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民・在日朝鮮韓国人・暴力団についてのもんだい

 これを解決するという方向は 出ないでしょうか? 出しづらいでしょうか? 考えるべきではないでしょうか?(つまり 現状のまま行くのがよいか?)

 ▲ (ヰキぺ:暴力団) ~~~~~~~~~~~~~
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9A%B4%E5%8A%9B% …
 元公安調査官・菅沼光弘は、2006年10月19日に行われた東京・外国特派員協会における講演で、山口組のナンバー2である高山清司から聞いた話として、

   暴力団の出自の内訳は()60%、在日韓国・朝鮮人30%、一般の日本人など10%である

 という見解を示した。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 1. 民が差別されることについては 無条件で無効なわけですから そのことを現実のこととしたい。

 2. 在日朝鮮・韓国人の人びとは 国籍を二重に持つことから始めて この国のふつうの生活にして欲しい。

 3. 暴力団については ふつうの社会生活に戻るということは むつかしいでしょうか?

 4. まづ 出発点としてどうであって どこから考えていけばよいでしょう?



 次のような質問も見つけました。2003年の設問で 150件の回答が寄せられているようです。
 【Q:「差別」教育って必要?】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa679132.html

 ▲ (ヰキぺ:問題) ~~~~~~~~~~~
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A8%E8%90%BD% …
 § 現在の差別
 かつて問題となった所得格差やインフラストラクチャー整備の遅れ、進学率の違いは住宅改善事業などの同和対策事業により指定地区ではかなり解消され、若い世代では差別意識は薄れてきている。
 しかしながら、身元調査が行われている事を背景に過去に被差別の闇リスト(特殊「地名総鑑」など)が会社の人事担当などを対象に売られる事件が度々起こっている。・・・ 
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~

A 回答 (20件中1~10件)

オコリザルです。


非思考の発露が自然と言いましたが、書いてみて初めて明確に認識できた事柄があります。
(仮称)人間もどきが、それゆえに人間に絶望して神のもとに赴こうとするならば、それは信仰では無く一律で全て欲望によるとりすがりです。拝めば何とかなるとするとりすがり団体が各宗教です。
そのけがれた願望は人間になることで解決するので神にすがる姿を「願い」に変えると「人間になりたい」です。または、もっと簡単に「生きていたい」です。
そこでなぜか観念世界経由で私にまでとりすがりが配達されてきます。
人間が解決する事柄が配達されるのでしょう。
取りすがるだけの拝み屋にすれば私は救世主でしょうか?
押しつぶされそうなほどひどいとりすがりですが私はただ人間になりたいだけです。
この重圧の解決に使命感を抱き、救おうとすれば死を招きます。
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この回答へのお礼

 よく分かりません。
 書いてあることはそのまま意味がとれますが――この場合は これまでと違って そういうたぐいの文章ですが―― だから何を言おうとしているのか これが分かりません。

 拝めば何とかなると取りすがるのも 大きくは 非思考の発露ですよ。

お礼日時:2010/07/01 10:48

オコリザルです。


ここまでを取りまとめてみます。
>まづ ここです。パンを盗む悪の姿をとるのは 愛なのですか?
神の愛たるデーモンのささやきにより生きるために悪を成した。
その愛の行いを、赦さざる姿勢をもつ人間同士はあくまでも悪そのものであるといやしめる。
赦さざる人間もどきは罪人の断罪には死をもってしか納得できないと同じ人間を悪人のままにする。
このような苦汁をなめ、生きたままさらし首のごとく死を背負い屍のごとき生涯を送るのが悪人です。
大抵は赦さざる人間もどきの醸し出す世の風潮により自ら悪人となります。
これが被差別者なのでしょう。
つまり私の言う社会と折り合いをつける事とは、一面で人間もどきに反旗を翻すことでもあります。
娑婆世界観に準じた世の中こそ人間もどきの住む世界です。
ここで出てくるのが「そんなもんありゃしねー」です。
あくまでも仏の現代語訳は人間であり。
これは仏をいやしめるのではなく人間たるものかくの如くであれとも言いえます。
神の与えたもうた知性により人は人間自負しますが本物の人間はいない。
私ですら人間ではない。
それでも「人間」、この言葉の刻印が指し示す通りに生きやがて人間に至るでしょう。
人間が人間を辱める限りその者は人間ではない。
霊長とまで言うのが人間である。
愛そのものである。
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この回答へのお礼

