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長い歴史を紐解いてみますと他人を殺害した出来事が少なくありませんが、何故それが認められていたのでしょうか?

始皇帝時代の焚書坑儒から戦国時代は親族等の殺害も珍しくありませんでした。中には他人からの命令でそうせざるを得なかった事もあります。ユダヤ人迫害や南京大虐殺何てもう酷すぎるにも程があります。

なのにこれらを実行した人物が犯罪者扱いされるどころか英雄扱いされるのはどうも腑に落ちません。他人の生命を蔑ろにしたのですからどう見ても良くは捉えられないはずです。

是非教えて下さい。

A 回答 (9件)

人間が持つ、結構あやふやな倫理観が問題なのだと思います。



「人を一人殺せば殺人者だが、
 人類を半分殺せば英雄だ。
 自分以外を殺せば神になる。」

とはよくいったもので、多人数になってその名義が国家間の殺人となった場合、殺人の量と倫理的な罪の増大が比例しない事を示しています。

しかし、ユダヤ人虐殺や南京事件の首謀者が一般的な観点で英雄視されているかというとそうではありません。
ドイツの事情は詳しくありませんが、日本では戦争指導者は未だそうした栄誉は与えられていません。むしろ犯罪人のイメージが強いのが現状です。ここはちゃんと殺人の量と倫理的な罪が日本国内においても比例していると考えるのが一般的だと思います。
ネットの一部や、現在の出版物では軍部の見直しがなされていますが、飽くまでそれは見直しであって、日本国内であってもその議論のスタート地点は罪のイメージが大きいのではと。
普通に考えていきなり軍部礼賛、全肯定する人間は議論の輪に入れません。

逆に数多くの人を殺したのに賞賛されている例を挙げるとするなら、民間人に甚大な被害をもたらすと分かっていて東京大空襲を実行した”鬼畜”カーチス・ルメイ、原爆を投下させたトルーマンなどが第一候補として挙げるべきでしょう。

では何故彼らが容認されるのかというと、彼らを支持する人間達が「早く戦争を終わらせろ」という観点に立っていたからですね。
そして直接的には言っていませんが、戦争終結の条件として我々日本人が10万人単位で死ぬ事も許容している訳です。
ちなみにトルーマン大統領は18発の原爆投下を承認していたようです(内、広島と長崎にそれぞれ一発ずつ、計二発が投下された。3発目より使用停止命令を出した以降は使用されず)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AA% …

これは専門家の方から診ればレベルの低い私見なのですが、「戦勝国の国家戦略と国民の集団意識が戦勝対象国の人民を倫理的に抹殺する事も厭わなくなった時に、英雄の虐殺が起きる」と私自身は考えています。

逆に簡単に考えれば、戦争において虐殺がどうしても回避できない、あるいは結果として虐殺が発生してしまった、という時には世論を誘導すればこうしたケースにリードする事ができるのです。
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>長い歴史を紐解いてみますと他人を殺害した出来事が少なくありませんが、何故それが認められていたのでしょうか?



他の回答者も指摘されていますが、今現在でも世界中で上記の状況は起こっています。
例えば、イスラエルとパレスチナの紛争問題。
パレスチナ人は、イスラエルが自分たちの領土を不当に占拠しているとして、テロ攻撃を加え、イスラエルの民間人に多数の死者が出ています。
それに対して、イスラエルは米国のバックアップを背景に、最新兵器でパレスチナ人を攻撃し、こちらも多くの民間人に死者が出ています。
もう一つの例を出せば、米国は今でもイラクやアフガニスタンで武力を行使しています。
日本では、米国側の視点に立って報道などがなされるため「米国・多国籍軍=正義」「アルカーイダやタリバン=悪」と物語を作っています。
どちらかの立場に立てば、そちらが正義であり、第三者から見ればどちらも正義であったり悪であったりします。
つまり、人の行為の善悪という価値判断というのは、あやふやなモノなのです。


>なのにこれらを実行した人物が犯罪者扱いされるどころか英雄扱いされるのはどうも腑に落ちません

これは、それら歴史上の人物や出来事を考える上で、「自分の中にある価値観」を当てはめている結果です。
「歴史」というのは、英語で書けば「history」ですが、文頭の「hi
」を取ると「story(物語)」となります。
この二つの語の語源は、ともにギリシア語の「ヒストリアイ(historiai)」からの派生語です。
で、この「historiai」には、「調べて、学び知り、物語る」という意味があります。
つまり、「歴史」というのは、「過ぎ去った過去の断片(史料)を調べて、そこから教訓や何らかの意味を学び知り、物語として記述する(記述されたモノを読む)」行為であると言えます。

