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「鬼平犯科帳」のなかに、小柱のかきあげをのせた天ぷらそばが出てきます。また赤穂浪士のうち数人が討ち入り前におそばを食べたといいますが、当時はどんなおそばだったのでしょうか。

A 回答 (3件)

 もう江戸時代には、蕎麦切り、二八蕎麦(下記)が確立していたようです。


 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%85%AB% …

 僕には、祖母が打ってくれた、自分の畑で出来た蕎麦を天日に干し、石臼で挽き、繋ぎの入らない十割の手打ち、が最高でした、江戸のころからあまり変わらない製法ではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
二八そばは、江戸時代の中期からと聞いていますがいかがでしょうか。

お礼日時:2011/02/01 07:11

赤穂浪士の時代の江戸では、


まだ麺(蕎麦切り)では、店で出しておらず、
いわゆる 蕎麦がき を 吉田忠左衛門たちが、なじみの茶屋に
作らしたようです。

そばがき は そば粉を溶いて加熱し、団子にしたもので
箸で、すこしずつ ちぎり、醤油 つゆ につけ
食べます

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%95%8E%E9%BA%A6% …

後年、信州からソバ切り(麺)の製法が江戸に伝わり、
享保年間には ソバの屋台が江戸で開業するようになり、
「鬼平犯科帳」の寛政の改革のころには、
今日の喫茶店のように、そば屋が江戸っ子に親しまれるようになりました。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。
別のところにもありましたが、吉田忠左衛門たちが食べたというのは「そば切など」のようです。

お礼日時:2011/02/01 07:08

 そば切は、江戸時代よりも前に書かれた史料にでてきます。



 元禄の頃からそば切を打つときのつなぎに小麦粉を使うようになりましたが、江戸では醤油は超高級調味料で、そば切を食べるときのつゆには使われていません。
 当時の江戸での液体調味料の代表は、「垂味噌」。味噌を三倍量の水で溶いたものを煮立たせ、それを布袋で漉したものです(これがタレの語源)。

 正徳二年(1712)に伊勢商人の四代國分勘兵衛宗山が土浦に醤油醸造工場を設け、大國屋の屋号で開業、同時に江戸・日本橋本町に店舗を開設しました。宝暦六年(1756)には五代勘兵衛によって日本橋本町の店舗を日本橋西河岸に移転し、土浦で醸造した醤油に「亀甲大」のマークをつけ販売しました。
 亀甲大ブランドの醤油は江戸で爆発的にヒットし、長谷川平蔵が活躍した時代には「タレ」は江戸では死語になっていました。

 なので、赤穂事件があった元禄のときと長谷川平蔵が活躍した時代では、そば切をたべるときのつゆはまったく違うのです。
 ただし、長谷川平蔵の時代になっても味醂を調味料として使うことはなかった。そのかわり超甘口の酒を使うことはありました。砂糖も高価だったので菓子をつくるときに使うくらい。鰹節を使うことはあったけれど、すべてではないし、当時の鰹節は主に食用で、出汁をとるには生臭いといって嫌っていた人も多かったようです。

 天ぷらを乗せたそば切は、長谷川平蔵の時代からおよそ半世紀後に現れたものです。

 『寛天見聞記』という史料があります。長谷川平蔵が生きた寛政のころから天保までの半世紀の世相の移り変わりを書いたものですが、このなかには天ぷらを乗せたそば切がでてきます。『鬼平犯科帳』を書いた池波正太郎氏はおそらくこの史料を参考に「小柱の掻き揚げを乗せた天ぷらそば」を登場させたのでしょう。
 でも、そのようなそば切は天保の時代になって現れたものなんです。

 ちなみに、元禄時代も寛政の頃も、うどんやそば切の器としてどんぶりは使っていません。陶器や磁器はとても高価なものだったので、木の椀や蒸篭に似たものを使っていました。

 天ぷらのようなものはすでにあったのですが、これをそば切に乗せたものは寛政の頃もなかったし、江戸時代後期には、天ぷらの屋台や店構えの天ぷら屋も現れてきますが、今のような食感の天ぷらは明治以降になってからです。

 日本の小麦の在来種による小麦粉は、「うどん粉」と称された中力粉です。アメリカから入ってきた「メリケン粉」が今の天ぷらの衣に使っている薄力粉。
 メリケン粉が入ってからは、むかしからうどん粉でつくられていた「かりんとう」にもメリケン粉が使われるようになりました。
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この回答へのお礼

桑いいご説明ありがとうございました。

お礼日時:2011/02/01 07:04

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