![](http://oshiete.xgoo.jp/images/v2/pc/qa/question_title.png?8acaa2e)
この手の本を読み始めて感じている疑問について質問します。
思想をカント的な意味での「批判」的に書こうとする人はたいてい、
通俗の説を避けますよね。あるいは俗説をひとつのテーゼとして仕立てて
それに対するアンチテーゼとして自論を展開してオリジナルなものをつくって
いこうという姿勢が、形はどうあれ、多くの書に通じますよね。
では通俗的とそれを隔てるものは何でしょうか。
もちろん、これは不毛な問いかもしれません。
しかし、それを含めて考察するのが哲学だ、とか、完全なオリジナルはない、とか、
そういうことを掲げても、それはそれでやっぱり不毛な議論になるほかないような気もします。
皆さんの中では「通俗的」という言葉をどう定義していますか?
No.6ベストアンサー
- 回答日時:
#3です。
いくつかの補足を。まず、ニーチェ。
ここで触れたのは、内容というより、ニーチェが相対主義を持ち込んだ、ということが言いたかっただけです。
近代以降、哲学は「究極的原理」を求めてきた。できるだけ厳密に考えていくために、「通俗」を捨象した特殊なフィールドを措定して、言葉を定義づけたりしてきた。
そこに、ニーチェが乱入してくるんです。全然違う尺度を持って。「それを言っているのは誰か?」と。「そんなことを言うのは、ルサンチマンを抱いた弱者だからじゃないのか」
そうやって、フィールドを壊しにかかった。
あまり先走るより、ここではその程度の理解でいいか、と。
で、近代に戻るのですが。
カントの倫理学は通俗の説や経験を一切排したことは、すでに『実践理性批判』等で読んでおられると思うんですが、そうした倫理学の立場から、現実の問題にどうアプローチしていくのか、自分もよくわからないでいました。
で、ちょっと調べたところ、こんなおもしろいサイトを発見しました。
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/et …
ここでは問題というのは、こうやって設定していくものなんだな、ということがわかります。ただ、議論の行方がもっと知りたい感じはしますね。
また、この第五回
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/et …
では、カントの倫理学がわかりやすく説明してあります。
まぁ、焦らないでぼちぼちやってってください
参考URL:http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/et …
なんか毎回答えていただいて申し訳ないです。
今回も大変有用な回答で助かりました。
リンク先のところ、これから読んで見ますがかなり筋を通して
論じられてるみたいで、頭の中で一旦ごちゃごちゃした印象の体系化にはもってこいみたいですね。
焦らずやってみますです。
回答ありがとうございました。
と、言ってるそばからハイデガー読んだりしてますが。
ハイデガーはいろいろ読んだあとじゃないと分からないだろうな、と
思って避けてたら、やっぱり分からないですね。ハハ。
No.5
- 回答日時:
自分に秘めている意識を、真に言葉に表せたとき、それは、通俗的意見では無いといえます。
また、レアなことでも、通俗的であることは多いです。俗界は、レアなこと、特に自分には害の無いレアなことを喜ぶ傾向にあります。
人には言えないようなこと。
どうにもこうにも、現すのに苦心惨憺することがら。
それは、人それぞれの内容というものを持っていますから、通俗的ではありません。
また、通俗というのは、他人と話す少なからずの際に、手始めに持ち出す共通フィールドのことであり、時勢の社会状態や歴史に、最も大きく左右されます。
この通俗を使わずにいきなり切り出すと、「変わった人」「おかしな人」などの称号をもらっちまうハメになるわけです。つまり、ある種のはみ出し者になります。
「通俗」は、相手が、自分と同じところの居住者、生活者であるかどうかを、お互いに認識し、ひとまず、話ができるという状態とつくるためにあります。
無論、話だけでなく、生活全般にも言えるわけで、通俗というフィールドを使って、我々はいわば共同生活をしているといえます。
ただ、この通俗が、時と場所で何種類もあり、その種類に応じれる人ほど、多くの社会において、生きて行けます。
現代では、地球環境というフィールドが、人間活動が触れてしまうことで、一つの通俗として、われわれの日常的な社会に降りてきています。
一昔前ならば、山の中でビニールを燃やした時、「空気が汚れる」などと言っても、通俗では馬鹿にされるだけでした。
今はどうでしょう。
「うむ、そうだな。」
こうなっても不思議はありません。
エラい違いです。
通俗は、このように変わっていくものですし、それは、我々の社会が、どのような状況に入っていくのかと言うところに、かなり大きく左右されるのです。
以前なら、ゴミなどポイ捨てても、微量であったために、気にはなりませんでした。
現代では、そのゴミも大量廃棄となり、地球環境に影響を与えるようになりました。
つまり、我々の社会が、地球環境に触れるくらいの規模になったということを示しています。
通俗的と、それを隔てるもの。
つまり、通俗的かそうでないかを決めるものは、その一通俗の利用者、及び、その通俗の徘徊する社会全体が、どのような状態で、どのような規模であるのか?