ここで問題となるのは、「客観性」と「主観性」の問題です。
「歴史学」はいやしくも「学問・科学」である以上「客観性」が必要となります。
「歴史」の記述の前提となるのは、「過去の出来事」を調べることから始まります。
「学問・科学」である以上、「根拠」となる「証拠」を提示しなくてはなりません。
「歴史学」の場合は「史料」にその「根拠」を求めます。
その「根拠」が万人に受け入れられれば、それは「客観的」であると言えます。
しかし、この「万人に受け入れられる根拠」となるのが見つかることはほぼありません。
せいぜいその「断片」を寄せ集めること位しか出来ないのです。
この問題を解決するため「歴史の著述者(学者・小説家・漫画家etc,,,)は「断片の評価・選択」と「再構成」という行為を行います。
これらの過程は「主観的」と言える行為です。(但し、彼らの選択や著述しようという動機が社会の要請であれば、ある意味で客観的となります)
この「評価・選択」「再構成」を行った上で、彼らは「物語る」のです。
「歴史の叙述」というのは、「ノン・フィクション小説」を書くのと似ています。
つまり、「客観的な根拠」を調べ「主観的な著述」をもって物語を作るわけです。

とまぁ、「歴史」というのはコインの表と裏のように、常に「客観性」と「主観性」が内在しているわけです。
結局、「歴史」というのは「主観性」なモノで個々人の思想・価値観・人生etc,,,の数だけあると言えます。
ヒトラーのホロコーストも、「絶対的な悪」とされていますが、時代が変われば「良い行為」と評価が変わる可能性もあります。
実際、「フランス革命」が「民主主義の象徴」のように「+評価」が多勢でしたが、最近ではジャコバン派の恐怖政治などを招いたとして「-評価」する人もいます。
結局、誰のどんな行為を「英雄」あるいは「悪」として「評価」するかは個々人の主観や一般社会の要請にゆだねられています。
しかし、「フランス革命が起こった」という事だけは、誰もが認める「客観的事実」でしょう。

現代に起こった(また起こっていたり起こりつつある)行為も、将来の歴史家や社会によって「評価」される事になりますね。
それが「歴史」というものです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。考え方の問題ですね。

お礼日時:2009/11/10 21:24

今でも普通に認められていますが?


平和状態で誰かを殺せば殺人になりますが、戦争状態で兵士が敵側の兵士を殺すのは国際法でも認められています。
ですから、そのときの社会情勢、政治体制等によって人殺しの価値観は変わると言うことです。

あなたは平和な日本で生まれ育って偏った平和主義思想に被れているからそう考えるのです。

現代ではどこの国であろうとも、平民が誰かを殺せば殺人罪が成立します。
でもそれぞれの国の政治体制、社会情勢によっては権力側の人間が平民を殺しても罪に問われないこともありますよね?
実際、中国や北朝鮮、アフリカの政情不安定な国では、日常的に権力側の人間によってその国の平民が言われ無き罪によって殺されています。
そしてそれはその国の体制が続く限り罪に問われることはありません。

ちなみに過去(と言ってもまだ30年ほど前)にはカンボジアのポルポト政権は自国民を約300万人虐殺しました。
また現在の北朝鮮では、政治犯として強制収容所に収監された人たちが強制労働や処刑によって、毎日ように数十人から数百人単位で虐殺されています。
中国ではヒマラヤ超えしてインドに巡礼に向かおうとしている、チベット人を、ウサギやネズミをハンティングするかのような形で銃殺して楽しんでいる兵士もいます。
(これは実際にyoutubeの動画で見ることが出来ます)
あなたはそれらのことをどのように考えますか?

日本人の偏った平和思想の最大の弊害は、自分たちの平和思想的価値観が全世界で通用すると思っていることです。
ことわざにもありますよ。
「一人を殺せば殺人者だが、千人殺せば英雄である。」
でも、こんなことわざもあります。
「日本人の常識は、世界の非常識」ってね。
あなたの考え方はこれに当てはまると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。ワールドピースを祈るべきですね。

お礼日時:2009/11/10 21:27

>何故それが認められていたのでしょうか?



政治的に回答すれば、「勝者の理論」からです。
歴代中国では、王朝が代わる度に「数千万人単位で、虐殺」を行なっています。
現中国政府も、八路軍(現人民解放軍)が数千万の大陸の住民を虐殺しています。
チベット・トルキスタン人を10万人単位で虐殺していますが、日本をはじめアメリカ・EU諸国も避難していませんよね。

大戦末期、ドイツを無差別絨毯爆撃しても正当化しています。
広島・長崎の原爆投下も、正当化しています。
東京・名古屋・大阪など、無差別爆撃を命じたアメリカ空軍司令官には、日本政府が「爆撃してくれて、本当にありがとう」と感謝の意をこめて勲章を授与していますよ。

>実行した人物が犯罪者扱いされるどころか英雄扱いされるのはどうも腑に落ちません。他人の生命を蔑ろにしたのですからどう見ても良くは捉えられないはずです。

これも、政治の理論ですね。
伊藤博文を暗殺した安重根は、韓国では英雄ですが、日本など法治国家ではテロリストです。
自爆攻撃を行なうイスラム信者は、アルカイダ社会では英雄ですね。

面白い事に、アメリカ憲法には「拳銃など武装する権利」をアメリカ国民に認めています。
広義で解釈すると、一般市民は「防衛目的であれば、他人を殺す権利を認める」のです。
この解釈のもとで、イラク・アフガンで戦争を行なっているのです。
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今も世界中で多くの人が殺されてますけど?



