごめんのひとことを抜かすわけには行きません。

お礼日時:2009/10/24 10:07

I) 


あのう…
どさくさにまぎれて大学を何とかしたのかもしれませんが、
OX主義は、学問に数えません…

OXに関し、「其の脳内で、盗みとコワしのプロである」と言う事は、出来るかもしれませんが、哲学者でも経済学者でもありません。一揆の屁理屈は、経験科学ではありえませんので。

ということで、再度補足要求となりマスが…
貴方が「自分(=よだれ教皇)の考え出したゴニョゴニョを此処で主張したい」という以外、理由・意図として何か思い当たるものはあるのでしょうか?重複してもかまいませんから、なにとぞ一言お願いいたします。

II)
「ふぇーず1」
広場で説教(実は宣伝)をたれている人がいるとします。人ごみの中で説教(実は宣伝)をしていたのですが、時がたつにつれ、なぜか広場に人が集まらなくなりました。

「ふぇーず2」
人がいないのだから、「場所替えだ!」と思い、ほかの「人通りの多い広場」に移り、更に説教(実は宣伝)。でも、時がたつにつれ、またもや広場に人が集まらなくなりました。

説教(実は宣伝)の内容を変えながら「ふぇーず3」につづく

さて、人が誰もいなくなるというのは何が原因なのでしょうか?

時間がもう少ないかもしれませんが…
「なぜ今あなたが、孤独であるのか」という事実に関し、もう一度じっくり考えてみるべきです。あなたのためです。

「論戦できってきた」「武士の情けじゃ」とのたまうアキンド・「XXは犯罪じゃぁ」の例でも分かるように、自分のふんどしに引っかかってこける老人は、滑稽でしかありません。

貴方が「斬ってきた」と思い込んでいる人々は、タダ、あなたの生き方の悪臭にやられ、貴方のことがイヤで、貴方のそばから去っていっただけです。

(仁侠映画を見すぎたの?チンピラから被害を受けたことを忘れたのですか?)

世直しじゃ!といっているが、自分自身は最低。

誰も耳を貸さなくなるのが、普通ですよ。第一、尊敬している人の「のりかえ(両替)」が、不合理すぎる。

「なああんだ!このおっさん!結局、自分が正しいといいたいわけ?」と結論付ける人ばかりですよ。そういうことだけが、コレまでの応答で証明されてきたのです。

死ぬ前に償うべきです。気を楽にしてからのほうがいいですよ。一生で一度でいいから他人の言うことを聞いてみれば?反省することが、悪人成仏の第一歩です。
(チンパンジーの反省「=反省のフリ」ではダメですよw)

III)
「キリスト教の神を信じれば、奇跡的に地獄にいかなくてもよいかもしれない。神のみぞ知ると言うもんな!」

「しめしめ、親の宗教は、浄土真宗でぇ、オレは悪人だからぁ、葬式は、親ので出せばいいぞ。最悪の場合でも、コレで救われる…にゃはは!」

「神様がいなければいなかったで問題なし!わしは、勝ち組!最悪の場合にも、万全の備えだ!誰も文句は言えない!ばっちし!」

というのは、宗教ではアリません。ましてや

哲学では「ありえません」。

(OX経済のお勉強をしたのだから、こう考えるのも
理解できることではあるのですが…
貴方の屁理屈は弁証法でもありません。

貴方が不幸なひと(ふなむしでも可w) であるということだけが残ります。)

「打算」は、捨てなさい。

(たとえ肢がたくさんあるとしても、)みつ股・二股をかけるのは間違いです。

臨床的に見て、縁者の不幸は、普通、家父長が原因です。一家心中も、同様。最悪の場合、自分だけ生き残ります(殺人ともいいます)。これは、精神的「心中」でも同様にいえることでしょう。

不幸な家族(袋小路幸福の経済学・デブマロ哲学の家)の中に存在する「教会=オレオレ村(現人神=わしの中に存在する絶対者)」が、犯罪の原因です。

貴方も自分でよく分かっている。悩乱が原因で心が死んだ人がいるかもしれませんが、キリスト教でそれを免罪しようとするのは、卑怯です。

自分に責任がないと言うのはやめなさい。不幸になった人も浮かばれない。

「あれだけ、他人が間違っているとわめき散らしておいて、キリスト教かヨ!なにそれ」と思って脱力しています。

IV)
あんまり攻めても気の毒なので…

貴方に「もうちからがなくなってきた…」のはなぜでしょう?

