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鳥居の起源
鳥居の役割は天体観測の道具だったのではないかとの推測しています。
太陽の影や北極星の高度を測ることで、冬至の日と太陰暦の誤差を確かめようとしたのではないかと仮説です。
神様を一柱、二柱と数えるのも、太陽の影の観測に関係がありそうな気がします。
そこで質問ですが、鳥居の起源の様々な説を教えていただけませんか。
また、もし天体観測の道具だとしたら、鳥居の下に影や立ち位置を記録する素材や風習が残っているかもしれません。神社の施設や神道の儀式にお詳しい方で心当たりがあれば情報を下さい。

A 回答 (5件)

鳥居の方向に関して、鳥居の役割の一仮説です。


関東一円には浅間神社がたくさんあります。お山(富士山)信仰の証拠でしょう。
千葉県稲毛の浅間神社の鳥居は、神社の入り口及び海の中(昔浅瀬だった処。現在は埋め立てられて陸地になっている)に建っていて、富士山の方向に向いています。
神社のご神体(=富士山)が、富士山と神社を行き来されるのかもしれません。
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この回答へのお礼

久々のご回答ありがとうございます。
確かにhuwa2moko2さんのおっしゃるとおり仮説です。
鳥居の起源の当時、信仰または観測の必然性から太陽または北極星を狙って柱を立てたのではないかと考えている訳です。
富士山信仰が鳥居の起源よりも後世ならば、富士山を崇めて富士山を拝める側に社を置き、その参道を富士山の外向きに付けて鳥居を置いたのは当然でしょう。
あたかも回教寺院がメッカを拝めるように作られるのと一緒です。むしろ、聖なる星や太陽の方を向いていたものが(文字による暦が広まり)本義を忘れて、手近かな信仰対象にも鳥居を付けるようになった可能性を感じます。これも仮説ですけど・・・
さて、富士山と言えば竹取物語のラストが富士山の描写です。竹取の翁がかぐや姫を偲びつつ、せっかくもらった不老不死の薬を富士山で燃やしてしまい、その煙が末永く立ち上っていたという結びです。
帝も恋い焦がれるかぐや姫が京と甲斐ないしは駿河はとに関係があるらしいと言う展開に何かのメッセージ性を感じるのですが、富士は藤原氏(中臣氏)に通じる言葉だと思います。栄華を極めた藤原氏にゆかりがあるのが、藤堂や藤田や藤本や若藤などと藤の付く名字だと歴史書で読んだことがあります。不死と藤、何かあるような気がしませんか。また、藤原という言葉も、蔓草の藤が原っぱになっても不自然ですから、藤はやはり富士か不二か不死か、それともトウゲンとの音読みで桃源郷の別表記か。いろいろと考えてきていますが、結論が出ません。また、今、ネットで知りましたが、甲斐の枕詞は黄泉だとのことです。竹取物語のラストと結びついたメッセージ性があります。
久しぶりのご回答で嬉しくて、脱線しつつもたくさんお礼をあげてしまいました。申し訳ありません。

お礼日時:2010/08/01 21:52

神社の期限は「ヒムロギ」です。


祭壇を設け、榊などの枝を立てて降神する。儀式が終わると昇神し、祭壇も片付けてしまう。この時点では鳥居どころかお宮もありません。この歳時の方法は地鎮祭などに残っています。
やがて降神の場所が特定されてきます。いつも同じ場所で儀礼を執り行うようになるのです。その一帯は神域として人を避けます。
当初は山の麓や巨大岩の付近だったでしょう。これが沖縄などに残っています。
森や山なら閉ざすのは簡単ですが、山の麓となると難しくなります。そのため柵をこしらえました。これが神社は遺伝の周囲を取り巻く玉垣、そしてこの御神域をヤシロと呼びます。
つまり、鳥居はヤシロに通じる門だったのです。
後に北辰信仰が生まれたり、季節を占う事が行なわれ、暦が研究される事は世界的に同じ流れです。
このことから、ヤシロの入口の方角と言うものが天文や暦に影響されて、重要視されてきたと私は考えています。
つまり、神社の鳥居の方向は、それ自体が天文の測量器材ではなく、天文学的知識からその方向に作られていると解釈します。
もちろん後にはそれを利用する事も試みられたかもしれませんが、基本は天文あっての鳥居の方向だと思います。
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この回答へのお礼

