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箱館戦争とは戊辰戦争の末期の戦いであり、この頃には
新政府軍の戦力は旧幕府軍を圧倒しており、もはや勝負が
見えていました。
しかし、旧幕府軍の榎本武揚らは北海道南部を拠点として、
明治政府とは別の政権を樹立しようとする荒唐無稽な
計画を立てました。

大儀がない。護るべき主君がいない。戦力がない。利益がない。
民衆の支持がない。金がない。勝ち目がない。
現代人の感覚からすれば、「コイツら馬鹿じゃないのか。
勝てるわけがないのに。」という感想もあるかと思います。
しかしそれは結果を知る者の視点であり、歴史の当事者から
見ればそうではないのかもしれません。

そんな彼らを突き動かしたものは一体なんだったのでしょうか?

「旧幕府軍はどうして勝てるわけがない箱館戦」の質問画像

A 回答 (7件)

上層部の人間が戦争後どうなったか知っているか?


自害した将校(?)が居たかね?
その後、彼らがどんな地位を得たか調べてみたかね?

上層部に取って戦争なんていうのは勝つ為だけにするという訳ではない

派手で目立つ部分だけを見ても何も解決はしない、もう少し全体で物事を捕らえると答えが見えてくると思う
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質問者様は勘違いしているようですが、五稜郭の戦争は戊辰戦争ではありません。


日本国(官軍)対蝦夷国(幕軍)の国際戦争です。
もう別の政権を樹立して「蝦夷国」として機能し、欧米列強国も蝦夷国を国家承認していました。

別な言い方をすれば近代日本が初めて行った侵略戦争です。

榎本武揚たちは蝦夷国として独立し、国家承認も得たので蝦夷地への戦争は無いと踏んだようです。
しかし日本軍(官軍)は蝦夷地侵略を決定し、欧米列強国の制止を無視して攻め込みました。

歴史には色々な事が隠されています。
額面どおりに受け取らないほうが良いですよ。
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まず榎本は新政府と戦うためだけで、蝦夷地へ行ったわけではありません。


職を失った旧幕臣や家族達で蝦夷地を開拓することによって生活できるようにするために臨時の政権を樹立したに過ぎませんでした。
ですから榎本は、新政府に「蝦夷地を開拓の為に借用したい、また、自分達の中心となる人物(徳川家の誰か)をそちら(新政府側)で選んでほしい」と嘆願しています。(当然却下されましたが)

また、確かに戦力、金、民衆の支持はありませんでしたが、
大儀が前述したようにありましたし、
護るべき主君はもう必要なかったし、
利益はもし開拓が軌道に乗れば十分出ました。(まあそれ以前に資金難で自滅した可能性のほうが高かったですが)
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 まず根本的に間違っている事に、



>戦力がない。
>勝ち目がない。

 これらが合致するのは明治政府の方です。

 当時の榎本武揚らには、江戸幕府が整備した幕府艦隊を持っており、特に旗艦「開陽丸」は当時最新鋭のクルップ砲を含む26門を装備しており、旧式の大砲を少数装備した小型艦を数隻程度しか所有しない明治政府にとっては、軍隊を海を越え北海道に送る事は物理的に不可能でした。
 (故にNo2さんが仰るように諸外国は、榎本らの蝦夷国独立を承認しました。)
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E9%99%BD% …

 ところが、榎本らは肝心要の開陽丸を軽率にも江差港内で座礁沈没させてしまいます。

 これにより明治政府の軍隊が北海道に上陸する事を防げなくなり、結果として榎本らの蝦夷共和国は敗北する事になります。
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当時俵物(海産物)は、生糸鉱物に次ぐ輸出産品で、その大半は北海道で生産されていました。

北海道の掌握さえきちんとできれば、それなりの外貨獲得は可能でした。
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北海道を選んだことはまことに、いい選択でしょう。

国土はある、旧幕府の人材をうけいれられるキャパがありますし、外国は内乱が一番いいわけですから、後詰めの武器資金援助もしますしね。十分勝算はあります。今の時代の人がみても、官軍側は戦端は伸びきっていますし、海軍はチャちですし、渡海さえままならなかったでしょ、それに様子見の藩ばかりですからね。ほんとうに官軍側を殲滅する気なら、いろいろできたのに、まことに平和的というか、国際法で新国家になったものだからへんに後手にまわったのかなあ、外国への侵略ですからね。
歴史は断定ではなくて、まず眺めるものでしょう。いつも写真を撮っておられるのですからおわかりでしょう。なにも確かなものはありません。同じ血がながれているんですから、それをたよりに紐解く、そこに
過去探求の醍醐味があるんじゃないですかね。
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当時の軍艦には大量の金の延べ棒が満載されていたと言う噂があり、


沈没艦は宝船として伝説になっていました。

昭和後期に発見され調査した結果、
鉛に金メッキを施した延べ棒が多数発見されたそうです。
つまり、見せ金です。

軍艦はあっと言う間に消耗してしまいます。
母港も修理能力も無いからです。

東海道を官軍が進撃中、箱根~小田原付近で挟み撃ちにし
軍艦で砲撃すれば殲滅出来ると小栗は進言しますが、

翌日、慶喜からだと勘定奉行の罷免の命を勝から受け取ります。
中仙道では新撰組だけを派遣した為、大敗北します。

つまり、幕府が本腰を入れて抵抗していたならば
数千人足らずの新政府軍はたちまち壊滅していたと言う事です。

末期の日本軍(海軍)よりははるかにましであったと考えられます。

時代に流されず、速やかに北方へ主力の全てを移動していたならば
分からなかったと言えます。

尚、諸外国が承認していたかどうかは以下を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9D%A6%E5%A4%B7% …
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