現在,日本の歴史を改めて勉強しようと思って取り組んでいます。
小学レベルのことは見直し終えて,それで関心のある部分を掘り下げようとしているところです。
今,どうしても分からないのが,将軍がなぜ統治できるのか,ということです。
通常,何者かが国を統治できるとき,そこにはなにか(法律や建前上の)根拠があるはずです。
現代日本であれば,国会,内閣が統治するのですが,
それは憲法を初め,各法律に根拠があって,だからこそそこに権限があるはずです。
それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。
自分が調べた範囲ではこうです。
幕府=本来は単に将軍の居所を指していた(のちに武家政権自体を指すように)
征夷大将軍=臨時設置の将軍(征西大将軍などと並ぶ)
疑問は二つです。
(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
律令が形式的には生きているのかなと思うのですが,そこに何か根拠があるのでしょうか。
(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
当時はそのような言い方はせず,「将軍の幕府(=居所)は鎌倉にある」とかいう言い方だったはずです。
現代で言えば○○内閣発足,と言えば,実際には認証官任命式の時点を指すのだと思います。
それでは,「幕府を開く」というのは一体何を指してそう呼んだのでしょう。
色々調べてみたものの,自分の手の届く範囲でははっきりしたことは分かりませんでした。
以上よろしくお願いいたします。
No.1
- 回答日時:
1)征夷大将軍はもともと蝦夷地方を制圧するために派遣された、いわゆる総司令官です。
制圧したらそのまま平定しなさいという任務を受けていたと思います。
そのうち朝廷の力が衰退し、武家主体の世が来てしまった。
そして武官最高位である征夷大将軍がトップに立ってしまった、ということではないかと。
何故全国統治ができるかということですが、実質統治であって国家元首ではないので現在の天皇と内閣のような関係でなかったことは確かだと思います。
統治権を認めていたわけではなく、武力で制圧した末の全国統治ですから。
2)何かを設立するとき「~を開設する」と言うことがあります。
なので開くで間違っていないと思います。
幕府を開く=将軍が政府を設立した ということだと。
タイミングとしては征夷大将軍就任でしょう。
天皇に就任させるよう要求し、任命された時だと思います。
No.2
- 回答日時:
考え方としては「軍事政権」としたらわかりやすいと思う。
現在でもいろいろな理由をつけて軍隊がクーデターを起こし政権を握り、その後に選挙をやって、その選挙は軍が支持する候補に極めて有利な方法をとることで当選させ、その軍の利権を代表する国家元首によって国を治める。
国家元首も軍の意向を無視すると失脚するか暗殺されるので、実質的には「将軍」が国を支配する。
今でもどこかの国はこんな感じではないでしょうか。
さて,「幕府を開く」ですが、開くに関しては「開闢」という言葉でわかるように「できる」の意味です、天地開闢は天と地ができた、幕府を開くは「幕府ができた」ということになると思う。
統治に関しては「御教書」という概念で説明できる、身分の高い人は直接文章を書かず、家臣が主君の意を呈して書いて命令とする。
逆に、主が一切政務に携わらなければ、家臣が御教書を出して統治することも可能で、将軍は令外官で天皇の指示を待たずに命令が出せるため、最適だったんでは。
この事例で最近は阿久根市の竹原市長の手法が面白いが、市長の「専決処分」として議会の議決を経ずに政治を行い、法律の定めにより、議会を開かなければこれが通るし、開かれて不承認でも通ってしまう。
天皇も「治天の君」という地位があり、天皇の位についてもその上位者が存在すれば力がなくなるという「院政」があったので、将軍も解任はできるが、臣下が解任の命令書を書かなければ自ら書くことはできず、後醍醐天皇などは自らの命令を代筆したという話もあるくらいで、天皇が棚上げされたのでは。
御教書というのは知りませんでした。
