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江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。
丁稚(小僧)―手代―番頭のような昇格システムは男性特有のものだったのでしょうか?

資料を探そうとしても、女性の奉公では武家奉公・妾奉公等、商家への奉公だと男性の物しか見つけられない……という状況で大変困っております。

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A 回答 (2件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代、女性が商家に奉公する場合に、どのような雇用制度でどれくらいの期間雇われていたのか、何と呼ばれていたのか、仕事内容、結婚事情など教えて下さい。

まず、雇用制度ですが、一般的には「住み込み」の「終身雇用」の形態が多かった。もちろん「身元保証人」が必要でした。

そして、現代と同じく、「給金」は、「晦日払い(みそかばらい)」と言って月末の支払いでした。
現代のように、月末が休日で銀行振り込みができないから、繰り上げて支給する・・・というようなことはなく、店の主人は自分で、常に、金銭を保管していましたから、休日とかの感覚はなく、月末の支払いでした。

また、店が何らかの行事で、一時的に多忙な場合は、「日雇い制度」もありましたし、「月ぎめ制度」もありました。
これらの「臨時雇い」は、その多忙な時期が過ぎれば、即解雇されました。
そして、乳児を育てるための「2年(~3年)切り」などもありました。

呼び方は、一般的に「奉公人」で良いと思います。

仕事内容は、主に「勝手方」で、その他としては、掃除、洗濯などでしたので、男のように「商品」に触れることはありませんでしたし、つまり、店の表には一切顔は出しませんでした。
従って、男のように、丁稚→手代→番頭、などという昇格はありません。

ただし、現代でも「お局(おつぼね)」が居るように、女性の世界では、「古株」が幅をきかせていました。
例えば、長年奉公していると、個室が与えられたりし、箪笥などの家具調度品もそろえることができました。
その他の奉公人は、相部屋暮らしをし、自分の持ち物は、「柳行李」に入れて区別をしていました。

結婚してからは、「住み込み」が解かれて、亭主の家や長屋からの「通い」になりました。

最近の言葉の「婚活」については、主人に認められて、同業者の男性と添わせたり、出入りの商人が見込んで、我が家の手代と一緒にさせたい・・・などというように、あくまでも、店の主人同士が決めました。
自由恋愛などは、全くと言って良いほどありませんでした。

また、女性の仕事としては、あなたのおっしゃるように、「武家奉公」「妾奉公」などがありましたが、これらは皆、「行儀見習い」のためでしたので、商家の娘たちが多かった。

では、庶民は・・・と言うと、女性が独立的に認められていた職業としては、吉原の「遊女」、辰巳などの「芸者」、料理茶屋の「仲居」などと限られていました。

しかし、現代でもそうですが「もぐり」の商売もあり、「女髪結い」や「私娼」もありましたが、これらも「認められた職業」の人たちも居ました。

例えば、「女髪結い」は、男性の髪を結うことは、たびたび、贅沢ということで「禁止令」が出されています、と、言うことは、「女髪結い」が居た・・・と、言うことです。もっぱら、店を構えず、と、言うよりも店を構えることができず、「行商」でした。
ただし、「芸者」の髪を結う女性だけは「女髪結い」として認められていました。
逆に、男が芸者の髪を結うと、
「風紀上よろしからず」
と、禁止令が出されていました。

また、「私娼」についても、江戸の四宿(品川宿、内藤新宿、板橋宿、千住宿)などでは、1軒に2人の「飯盛り女」が許可されていました。しかし、宿の表で客引きをするのは2人でしたが、一旦、宿に入って、裏へ回ればゾロゾロ・・・。

とにかく、女性の仕事が少ないため、そして、江戸で女性が働く場所がないため、地方から移り住むことができず、江戸時代を通じて、男65%、女35%と、圧倒的に男性の多い都市でした。

ですから、一生涯「独身」の男性も多く、それを癒すために、吉原が欲求のはけ口として存在しました。

完全な「私娼(=売女・ばいた)」としては、
江戸では・・・「夜鷹」・・・ゴザ1枚を小脇にかかえ、柳橋などに出没して、通りすがる男の袖をつかんで、川岸に積んである材木の上などでの「事」をすます。
京都では・・・「辻君(つじぎみ)」・・・なんとなく風情がありますね。
大阪では・・・「惣嫁(そうか)」・・・何でも食らいつくからとか。
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この回答へのお礼