 プライムエイプさん ここでは 人間観やその実践じたいを扱ってはいないのです。
 ☆☆ 民・在日朝鮮韓国人・暴力団についてのもんだい――これを解決するという方向は 出ないでしょうか?
 ☆ と問うています。互いにふつうの社会生活ができるようになるには どうすればよいかです。

 もし悪だとか愛だとかを持ち出してくるというのであれば それは 一人ひとりが個人の世界観をそれぞれ持ちなさい そうして実践しなさいと言っているわけですが そういった解決策だということでしょうか? そういう回答でしょうか?
 でもそれは 問うていないのです。

 たとえばこうです。法律によって 地区の住宅環境がいちじるしく整備されるようになりました。これも解決策のひとつです。ですから 人間観や世界観のもんだいは このような施策のあと(同時並行してでもいいのですが) 一人ひとりの務めということになります。
 個人としての務めは けっきょく地区の人びとであるかないかにかかわらず まったくひとしく誰もにとって問題になります。それはそれとして 質問をもして問い求めています。しかもここでは 住宅環境の整備などと同じような施策を求めての解決方法を扱います。
 暴力団のおこなっているノミ行為や金融業などその事業を公共の事業とする・つまりその人びとを公務員として雇い上げるという方向を得ることができました。その後は この試案の検討やほかの施策を模索するというかたちになっています。

 もし《被差別者》にかんしては 社会政策とは別に どうしても必要で解決すべき問題があるということでしたら その旨を説明してください。そのたぐいの議論が述べられているような感じを受けますが よく読みとれません。
 ★ 神の愛たるデーモンのささやきにより生きるために悪を成した。 / その愛の行いを、赦さざる姿勢をもつ人間同士はあくまでも悪そのものであるといやしめる。
 ☆ わたしが ジャンワ゛ルジャンは飢えをしのぐためにパン一個を盗んだという例を挙げたのは そこに《神》も《デーモン》も出て来ない場合として出しています。じっさいワ゛ルジャンが神の信仰に目覚めたのは 例の金の燭台を神父の館から盗んだあと 説教を受けてからです。
 あるいはまた わたしが わたし自身は 生きるために選択肢がなければ悪をも堂々とおこなうと述べたのは それが《愛》だからだとかそうではないであるとか そういう議論と絡めてはいません。ワ゛ルジャンと同じように 生きることにしがみつこうとするまでです。
 その意味では 悪をおこなうわたしが 《あくまで悪そのものであると みづからをいやしめている》というそれだけのことです。

 ★ 赦さざる人間もどきは罪人の断罪には死をもってしか納得できないと同じ人間を悪人のままにする。
 ☆ ですから 《赦すことのできる(もしくは 赦す・赦さないは 人間のおこなう能力を超えていると見なす)人間》は そういう人間もどきたちの習性となった差別行為を問題に上げるかたちではなく 被差別者たちの社会復帰そのものを課題として 解決を図ろうとしています。


 もしいまのような内容で回答をつづけるということでしたら このような質問者側の趣旨に対して それは これこれの理由で間違いであると説明をしてからにしてください。

 ★ 仏の現代語訳は人間であり。
 ☆ ブッダというのは 《目覚めたる》という意味の言葉です。眠りから覚めるだけではなく 日本語でもそうであるように この世界に生きることに目が開いたという意味をも持つのだと思います。
 目覚めるのは むろん 人間です。いわゆる仏教のああたらこうたら言う説に わたしは影響を受けておりませんので いちいちそのわたしに説教をすることは くどすぎます。

