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純粋理性批判冒頭における、ア・プリオリの範疇説明について

現在、宇都宮版、高峯版、中山版にて、純粋理性批判を読んでいるのですが、いずれの版を見ても判然としない所がありまして、質問させていただければと思います。
純粋認識と経験的認識の区別について、同時にア・プリオリ性の範疇について、緒言(序論)1節に説明がなされているのですが、この節の後半で例に出されている、「家の土台を掘り下げた人」がその失敗を回避すべく持っていた必要のあった知識「物体は重さをもつこと」「物体は支えが除かれると落下すること」、この認識が、カントにおいて、ア・ポステリオリと扱われているのか、ア・プリオリの中のひとつと想定されているのか、を教えていただけると嬉しいです。

中山元さんの文庫での解説をみると、3つのアプリオリ性(相対的・絶対だが純粋ではない・純粋)ある中の、上記は相対的アプリオリ性である事が示唆されているのですが、本論ではこの例の直後に、「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」と流れるため、上述の相対的アプリオリ性が切り捨てられたように感じられ、以後の論述でアプリオリという単語が使われ続けるときに、相対的アプリオリ性を含むのか否かが判然としないのです。

もしくは、この相対的アプリオリ性は、カントにおいては、ア・ポステリオリなもの、の範疇に含まれて論議されているのでしょうか。
もし、この相対的アプリオリ性(家の土台を掘り下げた人が持っていたべき過去の記憶?)が、ア・ポステリオリなものでもないとすれば、この領域がアプリオリとアポステリオリの間で浮遊したままに感じてしまうのですが・・・

なぜかというと「これから先はアプリオリという場合、個別の経験ではなく端的に一切の経験に依存せず生じる認識についていう。」のあとに「これに対立するのは、経験的認識。つまり経験によってのみ可能となる認識である」と対立項が立てられ、しかしながら例に挙げられた(家の土台)相対的アプリオリ性が、どちらに属するのかの説明が入っていないからなのです。

ひょっとしたら深く考えすぎていて、すごく単純なことなのかもしれませんが、3種の版と中山解説を読んでもストンと落ちる場所がなかったので、質問させてください。
よろしくおねがいいたします。

A 回答 (4件)

考えすぎですよ。



例えば、経験しなくたって東京タワーの土台を堀りくつがえせば倒壊することはお分かりになるでしょう。しかしそれは「物体は重いものであり、だからその物体を支えているものが取り除かれると倒れる」というア・ポステリオリな認識が必要だとカントは言っているわけですよ。

だから東京タワー(自分の家でもいいんですが)のような例を中山さんは相対的アプリオリ性と言っているわけです。
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この回答へのお礼

明解に教えていただけて助かりました。
ありがとうございます。
 

お礼日時:2010/08/30 09:23

数ヶ月前に中山訳で読み始めたばかりの者で、似たようなことで悩んだことがあります。


回答などとおこがましいことはできませんが、内容のご紹介ということで参加させていただきます。

カントは、(中山元によると)アプリオリな認識を3種類に分類しているとされています。
1.相対的にアプリオリな認識
2.絶対的にアプリオリな認識
(2)-a.純粋にアプリオリな認識
 (2)ーb.純粋でないアプリオリな認識
です。

1の相対的認識とは、
すべての認識に先立つのではなく、いくつかの経験に基づいて、また、「一般的な規則に基づいて妥当する認識」のことである、としています。
手を離すとリンゴが落下するのはアプリオリな認識と言えるが、それは地球上でその(=重力の作用を)経験をしていればこそであり、宇宙船の中で生まれた人には妥当な認識とは言えません。
このように、「すべての認識に先立つものでない」ために相対的、ということになるらしいです。
ご質問の家の土台の例は、この相対的アプリオリな認識に該当するという記述があります。

これに対して、
(2)の「絶対的にアプリオリな認識」とは、「すべての経験から絶対的に独立したものである」とされているようです。
しかり、この場合でもなお経験という「残滓」が関与している場合がある、と中山氏は述べて(あるいは解説して)います。

その例として「すべての変化には原因がある」という命題を挙げています。
そして、(仲山氏は)
『この命題は経験による確証を必要とせず、実際に試してみなくても正しいものと考えられる。しかし、変化という概念は、ある状態が別の状態に変わることを想定したものであり、実際に状態の変化を経験してみなければ、この概念を理解することはできない』
と述べています。

温度が上がると氷が解ける、という事実はアプリオリな認識と言えるが、たとえば子供時代に、アイスキャンディを持ったまま遊んでいたために、融けて地面に落としてしまった、というような経験が無い人にとって、本当の意味でアプリオリな認識ということにはならない、というようなことなのでしょうかね。