とても詳しく、丁寧なご回答ありがとうございました!
bungetsu様の豊富な知識により疑問も全て解決し、大変勉強になりました。
現代に生きていると女性の多くが社会に進出し忘れがちになりますが、当時は男性中心の社会だったんですよね。女性の仕事の少なさに驚きました。
また、それが結びついて江戸に女性が少ない、結婚できない男性も多い、吉原へ……等々、点在していた知識がつながり、当時の社会背景、「どうして」という理由を、歴史の奥深さに比べれば僅かですが理解することがました。
本当にありがとうございます。

お礼日時:2009/12/12 15:04

上方古典落語の『口入屋』がまさに商家で女性を雇うはなしです。


大阪が舞台ですので、そういう女性は「おなごしさん」とよばれています。
口入屋というのは今でいう派遣業です。

落語、口入屋(これは明治の話になっていますが成立は江戸中期です)
http://homepage3.nifty.com/rakugo/kamigata/rakug …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
落語に疎いため存じ上げなかったのですが、そのような話・調べ方があったのですね。盲点でした。
文献とは違い、当時の人々の生きた姿を知ることができそうですね。
現在出先で携帯からなので、家に帰ったらリンク先を拝見させていただきます。
本当にありがとうございました!

お礼日時:2009/12/12 15:21

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Q江戸時代の奉公制度について

江戸時代の奉公制度について、どういう感じ<システム>だったのか知っている人、教えてください。

Aベストアンサー

一概に奉公といっても武家奉公人と商家への奉公ではぜんぜん違いますし、商家でもその地域や店によって違いがあり一概には言えません。
例として近江商人の店でいいますと、丁稚は自分の出身地周辺から地縁・血縁などで集めてくることが多かったようです。
そして丁稚は住み込みで働き商売を覚えて五~十年くらいすると手代に昇進することが出来ました。それからまた十年くらい勤めると番頭になり、しばらく勤めるとのれんわけしてもらって自分で店をもつことができるようになりました。
丁稚・手代の頃は住み込みで休暇といっても盆と正月に数日(それぞれ1日だけという例も)あるくらいでしたが、店によっては一定の年齢になると公金で吉原などへつれていってもらえるなんてこともありました。
結婚はふつうのれんわけしてもらってからですが、のれんわけを断ってずっと番頭を務めるような場合は結婚して通いになることもありました。
参考に近江商人の丁稚奉公からの年表?を貼っておきます。

参考URL:http://www.biwa.ne.jp/~tenbinst/shonin/issho.html

一概に奉公といっても武家奉公人と商家への奉公ではぜんぜん違いますし、商家でもその地域や店によって違いがあり一概には言えません。
例として近江商人の店でいいますと、丁稚は自分の出身地周辺から地縁・血縁などで集めてくることが多かったようです。
そして丁稚は住み込みで働き商売を覚えて五~十年くらいすると手代に昇進することが出来ました。それからまた十年くらい勤めると番頭になり、しばらく勤めるとのれんわけしてもらって自分で店をもつことができるようになりました。
丁稚・手代の頃は住み...続きを読む

Q明治から昭和初期の住み込み使用人の一生

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの事情で住み込みで働くようになるのでしょうか。
2)どういった仲介などの方法があったのでしょうか。
3)住み込み使用人を求める側は、住み込み使用人が欲しいことをどのようにしてアピールし、実現させたのでしょうか。
4)住み込みで働くとき、藪入りのような形で里帰りするのだろうと思うのですが、例えば5人の住み込みを使用している主家では、全員がいなくなってしまうようなこともあったのでしょうか。日程をずらすのが普通でしょうか。ほとんど主家に住み込んだまま、時々休暇で私用をたすような人も多かったのでしょうか。
5)住み込みで働いていた人が100人いた場合、何人くらいが結婚したのでしょうか。住み込ん後ではもう結婚しないで一生を終えた人はどのくらいいたのでしょうか。 (感覚的な割合で結構です)
6)住み込みを辞めるということもあると思います。結婚してしまうから。通いに変更するから。単に使用人であることができなくなったから。死んでしまった。 住み込みの主家で一生を終えるというケースはどの程度あったのでしょうか。
7)住み込み使用人が事故、疾病、老齢などで死んでしまった場合、主家は葬儀や遺体にどの程度関与したのでしょう。【住み込み使用人に実家や身寄りで遺体引き取りをしそうな類縁がいないケースの場合で、どうだったのか】 主家はどう扱うことが多かったのか。 葬儀、埋葬や墓はどうしたのか。

明治から昭和の敗戦までも、貴族や商家、豪農、あるいは官吏や高給取りの家には、住み込みで使用人が働いていました。
こうした人たちの多くは未婚や単身であるように想像するのですが、そうした人の一生のイメージが湧きません。 住み込み使用人といっても多種多様で地域や主家の事情でも異なるのだと思いますが、代表的なケース例ではどのような一生なのでしょう。
代表的と思える数ケースなどをお教えください。
 