 どうですか? 相手の話を聞くこと。相手の話に合わせて ものを言ってください。この考えを全面否定するという投稿でもかまいませんから その方向や趣旨を明らかにするかたちで回答を寄せてください。

お礼日時:2010/07/01 10:44

オコリザルです。


>悪にとっては 悪は日常茶飯事なのだから 《実態ではない》
これは何を言わんとするのか理解できませんでした。
悪意と悪人の分別は付いていますか?
悪人とは人間である以上悪意が実態ではない。
生命たる人間の生きた証は全てが愛である。
したがって悪の現象が私には理解しきれないで、果たして悪であるのかつかみどころがない。
明晰な哲学が出来ないのは私の至らぬ点なのだろうと考えますが、テレビのニュースで殺人事件を報道しても、果たしてそれが悪と言いうるのか曖昧なんです。
どう言う事かと言うと、感情である愛情では無く純粋な愛、すなわち自然の摂理にもとずくと他者を死に案内する必然があるのだろうと類推してしまいます。
こう言うのは古来の仏教では縁起に忠実な姿勢と言います。
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この回答へのお礼

 次の二つのことが その初めの命題は同感するというかたちで そしてその次の考えについては No.13お礼欄で 《人によってそれぞれの見方がある》と捉えた問題だというかたちで ピンと来ています。

 ★ 生命たる人間の生きた証は全てが愛である。
 ☆ 説明を添える必要があると思いますが おおむね同意します。

 つぎのお考えについては 見方が分かれると思います。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 どう言う事かと言うと、感情である愛情では無く純粋な愛、すなわち自然の摂理にもとずくと他者を死に案内する必然があるのだろうと類推してしまいます。
 こう言うのは古来の仏教では縁起に忠実な姿勢と言います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《死に直面しても 悪をきちんと遠ざけよ》という見方ですね。それが 《愛》だという見解のようです。
 わたしは ジャン・ワ゛ルジャンのように 悪を堂々とおこなうほうをえらぶと思います。

お礼日時:2010/07/01 01:04

オコリザルです。


今晩中の連続投稿です。
>☆ まづ ここです。パンを盗む悪の姿をとるのは 愛なのですか?
デーモンとはソクラテスの生きた時代においては聖霊の姿を借りた神のささやきです。
このようなささやきによってなす悪とは神を愛が保証する悪行です。
または愛により神を知ってこそなされる悪行です。
これが哲学の一端を成すように人間の知性とは神から授かった能力でして信仰と知性は結びついています。

今回のコメントは一般的学習成果で無くポケモンと戯れる観念世界の遊泳、つまりは観想に基ずいています。
独自の考え方ではあるでしょう。
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この回答へのお礼

 なるほど。一理あると思います。
 ★ 独自の考え方ではあるでしょう。
 ☆ と思いました。

お礼日時:2010/07/01 00:55

オコリザルです。


差別を検証する姿勢について独自のコメントです。
有無を明白にする分別には無を知ることは必定。
その無を避けたまま分別をすると、それこそが差別や階級化であり、俺の方が偉くなければ気に入らないと言う事になります。
非思考とは無意識とも代理される事柄であり、非思考は発露してこそ自然(じねん)です。
自然体(自然体)の我です。
無の観念への到達は分別を付けるための小道具に限らず生きるために避けて通れないのです。
「そんなもんありゃしねー」と表現した私は無の軽視に最近苛立ってます。
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この回答へのお礼

 このご文章は なかなか読み取りづらいです。
 ★ 差別を検証する
 ☆ ためには その事実を 有ったかどうかを含めて 認識しなくてはならない。ですね。その事実の
 ★ 有無を明白にする分別には無を知ることは必定。
 ☆ ええっ? つまり まづ 事実の有無を明白にする必要があります。その
 ★ 有無を明白にする分別には無を知ることは必定。
 ☆ ですか?
 事実かどうかを知ることには 哲学的にでしょうか 《無を知ることは必定》なのですか? 《必定》というのは 必要だからそのように無を知ることに努めなさいと言わなくても 事実認識をすすめるうちに 必ず無を知るようになりますよという意味なのですか?