神道の精神から、民族性にしっくりくる解説をあげていただきありがとうございます。私も感性として鳥居の原点が理解できた気がします。
ただ、いくつか考えたことを挙げさせていただくと、ヒモロギという言葉は、和言葉で読み解くと「紐を広げる」といった響きが込められているような気がします。つまり、神域の結界は柵や門ではなくしめ縄だったのではないでしょうか。そう考えると、鳥居には独自の役目があったという気がします。ヒモロギは月辰とも書くので、月と北斗七星に関係あるという暗示も感じられます。そうすると、ご神木や鳥居のような柱は後からの付け足しみたいです。簡単に二本の柱に紐を渡したものが、鳥居の原点の形になったのかもしれません。
同様にヤシロという言葉を読み解くと、家の代理すなわち「仮設の建物」と言った響きが込められているような気がします。神は常駐しているわけではないが、呼びかけるとヤシロにやってくるという意味ではないでしょうか。また、明治神宮の森がほんの百年ほど前に作られた例のように日本人は大げさに囲まなくても神域は犯さないものでしょう。
神事の目的は、厄除けか大願成就でしょうが、その神事で贄やまじないの祝詞が饗されたかもしれません。そのイメージは、アブラハムの儀式や古代儒教の儀式に似ています。ただ、古代の神主の役割はまじない師というよりは、実用的な科学者として役割も負っていたのではないかと考えています。先にもあげたように嵐の時期や豊穣の時期を示すことで、古代の人たちが生活のリズムを保つのに役立っていたのでしょう。各地の夏至や冬至の太陽の昇る方向に目印がくる地点に神社があったりします。
グーグルマップには小さな祠も載っているので、意外な辺鄙な所に天満神社を見つけたりして、東西方向より約26度の傾きの線(夏至や冬至の日の出の方向)を延ばしてその先にめぼしい山がないかどうかとか、逆に山頂のの延長線上に神社やお寺がないかどうか調べたりしてみました。先にfumiyahamaさんが挙げてらっしゃるようにいろいろな所で、偶然か作為的にか神社が見受けられ、興味深かったです。
さらに有名な神社や歴史的事件を思い浮かべると鳥居の発祥地は近畿地方の可能性が高い気がしますが、国家神道の展開とともに日本中にひろまったのでしょう。そうすると余計、鳥居は大らかな自然宗教とは畑違いな気がします。地方の八幡宮の旧祭神の謂われや安芸の宮島の海中の大鳥居などを思い浮かべると、記紀以降の神社の系列化が伺えます。やはり、遣隋使、遣唐使の頃の中国の知識が伝えられてきて制度化していったのではないでしょうか。
今後、michael-mさんの説も参考にしつつ、鳥居の起こりと役割の様々な情報を伺えればと思います。

お礼日時:2010/06/01 01:13

鳥居については、今は中国などの影響を受けたか、


洗練された形状のものもありますが、本来は
伊勢鳥居に見られるように、至ってシンプルで、
逆に神々しく、形だけは似ている韓国の紅箭門(こうせんもん)、
中国の牌楼(ぱいろう)などから由来するとの説は否定されます。

日本は言霊(ことだま)の国で、言葉は大事です。
天門、神門、花表とも書きますがいずれも読みは
とりい(鳥居)です。   鳥居には水平材が二本あり
上は笠木、下は島木といいます。

鳥居と島木から私は仮説をたてました。
太古に南方民族が舟で日本列島にたどりつくのに、
鳥(渡り鳥でしょうか)の助けを借りたとおもいます。
舟の舳先に休んだ鳥に導かれ、島に着いたのです。
島伝いに本州までやってきました。
先住民はいたでしょうが、進んだ文明の南方民族に次第に
同化されていきます。   神は地元の神と同化します。
神を祭るのに社を作り、入口には鳥が島の木に
止まっている形の門を作ったという事です。
従い門は南方と北方になります。
こじつけ気味の所もありますが、どうでしょう。
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この回答へのお礼

Pinhole-09さんも私と同様にイマジネーションを大切にするタイプですね。ムー大陸説の根拠となった汎太平洋の海洋文化のひろがりをオリジナルのビジョンでとらえられており、素敵な感性だと思いました。命懸けで見知らぬ島を目指して、運良くどこかの陸地に上陸できた人間たちが集落を作り、祖先の土地を崇めながら懐かしむ構図が我々の原風景なのでしょう。古事記の中のドロドロの地上にイザナギイザナミが降り立つのは、洪水後の地球か海洋民族の伝承の名残を感じます。
また、航海に有益な鳥はなんだろうかと考えたときに、ノアの方舟のカラスや鳩が連想されますが、あまりに話を広げすぎても根拠が乏しくなるので深入りするのは止めます。
鳥で連想するのは、飛鳥と書いてなぜアスカと呼ぶのかということです。また、七夕伝説で牽牛を歩かせてくれるカササギの橋です。日本にはいないカササギを文化的に大切に伝えてきたことが、鳥居と関係があるのかもしれません。これはPinhole-09さんの書き込みを読んで今考えたことです。
書き込みの中の笠木は、カササギと関わりがあるのではないでしょうか。私は、反りのある鳥居の上の部分は、天球の丸みを象徴しているものと考えています。そして、その下のまっすぐな貫が観測用の目印なのではないかと考えています。伊勢神宮の鳥居のような古典的な観測型の鳥居の上に天球のシンボルをあしらうようになったのではないかと。
さらに考えると前方後円墳も、崇めるべき球体に三角形の祭祀用スペースを継ぎ足した形で、鳥居と同様のイメージが込められているのかもしれません。
Pinhole-09さんの海洋文明のテーマから大きく逸脱して済みませんが、知的冒険として歴史を考える楽しみを共有する者同士として、どうかお許し下さい。