1)中流以下の農家や都市部の下層民の家族の中で誕生し、15,16歳あるいは成人後何かの...続きを読む

Aベストアンサー

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられます。

 また身元がしっかりしていることが条件なので、あまり斡旋所(桂庵)などの利用はなかったと思います。

 大家族制で、未婚の弟妹が同居しているのが普通でした。女中が里帰りしていても、家事に差し支えることは少なかったのではないでしょうか。

 詳しいことは、たとえば小泉和子『女中のいた昭和』などがお役に立つと思います。末尾にある読者の書評も面白い。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4309727921/chickensoupwi-22/

 回答者は昭和前期の生まれ、東京のごく普通のサラリーマン世帯で育ちました。

 家には女中と母の妹が同居していました。商家は別ですが、普通の家庭には男子住み込みの家事使用人はまず居なかったと思います。運転手を置くならともかく、かれらの仕事がありません。

 当時は地縁、血縁の結びつきが強固でした。女中は父親の郷里から嫁入りまでの約束でやってきて、礼儀作法、料理、裁縫、子育てに至る女子一般の知識を学ぶことになっていました。こうした知識を教えることは主婦の義務であったと考えられま...続きを読む

Q江戸時代の庶民の恋 町娘の立場

江戸時代について記した本を読んでみると、男性は岡場所や遊郭にせっせと通ってる姿がまちまち見られます。
世の男性は遊女ばかりで町娘にあまり魅力を感じなかったものなのでしょうか?
そのために町娘は男性以上に十分に恋愛できなかったりしたのでしょうか?
庶民の恋について教えてほしいです。特に町娘について。お願いします。

Aベストアンサー

こんばんわ。
私の解説をお読みいただきありがとうございます。

>>ふと思ったのですが、男女の人口比も江戸後期になるにつれて男子とほとんど変わらなくなったと本で読んだことがあります。
その時期でも、町娘の待遇や庶民の恋愛事情は変わらなかったものなのでしょうか。

まず、男女比率ですが、極端に女性だけが増えるはずはありません。
江戸では女の子だけしか生まれなかったのでしょうか???
また、周辺の田舎から出てくるとしても、男の仕事は山ほどありましたが、女性の仕事はほとんどありません。
女性の仕事としては、廓や飯盛り女(江戸四宿で許可された娼婦)、あとは、料亭などの仲居、お茶や生け花の師匠。三味線や唄の師匠、通いの家政婦等々と限られていましたので、周辺の田舎から江戸へ出てきても仕事はありませんから、田舎は田舎で嫁に行くしかありませんでした。
また、田舎を捨てて江戸へ流れ込んだとしても、人別帳に載らない「無宿者」でしたので、長屋を借りるにも身元保証人が必要でしたし、仕事をするにも保証人が必要でしたので、住むところもなければ、仕事にも就けませんでした。
従って、江戸時代後期に男女比率が同じに(近くに)なることはありませんでした。
これは、明治4年に戸籍(壬申戸籍)が作られましたが、それでも3:1で男が圧倒的でした。

また、再三言うようですが、「儒教の精神」でしたので、
「男女七歳にして席を同じゅうせず」
の精神です。金持ちや武家では「厳格」に守られました。
当事者同士が合意すれば結婚できたのは現代の話で、江戸時代は、両家の家柄や財産の釣り合いがとれていて、さらには、父親の許可が必要でした。

仲人を商売とする人も居ました。
「分一(ぶいち)」と呼ばれ、結納金の十分の一がもらえることからきています。
適齢期の息子や娘を物色して、縁談を持ち込む。年齢としては、男は40歳まで、女は20歳まででした。
「十分一(じゅうぶいち)取るにおろかな舌はなし」
と、狂歌にうたわれ、口先三寸のやり手でした。
お見合いは、主に、水茶屋や芝居見物などが利用されました。
しかも、これも商家がほとんどで、町人は相手にされませんでした。

では、町人は・・・と言うと、まあまあ、好き同士が一緒になることはありましたが、女性の数が少ないので、妻帯することは中々骨が折れました。
まあまあの性格で仕事振りも安定しているような男には、長屋の大家が仲人をしてくれるような場合もありましたが、それでも大変でした。

こんばんわ。
私の解説をお読みいただきありがとうございます。

>>ふと思ったのですが、男女の人口比も江戸後期になるにつれて男子とほとんど変わらなくなったと本で読んだことがあります。
その時期でも、町娘の待遇や庶民の恋愛事情は変わらなかったものなのでしょうか。

まず、男女比率ですが、極端に女性だけが増えるはずはありません。
江戸では女の子だけしか生まれなかったのでしょうか???
また、周辺の田舎から出てくるとしても、男の仕事は山ほどありましたが、女性の仕事はほとんどあり...続きを読む

Qもし現代人が江戸時代で1ヶ月生活するとしたら、何で困るでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? それとか、今のように肉食はそんなにしなかったはず。 せいぜい鳥や兎の肉くらいでしょうか? あと、お酒もそうですね。 現代人に飲めますか?