それは貴方のモチベーションが消えつつあるからです。

貴方の周りに誰もいないからです。怒る相手がいない。「こいつのせいだ」と言える人がもういない。

自映(荒振屁理屈河童乃猿尊=人を虚仮にするオコリボス袁)を鏡で見ながら、怒ってみるのも大事ですよ。貴方が悪いのです。後悔してもはじまりません。まずは謝ることです。

いままで怒りをモチベーションとして生きてきたのかもしれませんが、「そして誰もいなくなった」のは、貴方のいき方にその原因がありますよ。

貴方が不幸であると言うのは誰のせいでもありません。あなた自身の責任です。

でもチャンスはあります。偽善を捨てなさい。改心しなさい。具体的に人間に対して「ごめんなさい」と言えば、たぶん、みんなも許してくれると思いますよ。

神は許さないでしょうが…

V)結論
国のお金は国に、キリスト教の教えはキリスト教に、
ご自分のお考えは、ご自身の無脳にお返しくださるよう、これを以って此処に再びお願い申し上げます。

この回答への補足

 ひょっとしてあなたは owlsjp さんですか?

 例によって おまえのかあちゃん出べそのたぐいのシュプレヒコールが延々とつづいています。教科書に出てくる推論はできるが 現実の社会的な歴史的な諸問題についての判断は だれかが示してくれないと自分ではできないのですか? それとも出来るが しないのですか。この現行の体制 万万歳ってところですか。

 放っておいては誤解が誤解を生むことになるのをおそれ その部分についてのみただしておきます。
 ★ 哲学者
 ☆ であると言ったおぼえはありません。ふだんから哲学していると言ったのです。行為としての犯罪と存在について言う犯罪者との区別にも関連していますね。

 ★ 「自分(=よだれ教皇)の考え出したゴニョゴニョを此処で主張したい」
 ☆ よだれ教皇をまづしりぞけます。けっきょく《ゴニョゴニョ》の中身を吟味してくれという問いです。ここでの質問はほとんどすべてそうです。
 それとも そのゴニョゴニョの内容については全面的に降伏せざるを得ず ぐうの音も出ず こうやってお前のかあちゃん出べそと言い続けるほかに為すすべがないと言いたいのでしょうか?

 ★ 貴方が「斬ってきた」と思い込んでいる人々は、タダ、あなたの生き方の悪臭にやられ、貴方のことがイヤで、貴方のそばから去っていっただけです。
 ☆ そのほかの部分を全部まとめて あとは次の引用にて用を足します。
 ▲ (パウロ:コリント後書2:14-17) ~~~~~~~~~~~~
 神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連らならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。

 救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです。

 滅びる者には死から死に至らせる死の香りであり、救われる者には命から命に至らせる命の香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか。

 わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。
 (同書13:7-9)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしたちは あなたたちがどんな悪も行なわないようにと 神に祈っています。

 わたしたちは 自分が本物の信仰者として見えるようにということではなく たとえ偽の信仰者と見えようとも あなたたちが善を行なってくれるようにと願っているのです。

 わたしたちは 真理に逆らっては何ごとも出来ませんが 真理のためならできます。

 わたしたちは自分が弱くても あなたたちが強ければ喜びます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ どぢゃ!

