痔になりやすい生活習慣とは?

小攘夷と大攘夷について詳しく知りたい!!

また、この2つを比較して欲しいです。

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A 回答 (2件)

小攘夷は極端に日本の長所を美化し、外国を卑下する考え方、例えば藤田東湖の「天地正大の氣、悴然として神州に集まる」といった思想が好まれます。

行動としては外国人の殺傷、外国船に対する砲撃、外国施設の焼き打ちなどになって現れます。
これに対して大攘夷は悔しいけれどテクノロジーや生産力において西洋列強の方が上を行っているのは事実、そこで今はこうした文物を諸外国から受け入れ、国力を富ませ、これを背景に持つ軍事力を育成し、やがてはその力で西洋列強にも対抗してやろうとする考え。
大攘夷的な考えを持っていく過程ににおいて重要なポイントは薩摩藩の場合薩英戦争、長州藩の場合下関砲台占拠事件を挙げることができると思います。
薩長両藩が明治新政府として実権を握ったのち「殖産興業」「富国強兵」という2つの政策を重要施策として掲げるのは、こうした経験と大攘夷的な考え方が背景にあったのではないかと考えます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

テストに役立ちました。

お礼日時:2010/05/29 16:30

そもそも「攘夷」ってのは、外国人から日本を守る!ってな意味です。


これは、幕末の人々の共通した思いですね。
ただ、外国人から日本を守る方法は二通りあります。

長州や水戸、土佐の下士が実行していた攘夷は、分かりやすく外国人を
ひたすら斬ることです。これで外国人から日本を守ります。
「日本を汚す偉人め!」ってな感じですね。これが小攘夷です。

大攘夷ってのは、今の日本の国力じゃ武力蜂起しても、とても外国人には
敵わない。ならば、外国人と仲良くなって、貿易をして技術を盗んで
日本を強くしよう。そして、外国人と対等な立場になればいい。という
考えです。

ただ大攘夷の考えは、当時では理解できない人が多く、汚れた外国人から
技術を学ぶぐらいなら、潔く切り込んで死を選ぶ!ってな考えが主流でした。
後は、神の国日本が外国人に負けるわけがないと、どこかで考えてた節も
あります。なので、同じ攘夷でも大攘夷の思想の人は「開国派」といって
日本を守るのではなく、海外に国を明け渡す輩だと、誤解されがちでした。

長州も、薩摩も海外と戦争をして、初めて日本の国力の無さを実感し、
小攘夷から大攘夷に思想が変わってゆきます。
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この回答へのお礼

 
ありがとうございました。

テストの参考にさせていただきました。

お礼日時:2010/05/29 16:33

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Q孝明天皇はどうして攘夷論者だったのですか?

幕末期、幕府が開国に傾きつつあったのに、
孝明天皇は頑迷な攘夷論者であって、
このことが歴史に大きく影響しました。

孝明天皇はどうして攘夷論者だったのでしょうか?
神の国日本というような思想をもっていたのでしょうか?
長年の鎖国による影響や側近者の影響を受けたのでしょうか?
そもそも本当に攘夷論者だったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 孝明天皇に限らず、当時の日本人のほとんど全てが攘夷論者だったでしょう。

 幕府が開国に傾いたのも、積極的にではなく「外圧に押されてやむなし」といった感じです。それに対し、薩摩や長州といった雄藩が公家に攘夷論を吹き込み「攘夷はまだか」と幕府に迫った、というのが幕末前期の政治の流れだと理解しています。
 この時期は薩摩も長州も本気で「攘夷論者」だったわけで、だからこそ薩摩も長州も外国と一戦やってこてんぱんにされるわけです。
 で、薩摩や長州は敗戦の経験から単純な攘夷論が通用しないことを知り、表向き攘夷、裏では外国と手を組んで開国政策を採るようになるわけですが、「表向き攘夷」というのは、当時の日本人(といってもその武士階級)の最大多数世論が「攘夷」であったためです。

 孝明天皇に限らず、公家は周囲に操られていた道具だったわけですが(明治維新は幕府と薩長の天皇取りゲーム)、攘夷思想の方が公家には馴染みやすい、というかそもそも攘夷思想とは当時の知識人の一般教養だったわけですから、孝明天皇が攘夷思想というのはごく当然の話です。
 現代だと阿部首相が「自由民権思想の持ち主」というのと同じくらい意外性がない組み合わせですね。

 幕府だって「攘夷思想」ではあったわけですから。外圧に押されて施策としては「開国」せざるを得なかっただけです。思想として開国したわけではないです。(前半は)

 孝明天皇に限らず、当時の日本人のほとんど全てが攘夷論者だったでしょう。

 幕府が開国に傾いたのも、積極的にではなく「外圧に押されてやむなし」といった感じです。それに対し、薩摩や長州といった雄藩が公家に攘夷論を吹き込み「攘夷はまだか」と幕府に迫った、というのが幕末前期の政治の流れだと理解しています。
 この時期は薩摩も長州も本気で「攘夷論者」だったわけで、だからこそ薩摩も長州も外国と一戦やってこてんぱんにされるわけです。
 で、薩摩や長州は敗戦の経験から単純な攘夷論が通...続きを読む

