プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

な~~~~がい不況が、続きますが、
年も変わるし、久々に、輪行をしなけりゃぁ、と。
冬は、東に向って、自転車漕いで、電車で帰るのが一番ですが、
東海道は、ほとんど行ったし、おっと、鎌倉があった。

さて、私は、以前に二度ほど鎌倉を訪れているはずですが、
ふと、私は、なにを頼りに鎌倉にたどり着くことが出来るのだろう、と考え込んでしまいました。

普段、駅までの道のりは、迷うことなくたどり着けますが、その際、私は、周りの景色を覚えているからたどり着けると、単純に考えていました。では、私が鎌倉にたどり着くためには、その経路をすべて覚えていなければ、いけないのでしょうか、ばかばかしい、鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。

しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに、普段駅に通う延長として、鎌倉にたどり着くことが出来るのか、そして、仮にたどり着いたとしても、そこが鎌倉であると、言語抜きに確信することは出来るのだろうか。

二日酔いの朝、財布を開いて、びっくり。
どうやって帰って来たのか、忘れてしまって、二度びっくり。
記憶力の衰えを痛感しつつ、お馬鹿な質問でした。

A 回答 (34件中1~10件)


言語抜きに鎌倉駅に着き、そして、鎌倉駅であると確信できると思います。
人間で考えると、答えは難しいのですが、他の動物で考えると容易に理解できます。

犬、猫、鳥、ねずみ・・・・etc
彼らの語彙数は、限られたものです。しかし、色々な場所と通り、目的の位置にたどり着くことが出来ます。
途中の風景に全て名前をつけているとは、語彙の関係上考えにくいですね。
やはり、映像記憶自体が、認識区別として作用していると考えるべきでしょう。

(しゃけは、どうして同じ川に帰ってくるんでしょうね・・・・)
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この回答へのお礼

なるほど、犬ですか。
渋谷のハチ公は、朝晩、毎日家と駅の間を、往復していましたね。
でも、あれって、マーキングという説がありませんでしたか。

貴重なご意見、有難う御座いました。

お礼日時:2009/11/29 14:14

いやいや、いざ鎌倉と言われても、そんなに簡単に鎌倉に辿り着けるわけでは在りませんよ。

特に武蔵野原ではそうでした。私は先日始めてGPSなるオモチャを手に入れて、自分の現在位置やこれから行こうとする方角がすぐ分かるので、こりゃ便利だと思いました。でも、鎌倉時代の武蔵野原は背丈を隠す茅の原でした。道理で鎌倉時代頃の武蔵野原には、平地を横切る街道がなく、埼玉あたりから鎌倉に出る鎌倉街道などの代表的な街道は多摩丘陵や狭山界隈の平地との境目の丘陵地帯を縫うように走っていたのですね。言語だ何だのと七面倒くさい話ではなく、これから自分が行こうとする場所が見えなくては、不安だったんじゃないですか。だから、直線距離で近道な茅の原に街道を造らずに、わざわざ遠回りしてでも見渡しの良い丘陵地帯に街道を造っていたらしいです。勿論鎌倉時代には、江戸に大都会が在ったわけでも在りませんし。

鉄道、自動車、GPSなどのガチャンコ(いや、gadgetだったかな)の煙幕の目つぶしを食らって、虚心坦懐に考えれば誰にでも納得するような先人達の心を忘れてしまい、言語活動だ、世界認識だなどと、素人を煙に巻くような理屈を述べて遊ぶならそれはそれで善し。でも、それって学問じゃなくって、暇つぶしですね。それとも、哲学って始めからお遊びなのかもしれませんね。ちゅぅことは、全ての学問はお遊びか。孰れにしても、ここの欄はお遊びの場所なんで、それこそ、こんな質問は正統派かもしれませんね。