補足日時:2009/10/24 11:25
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> ☆ 信仰と宗教とのちがいが ここでいちばんの問題であり問いの発端です



イワシの頭が宗教だとすれば、イワシの頭に服従する態度が信仰。

この回答への補足

 maooyuda さん お早うございます。と言ってももうこんな時間になってしまいました。(朝まで生テレビを開けておいてけっきょくは眠ってしまったのですが けさは寝起きがはっきりしません)。
 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 ★ イワシの頭が宗教だとすれば、
 ☆ はそのとおりなのでしょうね。つまり 宗教となればその教義においてすでに愛にしろ慈悲にしろ言葉で表わしており その言葉は概念であり 概念はわれわれのあたまに表象をつくります。《表象する / かたちがある》という意味で 宗教の教義規範は それがいかなる概念であっても《イワシの頭》と同じものだという結論に達します。
 イワシの頭は 愛や慈悲のような高尚な内容を持たないと言っても たとえばイワシもメダカも愛なるなぞの存在によって造られしとうとい生命です。この創造主に直結する生命であればそのいのちをとおして霊の息吹きにもつながっています。
 つまりは 愛という概念をとおして神につながるのと大差がありません。大差がないというよりは まったく同じことです。
 それは 仮りにも概念であるのならばすべては精神の想起つまり想像の内におさまるものだからです。概念であるならば 想像力の産物であることにとどまります。いわゆる偶像というわけです。つまりこの観念の偶像のほうが 目に見える偶像の問題よりもより一層大きな間違いを犯しがちです。

 なのですが
 ★ イワシの頭に服従する態度が信仰。
 ☆ はよく分かりません。まつりごとは 社会の第ニ階から《和を以ってとうとしと為せ》と言って《まつろわせる》ことですから(――つまり ムラのまつりの共食・その収穫物の一部を差し出せと言って服従させることですから――) 《イワシの頭に服従する態度》を ムラの人びとのこころにも見たということでしょうか?
 その信仰は なっちょらんぢゃないかと。

 これは 例の《くにゆづり》の問題ですね。
 簡単に言って その昔そもそも世の中は平屋建てだったわけです。平屋建ての場合にもムラのおさは出ましたが 或る日或る時 この村長を超え出ようとするスーパーマンが現われました。おれは ムラムラをたばねて従えるのだと。おれは人一倍 徳が高いからだと。王化の徳と言いました。つまり第二階をかたちづくる人びとのことです。
 このスーパーマンたち――これをアマテラス族と言いますが――に対して ムラビトたちは かれら(アマテラス族)がどこまでも駄々をこね しまいには土下座をしてねだるものですから とうとう根負けして 社会の上座に一画をもうけて言わば神棚をつくりそこにまつることにしたのです。これを くにゆづりと言います。(ほかにも解釈例は出来ます)。
 そして実際に このようにゆづったあと ムラびとの代表としてたとえば〔スサノヲの子孫の〕オホクニヌシは そのまつろうしるしに 屈従の舞いを舞って示したとも伝えられています。戦ってひとごろしをするよりは 奴隷のしるしを帯びることにも耐えたのかも知れません。

 ひとびとは見よ。このわれらがおやびと(祖先)の汲めども尽きず湧き出づる愛のちからを。
 このなっちょらん信仰が もし目に見えなくてもこころの目には見えてしまう観念の偶像としての理念を追う宗教であったなら 主戦論を唱えて応戦したことでしょう。

 どうでしょう? もうスサノヲの後裔たるわたしたちは 腰抜けもいいところでしょうか? 腑抜けもいいところでしょうか? 奴隷の自由しか味わうことのできない木偶の坊でしょうか。

補足日時:2009/10/24 10:50
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 オコリザルさんの今回の意見に近い感想を、私も持っています。



 無神論者といえども、全く神、仏を信じていないわけではないでしょう。

 神仏を全く信じないという人が、居ないわけではないと思いますが、そういう人でも、潜在意識の中には必ずあるはずです。本人が気づかないだけで。

 また、信仰を“している”人より、無心論者の“信心”のほうが偏りがないのでは、と日ごろ思っているのですが。
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オコリザルです。


私は宗教に深くかかわらない平凡な日本人として生きていますが、このように生きると、自らの信仰を表ざたにしない事となります。
無神論者で居られるのは信じることあるが故とも実感しています。
この日本流無神論をどう説明していいか、とっかかりは有りませんか
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この回答へのお礼

 オコリザルさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ この日本流無神論をどう説明していいか、とっかかりは有りませんか
 ☆ それが まさしく《信仰》だと思います。それを信仰とよぶのだと思います。非思考としてのこころの明けまたは伸びです。
 ですから
 ★ 私は宗教に深くかかわらない平凡な日本人として生きています
 ☆ というように《宗教》はほんとうは誰にとっても要らない。こう考えています。