 ★ その無を避けたまま分別をすると、それこそが差別や階級化であり、俺の方が偉くなければ気に入らないと言う事になります。
 ☆ そうなのか どうなのか。よく分かりません。判断のしにくいように感じます。

 ★ 非思考とは無意識とも代理される事柄であり、非思考は発露してこそ自然(じねん)です。 / 自然体(自然体)の我です。
 ☆ 《無意識》という言い方とは 基本的に別だと思っていますが たとえば《発露してこそ自然です》と言われれば たぶん 結果として そうであると思われます。そしたまた 発露することじたいが 自然です。
 無意識というのは そこから何か思いや行ないに向けての動きが出てくるところ(記憶野)だと思うのですが 非思考は 記憶も知解も意志も すなわち人格の全体が その自然本性の能力では及び得ないところという意味です。
 非思考は 心の窓にたとえますが 無意識は 意識しているかしていないかを別として 心のことです。
 心の窓は じっさいには 心の明けであり心の伸びであるとすれば そのような心の動きは だったら 無意識野にもかかわっているではないか? 《こころ》ということでかかわっていますが 簡単に言って 無意識は 経験領域です。心の窓は 経験領域にあるわたしのこころが 経験領域を超えた世界とかかわるところの場です。つまりは 心の窓は 非思考であり 無意識は――意識にのぼっていないだけの――思考です。どうでしょう?

お礼日時:2010/07/01 00:52

オコリザルです。


今日のコメントは議題からすでにピントがずれているのかもしれませんが、そんなずれっぱなしのコメントの締めくくりです。
悪人たることを悲しむのなら、その悲しみはそのまんま「慈悲」と言う字が当てはまります。
救いたくなるならばそれは過ちです。
悲しみとは同情です。
共感を与えてしまうのなら相手はわけもわからず自らの境遇を悲しむでしょう。
悲しみを与えたならそれは憐れみとなります。
仮にも救うとならば幸福を分け与えてこそです。
その喜びとはこの場合悪を理解することでしょう。
「私は私である」これはブラッジュロンヌさんより聞かせてもらった言葉ですがそのように理解が行き届いてのち自助を発揮してもらう事です。
救う気構えで無く理をもって接する哲学的知性が必要です。
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この回答へのお礼

 《救う》という考えは この質問にかんして ありませんとすでに述べました。

 そして 社会政策だとも述べました。そしてそれは
 ★ 救う気構えで無く理をもって接する哲学的知性が必要です。
 ☆ ということですよ。ノミ行為や金融業あるいは債権取り立ての仕事などなどを 公務員化して雇い上げよという政策のことです。
 《わたしがわたしである》のは 直接にはかかわりません。一人ひとりが この暴力団の問題とかかわる・かかわらないとは別に 考えることです。
 どうですか?
 

お礼日時:2010/07/01 00:08

オコリザルです。


悪人についてとらえますと、「悪は無い」では無くて「悪は実態ではない」です。
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この回答へのお礼

 ということは
 ○ 悪にとっては 悪は日常茶飯事なのだから 《実態ではない》
 ☆ ということでしょうか? それ以外にない場合には わざわざ実態だということもないと?

 悪としての現象は起こっていますよ。

お礼日時:2010/07/01 00:01

オコリザルです。


私は今回の議題に関して楽観しておりましたが、「悪は無い」このように短絡しないで改めて悪を哲学しますと初源のデーモンの役目に現れる通り、死を招くのが悪では無くて、死を阻むのが悪です。死を予感する行いや現象からとうざける予感がデーモン現象です。
そのようであるので、生きることと悪はかかわります。
初源は愛であり、悪の姿をとる愛です。
生きるために悪人になるならばそこからよりよく生きる事を志す事もできるでしょう。
哲学ですから知らしめることは可能です。
救うことはできません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。今回は 人によって見方が分かれるという場合のようです。