ところで、かく言う私も鎌倉時代の街道がどういう意味を持っていたかは、自分で気が付いたわけではなく、柳田國男の受け売りです。あらためてきちっと読み直したわけでは在りませんが、確か、國男翁の『豆と葉と太陽』の中の「武蔵野雑談」やら「武蔵野の昔」辺りに出ていた話だったと思います。当たらずと言えども遠からじです。さあ質問者さん、この問題提起で、日本人である以前に先ずは人間であるという立場から論じられる哲学的思索の方が、日本人である事が圧倒的に有利である日本民族学の独自のアプローチよりも説得力のある解答を引き出して見せることができることに、この質問で挑戦してみて下さい。ご幸運を祈ります。
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この回答へのお礼

昔も今も、街道筋の追分には、
右 京  左 江戸
と言った標識がありますから、こんな馬鹿なことは考えませんね。
実は、大森庄蔵の本を読んでいて、過去想起は言語的であるという指摘に、大いに頷くところが在るのですが、そうすると、道順の確保に関して疑問が起きるのです。同じような質問ばかりしていますから、ちょっとナンセンスぽくしましたが、私も幸運を待っています。
ご回答有難う御座います。

お礼日時:2009/11/29 14:37


#1です。
色々な動物を上げているのに、犬だけ取り上げて考えているのは残念です。

例えば、ネズミの迷路実験と言うものがあります。
迷路にネズミを入れて、餌のある所まで歩かせると言う実験です。
何度が、実験を繰返すと、迷わず、餌の所までいけるようになります。

以下のwiki を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%B7%E8%B7%AF% …

これで、言葉と道を覚えることは無関係だと思いませんか?

人間でも、興味深いので、以下の事例を考えてください。
人間でも、不幸にも聴力を失った方がいらっしゃいますよね。
彼らの言葉は、音声ではなく、手話です。つまり、形です。
そんな、彼らは、問題なく鎌倉を認識できます。

これを、考えるのも、言葉とは何かと言う点に触れていて、面白いと思いますけどね。

この回答への補足

反応が遅く、申し訳ない限りです。頭が悪いのです。

さて、鼠退治では苦労致しました、で、結局、そもそも鼠の退治など必要なかったと思ったのです。その上、鼠退治などと荒っぽい言葉遣いで、回答者様に不快感を与えてしまったのではないかと、反省する次第です。

参考のURLを拝見すると、迷路実験は、動物に記憶があるかを試す実験のようです。参考のページは詳細な記述がなく、もう一つハッキリしませんが、動物が記憶を持っていても、この質問の課題としては、何の問題も無いわけです。
問題があるとすれば、鼠が記憶をもつ場合、言葉ではないから、映像記憶がある、と言う点です。
この件に関しては、質問者の言語過程という表現と、ご回答者様の言葉という表現の間の、微妙な温度差のようなものを感じました。質問者は、単に話したりするだけでなく、思考の分野も含めて、言語過程といった表現を使っています。尤も、自分自身、イメージと言語過程という、二分法にとらわれていましたから、質問者の病気が回答者様に伝染したのかもしれませんが。

さて、そこで問題は、ご回答者様が#1のご回答で使っておられる、映像記憶というものが、上のほうの補足に書き込ませていただいた、見つめられることが出来るのか、それとも、図式のように、見つめられるような内容を持っていない、空虚な図式なのか、さてどちらなのか、と言う事になります。

人間の記憶の中身については、動物に聞くこともないのではないでしょうか?
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

御蔭さまで、色々考えることが出来ました、他にも書きたいことはありますが、時間もありませんので、ひとまず失礼致します。貴重なご意見、有難うございました。

補足日時:2009/12/05 04:54
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この回答へのお礼

おぉ、これはラッキー。

久々の質問で、ご回答者様に負担を掛けてはと、気を使いすぎたのが仇に成ったのでしょうか、現実以上に、この世界は難しいですね。

と言う事で、また来週。
どういう事か分からないでしょうが、質問者にも都合があると、御理解頂ければ、幸いです。

お礼日時:2009/11/29 18:24

#2です。



>過去想起は言語的であるという指摘に

なるほど、それは一理ある指摘ですね。でも、それで本質を突き切っているかどうかは、まだ検討をする必要があるとの印象を得ました。

僭越ですが、私の個人的な経験を述べてみます。先ず、上の仮説を肯定する経験から。質問者さんからの回答を読む少し前、寝床の中で目をつむりながら、私の物心を付いた頃からこの年寄りになるまでの出来事の記憶を時間の順序で辿ってみました。その順序付けも、また、印象に残った出来事も、確かに言葉で蘇って来ました。