匂い。 どうでしょうか? 当時の家の中や、町全体、一体どんな匂いがしていたでしょうか? そして1ヶ月間、現代人に耐えられるでしょうか?

風呂。 現代人が躊躇なく当時の銭湯に入れますか? 当時は毎日入っていたんでしょうか?

トイレ。 現代人に当時のトイレで大・小できるでしょうか? 特に女性の場合。

人によって感じ方が違うと思いますが、上に挙げた以外で 「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?

空想の話で恐縮です。

時代小説を読んでいて時々思うのですが、もし今の日本人がタイムマシンか何かで数百年前の江戸時代に戻り、そこで1ヶ月ほど当時の一般庶民の家に滞在するとしたら、何で困ると思われますか? あるいは何も困る事はないでしょうか?

例えば食事。 衛生状態は今ほど清潔ではなかったはず。 もしかして最初の食事で腹痛や下痢をおこし、ギブアップになるでしょうか? それとか味付け。 現代人の口に合うでしょうか? 我慢しないで1ヶ月食べ続ける事に何も問題ないでしょうか? ...続きを読む

Aベストアンサー

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキのバケツではなく、木の桶で運びますから重たい。道具は何でも重たくて大変。飯炊きの釜や薬缶もアルミ製のものはありません。みんな鉄か瀬戸物です。
(4)カマドに火を着けます。火打ち石でやります。なかなか火が着かず難しいです。火吹き竹で空気を送り込んでやっと景気よく燃え出しました。飯を炊きます。一人当たり三匹の目刺をあぶります。
(5)雨戸を開けます。障子はみな紙です。ガラスではありませんので、吹き降りの日だと雨戸を閉めないといけません。昼間でも暗いです。
(6)家族そろって朝食。
(7)食器などを洗います。油の着いた食器を洗うのは大変です。ママレモンはありませんのでギトギトがなかなか取れません。水道の水でジャージャーやるわけのもいきません。
(8)井戸端で盥で洗濯します。これも大変です。

・・・女性は大変でしょう。田舎の明治生まれの女は、以上のようなことをやっていました。江戸時代とそんなに変わりません。電気(裸電球)とマッチだけが江戸時代よりマシなだけです。

>「1ヶ月滞在するとしたら、おそらく大多数の現代人にはこれが苦痛だろう、あるいは無理だろう」 と考えられるのは、どんなものでしょうか?
・・・夏場の暑いときに一ヶ月滞在すれば、参るでしょう。
・網戸がないので蚊に食われる。
・ハエがブンブン飛び回る。食卓の食べ物にハエがたかる。
・冷房や扇風機がないので暑い。雨の日は雨戸を閉めるのでこれも暑い。
・便所が臭く、人の体も臭い。
 夏場でいいことは、行水などで女性の裸を見る機会が多いことくらいかな。

 下級武士のご新造さんの一日(朝のみ)。
(1)最初にご新造が起床、用便を済ませます。汲み取り便所だから臭いですね。蛆が湧いています。ハエが便所に限らず、そこいらじゅうブンブン飛び回っています。しゃがんでウンコ・オシッコするのはきついですぞ。
(2)次に井戸端で洗顔します。釣る瓶で水をくみ上げて、その水で洗顔、大体は外の吹きさらしですから、これからの季節は寒いですぞ。
(3)朝食の準備にかかります。井戸端で味噌汁の実にする大根を洗い、米を研ぎます。台所の水がめに水を張ります。ブリキ...続きを読む

Q江戸時代の武家の女性装束について

江戸時代の武家の女性の装束ですが、庶民とはTVなどで異なるようです。ネットで画像を検索しているのですが中々、ヒットしません。
髪型や衣などについて詳しく解説されているサイトがあったら教えてください。髪形も武家は違うのですね。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBMQsAQwAA
島田髷の由来は、東海道島田宿の遊女が結ったのが名の起こりです。