その実情と、通俗意識の差が、一般的に論拠を持って示せる、通俗的かそうで無いかの差でしょう。
通俗を見るということは、実際の社会状態と、通俗(人々が、共同生活をそれによって意識的に営んでいる場所、またはその社会的関係)との間には時差、場所的距離の差が多少なりとも生まれていますから、その誤差が見えたら、通俗を見たといえるのではないでしょうか。
陸に上がったことの無い人魚達に、山や森の話をしたとします。
山や森は、人魚の生活フィールドとも実際には関係があるのですが、その人魚が賢者でも無い限りは見たことも行ったことも無い世界のことなど、空想や夢を膨らますだけで、その山や森と言った存在を本当の意味で理解するには、少なくとも、それを知っている者による説明が必要でしょう。
都市的環境に生来から生活基盤を置く者達に、自然環境の話をするとします。
その者が、本当に自然と言うものを理解するには、説明が要るでしょう。
都市にも上空があり、風が吹き、雨も太陽もありますが、そこから恵みを得ているということを確かに実感するには、人工物の壁は、あまりにも厚い。
自然環境を謳うメディアのコメントも、市場経済に介入してきた自然環境に関する知識も、都市環境という分厚い人工物の壁を通してしか聞こえていません。
人魚にとっての通俗は、海にある人魚および魚介類の生態系とそれがある海洋環境であり、いわば、かって知ったる海の世界です。
都市環境に暮らすものにとって通俗は、都市にある人社会およびそこに暮らす都市に身近な生き物達であり、かって知ったる都会の事情です。
ですが、人魚が、実際には相関の深い山や森の事に疎いのと同様、都市環境に相関の深い自然環境のことに、都市環境で暮らすものは疎いのです。
ですから、急に海が汚れたなと人魚が思っても、彼らには、山が削られ、膨大な規模の森林が、市場へと捌かれたことが原因であるとは分かりません。
同様に、急に都市が住みにくくなったと、都市的環境に住む者たちが思っても、その都市自体が建っている自然という環境が、汚染されたことに端を発しているとは、気づかないのです。
人魚にとっての海が通俗。その海で、山や森を語るなら、通俗的意見ではありません。
都市的環境に身を置く者たちの間では都市が通俗だけれども、その場所で自然を正確に、ほんとに知っていることを語ることは、通俗的意見ではありません。
また、都市的環境において、時空や宇宙、他、死について、そういうことを語るのは、知っているかはどうか別にして、半通俗的であるということです。
なぜなら、その時空や宇宙と言うものは通俗においてはっきりと確認できる現象ではなく、それを多くの人が考えるのも事実ですが、しかし、通俗外的に知っている者が、その意見を、通俗において発したとしても、理解され難いからです。
なぜなら、通俗外的だから。
なじみが薄い。
腰の据わった説明、乃至、明晰な一言が、同じく鋭い聴き手がいて、その意見は意味をなすのです。
一般的な通俗会話においては、そのようなものはあまり必要ありません。
専門技術的な話、これも通俗的ではありません。
また、複雑な家庭の問題、これも通俗的では無い場合がほとんどです。
多様化がすすめばすすむほど、従来からの通俗にかかっている負荷は、軽くなっていくでしょう。
逆に、個人の、自己のフィールドというものに、多くのシーン、判断を必要とする場面がまかされます。
こういうときに限っては、大概、新しい通俗フィールドも生まれてきます。
現代で言えば、地球環境、太陽系自然、そのようなものの尺度、これが、これからの通俗になって行きます。
批判的かどうかと、通俗的かどうかは、あえて関係付ける必要もなかろうと、私は思います。
通俗的かそうでないかを隔てる基準は、俗人の人口比率、俗界に浸っている時間の長さの割合でもあります。
俗人の全人口に対する人口比率が少ないほど、その社会は非通俗支配的で、各々個人では、通俗に浸るその時間が少なければ少ないほど、非通俗的です。
ダブル相関です。
どちらか一つの基準では、通俗の度合いは定まらないでしょう。
通俗的かどうかは、強弱で表せると思います。
レア度の査定課程と非常に似ていますが、どうなんでしょう。
おいとこう。
多く、カントなどが謳っている事柄は、半通俗です。
だれしも、そのような哲学的思考を、持ちうるからです。
通俗も、ある種の海草をいくつか持ち合わせており、業界では常識さぁ、などという場合、テツガク界隈では、カントの姿勢は、通であるけれど俗ではない。
業界での常識は、非通俗であると言った方が、話は分かりやすいでしょう。