将軍が御教書という形式を利用したということになるでしょうか。
もう少し調べてみたいと思います。
ありがとうございます。
No.3
- 回答日時:
歴史を見る切り口は、様々だと思いますが、
私が中学生の頃に当時の社会科の先生は、
律令制という一種の共産主義から、自分で開墾した土地は自分の物だという
自然な私有土地制度への移行が、平安から鎌倉への移り変わりの重要なポイント
と言っておられましたな。
すなわち、鎌倉政権というのは、武装した自営農場主が糾合して立ち上げた政権で
、源頼朝を征夷大将軍として旗頭にしたのは、補足的な事項だと思います。
もし、この時代、自由とか、権利と言う思想が日本で生まれたなら
源頼朝は不要になったはずです。
源頼朝を征夷大将軍として、全国を統合するというのは
この時代では「たてまえ」にすぎません。
律令制が共産主義というのは確かにそうですね。
公有と私有の移り変わりというのは探求してみるとおもしろそうです。
ありがとうございます。
No.4
- 回答日時:
私も現在ある軍事政権(ミャンマー等)と同じだと考えれば原則的にはいいと思います。
(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
律令が形式的には生きているのかなと思うのですが,そこに何か根拠があるのでしょうか。
まず現在でも「軍」というのは、国の中にありながら独自の自治権を有しており、その活動は国と同等の内容を自前で行うことになっています(警察「憲兵」や裁判所「軍事裁判」などがあります)
これはそもそも「軍」が、自国の外に出て戦うことを目的とした組織であり、その中では国内と同様の法治が必要だからです(もちろん脱走などの軍独自の決まりもあります)
ということで「軍」にはそもそも統治組織そのものがあるのです。
征夷大将軍にもどりますが、元々征夷大将軍は日本を統一し始めた大和朝廷が、東夷(今の東北地方にいる夷=大和朝廷に従わない部族たち)を征伐する軍隊の指揮官に与えていた名称で、夷を征する最高指揮官という意味で、源頼朝が始めての征夷大将軍ではないのです。
そしてこの流れの中で、武士に実力がつき始め貴族(公家)を押しのけて荘園を支配したりし始めます。ただ、彼らの立場は単に「武力で土地を支配している」だけの状態でしたから、非常に不安定な立場でした。彼らとしては朝廷に「この土地を自分たちのものと認めるよう」働きかけるのですが、朝廷側は土地を実質上奪われることになる貴族に配慮して、なかなかそれをしませんでした。
この不満がおおきくなり、結局源頼朝を首謀者として実力行使にでます。朝廷側は軍事力を持つ武士に攻められたらひとたまりもありませんので、都(京都)から離れた関東地方を中心に自治を認めます。この自治を認める方便が「征夷大将軍」だったわけです。
これにより「自治権」を認められた鎌倉軍事政権は「御成敗式目」を作り、武士以下武家が所有する領地に住む農民などはこれに従う、としました。つまり当時の日本は公家と公家の領地に住む農民は「律令」に従い、武家の領地は「御成敗式目」に従うことになりました。
現代で言えば武装蜂起した軍事クーデターの後、軍が守っている土地は別の法律を作って自治を行うということです。
つまり律令があり、律令には「大将軍には軍を指揮する権限を与える」とあるため、それは自治権を有してると解釈できるため、(ある意味拡大解釈して)源頼朝に「指揮権を与えるから勝手に自治していいよ」とお墨付きを与えたのです。
(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
当時はそのような言い方はせず,「将軍の幕府(=居所)は鎌倉にある」とかいう言い方だったはずです。
幕府という言葉は、軍本部を置き軍事的な組織を作る、ということです。
これが拡大解釈されて、まるで普通の国家のような機能を有していたのが、日本の幕府です。
当時は当然、将軍の在所は軍本部にある、という意味で「将軍の幕府は鎌倉」という使い方だったわけですが、後世のわれわれからみれば幕府をどこかに置くということは、新しい統治組織が出来たということになりますので、幕府を開くと現在では表現するのです。