衣服について。
武家も大商人たちもそうでしたが、女の元服19歳までは「振袖」で、結婚したり、元服を過ぎると「留袖」を着ました。
現代は、「留袖」と言うと「冠婚葬祭用」を言いますが、昔は、「振袖」に対して、袖が短い・・・という意味でした。
http://www.weblio.jp/content/%E7%95%99%E8%A2%96

また、一般的には「小袖(こそで)」といって、「留袖」よりは気軽な服装でした。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B0%8F%E8%A2%96&um=1&ie=UTF-8&ei=cE76SoXGOMuSkAW4vojDCw&sa=X&oi=image_result_group&ct=title&resnum=1&ved=0CBwQsAQwAA

また、高貴な武家の奥方になると、その上に「打掛」を着ていました。
http://wedding-gyao.usen.com/glossary/word/006044002

この「打掛」も今では、結婚式の花嫁の衣装と思われがちですが、江戸時代は、身分の高い武家などでは一般的に羽織っていました。

写真を添付します。
解説には、
上流の女の装い
中央の武家の奥方は「打掛」(小袖の上に着る小袖)姿。
左右にいる祐筆と御側女中は半模様の小袖。
とあります。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>江戸時代の武家の女性の装束

まず、髪型ですが、武家の女性は「島田髷(まげ)」でした。
しかし、島田髷といっても時代とともに数十種類にも及び、いつの時代でも女性の流行に余念がなかったようですね。
次のサイトの一番左上(島田髷の由来は)が、武家の女性の一般的な髪形です。
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP332JP332&q=%E5%B3%B6%E7%94%B0%E9%AB%B7&um=1&ie=UTF-8&ei=s0f6SoSRH8-PkQWJuMSuCw&sa=...続きを読む

Q江戸時代の旅の手荷物や衣類・食事などは?

お世話になります。

時代劇を見ると、江戸時代の旅装束・手荷物・衣類・食事は、かなり少ない様子です。即ち、

●笠、合羽程度を振り分け荷物で着たきりスズメ

で、手ぶらのようです。その他には、せいぜい杖くらいです。泊りは宿場なので問題なしとしても、こんな軽装で旅が続けられたのでしょうか?

よって、質問です。

Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)
Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)
Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

ご回答をよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった?(平安時代は、朝夕の2回だそうですが・・・)

昼飯はヌキが多かった。しかし、前述のように茶屋などで団子を食べたり饅頭を食べたり煎餅を食べたりしました。


>>特に、食料事情は重要で飢饉があるくらいですから、食料が不足している可能性がありますが、お金があれば食べるには困らない状況だったのでしょうか。

やはり、「銭」が一番でした。
農村部では飢饉などで困ったことでしょうが、旅篭などでは、米の流通を銭の力で優先的に差し押さえていましたので、旅人にはあまり不自由なく往来できました。


>>また、荷物が少ないし、着の身着のままみたいで、不思議です。お遍路くらい荷物が限定されたのでしょうか?

江戸時代書かれた「道中案内記」によると・・・

着替えの衣類(着物1着・下着2~3着)、脇差(道中差、女は懐剣)、頭巾(または笠、女は市目笠)、三尺手拭、扇子、矢立(筆記用具)、鼻紙、草履(草鞋)、財布、道中記・・・などを小物篭に入れて包み、肩から振り分けにして持参すると良いと書かれてあります。

(よもやま話)
江戸時代中期(文化・文政の頃)になると江戸も繁盛するようになり、小旅行がもてはやされました。
箱根の関所手前までなら、「通行手形」もいらなかったので、自由に往来できました。
日帰りまたは1泊2日くらいの旅としては、
箱根七湯、江ノ島詣、鎌倉見物、金沢八景、大山詣、成田山新勝寺詣、秩父三十三箇所詣、日光東照宮参り、
などが人気でした。

また、関所でも「○○講中」と書かれた白い上着を着て、それらしき旅姿であれば、通行手形は不要でした。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

東海道を例にとりましょう。
東海道では、男足で15日位。
女足では20日位。
これを念頭において・・・

>>Q1.着物の洗濯はしない?(乾かすひまがない・・・)

着物は1着。下着は2~3着・・・洗濯は道中の小川や池で行いました。そして、良く絞って油紙に包み持ち歩きました。


>>Q2.朝晩は宿屋で準備された?(食料事情は問題なし・・・)

大概は、旅篭での朝夕の食事でしたが、途中の茶屋などで団子や饅頭などで代用しました。


>>Q3.昼ごはんはあった...続きを読む

Q年収850万円のサラリーマンは江戸時代なら何者?