 かのジャン・ワ゛ルジャンは 飢えに苦しみ パンをひとつ盗みました。この咎で どういうわけか 十九年も牢獄で過ごさねばならなかった。その後も 刑事に追われ続けます。
 つまりこういう場合に 先行きを考えるにつけ
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 死を招くのが悪では無くて、死を阻むのが悪です。死を予感する行いや現象からとうざける予感がデーモン現象です。
 そのようであるので、生きることと悪はかかわります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ という見解を示されました。すなわち 飢えに直面し しかもいかなる事態に遭っても悪を遠ざけよ という見解であると承りました。ひとつの考えだと思います。

 そのあとの部分では わかりにくいところもあります。
 ★ 初源は愛であり、悪の姿をとる愛です。
 ☆ まづ ここです。パンを盗む悪の姿をとるのは 愛なのですか?
 ★ 生きるために悪人になるならばそこからよりよく生きる事を志す事もできるでしょう。
 ☆ これは そのとおりだと思います。
 ★ 哲学ですから知らしめることは可能です。 / 救うことはできません。
 ☆ ここは また 分かりません。何を《知らしめる》のですか?
 《救う》という考えは この質問については ないですよ。暴力団をめぐるもんだいを解決する方向を模索したいという問い求めです。どちらかと言うと 社会政策としてです。共同自治の一環です。
 もっと簡単にいえば 社会は共同生活だということであり ですから その問題は何らかのかたちで わたしたち一人ひとりにかかわって来ていると思うからです。

お礼日時:2010/06/30 23:59

オコリザルです。


日常のひとこまです。
韓国人差別に限定すると冬のソナタの流行で理解が進み大勢において決着しています。
かつて日本文化に警戒をした韓国に置いて、実際は文化交流に置いて対等であるとの理解が進んだのでしょう。
韓国国内に置いて日本が受け入れられつつあります。
お得意のおもちゃ業界においては韓国版でハングルをあしらった逆輸入盤の日本文化が実際に輸入され諸条件によりもてはやされてもいます。
これらは和解の証であり十分に朗報です。

ここで哲学をほじくりますが、過去の悪を責められそこに平謝りで収支する限りでは対等の交流となりません。
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この回答へのお礼

 こういうことでしょうか? すなわち
 かつて民だった人たち あるいは 在日朝鮮韓国人である人たちの内で 暴力団に入った者は
 ★ 過去の悪を責められそこに平謝りで収支する限りでは対等の交流となりません。
 ☆ と。もし《過去の悪》あるいは現在の悪について どうしても咎めつづけたいというのでしたら どうぞなさってください。それだけの悪を犯しているとわたしも思います。

 この質問は 《起源》を問題にしその場合には 悪はいっさい無いと捉えた上で では悪の世界に入った者がふつうの社会生活に戻ることができるようになって欲しい。それに当たって お考えをおしえてくださいというものです。
 ですから 悪を咎めたいというのであれば どうぞご自由になさってください。ただしこの質問とは関係ありません。
 もしそういう考えの人がこの質問にかかわるとすれば それは 起源にもみづから犯した悪があったということを明らかにするような回答になります。それ以外の場合は ただの世間話です。

お礼日時:2010/06/29 09:16

オコリザルです。


私の主張です。
差別を被る被差別の立場においては、すでに法的整備がなされ、差別を突破する自助が期待されるのみである。
その被差別の外野席からあーだこーだと述べるのは、対等な人間としては過分な計らいであり、いらぬおせっかいである。
被差別者から、差別克服の朗報を聞きたいもんです。
そののちにこそ哲学的な井戸端会議は進展するのです
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうしますと 学校でいぢめに遭っている生徒らも 親や教師やあるいは地域社会もそして警察もみな協力体制が出来ているから 生徒本人の自助が期待されるのみである。
 そのいぢめの外野席からあーだこーだと述べるのは 対等な人間としては過分な計らいであり いらぬおせっかいである。
 いぢめを受けている生徒から いぢめ克服の朗報を聞きたいもんです。
 そののちにこそ哲学的な井戸端会議は進展するのです。
 ね?

お礼日時:2010/06/29 00:11

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