 あとは
 ★ 無神論者で居られるのは信じることあるが故とも実感しています。
 ☆ とおっしゃるように 説明をする労をとること。特に欧米の人間に対しては きちんと言葉で説明すること。これが必要でしょうし それをすればもう 有神論〔者〕とも対等であり 何も問題はないと思います。
 ○ ひとりの人間として 内面に信じるという思いを持つ。ただしその信仰を いちいち《おしえ》として表現してはいない。つまりその意味での宗教は要らないと思っている。
 ○ 日本語で《かみ》という言葉を実際《信じる》をめぐって自分のこととして用いる場合もある。ただしこのかみは じんるいにとってだれにも当てはまるこころの中身の問題である。わざわざこれこれの宗教のあれそれの神だというわけではない。でも じんるいに普遍的なかみだと受け留めている。
 ☆ こんな説明になるでしょうか。

 そうすると (ω‐2)の《わたしの内面の信仰ないしまつり》と《わたしの外のムラのまつり》との区分があっても それほどむつかしいさしさわりがあるとも思えません。思えなくなりました。なかなかいいですね。
 ○ 内面における信仰なのだけれども その思いもそして言うならば神も およそつねに背景へしりぞいている。社会という外および表の面で現われるのは 素朴に《ひと》である。人類という意味においても使う《ひと》のことである。
 ☆ になりましょうか。
 いい視点をおしえてもらいました。どうでしょう?

 オコリザルさん yy8yy8az さんは 信用するに足る人物ですか? No.7を見ていただければ分かると思いますが わたしはかれに虚仮にされました。これを無条件で水に流すことは出来ません。

お礼日時:2009/10/24 00:02

 過去には、信仰と言うものはまつりごとに依存していたのではないでしょうか。



 大多数の人は、真理を求めての信仰ではなかったかと思います。

 そういう意味で個人とムラとは、一体であったはずです。

 だから現在まで続いているのだと。

 でも、だんだんと減ってきていますね。

 それは、・・・・・・・理性が勝ってきた現代人だから。

 質問者さんもその一人。

 だんだんに「まつりごとは」減っていくように思います。

 これからは質問者さんが、求めている真実の信仰が発達していくのではと思います。

 でもそれは二千年後ですね。

 たぶん。
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この回答へのお礼

 ○(【Q:信仰の組織教義化は 犯罪ではないのか】) ~~~~~~
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5364088.html

 ★★ (No.25回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  托鉢のレベルに戻すべきです。(owljipさん。すべき、をまた使っちゃいました)
 ☆☆ (その補足欄)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ べき
  ☆ は自分が使っているぢゃないかと指摘してやるべきです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ★★ (No.30回答)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  また教団に「強要」されるような事柄があったら、その時点で疑うべき(おっと、ごめん)でしょう。
 ☆☆ (そのお礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ★ べき
  ☆ これを使わないというのであれば この質問に回答する意味がありません。あしからずご了承くださって ほかへ行ってください。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 わたしの見解のほうが妥当だという意味では必ずしもありません。一度目のわたしの指摘を無視したとわたしが受け取ったことが 問題であり問題とします。

