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今司馬遼太郎の本を読んでいますが、もともと脳のキャパが狭いので少々混乱しております。
幕末~明治維新の時代において、「尊皇攘夷」はひとつのキーワードだったと思いますが、きちんと理解できていないので助言いただきたいと思います。

(1)まず、尊皇攘夷の意味について。
天皇を敬い、夷敵(アメリカなど)を排する事
と理解していますが、あっていますか?

(2)幕末において、攘夷派の志士(薩長土)が明治維新を起こしましたが、「尊皇攘夷」を唱えていた彼らが明治維新を成し遂げたあと、「攘夷」であるはずが開国に踏み切ったのはどういう訳なんでしょうか?

(3)新撰組の近藤勇も「攘夷」派だったらしいですが、これはどういうことでしょう?
彼のような左幕派も「攘夷」を掲げていたのでしょうか?

(4)また、同時代において水戸藩は左幕派の代表として薩長土と戦いましたが、水戸といえば元は「尊皇攘夷」思想の総本山だったのではないでしょうか?
いつの間に攘夷志士と戦う左幕派になったのでしょうか?

かなり誤解して覚えている部分もあると思いますので間違いを指摘していただけたら嬉しいです。
よろしくお願いいたします。

A 回答 (16件中11~16件)

A:高杉晋作(長州藩)なんかは、「尊皇攘夷」は方便だ、要は倒幕といってましたね。


B:近藤勇は、武蔵(三多摩)の農民です。新撰組は京都守護職松平容保(会津藩)預り。後に旗本だか御家人だか、幕府に取り立てられています。
C:水戸藩は、幕末最終段階になる前に藩内で内部抗争で勢力減衰(水戸天狗党の乱など)と15代慶喜が水戸家出身ということで、倒幕勢力になれず。
D:倒幕に成功したのは、脱藩した志士ではなく、各藩の実験を握った連中。

幕末の流れの中で、尊皇攘夷という掛け声は実はみんなが言っていた。その実は、中小譜代大名(井伊家や酒井家など大老職になるところ以外は、老中として政権を握ったのは大体10万石以下)に対して、雄藩が、政治的発言力を求めた権力闘争でもある。
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みなさんの回答とかぶるかも知れませんが、わたしが覚えている範囲のことを、司馬遼太郎ベースで述べてみます。

(というのは、司馬遼太郎はそれほど史実に忠実ではないという見方も多いので。)

1.あってます。

2.要するに、外国のゴリ押し外交に負けたんです。

3.基本的に、あの当時の日本人は、左幕だろうと尊王だろうと、全員「攘夷」思想がありました。ひとにぎりの知識人のみが開国を推進しておりました。

4.水戸藩は将軍直系の「徳川御三家」です。尊王なわけがありません。ただ、知識人や思想人が多かったのは確かです。「水戸思想」は、生粋の「左幕」だったような気がしますが?

専門家ではないので、もし、まちがってたらすみません。<(_ _)>
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幕府が各国と通商条約を結びます。


これが、他のアジアの地域で、植民地化される手順だと思ったのが、攘夷派です。
その通商条約は、本来国と国との間に結ばれる条約ですから(当たり前)当然国を代表する人間が許可しなけばいけません。
その許可できる人間は天皇だと・・・・
そこで尊王の考えが出てきます。
幕府は各大名の盟主であって、代表ではないと・・・
目的は倒幕なのですが、それは本音で、それを旗印にすると、幕府と大名の戦争になってしまいます。
そこで、建前として、尊皇攘夷を旗印にして、幕府を追い詰めて行きます。
攘夷を言いながら、薩摩長州は外国から武器を買っていたんですよ(笑)
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私も同じ疑問を持っていました。


1、その理解でよいと思います。
「皇」・「王」どちらでもいいようです。

2、1863年に幕府が、外国船討ち払令をだし、翌年、長州が4国(米・蘭、英、仏)の艦隊から下関を砲撃されたのと、1863年の薩英戦争で、薩摩が手痛い打撃をうけ、外国の武力を受け入れる方向に変っていきました。
坂本竜馬の、通商開国の動きも影響しているようです。
3、近藤勇は水戸藩でしたよね?
(ちょっと記憶が・・・)

4、水戸藩は、ご存知、黄門様の藩で、徳川御三家のひとつ、尊皇派でも異色の藩です。薩長土肥とのつながりもあったようですが、御三家の立場から抜け出る事が出来なったようです。
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まず、そんのうじょういは尊王攘夷とも尊皇攘夷とも書きます。

でも、確かに、小学校では尊王攘夷で習ったカナ?

さて、尊王と攘夷の意味はあっていますが、
薩長は先に攘夷に失敗して攘夷を撤回しました。で、明治時代には大手を振って開国したわけです。

で、日本には尊王側と幕府側ができて対立したわけです。尊王側は簡単に言えば天皇を立てて明治維新を成し遂げた薩長ですし、幕府側は徳川の御三家である水戸藩、紀州藩…(あとどこだっけ?)などです。

で、幕府側と尊王側が戊辰戦争で対峙したわけです。この辺の流れでどうですか?
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この回答へのお礼

回答有難うございます。
尊王攘夷でも尊皇攘夷でもいいんですね。
あせりました(^^;;
でもやっぱり私も尊王だったような気がします(笑)。

なるほど、薩長は攘夷に失敗したんですね。
それは知りませんでした。
詳しい経歴はあとで自分で調べることにして、
まずひとつ解決です。
ありがとうございます。

幕府側と尊王側が戊辰戦争で対峙したあたりは新撰組がらみで読みました。
ただ、なんとなく大きな流れがつめないんですよね。

薩長の攘夷撤回→尊王VS幕府→戊辰戦争→明治維新

おおまかに言うと(おおまかすぎますが)こうでしょうか?

お礼日時:2003/06/20 23:12

尊皇攘夷ではなく、尊王攘夷だったような気がします・・。

回答でなくてすみません
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この回答へのお礼

あっ・・そうかも・・

もしかして、「尊皇攘夷」と「尊王攘夷」とは全く異なるものなんでしょうか??

だとしたら・・・・・・
(TT)

お礼日時:2003/06/20 22:50

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