お礼日時:2010/05/20 22:16

 鳥居の方向性についてのお話は面白いと思います。

数値化すると面白い結果が出ると思いますね。
 実は神社の位置には、規則性があるという話を郷土史家から聞いたことがあり、私なりに当地にある古い(平安時代の古代法典『延喜式』に記載されている)神社や国庁後と古代廃寺の経度緯度を国土地理院のホーム・ページで調べてエクセルの作図機能で図示してみました。
 すると、東西に並ぶ線と南北に並ぶ線がありました。この直交する線は誰にでもすぐ分かる線なのですね。
 ところが、この縦横の線以外にも斜めに交差する線がありました。この線は、夏至日の出と日の入りと冬至の日の出日の入りの方向を結ぶ線でした。
 これらの線の内、3本の線が交わる地点には旧郡家と当地最大級の古墳があります。ホット・スポットですね。このことから、古代の人は、太陽の動きや方向を意識し大切にしていたと考えられます。鳥居の方角は神域の入口ですから、何らかの関係があっても不思議ではないと思います。何か見つかれば良いですね。
「鳥居の起源」の回答画像2

この回答への補足

この件でくどくどと考えていたら、ひとつ思いついたことがあります。
それは、淡路島の古称であるオノコロ島あるいはオノゴロ島の語源についてです。
辞書では、オノコロは自ずと凝り固まるという意味というのが定説ですが、違うのではないかと考えたのです。凝るという言葉が凝ろ(うではないか)という命令形の活用で切れてしまうのは不自然です。オノコルという連体形活用なら納得できる訳なのです。
ではどのような意味かと言えば、オノコロは、「陰の頃」であるということです。この陰の頃という意味は、柱の影を計る夏至の頃という言葉なのではないでしょうか。この仕事は、周礼 大司徒職の「夏至の日に一尺五寸の影ができる地を都にする」という記述を踏襲した国家的儀式だったと考えられます。したがって、夏至の影を測量する儀式のなごりが、このオンノコロが転じたオノコロなのではないかと考えた訳です。
古事記のオノコロの文字が?馭慮であり、最初の漢字に周の前王朝の殷の文字が含まれているのもメッセージ性を感じます。

補足日時:2010/08/14 22:43
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この回答へのお礼

フィールドワークまで取り組まれている方の回答でとても参考になります。どうもありがとうございます。
かつて流行ったレイラインの実証をなさっているのですね。
水谷慶一氏著の「知られざる古代―謎の北緯34度32分をゆく」がネットでもよくヒットしますが、太陽の道を正確に追うためには、毎日測定できる北極星の角度が重要だったと思います。古代の一般的な技術で年に1回ずつの春分の日と秋分の日を正確に確定するのは、月の満ち欠けの回数を12回数えて1年としている暦レベルではとらえられなかったはずです。例えば北極星の角度と垂直に位置に太陽が南中するときの柱の影をあらかじめ目印をしておけば、その目印のときに春分の日と秋分の日とが分かります。どれほどの精度かは確かめていませんが、半年で50度ほど振幅するわけですから3日程度の誤差ではないでしょうか。そしてその春分の日か秋分の日を各地でとらえて、太陰暦のうるう月のいれる時期を決定したり、四季に適応した種まきや冬支度などの生活のリズムを保ったりしたのでしょう。
私は北極星の角度を測るなんらかの道具があったと想像しているのですが、意外な形で現代まで伝承されているのではないかと考え、まず鳥居に注目したのです。
どなたかのサイトでみた覚えがあるのですが、イザナギイザナミがまずオノコロ島(淡路島)に降りたという意味は、重要な地点を決めるためにまず淡路島を測定したということを説明しているということだそうです。なるほどと思った点があり、古代の測量器を持って淡路島を南北に移動しつつ、聖地を見つけようとした集団が、私の脳裏に幻影のように思い浮かぶのです。

お礼日時:2010/05/20 03:00

この回答への補足

ちょっと引っかかるブログを見つけました。明確な資料が示されていないので、信憑性は分かりませんが私の知りたい情報なので備忘録的に揚げておきます。
「ひろべ絵の絵ぶりDAY」 -夏至が近づく青い月夜に、お願いしたいこと -
http://blogs.yahoo.co.jp/heihachi38/25501999.html

「周礼」や「周髀算経」などの資料といい、昔なら素人の研究では行き当たることもない情報にたどり着けるのが、インターネット時代の凄いところですね。
どうやって使いこなすか、もっと踏み込めば、どうやったらネットの扇動に振り回されずに自分の興味関心を維持できるかが課題だと思うようになりました。

補足日時:2010/08/14 22:37
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この回答へのお礼

すばやい回答をどうもありがとうございます。
現状の観察は数々あるにしろ、やはり起源の定説はないようですね。
それほど古くからあるのに、意外と中国や韓国にもルーツらしきものがないのが不思議です。
私が思いつく神社の鳥居は、南向きか北向きかが多いので、北向きの妙見信仰や南向きの天照大神や大日如来信仰の原型のような習わしがあったような気がします。
また確かにトリイという音も和言葉として手掛かりになりそうではあります。

お礼日時:2010/05/19 23:02

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