お礼日時:2009/10/23 22:53

この質問と関連付けているようだから、前回の投稿に対しての「お礼」に対して、補足しておきたいと思います。



  *   *   *

>こころは入れ替わろうとしているが 口が入れ替わらないってわけか。

◇自分のことのようで。いや、質問文だけでなく性根を完全に《ゆがめ》てしまってこころも入れ替わろうとしていないというですね。


> こんなことを言うのは ここでのやり取りを《言い争い》としか見ることの出来ない浮かれた人間

◇そうですね、「言い争い」ではなく、「犯罪者の苦しい言い訳」と見るのが妥当でしょう。


>それを傍で見ているのもよしとのたまうくらあい人間よりも

◇「傍で見ている」のが、「くらあい人間」だということで。


> このごきぶりのほうがまだましだと見たからです。

◇「この」は、私が「ほんとうにごきぶりみたいだね。」と、言った人間を指しているのですよね、とすれば、ごきぶりは自ずと質問者さんである ということになります。


> むろん――いつもように――これらの人びとも おおばかもののわたしよりはまだましでしょう。

◇なるほど、つまり質問者さんはごきぶり以下ということで。


>なぜなら 根性がにぶいのか 暴れ方がわたしよりはおだやかだから。
◇なるほど、「根性が鈍い」ほうが「おだやか」で、「まだましでしょう。」とのことで。

>へのかっぱばかりが増えたようだ。いにしえのスサノヲを見習うようにしなさい

◇なるほど、「へのかっぱばかりが増え」ているが、しかし「オレは破廉恥なことばかりしてきたスサノヲである」という定義をしているということで。


  *   *   *

>それとも このようにわたしが疑問をどこまでも追って問い求めることが 

◇1. >解釈を《ゆがめ》て いるのに、 「疑問をどこまでも追って」いると主張している、その精神が 

 ごきぶり(ふなむしでも可)である。

 という解釈で問題ないでしょう。


> それとも それは織り込み済みなのか。

◇1.で示したとおり。


> いちど伝えたように 上と下と捉えるのではなく 先と後と捉えるようにするといいだろう。

◇いちど伝えた? いや、これは初めて見た文章ですね。「違う表現でこう言ったぢゃないか」という返事がきそうな気がしますが...
 ぜひとも何処で伝えたのか、教えて欲しいですね。

※連続投稿となりましたが、「できれば」補足とお礼はひとつにまとめてください。そのほうが見やすいので。

 Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω  Ω

>☆ 残念ながら あたらしいこころは この文章にしかない。そのほかは ただの決め込みである。理由が述べられていない。

◇残念ながら、この文章に なにも理はない。新しいとか古いとかの問題ではないのは☆さる☆でも分かると思うのだが...

>哲学の視点に《ゆがめ》たのではなく 

 「哲学の視点」で《ゆがめ》るというのは、どういうことなのか、述べられていない。まずそれを述べてから問いなさい。しかし、「哲学の視点でゆがめる」というのは、説明が難しそうですね。ご愁傷様です。

>しかも自分の能力と努力とでどうにかなるというものでもない。

◇違うな、自分の意思で変えていくものです。とにかく、開き直るのはみっともない。

>自己表現をすすめていけばよいのです。

◇迷惑です。

>その意味が少しは分かってきたのだろう?

◇質問者はアタマがぼけてきたようで。

この回答への補足

 こまったものですね。

 ☆☆ こころが入れ替わろうとしている
 ☆ のではなかったの?

 ★ 犯罪者
 ☆ 呼ばわりは 根拠を示さないと(示しても そんなことはふつう言わない) 名誉毀損であり誹謗・中傷でしかない。規約違反でもある。よく注意して述べなさい。
 わたしの場合は これこれが《犯罪》の行為であると言うのみ。ひとを捉えて《犯罪者》だと言ったことはない。その違いも飲み込むべきでしょう。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◇なるほど、「へのかっぱばかりが増え」ているが、しかし「オレは破廉恥なことばかりしてきたスサノヲである」という定義をしているということで。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これでいいよ。

 ☆☆ しかも自分の能力と努力とでどうにかなるというものでもない。
 ☆ おぎないます。
 ○ しかも自分の能力と努力とで ≫最終的な結果において≪ どうにかなるというものでもない。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  >自己表現をすすめていけばよいのです。

 ◇ 迷惑です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは問題発言ですよ。すべてのひとが ここでもどこでも自己表現をしています。

 どうやらあなたは今のまつりごとに満足しているという立ち場であるようですね。だから批判は歓迎なのですから ひとつづつ見解を述べるようにしてください。
 わたしのこのような新しい見解が述べられることじたいに怒ってしまって ただただ引っ込めと言いたいわけなのですか?
 それは 落ち目の側に立ち場があれば かなしくて行き場がないと感じてしまうでしょうが だとすると この理論としての空論も そうとう現実的だということになるようですね。

補足日時:2009/10/23 13:22
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