専門業界やある特殊な組織、または全くの個人から、通俗に提示する場合、ある種の、俗化が試みられ、半通俗化するのはいうまでもありません。
そのときに、社会常識、通俗というものが、逐一それをいろんな形で取り込み、動いていくのでしょう。
>人には言えないようなこと。
どうにもこうにも、現すのに苦心惨憺することがら。
それは、人それぞれの内容というものを持っていますから、通俗的ではありません。
これ、主観の強調ということになりますよね。つまりスコラのesseとessentiaからの
本質論的俗説ですよね。要するに私が知りたかったのはそうした通俗説を俗説となさしめるのは
どういったものなのか?ということです。
カントを例に出したのは彼が批判によってそうしたものに総合で迫ろうとした例だと思ったからです。
>その人魚が賢者でも無い限りは見たことも行ったことも無い世界のことなど、空想や夢を膨らますだけで、その山や森と言った存在を本当の意味で理解するには、少なくとも、それを知っている者による説明が必要でしょう。
これもつまりは弁証法(ヘーゲルのでなく)ですよね。たとえばこれを通俗とみなすとき、そうさせるものはなんなのかということです。
いってみれば「私」の前提を考えるそれら弁証法が通俗たるときにではその弁証法はなにを目指して
いるのだろうってことになると思ったんで。
No.4
- 回答日時:
私自身の中では「自分以外の誰かが当然と考えている事柄」を「通俗的」なものとして捉えています。
つまり、自分独自の考え方だと思っていても「共感する」という他者が現れた時点で私自身は別の視点を探してしまいます。
私にとっては「通俗的と自論を隔てるもの」は「既存の知」「既存の情報」「既存の感情」と「新しい知」「新しい情報」「新しい感情」の狭間にあるもので、それは「空間」であり「時間」であります。
これはあくまで私個人が感じていることなので、学問的にどうこうという意見ではありませんのでどうか聞き流してください。
でも
>自分独自の考え方だと思っていても「共感する」という他者が現れた時点で
別の視点を探すとしても、その伝でいけばその探す行為自体が通俗的ということになりませんか?
だってその姿勢自体が人類共通の「既存の知」のような気がしますから。
言葉にした時点で通俗になる、というなら分かりますけど。
No.3
- 回答日時:
>思想をカント的な意味での「批判」的に書こうとする人はたいてい、通俗の説を避けますよね。
この姿勢は、デカルトに端を発する、と言って良いと思います。
まず、デカルトの時代には、哲学と数学は同じものだったんです。
そのうえで、幾何学をすべての科学と哲学のモデルとしたんです。
ものごと、というのは複雑な意味に満ちている。
たとえば、目の前のこのマグカップ。ミッフィーちゃんが描いてあるんですが、"Miffy"っていうのは英語名で、それよりは石井桃子が訳した「うさこちゃん」の方がかわいいなぁ、とか、これはその昔、教育実習に行ったとき生徒からもらったものだけど、あのあとやっぱり先生になるべきだったかなぁ、とか、ちゃんと洗ってないから、コーヒーの染みが茶渋みたいに内側についてて、これはクレンザー買ってこなきゃどうにもなんないなぁ、クレンザー買ったらついでに流しも洗わなきゃ、とか、まぁ、ほんとうにさまざまなことを考えてしまうわけです(ちょっとトホホかも)。
そんなことをあれやこれやと考えていては、きちんと?マグカップについて考えることができない。
また、同じマグを対象にしていても、人や関係によって、いろいろな意味を持っていては、きちんと考察することができない。
だから余分なことは一切捨ててしまおう。
幾何学のように、「直線は二点の間の最短の距離である」などの公準を出発点として、公理から、さらに定理を立てていくように、世界を見ていこう。
そして、デカルトがその出発点に措定したのが、かの有名な「我思う……」なんです(近代哲学の第一原理、といいます)。
ただ、デカルトは、人間の誰がマグを見ても、幾何学の証明をやっていくように、そのマグの本質を考察することができる、と考えていたわけですが、ヒュームになると、人の経験によって、マグのとらえ方も異なるんじゃないか、と言い出す。この辺りで、科学と哲学は分かれていった、というように自分は理解しています。
「通俗の説」というのは、もちろん個人の経験とは異なるけれども、さまざまな要素が介在しています。
社会や文化や時代によって異なるし、また、同時代、同一の社会にあってさえ、異なる。
同じ言葉を使っていても適用範囲が人によって異なっていては、共通の理解を得ることさえ覚束ないことになります。
