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純粋理性批判(Q6)
「感性による直観と悟性のカテゴリーによって、対象は物自体ではなく現象として認識される」
この考え方は一応わかります(正確ではないかもしれませんが、その場合ご指摘いただけると有難いと思います)が、
「それゆえに現象としての認識には【客観的妥当性】がある」という結論になぜ至るのか、よくわかりません。
悟性のカテゴリーという分類は、認識のあくまで枠組みであるように思うのですが、この枠組みに対して客観的であるとか主観的(恣意的)であるとかいう表現が可能なのでしょうか。たとえば、
『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』
というような意味での客観的妥当性、というわけではありませんよね。
「客観的妥当性」が何を意図しているのかよくわかりません。

また、同様に、「物自体の認識は主観的である」という記述があったように思いますが、これは、認識できないものを認識したと思うことが恣意的=主観的である、という意味でしょうか。

悟性に関する箇所はまだ読んでいないのですが、客観的・主観的という従来の概念に照らし合わせると、何か違和感があり、どうも気になっています。
非常に初歩的な質問だろうとは思いますが、どなたかわかりやすく解説していただけないでしょうか。
    

A 回答 (5件)

これは簡単です。

(質問文そのものを率直に捉えればの話ですが)
「感性による直観と悟性のカテゴリーによって、対象は物自体ではなく現象として認識される」
『物体そのもの』というのは捉えられないのは分かりますか?(まずここが分からないと話にならないので以後読んでもチンプンカンプンです。)例えば白はわれわれのカテゴリーから選出されて白が見えるのであってそういう意味で客観なのではないでしょうか?それで妥当性というのは『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』ということなんじゃないんですか?
なぜ
>『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』
というような意味での客観的妥当性、というわけではありませんよね。>
と言われたのかよくわかりません?

>「物自体の認識は主観的である」>

これは前後の文脈がなければわかりません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>これは簡単です。
:そうですか。^^;

>『物体そのもの』というのは捉えられないのは分かりますか?
:大丈夫なつもりです。

>>『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』
というような意味での客観的妥当性、というわけではありませんよね。>
と言われたのかよくわかりません
:こういったアプリオリで普遍的な悟性が存在している、という意味ならわかるのですが、それに対して、なぜ『客観的』と表現するのか、ということがよくわからないということです。
「客観的判断は常に普遍的である」ということになるでしょうか。
しかし、「簡単です」と言われて気づいたのですが、私たち(私だけかもしれませんが)は、
「客観的と主観的に認識する」というシチュエーションでも「客観的」という表現を普通に使っているように思うのですが、そういった曖昧な使用習慣が違和感につながったのかもしれません。
厳密な意味で「客観」を解釈すれば良い、ということになりそうですね。

>>「物自体の認識は主観的である」>

これは前後の文脈がなければわかりません。
:その箇所がちょっと探せないのですが、ここで言う主観的認識とは「妥当性を欠いた認識」という位置づけなのでしょうかね・・・。
 

お礼日時:2010/06/14 23:01

 >こういったアプリオリで普遍的な悟性が存在している、という意味ならわかるのですが、それに対して、なぜ『客観的』と表現するのか、ということがよくわからないということです。

>

例えば「リンゴは~」の文で「りんごは私」というのは変でしょ?普通「りんごは赤い」だとか「りんごはおいしい」などの客観対象だから『客観的妥当性』と述べたんで『客観的視点』ではないです。(おそらく)

>ここで言う主観的認識とは「妥当性を欠いた認識」という位置づけなのでしょうかね・・・。>

違うと思います。おそらく普通に認識するのは主観だということを言いたいだけだと思います。(この質問で「物自体の認識は主観的である」と述べているのであれば)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

「客観的妥当性」とは、「客観的 且つ 妥当」ではなく「客観的 即ち 妥当」の意味に捉えていますが、カテゴリーの個別内容についてはまだ未知の世界なので、これに関して少し調べてから質問したほうがいいかもしれませんね。

>おそらく普通に認識するのは主観だということを言いたいだけだと思います。
:わかりました。
  

お礼日時:2010/06/15 02:32

『2つよりないリンゴを見て、誰が見ても「リンゴが3個ある」とは認識しない』と書けるでしょ?


だから客観的妥当性ということ。

この回答への補足

お陰さまで、「客観的妥当性」が、たとえば、
『2つよりないリンゴを見て、「リンゴが3個ある」とは認識しない』
ということを指していることがわかったので、ひとまず良かったと思います。

「意図」については、「主観的」という表現と絡めて疑問符のままですが、何しろせっかちに解釈しようとするのが良くないせいもあるのでしょう。
  

補足日時:2010/06/15 02:39
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この回答へのお礼

そういうことでしょうね。
ただ、「客観的」が無くても意味は通じると思うのですが、わざわざつけたのは、何かに関して「主観的」と対比させるためなのかな、とかいうことがちょっと気になったんですよね。
そういうわけでもないのでしょうか。
どうも、我ながら瑣末なことに拘っているような気もしているのですが。

 

お礼日時:2010/06/15 01:57

>ただ、「客観的」が無くても意味は通じると思うのですが、わざわざつけたのは、何かに関して「主観的」と対比させるためなのかな、とかいうことがちょっと気になったんですよね。


そういうわけでもないのでしょうか。>

多分もの自体を主と見た文章なんではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
  

お礼日時:2010/06/15 14:52

なんか分かりました


おそらく「確かに現実は存在する」ということを言いたいのだと思います。
つまり「主観の世界のみではない確実に外にある」ということです。
もし主観的妥当性なら2つよりないリンゴを見たのは主観がそうやって映し出したのであって外には無いという考えになる。このような考え方を一元論と言ってすべて心のみという考えが昔はあったんですよ。それでそれは違うよというのを言いたいんだと思います。
確実に外にあるよ=客観的妥当性
ということなんじゃないかと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

バークリーなんかも一元論ということになるんでしょうね。
ウィキを少しみましたがややこしそうなので深く追求するのは諦めました。

「主観の世界のみではない確実に外にある」という意図、というわけですね。
元来、認識論らしいので、このお考えはしっくりきますね。
参考にさせていただきます。
  

お礼日時:2010/06/15 15:11

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