40代主婦。

地方の貧しい家に生まれ、親の愛にも恵まれず不遇な幼少、青年期を送りました。

トレンディー(死語)ドラマを見ても、主人公の周りの華やかな世界に共感できず、違和感を持ちました。

時代劇を見ても、将軍様とその周りの人ではなく、私なら画面には映らない水のみ百姓もしくはそれ以下の身分。
飢饉になって飢え死に。
流行病に感染。

どうしても自分を卑下してしまいます。
(一方で、飢饉や流行病、戦争をかいくぐり現代まで命をつないでくれたご先祖様に感謝し、今ここにいられる自分は強運なのだと思うこともあります)

そんな私も、今では首都圏に住み、主人の年収は850万円、二人の子どもにも恵まれました。

世間の平均年収は上回っておりますが、首都圏では家族4人がつつましく暮らすのにせいいっぱい。しかし、幸せな家庭だと思います。

卑下するばかりの自分をもっと肯定したい。

現代の年収850万円サラリーマン家庭(専業主婦)は江戸時代ではどのような身分だったのか、ちょっと知りたくなりました。

Aベストアンサー

まずは下記をご覧下さい
年収階層分布図2013-年収ラボ
nensyu-labo.com/heikin_kaisou.htm
国税庁の民間給与実態統計調査結果(階層ごとの年収データ)をまとめたサイトです
これによりますと
800万円以上が約12%
800万円台が3.8%
ということになります。
現在の境遇を中流などと言ったら日本中のサラリーマンから叱られます。
立派に上流です。

さてお江戸の時代での想定ということですが、
サラリーマンというのは民間企業に勤めている、ということになります。
お江戸のお侍というのは現在で言えば公務員です。
江戸町奉行所というのは、機能から言えば現在の東京都庁です。
TVの時代劇に出てくる捕り物を担当しているのは、ほんの僅かな人達で町奉行所の端っこの仕事です。
与力とか同心というのは単なる役職名で今で言えば部長とか課長という呼称に相当します。
警察業務に当たっている人達だけではありませんでした。
つまり与力、同心という肩書きで呼ばれる人は勘定奉行など他の役所にもいました。
質問者のご主人は公務員でありませんから、お侍さんと比べても余り意味がありません。
所謂お店の皆さんと比べることになります。
上位の一割前後相当の収入ということは立派に番頭さんということになります。
しかも相当な大店の番頭さんということになります。
大店になればなるほど、主人よりも番頭さんがすべてを差配していました。
そのおかみさんと言うことになりますと、まずは誰も頭が上がりません。

念の為に申し上げておきますと、お江戸のお侍というのは貧乏を絵にかいたような生活をしていました。
何分にも給料はお江戸の時代が始まって以来、親御子代々変わりません。
その上もらうのはお米です。
このお米をその時その時の相場で、蔵前の札差に買い取ってもらって現金を手に入れていました。
下っ端侍は千代田のお城でもらうのではなく、蔵前へ直接出かけて、いきなりハイあなたは〇両ですネと現金を貰いました。

何せ、お侍というのは親子代々もらう米=金額が決まっていて、物価はどんどん上がります。
時代小説のような出世物語など宝くじに当たるようなものです。
生活はどんどん豊かというか贅沢になっていきます。
侍は何よりも体面が大切です。
冠婚葬祭、年末年始、お盆お節句等々のお付き合いの贈答は欠かせません。
娘がいれば嫁入りのためには御稽古事が欠かせません。
結局、前借りという形の借金に頼ることになります。
返せるあてもない先祖代々からの借金の山です。
それを承知でなにがしかの現金を札差から出してもらいます。
この札差の番頭さんのおかみさんとなったら、そんじょそこらのお侍は頭があがりません。
下っ端侍はセッセと内職に精を出していました。
傘貼りは浪人の仕事ではなく、御家人の仕事でした。
四季折々の草花の苗も御家人が栽培して町人が売りさばいていました。
お侍の借金は個人だけではありません、大名すなわち藩ごと借金漬けでした。
薩摩藩などは500万両という借金に埋もれていました。
大阪の米問屋もお金を貸さなくなってしまいました。

買い物は当時は全て年末清算のつけでした。
お侍もつけで買います。
借金を山のように抱えた上でつけを認めてもらいます。
どこまで認めるかは番頭さんの胸一つです。
その番頭さんのおかみさんですから、如何に二本差しているからと言ってうっかりした対応はできません。
丁寧な対応をします。

まぁ~TVの時代劇もお城で大きな顔していた役人が街でへいこら頭を下げている光景は演出しないでしょう。

要は江戸時代というのは、武士には権力があっても財力が全くなく、一方町人には財力はあっても権力がなかった時代です。
江戸時代に一番生活を楽しんでいたのは、裕福な町人の女性陣です。
江戸名所絵図などでも繁華街は女性陣でごったがえしています。