次に、上の仮説を否定する経験です。この秋に40年ぶりに北アルプスの剣岳を見たくて、室堂から立山に登って来ました。私はアメリカに住んでウン十年経ち、渡米してから後、日本の高山を間近に見る機会は殆ど在りませんでしたので、昔幾度も登った剣岳をまた見たくなったのです。昔と比べて足腰が弱くなっているので、剣その物は無理でしたから、立山の雄山まで登ることにしました。雄山の山頂から剣岳の全容を見た時に、私の頭の中に、八ッ峯の壁に取り付いている昔の自分や、長次郎谷や三の窓の雪渓を這いつくばりながら登っている自分の周りの景色や、自分と一緒に平蔵谷の上部から勢い良くグリセードで雪渓下りをしている姿が、言葉ではなくて、直接絵になって蘇って来ました。この記憶の蘇り、即ち、その時の過去想起を、たった今、この下界でやろうとすると、先ず、剣岳やその山の構造を言語的に蘇らせなくてはなりませんが、雄山から剣岳を見た時は、そんな言語を仲介せず、いきなり昔の絵が蘇って来たのです。

人間が複雑な言語を使いこなすようになって、高々百万年ぐらいのオーダーだと思います。ところがそれ以前の進化の段階で、哺乳類のレベルでも数千万年から1億年ぐらいの間、私達は複雑な言語無しで生き残って来ました。したがって、我々の脳味噌の中には、言語を通さずに、いきなり情景を思い浮かべることで、良きに付け悪しきに付け過去の経験を焼き付けて来る機能があるはずです。そして、この進化の歴史の長さを見ると、普段意識しない時には見過ごされているかもしれませんが、その非言語的機能の影響力は絶大なものがあると思えます。

大森庄蔵の本は読んでいないので、それに関して直接にとやかく言えませんが、もしかしたら、大森氏は、この記憶に関する非言語的な側面の重要性を見過ごしているかも知れないという印象を受けました。この歴史的進化の重みを考えると、我々が空間的な認識をする場合にも、生物の進化の過程で永々と受け継がれて来た非言語的な認識が重要な役割をしない方が余程意外です。もしそうなら、そうなってしまった理由を探る方のが、より創造的で生産的な営みのように思えました。

私の印象では、実はそうなってしまったわけではなく、非言語的な世界が無意識に見過ごされているだけのような気がします。


ここから下は、蛇足です:
私は物理の専門家ですが、物理でも、それが気付かれなかったというだけで、この世界の圧倒的に巨大で多数派を占める現象が全然見えなかったという例があります。これは、所謂カオスの理論に関係した話です。物理の基本法則は全て運動方程式と呼ばれる微分方程式で表すことが出来ます。この概念を最初に導入したのはニュートンですが、彼の導入後200年以上に渡って、その運動方程式は原理的には必ず解ける物と決めつけられていました。(ここで、運動方程式を解くという言葉の意味にはうるさい話があるのですが、そのことはここでの話に重要では在りませんので、触れません。)たまたま、運動方程式が解けない例に遭遇した場合にも、それは単に我々の数学的処理能力の未熟さに由るのであり、したがって、いつかは誰かが解く時代がやって来ると考えられていたのです。ところが、19世紀最後から20世紀の初め頃に、フランスの数学の天才、ポアンカレによって、運動方程式の中には原理的に解けない物が在ることが発見されました。彼は、その場合に運動がカオス的になることを指摘しました。そして、20世紀の中葉頃には、任意に与えられた運動方程式が、たまたま解ける確率は限りなく0に近いと言うことが証明されました。では、どれくらいの場合に解けるのか。それは、物理の教科書で練習問題として、この問題を解け、と出ている問題だけだと言っても過言では在りません。その問題はたまたま解けたから、練習問題に載っているわけです。それ以外の問題は、それが原理的に解ける場合に当たる確率は、宝くじが続けて何回も当たる確率よりも遥かに小さいのです。