『この認識そのものはアプリオリであるが、経験を土台としているのであり、これはいわば「純粋でない」アプリオリな認識である』
と解説は続きます。
以上が、「(2)ーb.(絶対的ではあるが)純粋でないアプリオリな認識」です

次に、
「(2)ーa.(絶対的で且つ)純粋なアプリオリな認識」については、
「物体は広がり(延長)を持つ」という命題を例に挙げています。
デカルトの「存在するために他のいかなるものをも必要とすることなく存在しているもの」という【実体の定義】に基づけば、「物体という概念のうちには広がりという概念が含まれる」。
ゆえに、「物体は広がりを持つ」という命題は、物体という主語の概念を考察するだけでその正しさが理解できる。
つまり、これは、「完全に絶対的にアプリオリな認識である」と言える、となっています。

以上、文庫中山版の解説から「経験とアプリオリ-p.280~282」の項を、お持ちでない方にもご紹介がてら書いてみました。
ずぶの一素人にすぎませんが、いくらかでも何かのご参考になれば幸いです。  
因みに1を読んだ後、疲れてしまい、2はまだ数ページしか読んでいません。
このような段階ですので、正確を期すために、専門知識をお持ちの方のご意見を優先なさるのが無難かもしれません。
お含みおきください。
        
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この回答へのお礼

自分も同じ箇所にて悩みました。
ありがとうございます。

お礼日時:2010/08/30 09:24

この節以後のカントの本論で使われている「ア・プリオリ」は、「純粋」のみを指すのでしょうか。

それとも「純粋」と「純粋ではないア・プリオリ」の両方を含むのでしょうか。

○「アプリオリ」と「ア・ポステリオリ」しかないのですよ。
この理解は西洋哲学では困難で、仏教哲学の唯識論に学ぶしかないように思います。
唯識論では第9識という意識があり、これを「仏性」というのですが、この仏性は全ての人間に備わっており、不変の存在なのですね。カントはこれを「純粋理性」と捉えているようです。その外側に第8識の如来蔵(メモリ)があり、このメモリは書き換え可能なものですから、経験知により経験的な理性(個性的発想)が現れるという考え方ですね。この如来蔵を含む外側の意識(による理性)は「ア・ポステリオリ」ではあるが全ての管理・統合は不変の「純粋理性=仏性」によって行なわれる。と言いたいのですね。
まあ、カントは前世で坊さんでもやってたんでしょうね。カントもヘーゲルも仏教的な哲学ですよ。だから西洋的唯物論的思考では理解できないところがありますね。
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この回答へのお礼

お答えありがとうございます。
よくよく読んでみると「純粋ではないアプリオリ性」が、アプリオリな総合判断という重要テーマに繋がって流れているように思えましたので、その方向で捉えて読んでいこうと思います。
「純粋」という定義と経験との区別、など2版の序論が自分には詳細すぎて、概念の区別に振り回されていたように思います。初版の序論を読んでみたら、意外にすんなり読む事が出来たので、一旦2版は忘れ、初版ベースで本文に入り、充分理解が深まったところで2版序論を再読しようと思いました。
mmkyさんの書かれている内容については、いつか「意識と本質」(井筒)を読もうと思っていますので、そのとき意識したいと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2010/08/30 09:21

「家の土台を掘り下げた人」がその失敗を回避すべく持っていた必要のあった知識「物体は重さをもつこと」「物体は支えが除かれると落下すること」



○ これは後天的な知識ですね。
カントの言う「純粋理性」やヘーゲルの「絶対精神」は人間が肉体を持って生きる行動やそれに付随す経験知を表しているのではありません。
つまり地上で生きることや家を建てることなどは全て後天的な経験ということです。
地上での経験知を全て除いたもの、それがア・プリオリなのです。
例えば、肉体がなければ重力など存在しないですから、でも人間はイメージで家を作れますよね。
これは人間の思考する心の根源(起源)に基づく考え方ですから理解は難しいと思いますが、そのように人の心は創造されていると信じることがカントやヘーゲルを理解する方法だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
なるほど、後々の文を読んでいくと、mmkyさんのご説明、よく理解できるように思います。
家の例の認識は後天的である。

であるとすると、この節の最後にある「いずれの変化もその原因を持つ」という命題について「ア・プリオリではあるが、純粋ではない」と説明があり、その説明理由もよくわかるのですが、
この節以後のカントの本論で使われている「ア・プリオリ」は、「純粋」のみを指すのでしょうか。それとも「純粋」と「純粋ではないア・プリオリ」の両方を含むのでしょうか。

お礼日時:2010/08/29 13:30

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