ちなみに法律の話をすると、この土地の領有の問題は現代まで尾を引いています。
日本は成田空港問題などに代表されるように、他国に比べて都市計画を進めるのが非常に困難ですし、立ち退きには多額の費用がかかります。
これは日本の土地がそもそも「私有」になっているからです。
もっとも大和朝廷が日本を統治してた平安時代までは、原則として土地を公有していたのですが、農地が足りなくなり、開墾を奨励するために「三世一身法」から「墾田永年私財法」へと法律ができ、平安時代には私田がかなり多くなっていました。
これらは後に武士階級になる人々が開墾したものがたくさんあったのですが、開墾しても守っていかないと暴力で貴族や寺社に権利を取られてしまうため、段々自衛力を高めていきました。
これが後に貴族のやり方を横暴だとして、鎌倉幕府の開闢につながるのですが、それがそのまま「土地は自分の物」という日本の風土につながります。
ヨーロッパなど都市国家の歴史の長い地域では、土地は(特に都市の内部は)公有財産でもあるため、日本よりはスムーズに都市計画が進むのです。
また日本の武力は自分たちの土地を守る自衛からスタートしており、異民族の侵攻のような理不尽な攻撃を受けることがほとんどありませんでした。そのため、日本の軍事政策はなんとなく「他国による理不尽な攻撃を受けるかもしれない!」という勢力と「どこが日本を攻めるというの?」という堂々巡りの議論になってしまうのだと思います。
歴史はこのように見てみると、今の日本が出来上がる過程が見れて面白いと思います。
なるほど,軍には自治権があるわけですね。
東京を自治しなさい,
といって地域自治権を与えたら,
勝手にここもそこも,といって,塗り絵が広がるようにして,
自治する地域を広げ,とうとう全国的に自治するに至った,
というようなイメージになるでしょうか。
律令の規定など,具体的な史料を探してみたいと思います。
(そういえば令外の官の設置根拠はなんだろう)
私有の問題も根深いですね。
これまで侵略されたことが無い人が,
侵略されるおそれがある,
とか言われても空想の危険を言ってるように感じますしね。
実際に問題が起こるまで,危険というものは人は実感できないものですよね。
どんなことでも…。
ありがとうございます。
No.5
- 回答日時:
「征夷大将軍が天下を治める」という形式は鎌倉幕府に始まるので, そこを見るのが正しいと思う.
で先に (2) にいくと, 「鎌倉幕府がいつ開かれたのか」については議論があります. というのも, 源頼朝にはいくつかの権利が徐々に与えられていったため, どの時点をもって「鎌倉幕府の成立」とみるか微妙だからです. たとえば源頼朝が征夷大将軍に任じられたのは 1192年ですが, その前に「源義経を討伐する」ため全国に守護・地頭を設置する権利が認められており, この 1185年をもって鎌倉幕府が成立したという説も有力視されています.
これを見れば (1) もおのずから明らかで, 天皇 (あるいは上皇・法皇) から征夷大将軍に対しいくつかの権利が与えられたがために統治できています. 天皇の命令は律令に優先します (これ以外にも, たとえば「検非違使の設置」は天皇の命令によるものであり, 律令には存在しません).
なるほど,「成立」時点にも議論があるわけですね。
それなら納得しやすいです。
天皇は律令以上なのですね。
そういえば君主権を制限し始めたのは憲法からですね。
憲法以前のこの時代であれば,理屈上は天皇は絶対権力者ということになるでしょうか。
そのへんもう少し調べてみたいです。
ありがとうございます。
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
歴史記述というのは基本的に、後世の人間が、過去を後世の人間にとって都合のいいように、あるいは理解しやすいように記述します。
漫画日本の歴史とかに書いてあるように、頼朝が「鎌倉に幕府を開くぞ」なんて言うわけがない。
では幕府概念というのは、いつ成立したか?
これは江戸時代です。
徳川将軍家が一番偉いのはなぜなんでしょうか?