ところが、物理屋さんの卵達は、いつもいつも教科書で解ける問題ばかりやらされ、その試験問題を解けた者だけが生き残れるので、教授方まで含めて、自分たちが論じている現象は例外中の例外の現象であることをつい忘れてしまい、この世界はあたかも運動方程式が原理的に解ける世界なのだと、深層心理の中で思い込んでしまっている人達がいっぱい居るようだというのが、私の印象です。彼らには、その反対の巨大な世界が見えず、体で感じることができなくなっているのではないかと、疑ってしまうこともありました。特に、非線形現象とかカオスを自分の研究対象にしない人達にはそう言う方を見かけます。また、教授方が若い頃には、その事実もほとんど知られておらず、さらに、ほとんどの先生方は一度若い頃に専門にしたことを一生のテーマにする人達がほとんどですので、そう言う教授方は、年期を積んだ後でも、なかなか、その物理学の大革命以降の考え方が出来ないような印象を持っています。まあ、この私の認識が誤解に基づく独断と偏見だったら、喜ばしいことですが。私の先生曰く、「研究会などでは、大成した年寄りを説得する必要はない。そんなの所詮無理だからだ。それよりも、ほんの一人か二人でも良いから、若い人に興味を持たせることが出来たら、それで貴方の研究発表は成功だ。なぜなら、年寄りはそのうちに死んで行くが、その若者達がそのうちに、年寄りの重鎮になって行くからだ」、だそうです。

脱線しましたが、学問の世界ってそんな物ではないでしょうか。たまたま、学問の歴史的経緯による偶然な方法論や認識の型によって洗脳されてしまったおかげで、実は目の前に引っ切りなしに起こっている本質的な現象が見えなくなってしまうことがありそうですね。まあ、大森庄蔵氏の意見はその範疇に入っていないのでしょうが。

やあ、驚き々々。蛇足の無駄話の方が長くなってしまったようですね。でも、質問者さんはどうか知りませんが、私はこの欄をお遊びの場所だと心得ており、また、こんなお遊びの機会に蘊蓄を傾けていると、結構自分の頭の中の整理も出来るようですので、質問者さんの迷惑を全く無視して、遊んでおります。乞う、お許し。
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この回答へのお礼

貴重な経験をお寄せ頂き、大変有難うございます。特に、山の上での想起と、下界での想起の違いには説得力がありますね。残念ながら、私の場合、修行不足のせいか、仮に体験していたとしても、気が付いていないのかもしれません。
確か、小林秀雄と言う人は、九死に一生を得た経験を、つい最近亡くなった、母に助けられたという、神秘的な体験をしてしまったとか。そして、そのことに最後まで対決していたと言うようなことでした、私の場合、不思議な体験からは、逃げ出しているのかもしれませんね。

う~む、鎌倉の大仏、確か中に入れますよね、昔、入ったと言う記憶が言語的にでてきますが、実際に入ってみると、何か起きるでしょうか。う~む、神秘的に成りすぎたようです。
実は、この様な、大仏の中の話は、記憶が脳の中にある、と言った常識に、挑戦する新兵器にもなりうるもののようですが、今回そこまで話を拡げる余裕はないようです。イメージの記憶は結構手ごわいですね。

楽しんでいただければ、質問者としても、質問冥利に浸って、楽しむことが出来ます。

さて、勝手に、一般的には、記憶は言語過程に比重がかかっており、毎日の通勤通学において、なぜ道に迷わないのか、と言うことを、哲学することの可能性に、一票頂いた、と、思っておきます。
有難うございました。