余談
三行半という離縁状を出す際には、嫁入りで持ってきた持参金から道具類全て耳を揃えて返す必要がありました。
うっかり書いて返す持参金がなければ、訴えられました。
町役人も金の用意なしでは認めませんでした
こんな川柳も残っています
去る時は 九十両では すまぬ也
去状(さりじょう)を書くうち質を受けにやり(質入れしていた嫁入り道具をあわてて請け出す)
先ぐりに 去状のくる まつがおか(まつがおか=鎌倉東慶寺=駆け込み寺)
残されている三行半の大半は女性側から無理やり書かせたものばかりです。
身分だの制度だの政治参加だのという観点から女性の地位は低かったとされますが、実態は相当に違っていました。

まずは下記をご覧下さい
年収階層分布図2013-年収ラボ
nensyu-labo.com/heikin_kaisou.htm
国税庁の民間給与実態統計調査結果(階層ごとの年収データ)をまとめたサイトです
これによりますと
800万円以上が約12%
800万円台が3.8%
ということになります。
現在の境遇を中流などと言ったら日本中のサラリーマンから叱られます。
立派に上流です。

さてお江戸の時代での想定ということですが、
サラリーマンというのは民間企業に勤めている、ということになります。
お江戸のお侍というのは現在で言...続きを読む

Q江戸時代の結婚について

江戸時代の(特に後期・幕末)結婚についてですが、身分制度で結婚できる・できないがあったと思うんですけど、どういう人同士が結婚できたんでしょうか。例えば、武士と農民は結婚できないとか、男が農民で女が武士なら結婚できるとか(これはあくまでも例です)。教えてください!!

Aベストアンサー

江戸時代は一見身分の固定された時代と思われがちですが、武士の次男、三男が部屋住みの身分に見切りを付けて、医者になったり百姓になったり、町人がお金で武士の身分を買ったり、けっこう身分は流動的でした。
勝海舟や樋口一葉も武士階級の出身といっても、元々は勝海舟は按摩の孫ですし、一葉の祖父も農民です。
こういう社会ですから、結婚も身分を問わず行われ、上級武士でも、同じ武士身分の養女にすることで町人と結婚できると言う抜け道があり、少なくとも身分帳に載る身分同士は結婚や養子縁組があったと思われます。
身分帳に載らない、エタ、非人と呼ばれる身分は、さすがにある程度の規制(差別)があったようです。

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q明治時代の婚姻について

先日75歳の女性の方に伺った話ですが、
彼女の祖母は13歳で結婚したのだそうです。

彼女は「明治だから」といっていましたが、
いくらなんでも早すぎると思い、帰ってインターネットで調べたところ、
明治の民法上結婚できる年齢は15歳でした。

「田舎だから」とも言っていましたが、
田舎では13歳で結婚するのは普通だったのでしょうか?

江戸時代の時代劇で見かける「奉公」みたいなものかなぁと想像してみてますが、
明治でもそういうのあったりしますか?

また、明治時代では読み書きできないのが普通なのですか?
明治でも義務教育はあったようですが、それでも学校に行かないものだったでしょうか?

Aベストアンサー

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性(父親ないし、それに準ずる立場の年長男子)の考えのみで決定されるのが普通だったので。やはり当人の正確な年齢とかどうでも良かったのです。

確か明治30年頃に富国強兵(=徴兵制)と言う事で、特に平民男子の正確な肉体的年齢を国家として管理する必要が初めて出て来たので。慌てて日本でも全国的に「子供が生まれたら正確な誕生日を役所に届けるべし」とのお達しが出され、それ以降から日本人に「誕生日」という考え方が一般的になったのです。

昔から日本人がむしろ記録に残して拘ったのは、生まれた日ではなくて、むしろ「死んだ日」です。お墓とかにも誕生日では無く、何年何月に死んだと書く習慣が昔からありました。昔は乳幼児死亡率が以上に高かったので、いちいち子供の誕生日を記録しても無駄になる事が多かったからかもしれません?一応、身分の高い貴族や皇室の方々、大名クラスの武家だと誕生日を記録に残し現代風に祝う習慣がある地域もあった様です。

また非常に重要な事ですが。江戸時代までは仮に本人が正確な誕生日を記憶していたとしても、今の現代人が言う年齢とは違います。何故なら昔の日本では「歳が増えるのは誕生日の時では無く、生まれて何回目の正月かで計算した」からです。さらにややこしい事に、昔は“生まれた瞬間が1歳”と計算するのが通例なので。冬場、例えば12月31日に生まれた赤ん坊は、翌日の元旦には2歳になる計算でした。