何が正しいか人によって異なる、というのでは、哲学は成り立たない。
「通俗の説」をいったんすべて捨象して、言葉を定義しなおして、対象も明確化して(抽象化して)、それだけの手順を踏んで、問題を考察していこう、というところから、近代哲学は始まった、と考えてよいと思います。
さらにカントは「人間が人間である以上、誰もが認めざるを得ない究極的原理」を考えようとしました。
このような原理は、経験からではなく、純粋理性によってのみ、見出されるものである、と。
そう考えたカントが「通俗の説」を一切排した(たとえ道徳の領域であっても)ことは、言うまでもありません。
ですから、質問者さんの
>では通俗的とそれを隔てるものは何でしょうか。
の答えは、
近代哲学である、
ということになるのではないか、と思います。
なんでここで「近代」に限るか、というと、
「究極的原理」という考え方そのものをニーチェがひっくり返して、現代哲学が始まるからです(先は長いぞ)。
どーもー。
なるほど。これで数学と哲学が密接に関係してる理由がわかりました。
要するにふつー通俗的っていうと「万人が」っていいそうになりますけど、
真の意味で「万人に」受け入れられるには「一般経験」を捨象した数学的幾何が
必要になる、と。
で、カントになるとその徹底をした、と。
さらにカントに至っては今まで打ち立てられてきたその「幾何」の危機にも気付いていた。(非ユークリッド幾何学の登場)
っちゅーわけですか。
それなら確かに通俗的と隔たったものとは近代哲学だ、というのも納得いきます。
現代哲学が近代哲学とどう違うのかは私にはまだ分からんす。のでここからは想像ですけど。
ニーチェが理想主義的僧職者を軸として貴族と賎民という対で人間の行動を見たのは
その「究極的原理」さえもある形式に依っているということを示した、ということになるわけでしょうか?
先は長いですね。
No.2
- 回答日時:
ご質問の、「通俗的」の定義は、日本語の意味から出発すれば、「世間一般に通用するさま」だと考えます。
そして世間で受け入れられるということは、専門的でなく、誰にもわかり易いということでしょう。カントの時代の例を考えてみれば、「通俗哲学」の「通俗」はpopulaerと呼ばれるように、少なくとも、大衆にも受容されるものということになるでしょう。だからここでは、通俗的なものは、世間一般に受け入れられるものだとします。しかし、批判的な方法が問題としたのは、学としての説であり、それが必ずしも「通俗的」な説であるとは言えないと思われます。カント自体が批判した古代アリストテレスや当時のヴォルフ哲学にしても、それを理解していた人がどれほどあるでしょうか。また、たとえば、カントやフィヒテの説は学界では認められても、世間一般では受け入れられない、あるいは単にわからない議論であると思われますが、それを後世の思想家たちは批判的にやっつけようと試みました。つまり、「批判」は大衆に受け入れられているような説を相手にするわけではない、ということです。むしろ、大衆には少し難しくて受け入れづらいものが、通俗的なものへと変換されることで受け入れられるのだと思います。
以上が小生が考える「通俗的」です。
学としての説が「通俗的」とされるときがありますよね。
それに対する批判とそれとはどう違うのか、というのが私の疑問です。
思想は上から下へ流れる、というのは理解できますが、上にある際の通俗的とは?ということです。
たぶん思想で簡単なものはないでしょう。しかし簡単なもので説明できなければそれを
理解していることにはならないでしょう。
つまり下へと流れた際に単純化されるにしても、それが別物になるかというとコレまた難しい問題っす。
No.1
- 回答日時:
体制に対する反体制や、正論に対する異論は、まさしく通俗的だと思います。
10000人が多角的な方面から回答として考えうるものを出し切って100%を気取った時に、突然そこからはみ出してしまう回答に遭遇した時、初めてもしかしたら通俗的とは言い切れない代物であるのかもしれないと考える価値が出てくるのではないでしょうか。通俗的とは、"人が考えうる全てのこと、ただし、賛成者が世界にひとりもいないときにはその限りではない"、という感じです。>突然そこからはみ出してしまう回答
そうですよねぇ・・・
やっぱりこれを定義するのは難しいですよね。
考えれば考えるほどぐるぐるします。
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