お礼日時:2009/12/05 05:26

脱記号の冒険は徹底的にやりぬくことで、世界の良識を敵に回して快哉とされたい。



卵を潰し気味にすっくと立てて出発の合図、一夜明けると蒙古船が消失たる勢いで道中の万難をやすやすと繰り抜け、
こんなに日数がかかるはずがないと思いながら、名にし負う山海の風光明媚と八幡宮の屋根が見えたなら、
そこはもう何があっても鎌倉でよろしかろう。
ごっそり地上げして鎌倉海岸や鎌倉山と称し、宅地開発して鎌倉ヒルズ鎌倉レジデンスと銘打ち、
後世の人々を、めくるめく「あれ、鎌倉が二つあるよ」とか「鎌倉論争」だとか中世史の綻び戦乱史の矛盾へ誘ってください。
ヴィトゲンシュタインと体系的歴史学は融合しうるか。。。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。

過日、東海道を、自転車で走った折も、湘南海岸のマンション群にどきもを抜かれて、藤沢方面、箱根駅伝のコースへと舵を切ったため、鎌倉へは行けなかったのです。最初は中学の修学旅行、その後は、あれ、二回だっけ、大仏の中に入ったのは、むにゅむにゆ、あぁ分からなくなってきてしまった。それこそいざ鎌倉!でしょうか。

ところで、脱記号の冒険って、もぅ一つぴんと来ないのですが。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 05:50

>鎌倉の看板や、地図を見れば迷うことはない。


>しかし、このばかばかしい、言語的活動抜きに

空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

この回答への補足

色々な誤解を解く為に、他の回答者様のお礼よりも優先して、こちらの補足要求に、お答えしたほうが良さそうな気がします、皆様のご理解が頂ければ幸いですが。

さて、今回の「いざ鎌倉」を「いざ記憶」と読み替えていただいても結構です、では、なぜ「いざ記憶」ではいけないのかというと、同じ質問を過去にしているからです。ではなぜ同じ質問をするのか、と言えば、当時、鉄壁の主観の壁の前で、立ち往生した時より、新しい新兵器が見つかったからです。

当時同様、今回の問題も、「記憶とは何か」と言った一般的な問題ではありません、このような難問に真正面から突っ込むほど、私も無謀ではありません。漠然と記憶云々と言っても、埒が明かないのです。この質問での目標は、前回同様、イメージは記憶されるのか?つまり、「記憶とは何か」と言った漠然としたことではなく、なにが記憶でき、何が出来ないのか、と言うことを、少しでも明確に知りたいのです。
例えば、私たちの常識では、イメージと言うものは記憶しているはずです、でなければ、他人の顔をどうして覚えることが出来るのでしょう。
しかし、一方に、記憶を言語的なものと捉える見方も出ているようです。その一つが、大森の「想起」つまり過去を思い起こすことです。さらに「知覚未練」イメージを記憶していると思いたがる傾向、とでも言いましょうか。そして、新兵器として、「見つめることが出来るか」と言う問いかけです。現実の知覚は、ぼんやりしていた部分に注意を払うことによって、詳細に見つめなおすことが出来る、と言う事です。それに対して、想起されたイメージと言うものは、改めて見つめなおそうとしても、そこには何もない、こんな感じになるのです。

そこで第一に、皆様方が、イメージを記憶していると言って、それは一体なにを言っているのか。

恐らく、現実の知覚のように、見つめれば新たな発見ができる、と言ったような、記憶の想起は、論理的に言っても矛盾します、皆さんはイメージを記憶している、と認めるとき、それが本当に、イメージなのか、イメージを装った、言語記号の一種ではないのか、と、疑ってみていただきたいのです。

イメージと図式の区別と言った、難しい問題もあります。不幸なことに、図式は見つめることは出来ないと了解できる可能性が高そうですが、イメージとなると、個人差がありそうなのです。

記憶は、他に、運動記憶とか無意識・暗黙知と言った難しい問題もありますが、取り敢えず、意識に昇る部分だけでもはっきりさせられないのか、と。

>空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

以上が、貴殿の補足要求から得た収穫です、今回の質問時では、イメージと図式の区分という問題が欠落していて、イメージと言語過程の二分論的意識が質問者に「未練」として残っていたのかもしれません。