という、現実に一番偉い状態を説明しなければなりません。
日本国憲法があり、その憲法で記述されていれば簡単ですが、そんな憲法は江戸時代にはありません。
イギリスには(成文)憲法はありませんが慣習憲法があるとされています。
ひらたくいえば
いままでが、そうなっているんだから、いまもこれでいいじゃん。
ということでして、江戸時代の人間にとって「これでいいじゃん」と言い切れる制度は、頼朝の将軍職就任です。
中国の古典を読んだら、首都にいない将軍が実際の全国統治をしたときには、幕府って言うらしいぜ、じゃぁ頼朝を鎌倉幕府初代将軍と名付けよう。
はい、こんな感じで、江戸時代の人間が頼朝を鎌倉幕府を開いたことにしました。
(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
↓
逆です。
現実に全国統治をしている、徳川家がまずありきです。
征夷大将軍に、頼朝や尊氏など武家政権の創始者が任官されていたので、徳川家康も任官させた。臨時設置だからではなく、前例主義です。
(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
↓
頼朝と、その周辺の人間にとっては新政権を打ち立てたという意識はない。
あくまで、江戸時代の人間が、打ち立てたと記述しただけです。
それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。
↓
頼朝:京都以外の地で、常設軍を身近においてもOKとい許可書みたいなものです。統治とは関係ない。
尊氏:鎌倉殿の前例です
家康:鎌倉殿、室町殿の前例です
補足
武士から王へ―お上の物語 本郷和人著
これによれば、武士は500年かけて統治者意識を持つに至ったとしています。
鎌倉武士にとっては、自分の領地の運営だけが気がかりで、全国統治という意識はない。
なるほど,やはり幕府とか統治という言葉自体,相当に評価を含んだ言葉なのですね。
しかも後世の。
「1192年鎌倉幕府成立」とか,実体のある具体的な出来事とは言い難いですね。
前例というのも大変興味深いです。
ご紹介の本,さっそく注文してみました。
ありがとうございます。
No.7
- 回答日時:
(1)軍事政権のトップを本来は臨時設置の征夷大将軍に任命した。
あるいは頼朝公が要求して実現した。武士が政治にかかわるなら平清盛のようなやり方もあるのですが、頼朝公はそのようには考えず、軍事政権を京都から離れた鎌倉に置き、力を認めさせた。ご恩と奉公という言葉のように、武士は汗水かいて獲得した土地を軍事政権のトップに認めてもらい、その見返りに一命を賭して権利を守った。ちなみに、今では「一生懸命」という言葉は「一所懸命」から始まったとされます。以後、明治維新まで続くシステムを考え出した頼朝公は偉大な人だと思います。(2)については良くわかりません。吾妻鏡ではどんなふうになっているのでしょうね。
No.9
- 回答日時:
こんちわ。
自己流で歴史を勉強している暇中年っす。
(2)は私も知らないので、(1)の話を中心に。
>それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。
>
頼朝の時代に関して言うなら、彼は質問者さんの仰る意味では「統治」していないと思います。
頼朝が掌握したのは、あくまで日本全国の武士団だけです。
「大将軍」というのも、あくまで武士団のリーダーという意味です。
鎌倉幕府の発行する法律も、武士を対象にしたもののはずです。
(将軍が貴族や寺院相手に多少なりとも口出し出来るようになったのは、確か江戸時代に入ってからです。
もっともそれも完全に干渉できたわけではありません)
頼朝の場合、掌握した全国の武士団が警察や軍隊の役割を負っていたので、彼らに号令をかけることが可能でした。
あまりに権力絶大なので、国政にも口出しできた、というだけだと思います。
(1)についてですが、「征夷大将軍」という本来臨時の称号が固定化されたのは、後世の将軍たちが頼朝に倣ったからだろうと思われます。
一度ハクがついた称号なら、使いまわしするほうが手っ取り早く格好つくので。
では頼朝は何故「征夷大将軍」に拘ったか。
これは当時彼の最大のライバルだった奥州藤原氏に対抗したかったから、と思われます。
秀衡が「鎮守府将軍」だったんで、それより上の称号が欲しかったらしいです。
称号が「征夷」だったら東北現地勢力の秀衡をやっつけるにも都合良さげだし。
あくまで頼朝の都合で選択された称号じゃないかなぁと思います。
なるほどー。
武士だけを支配しているんだけど,
それで十分国政の多くを仕切ることができてしまう,
ついでに他のことにも口を出せる。
というような関係でしょうか。
征夷大将軍であることにも必然性は無いんですね。
ありがとうございます。
ありがとうございます。
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