ユダヤや南京を事例に挙げてますが
史上最大の虐殺は広島と長崎ですよ
そして彼らは英雄として崇め奉られ
今尚その意志は受け継がれ多くの人の命が奪われています

戦争の話でしたら視点によって見解も変わると思います
戦争以外でも多くの人が殺されてます直接殺される人も
多いでしょうし政治や経済の不安定によって死んでいく人たちも
殺されているのと同じだと思います。
何について教えてもらいたいんでしょうか?
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質問者さんは、平和な日本で育ち、人が人を殺すということが現実の問題としてとても考えられない環境で育ったのでしょう。


もちろん、それが悪いことだとは思いませんが、そうではない環境で育った人間が、過去には大勢いたということです。

私は子供の頃は中国史が好きで、中国の歴史書を読み漁っていた頃があったのですが、中国の城というのは街を全部城壁で囲うようになっているのです。
日本の城は軍事拠点を守るためだけにあるのに、中国ではなぜ、そんなことをしているのかわからなかったのですが、大人になってわかりました。
敵から、住民全部を守るためです。
昔の中国では、戦争で街が攻め取られると、街の住民すべてを殺していました。そして、残った財貨はすべて略奪です。
ですので、住民の命を守るために、都市すべてを城壁で囲う必要があったのです。

実はただ殺すだけならまだマシで、殺した人間の肉が生きた人間の食料にもなっていました。
人肉食です。とても日本では考えられません。
日本ではあまり知られていませんが、小説の三国志演義には、主人公の劉備が戦争に負けて逃げ回っていたとき、彼をかくまった地元の領民が妻を殺して劉備に食事として差し出したという話があります。この部分は、日本で翻訳された三国志ではほぼ間違いなくカットされていますが、本家の中国版には存在します。
小説の三国志が今の形にまとまったのは明の時代ですが、その頃ですら人肉食というのが存在し、またこれが美談として語られていたのですね。(この話は、妻を殺した猟師を避難してはいません。むしろ、美談として語られています)

そういう殺伐とした社会にあって、むしろ敵をやっつけて国と領民を守った英雄は、賞賛されて当然だったのです。
平和な現代の日本の価値観で、過去の歴史を一方的に評価すると、大きな間違いとなりやすいことを指摘しておきます。
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こんばんは。



仲間ないしは同種を殺す習慣というのは、人間に特有の性質だと思います。
他の生物を見るに、争って戦うことがある動物はいても、基本的には、殺すところまではやっていないと思います。

しかるに、なぜ、人間だけが同種同士で殺し合うか?

それは、人間が「地上で最強の生き物」だからです。
自分にとってより良い状況を得るためには、最強の敵、すなわち人間を殺すことになります。
そういった戦いの時代が続き、それによって、部族ないしは国家間の状況のアンバランスがある程度解消されると、もはや殺す必要はなくなってきます。
アンバランスの解消の一例は、国境線の確定です。
もしも国境線を争うことになったら、再び戦争です。
昔の戦争でもうできてしまった国境線を今さら変えようとすると、またおかしなことになります。(例:イラク戦争)

そうして人殺しが一段落し、それまで優先順位が低かった「人を殺すのはかわいそう」という概念が上位に顔を出し、殺人禁止の平和な時代が訪れます。
すると、戦争以外でも殺人が禁止になるのは道理です。

以上、ご参考になりましたら幸いです。
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現在のアフガニスタンやソマリアを見れば解ります。



 始皇帝や戦国時代、第二次世界大戦などは動乱期と言って、力や武力が正義なのです。それが落ち着いたら安定期と言って人殺しは犯罪になるのです。

 動乱期でも同族(日本人が日本人を殺すとか、織田の家臣が領民を殺すなど)を殺す行為は犯罪です。政敵を殺すことが英雄になるだけのことです。そうしなければ動乱期を乗り越えられませんので…
 滅びたい又は殺されたいなら抵抗しなければよいのです。
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人を殺してはいけないのは、他人に自分が殺されると困るからであって、


他人を殺さないと自分が死ぬ場合と、自分の命が危なくない立場にいる限り、他人の命を守る必要はありません。

自分の命が大事だから、他人を大事にするだけ。
自分の嫌なことは、他人にするな。の限界解釈にすぎず、人類不変の価値観ではありません。今だけの平和的価値観です。

あなただって、目の前に殺人鬼がいたら自衛するでしょうし、映画のヒーローが悪を倒すことに抵抗はないし、刺身の活き作りを蔑ろになんかしないで美味しいと思うでしょう?
それは殺されるかもしれないし、映画の中や魚に殺されることがないからです。
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