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飛鳥→難波宮→飛鳥→大津宮(大津)→飛鳥浄御原宮は、
必然性とまではいかないまでも、理由がわかるのですが、
なぜ持統天皇が、藤原京に遷都したのかが理解できません。
持統天皇の時期は、飛鳥浄御原令を施行するなど、律令体制の整備が順調に進んでいたと思うのですが。

A 回答 (2件)

>なぜ持統天皇が、藤原京に遷都したのかが理解できません。



私が思う説。
天武天皇は、天智天皇と対立関係にありましたよね。
天智天皇晩年に、子である大友皇子即位を願っていました。
宿敵である大海人皇子(天武天皇)を「謀反」として殺害しようとした事は有名です。

天智天皇=藤原一族、天武天皇=蘇我一族の図式が成り立ちます。
飛鳥浄御原令は、天武天皇が681年に蘇我一族と編纂を開始しています。

天武天皇崩御ののち、天武天皇の皇子(大津皇子)は謀反の疑いをかけられ処刑。
大津皇子の妃も(日本書紀では)自害。
ここに、天武系血筋は絶えます。
逆に、天武天皇の后であり天智天皇の娘である皇女(後の持統天皇)が「夫・天武天皇の意志を継ぐ」と正当性を主張して即位したようです。
飛鳥浄御原令も持統天皇の代に完成(689年)していますしね。
が、本音としては「父親天智天皇系の復活」を望んでいたフシもあります。
実際「反蘇我一族の先鋒、藤原不比等の私邸で即位」「藤原不比等の私邸で、政務」を行なっています。
蘇我一族の勢力地よりも、藤原一族の勢力地の方が都合が良かったのではないでしようか?

中臣鎌足を祖とする藤原一族()にとって、蘇我一族は天敵です。
結局は、担いだ御輿(天智天皇・天武天皇)も異なります。
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この回答へのお礼

 ご回答、ありがとうございます。
以下の記載で、非常によくわかりましt。あ
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持統天皇が、本音としては「父親天智天皇系の復活」を望んでいたフシもあります。
実際「反蘇我一族の先鋒、藤原不比等の私邸で即位」「藤原不比等の私邸で、政務」を行なっています。
蘇我一族の勢力地よりも、藤原一族の勢力地の方が都合が良かったのではないでしようか?

お礼日時:2011/03/28 11:36

持統天皇の時期は、飛鳥浄御原令を施行するなど、律令体制の整備が順調に進んでいたと思うのですが。




条坊制をひいたちゃんとした都も隋唐モデルの国家づくりの一つ
○ 国史の編纂
○ 国都をつくる
○ 律令を編纂する
というように、順次完成させるもののなかのひとつが立派な都を造ること。

都というハードウェアが一番着手に時間がかかったんではないかと。
というのは、藤原京自体も、藤原宮が真ん中にあるという、隋唐モデルの都の設計としては間違っていたことがあとで判明します。

飛鳥浄御原令
というように、律令の律はあとになっています。

まぁこれくらい、順次着手するという流れの中で藤原宮という隋唐モデルの模倣が始まったと思います。
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