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以前ある本を読んでいて聖徳太子の存在を否定する文章をみつけました。
またある本では大化の改新が朝鮮の歴史の一場面に非常ににてるので創作された話ではないか、といってました。
どちらも教科書にものってる事柄なんですが「たしかにあった(いた)」とはいえないのでしょうか?
歴史で「これは確実にあった(いた)」と言えるのはどのくらい前までなんでしょうか?

A 回答 (4件)

今回のご質問を自分なりに考えてみました。

確かに「歴史的実在」について、どれだけ証明できるのか、大変難しい問題だと思います。
ご存知かと思いますが、中国の司馬遷という「歴史家」の著書「史記」に記載されていることは彼自身としてはすべて事実である、という認識を持っていたようです。
 しかし文章で伝えることができることは、かなり制約があります。そこで証明できる方法としては実際にわれわれが目に見えるもの、たとえば建築物などで判断するしかないのでしょうか。
そこで歴史を振り返ってみると、たとえば世界史的にみると、エジプトのピラミッドがあります。また、宗教ではキリスト教ではイエス、また仏教では釈尊の実在がかなりはっきりとしています。それは一つには代々か彼らの存在が語りつがれてきた、ということと、それらの伝承を証明する遺跡の存在があると思います。
 さて、日本で認識されている最古の建築物といえば「法隆寺」でしょうか。この寺院でははっきりと建築者を「聖徳太子」としております。あれだけ立派な建物の建築物の創設者をまさか創作するとは考えにくいと思います。それは法隆寺に対して失礼だと思います。もし彼が実在していない、などという人がいれば法隆寺に対して訂正の依頼をするべきでしょう。

しかしながら、それ以前の話になると確信を持つことはできません。
伝承によると、初代の天皇といわれる神武天皇など信憑性の低いと思われるかたもいますが、われわれ日本人に必要なのは、古代の日本人も聖徳太子のような当時の大国、隋(すい)の皇帝と対等に渡り合えるようなすばらしい政治家がいたのだ、そして仏教を国の本とし、大いに発展の時期があった、ということを誇りに思うことではないかと思います。
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この回答へのお礼

皆様ありがとうございます。
全部読ませていただきました。
やはり、というか想像してた回答でしたね。皆様が悪いのではなく自分の問題の文章力がないための失敗でした。

やはり「自分が実際に見てきたこと」以外は証明が難しいんですね。なんか非常に哲学的な話になってしまいました。

お礼日時:2003/05/30 23:53

歴史とは文献を時系列で著述したものです。

著述されたということが重要であって、その中には人々の理想や思想なども含まれていますから、すべてが実証できる、つまり実在だったというわけではないでしょう。

逆に言えば歴史は、はっきりとは確認できないものだということです。

実在を論じるのは考古学でしょう。まあ聖徳太子を考古学的に証明するのは大変難しいですね。仮に聖徳太子が居た場所から遺体の一部でも出て、別に本人の者とされる遺髪などがあったとして、それがDNAが一致して、それが炭素14法で年代まで特定されたとしても、本人かどうかは判りませんからね。
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# No.1さんのご意見に便乗するようなカタチになってしまい、申し訳ないのですが・・・。



歴史に限らず、現在世界で起こっている事象についても、厳密な意味で100%確実なことはひとつもありません。
だからこそ、誤認逮捕や冤罪がなくならない訳で・・・。

# ご質問の趣旨とはズレてしまいましたが・・・。
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教科書に載っている事がすべて本当のことではないかもしれない


ということはお分かり頂いていますよね?

わたしは人にものを教えることを生業としていまして、
教科書に沿ってそれこそ「お前見たんか!」と
つっこまれそうなぐらいの説明をしておりますが、
それもやっぱり本当の事ではないかもしれないんです。
ただ、歴史上の人物や出来事について、
その存在を証明するに充分と思われる物的証拠や
異なる書物に記述があったりしたもの、
その前後の状況との整合性があると考えられるものを
「たぶんあったということで間違いないだろう」と
して現在扱っているだけなんです。
たとえTVのニュースで見たり、実際に自分の目で見たことでも
本当かどうかはやっぱり分かりませんよね。
未だにアポロの月面到達ねつ造疑惑みたいなのもありますし、
肉眼で見ても何かの撮影を偶然目にしただけかもしれませんし。
今話題の映画「マトリックス」みたいなことだって、実はあるかもしれません。

論理学の世界では、「今あるこの世界が実はたった5分前にできたものだ」
というのが誤りである、と証明するのは不可能なのだと
以前何かの本で読んだことがあります。
哲学的になっちゃいますが、やっぱり
「確実にあった(いた)」といえるのは、
「今こうしてこのことについて考えている“私”が今この瞬間存在する」
ということだけなんじゃないでしょうか。
コギト・エルゴ・スムってやつですね。
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