そこで、
補足要求に対して、
もし仮に、記憶が言語的な過程であるならば、ご質問者と同じ立場に立てるわけです。

イメージが記憶できずに、記憶は言語的過程であるとすると
>空間的な位置関係の把握がなぜ言語的活動といえるのかご説明いただければ幸いです。

但し、カントの言うように、空間を「先験的形式」と言ってしまっては、そもそも経験、つまり、記憶に関しては、知りえない、と言う事に成ってしまうのではないでしょうか。

私は難しいことを聞いてはいません。
「あなたは何を憶えていますか」
それを説明することが難しいと気が付いた上で、教えて欲しいのです。

さて、それでは、私は週末に、鼠退治ですが、どうなる事やら、困った事です。

補足日時:2009/12/02 18:56
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 言語活動に頼らなくても“鎌倉”へ行けるのは、“既知の世界”だから。



 未知の世界なら、そこが目的地であると、どうしたら分かるのでしょう。

 以下は連想です。今回の質問に関連するかどうか。

 ☆「砂漠のど真ん中に一人立ったならば、ここは“砂漠だ”と思うばかりです。」
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この回答へのお礼

成る程、鎌倉へは行けそうもないですね。
問題は、既知の世界にも、ありそうですが。

砂漠のど真ん中に、突然現れるわけではなく、何処かからやってくるのだと思います。
何処かからか来た記憶があっても、砂漠の中では、どこから来たのか分からなくなって立ち往生でしょうか。
有難うございました。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:23

人は、鎌倉に行きたくて鎌倉に行くわけではなく、鎌倉に行けば、いい余暇が過ごせるから、あるいは住みたくなるような場所であるから、あるいは昔の思い出が、あるいは友人が、あるいは・・・そのように思って、鎌倉(=地名)を目指すことによって、命題(=目的)を果たしているのではないでしょうか。



そしてその命題が真であるかどうかを問える(知ることができる)のは、その人自身ということではないでしょうか。
ご参考まで。
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この回答へのお礼

し、し、しまった。
うっかり、鎌倉大仏を検索したら、いきなり大仏様の画像を見てしまった。
下で書いた、中へ入れる話、ひょっとして勘違いだと恥ずかしいなと。

鎌倉での知人・知り合いと言えば、鎌倉大仏さんだけだったのに・・・これでは記憶の正しさを確認する目的の実験に、余計なバイアスがかかってしまう。しまった。
それはさておき、ご回答有難うございました。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:24

 そこに「鎌倉」という標識が立っていたとしても それがマチガイであるかも知れず



 そして皆が「ここは鎌倉です」と言ったとしても、皆が勘違いしているか あるいは 皆がだまそうとして嘘を言っているかもしれません。

 そういう意味で 言語で確信することは出来ないでしょう。

 言語抜きであれば 確信できるかもしれません。


 もし 的確な回答でないと感じられるなら、
 もっと率直に質問していただければ もっと的確な回答ができるかもしれません。
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この回答へのお礼

では、決まり文句です。
「あなた、どっちだと思う?」(『鏡の中へ』) 

お礼日時:2009/12/05 09:27

訂正:



誤:そういう意味で 言語で確信することは出来ないでしょう。

  言語抜きであれば 確信できるかもしれません。


正:そういう意味で 言語で確信することは出来るでしょう。
  というより、言語では確信することしか出来ないと言えるかもしれません。

  言語抜きであれば 認識できると言えます。
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この回答へのお礼

ご回答有難うございます。
やや、判り難いですが・・・
あれですかね、確かこの間読んだ本にも載っていたのですが、ラッセルが「かりに、この全世界が二十年前(何年前でも何秒前でもいいけど)今と全く同じ状態になるように創造されたとすると、それが正しいか誤っているかを調べる手段は論理的にはありえない」と言ったことと関係があるのかしら。

お礼日時:2009/12/05 09:25
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