No.5ベストアンサー
- 回答日時:
実石高や人口推移に関しては 上記参照
宮城県の教育委員会の資料は、まぁ大雑把ではあります。
江戸時代全体で1600年ころ
人口 1800万人前後
石高 1800万石程度
http://homepage3.nifty.com/ksatake/fkunu1.html
17世紀の100年で、日本は結構な高度成長を遂げ、17世紀初頭で
人口 3000万人
石高 3000万石
で、成長が止まります。
30万石の廻米というのは 17世紀以降の江戸時代の経済体制の成長が止まってからの数字であると思われます。
※ 経済成長が止まって、こりゃうまくないなねぇというので、吉宗の頃から、人口統計やらいろいろと数字を取るようになります。
なので、江戸時代も 17世紀は、かなりの 当てずっぽうの数字になっています。
なので、補足の内容に関して正確に数字を当て込むことは不可能。
※ だれかが研究しているかも知れませんが、一素人が知っている範囲ではそうなる。
ただ
「一つは、60万石の仙台藩で年貢米のほかに農民から30万石も買い上げ」
17世紀の経済が一定の頃を想定すると
仙台藩の予算は
実石高 100万石
農村人口 50万人
非農村人口30万人
税制度 五公五民として
農村で消費される米50万石
仙台藩の中での税収50万石
そのうち 30万石を江戸に廻米して江戸藩邸資金とする
※ 江戸時代の各藩における、予算配分は江戸表と在地とで半々と言われているので、大筋江戸廻米30万石というのは妥当な数字だと思われます。
※ 仙台藩に残る米が70万石
80万人が 70万石の米を食っていたので、ちょっと米は足りないよ
という程度の米の消費だったかと推定される。
勉強になります。
補足質問にもお付き合いいただきありがとうございました。
新田開発ぶんが生きて実収百万石規模になるのは四代将軍家綱の頃でしょうかね。
仙台藩、廻米でネット検索したところ、宮城県の博物館サイトで、最盛期30万石と説明してあるのを見つけました。そこには、仙台藩の場合、廻米を江戸で売ると買い上げ費用の七倍の金額(安定的なのか、最盛期なのかは不明)になったと書いてました。
この江戸の米の値段の高さを考えると、領地から運び込むほうが経済的な藩がずいぶんあったように思いました。実際に運んだかは別として、廻米でネット検索すると仙台藩以外の情報も得られて興味深いです。
現状で回答を私の調べも加えてまとめると、江戸の米の値段はべらぼうに高かったので、いくつかの藩は運搬費用などの経費より経済的とみて持ち込んで食していたと推測され、仙台藩に至ってはさらにその上をいく発想で江戸に持ち込んだ米を売ってまでいた、というところのようですね。
No.4
- 回答日時:
当該のURL資料は 宮城県の小学校高学年の指導
〔その2:宮城のお米が江戸のお米の3割を支えていた。〕
1632年から仙台藩のお米が江戸に出回るようになった。これを江戸廻米(かいまい)という。
仙台藩では人件費などの経費がかかるようになったため,藩内各地で農民からお米を買い上げ,そ
れを迫川,北上川,阿武隈川や日本で一番長い貞山運河の水運(船)を通じて集め,船で江戸に運
んで販売していた。その量は毎年30万石で,江戸の米全体(100万石)の3割を占め,5万両の収
入を得て,それを藩の運営に使っていた(資料Kを参照)。
資料K:貞山運河の歴史
東回りは 1671年
この回答への補足
勉強になります。
ご回答の提示情報でちょっと気になるのは、30万石の江戸廻米が1632年当時からなのかどうか。
一つは、60万石の仙台藩で年貢米のほかに農民から30万石も買い上げとなると、農民の元に米がほとんど残りそうにないので、実収がもっと増えてからではないかしら。
もう一つは、米一石は大人一人の年間消費量らしいので、江戸に集まった米が仙台藩からのを含めて100万石ぶんとなると、100万人規模の江戸人口が必要でしょうけれど、そう江戸の人口が増えるまでにはずいぶん早い時代に思えること。
No.3
- 回答日時:
上記のP20 にあるように、江戸で必要な米100万石のうち30万石は仙台藩から移入されています。
この回答への補足
残念ながら提示ファイルを閲覧できない環境なので、提示ファイルに書いてあるのかもしれませんが、江戸時代のいつ頃のデータかわかるようなら教えてください。
河村瑞賢が東回り航路を開発する以前か以後か、江戸城堀工事など手伝い普請がある年かどうか、領地の飢饉との関係が仙台藩だと特に気になりますので。
No.1
- 回答日時:
江戸に近い小藩なら
領地から米俵運んだりも、ありかもしれませんが、
大半の藩では、藩の蔵米委任している現地の米屋が
現地消費と、藩士の給与の裏付けとなる分、預かった残りを
大坂などに運び、大阪の蔵屋敷に廻米された米を売り払い現銀にして、江戸の藩邸に送金することになります。
大阪の両替商は手形を為替取組み契約を結んでいる江戸の両替商に送り、
同時に大名の江戸屋敷に送金為替をおくります。
江戸の両替商は大阪の両替商より受取った為替手形を江戸の問屋に呈示して、商品の代金を取立て、送金為替を受けた大名屋敷に支払うという寸法です。
こうして、大坂で売った米の代金を江戸藩邸の活動資金とし、江戸の米屋から買って食べます。
江戸には
・下り米問屋
大坂の米問屋と取引し、東海地方・北陸地方以西57ヶ国から船で運ばれた廻米を買い上げて米仲買に販売
・関東米穀三組問屋
・地廻米穀問屋
関東八州・奥羽からの米を扱う
・陸附米穀問屋
千住宿や板橋宿に集まる江戸近辺の農村部の米穀(納屋物)を扱う
など、各地からの米を扱う米問屋米穀商が多数あり、日本中の米が来ていました。
中には、回りまわって売られてきた故郷の米を食し懐かしむ江戸詰め藩士もいたかも\(^^;)...
江戸時代の米問屋の知識ありがとう。
よく理解できなかった点をあげておきます。機会をみてあらためて質問投稿するかもしれません。
一 米問屋に米を売った金でわざわざ米を買って食べる利点がよくわかりませんでした。割高について損なのではと思います。
二 江戸に近い小藩を特別扱いにする理由がよくわかりませんでした。江戸に近いかどうかだけなら、大藩も同様に思います。食糧ぶんを除いた米を換金するかどうかに藩の大小で違いがあるのでしょうか。
三 江戸時代は長期間に渡りますが、いつ頃からこうなったという説明がないのは、家康の代からずっとかわりなくと考えていいのでしょうか。
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