Q長州藩の尊攘派の攘夷

恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。

私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。

・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している
 うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。
 ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?
 それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本
 にとって不平等で、しかも天皇の勅許も得ないまま結んだので吉田松
 陰としてはそんな腰ぬけな幕府を批判した。
 さらにこんな不平等な開国に対しては攘夷だ!という事で尊攘派とし
 て運動した。
 開国するならするでちゃんとお互い対等な条件と勅許を得た上で調印 しろ!といった感じで。

・よって吉田松陰の弟子にあたる長州藩の尊攘派の中心、桂小五郎や高
 杉晋作や久坂玄瑞なども表では攘夷とさけびながらも実は攘夷などは
 もう無理でいずれは開国し国力をつけなければと思っていた。
 しかし、今回の幕府が行った開国は不平等であるので攘夷を実行し
 た。
 不平等な条約での開国は反対という事で攘夷を唱え、実行していた。

・しかし、その攘夷を実行して4カ国艦隊でやられ結局そのまま開国へ
 と変えた。

この概要であっておりますでしょうか?

恐らく似たような質問があるかと思われますがあえてこの場で質問をさせて下さい。

私は尊王攘夷の思想の意味は分かりますが長州藩の尊攘派の攘夷は土佐藩や水戸藩とは違っていたと聞いており、それが以下のような事で合っているのか伺いたいと思います。

・吉田松陰は尊攘派として有名だが開国派の佐久間象山を師事している
 うえ、西洋の文化にも興味があったことから実は開国派である。
 ではなぜ、幕府の開国を批判したのか?
 それは幕府が開国をする際にアメリカと結んだ条約があまりにも日本
...続きを読む

Aベストアンサー

 吉田松陰が幕府の開国を批判するときに、不平等条約だからという理由で批判したというのは聞いたことがないです。質問者様が不平等条約とおっしゃっているのは、明治時代に治外法権などの不平等な点を改正しようと大変苦労をしたあの不平等条約のことを指しておっしゃっていると思われます。
 反対した1番の理由は朝廷の勅許を得ないで開国しようとし、開国した点だったと思います。

 1858年(安政5年)3月、朝廷から通商条約調印について、御三家・諸大名から意見を聞いた後に改めて勅裁を得るようにとの勅掟が出されました。松陰は調印反対の意見書、『愚論』『続愚論』を藩に出します。
 しかし、老中井伊直弼は6月に日米修好通商条約に調印し、朝廷へは事後報告でした。
 翌7月、松陰は『大義を講す』という文章を書いて藩に送っています。

 この『愚論』『続愚論』『・・ などを読んだら詳しくわかりそうですが、手元にないのでとりあえず検索してみましたらこんなページがありました。

http://www.araki-labo.jp/shiso103.htm
 この方のご研究によると吉田松陰の攘夷論は「開国的攘夷論」だそうです。

 また、松陰は鎖国(国を閉ざす)が良いとは言っていません。天保13年に藩に出した上書でも、海防の為に英国などから艦船を買い、西洋の船匠・船師・技師を海外より雇い水戦術を習うべし。また有名な『幽囚録』では、世界へ進出(侵出?)すべしと主張しています。
 その内容は、「善く国を保つものは徒(ただ)に其の有るところを失ふことなきのみあらず、又其の無き所を増すことあり。」として、
 オウストラリアは英国人がまだ10分の1しか開墾していないので「吾先ずこれを得ば、当に大利あるべし。」
 「朝鮮のごときは古時我れに臣属せしも、今はすなわち驕(おご)る、・・・」「朝鮮を責めて質を納(い)れ貢を奉ること古の盛時の如くならしめ(朝鮮を責めて人質を取り朝貢させて昔のようにさせ)、」。
 また、カムチャッカ・オホーツクを奪い、台湾・ルソンも手に入れるべきだとも述べています。
 貿易や産業のための開国というより、領土拡大を第一の目的とした開国です。『幽囚録』で書いていますが、ロシアも近頃蝦夷の近くに艦を備え兵を置いて軍事拠点を作りつつあるので、時を移さず日本に迫って来るだろう。
 ほとんど、「やられるか、こちらがやるか、二つに一つ」に近い大変な危機感で思考しています。

 1854年にペリーが再び来たとき、松陰は日米間で戦争になると予想していました。
 外夷は日本を呑み込もうと来ているのだから、日本が海防力を整えるまではとにかく今は追い払わねばと思っていたのではないでしょうか?
 

 吉田松陰が幕府の開国を批判するときに、不平等条約だからという理由で批判したというのは聞いたことがないです。質問者様が不平等条約とおっしゃっているのは、明治時代に治外法権などの不平等な点を改正しようと大変苦労をしたあの不平等条約のことを指しておっしゃっていると思われます。
 反対した1番の理由は朝廷の勅許を得ないで開国しようとし、開国した点だったと思います。

 1858年(安政5年)3月、朝廷から通商条約調印について、御三家・諸大名から意見を聞いた後に改めて勅裁を得るよ...続きを読む


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