…と言う訳なので、そのご婦人の御祖母様が13歳と言うのなら、それ以上の意味はありません。まあ明治20年代以前に生まれたのなら十中八九、実際の年齢よりは1つ~2つは若い可能性があります(つまり小学6年生で嫁に行った!?)。


>読み書き
江戸時代は「読み書きソロバン」と言うくらいに子弟教育に熱心だったのですが。明治時代になって重工業化は進んだのですが、それまではその地域自治体に当たる藩主大名たちが行っていた子弟教育システムが維新によって崩壊してしまったので。東京などの一部を除けば、逆に教育はほぼ壊滅状態でした。

また個人家庭で勉強させていた場合でも、それまでの学問の筆頭であった朱子学などの儒教の教典を暗記する勉強が。明治になって一転、時代遅れのアジア学問という扱いになったため。富裕層でも子弟教育のあり方に混乱が生じていました。

で、教育に関するお触れは割と早い時期に出されるのですが。それは国民皆教育ではなく、あくまでも国家エリートを養成するための教育令だったので。長らく「義務教育」に関して放って置かれました。その後、やはり前述の徴兵制に関連して、戦場で使い捨てる兵卒候補としての幼年学校が必要と考えられ。え~っと確か明治22年?に「小学校令」というのが発布されます。ここから日本に於ける近代義務教育が始まる訳です。

一応、発足当時から男女共学だったのですが。特に農村部では女子に教育は必要無いという考え方が支配的だったので、例文の御祖母様の様に学校に通わせて貰えなかった女子児童も当時は多く居ました。またいわゆる戦後になるまでは、日本の近代女子教育には高等教育が無かったため(大学とかは男子校だった)。将来性が無い女子教育に金を掛けるのは無駄という考え方も一般的でした(そんな暇があったら針仕事の一つでも覚えさせろ!~的な)。

後、これも非常に重要な点ですが。明治33年(1900年)までは日本では、義務教育と言いつつ“有料サービス”だったので、授業料を払えないorケチな親だった場合は当然ながら男女を問わず学校には通わせて貰えませんでした。当時は毎月25銭~50銭を徴収すべしと法令にありました。昔の貨幣価値を現代に換算するのは非常に難しいですが。大体、月々5000円~1万円程度って感覚でしょうか?

逆に1900年以降は小学校が全国無料になったので、当時の資料でも就学率が90%に達した喜ばしい~と書かれています。

あともう1つ、これまた現代人には理解し難い点がありまして。当時の義務教育制度では修学年齢というモノが決めてなかった!つまり今みたいに満6歳になったら小学校へ~的な制度では無くて。あくまでもそれぞれの御家庭の事情に合わせて、好きな年齢の時に入学すれば良かったのです(一応、6歳~14歳の範囲で)。

なのでピカピカの1年生でも、同じクラスの同級生には6歳の子もいれば、妙にガタイの良い10歳の子も居るのが普通でした。後、今と違って義務教育中でも“落第”がありましたので。もう今年で3回目の1年生だよ!~みたいな落ちこぼれも居ました。

で、落第があると言う事はその逆、つまり“飛び級”もある訳でして。優秀な生徒は小学校を最短で4年で卒業する事が可能で(つまり10歳で中学へ進学可能)。逆に落第ばかりの劣等生だと、単位を取れなくても14歳になった時点で強制的に義務教育は終了させられました。

P.S.
いわゆる「ゆとり教育」という言葉が囁かれて久しいですが。明治時代にも言葉こそ無けれど、同じ様に教育の中身に関しては現代以上に行ったり来たりの試行錯誤だった様で。日露戦争当時には「最近の兵士はちゃんとした教育を内地で受けていないのか!?簡単な足し算引き算さえ出来ない馬鹿が多くて困っている!」と言う様な主旨の報告書が、現場の指揮官から送られています(笑)。

>誕生日
江戸時代までは庶民は自分の誕生日を特には意識する習慣がありません。従って現代人が言う所の正確な「年齢」と、本人が口にする「自分の年齢」には最大で±3年ほどの誤差があるのが普通でした。人によっては10歳近くズレがあったのですが、当時は特にそれでも問題ありませんでした。だって風営法も18禁も無い時代ですから(笑)。

結婚は?と思うかもしれませんが。明治どころか、日本では昭和の前半(戦前、1945年以前)までなら、通常は結婚は当人達の合意では無く。両家の親同士、それも家長である男性...続きを読む


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