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島崎藤村が小説に書き、長野ではなにかと同和問題がクローズアップされますが、歴史的にみて、なぜ、そんなに差別意識が強いのでしょう。

A 回答 (6件)

これは想像ですが・・・。



歴史的に日本人は「肉食」を差別する傾向がある民族です。ところが長野県は山がちで、穀物だけでは十分な食料を得られなかっただけでなく、山の中に食用として活用可能な生物がたくさんいたんです。結果として、イノシシやウサギ、それこそ馬まで食用にしていたわけで、おまけにそれらの「皮」は有用な衣料品になったんですね。

ですので、「食肉部族」でかつ、「皮革に関係する集落」が点在していたために、差別問題が大きくなったと思われます。同様な問題は、都市周辺部に「皮革業者」が集まって発生している場合が散見されますね。奈良県などでも結構そういう被差別集落が存在しますよ。
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この回答へのお礼

なるほど。とても興味深い御意見をありがとうございました。
卑しめられた職業且つ慣習というわけですね。
素早い御返答に大変助かりました。

お礼日時:2011/04/28 16:40

はっきりとは解っていないのですが、善光寺や諏訪社のあたりにが多く住んでいたらしいです。


また、松本・松代・上田藩が江戸初期に障害を持った方たち等を城下に移して、頭(かしら、頭の様な感じだと思います)を通じて統制していたようです。
それ以外には代官所が新たに作られると移住させられたり、宿宿場や口留め(くちどめ)、番所等の交通の要所に配されてもいたようです。

そのような方たちは、主な仕事は警備役で、そういう方たちが警護する担当地域を旦那場と言ったそうで、
その旦那場の牛馬の死骸処理はしていたようです。
それと旦那場から稲の給付等もあり、役目以外に農業や細工物、医薬業、芸能等の副業(と言っていのか疑問ですが)をして生計を立てていたそうです。
又、藩主や領主から皮革製品の献上を求められた場合は献上していたらしいです。


ただ、1600年中期から1700年初期ごろに、そういう方たちは徐々に「えた」と呼ばれるようになり、このころから5人組や宗門改帳が別になったり、差別戒名が付けらりたりしたそうです。そして取り締まりも強化され差別が強くなったとのことです。

ですが、江戸中後期には、村自体で招聘して警護役にするなどもあったそうです。

ですので、必然的にその方たちの住む場所は指定されていて、そのまま現在に至っているのではないでしょうか。

実際に現地で調べたわけではないので、誤っているところが多々あるかもしれませんのでご了承ください。
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この回答へのお礼

すばやく、且つ非常に興味深く、且つ詳しい解説をいただき、ありがとうございました。
おおきな御寺の近くにが集められるというのは、特に面白いと感じました。

お礼日時:2011/04/28 16:27

特に、そういった事は、聞きません。


質問者さんの、単なる思い込みでしょう。
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>なぜ、そんなに差別意識が強いのでしょう。



他にも回答がありますが、地形的な問題と神社仏閣の関係ですね。
平安の時代から、神社仏閣には「神社仏閣の所有物である奴隷(下人)」が存在します。
彼らは「物」であって「者」ではありません。
これは何も信州に限った事ではありません。
京都の延暦寺末寺である祇園感神院(現在の八坂神社)でも、多くの奴隷を持っていました。
朝廷から境内となる土地を賜った時に、一緒にそこに住んでいた(清水坂)を貰っています。
一応、祇園感神院に属しますからであっても「犬神人」として名称では区別しています。
祇園祭りでの警備・清掃・山車引きは、犬神人の重要な仕事でした。
(江戸時代になると、犬神人間でも上下関係が出来て犬神人と坂に分かれます)

信州の諏訪大社でも同様です。諏訪大社の神官家は、武士としても有名ですよね。
当然、祭祀に欠かせない皮製品とか武具も作る必要があります。
支配者は、武具製造技術が他国に流れる事を避ける為に集団を隔離します。
何も知らない者は、(彼らは、獣を殺す事を生業としますから)穢れた人として差別の対象になります。

また、地域的な問題から「米中心経済体制からはみ出した」地域でもあります。
漆器に用いる木地を得るには、良い木を求めて(藩境を越えて)自由に山間部を渡り歩きます。
明治初期まで、定住しない集団が存在していたのですね。
彼らを「山窩」(サンガ)と呼んでいます。
実は、秀吉も山窩出身だから、全国を自由に行き来できた!との話も残っています。

まぁ、長野県が同和問題で有名か否かは各人の考え方次第です。
(日本最大の地区は、京都にあります)
が、公になっている事が大きいですよね。
多くの地域では、同和問題事態を(莫大なカネを支払って)隠しましますから・・・。
大阪府だけでも、毎年40億円ほどの予算を組んでいます。
(大阪府職員採用でも、特別枠を設けて彼らを毎年採用しています(実質無試験)。当然、地方公務員)
このカネ目当てに、「堂々と差別問題を教育しろ!」と要求している開放団体もあります。
四国の某県では、義務教育終了時には「誰もが、差別地域名を理解」しています。
保育所・小学校まで一緒に遊んでいたのに、中学卒業頃には遊ばなくなります。^^;
この開放団体の要求通りの結果になっています。
「差別問題は、消滅してはならない。子々孫々まで、教育しなければ駄目」なのだそうです。
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歴史的には他の方のおっしゃるようなことだろうと思います。


加えて長野の県民性(教育熱心⇒出世志向⇒脱落したインテリ)があります。
出世しなかったインテリ、疑似インテりが信州に多いのです。
彼らの一部は自分の下になる者を作りたがる傾向にあります。
下にあるものを見て喜び安心するケチな根性です。
まあ、そのようなケチな根性の持ち主はどの地方にもありますが、特に長野は多いと思います。
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 詳しく的確なご回答に付け加える事はありませんで、四方山の話に為ります。


 1. 山窩とかくとどうしてもサンカとして清音でよんでしまいます。先日老舗のすし屋の板さんが、“さんが”と濁音で話してくれました。
   私はやはりサンカだと存じますが、山窩を本当にはどう呼称したかはわかりません。
 2. サンカが被差別の方という“類分け”が妥当かどうかはわかりませんが、そういう“類分け”をする方も多いようです。
   定住しないで遍歴してくれば、中には差別的に見る人もいたろう推測はします。
 3. 旦那場というタームを使って、友人のお父様(物故者:ご存命なら115歳)と会話したことがあります。
   友人のお父様は、木挽きで山々を経めぐっていたそうです。
   友人は大工です。
 4. お江戸、そして東京は新開地です。江戸期もどんどん新開の地域を増殖していました。
   (ちなみに余りに増殖するご府内に困った与力・同心はご府内として自分達の所轄範囲を限定して欲しいという願い出をしています)
   そういう新開地ではあまり過去や経歴を問いませんから、たくさんの遍歴の方やいろんな所属の方もおられたようです。
   子どもの頃、四十八組の一つの組の一番筒先のおじさんの奥さんは鳥追いさんでした。
  (おちんちんだけ残して体中彫り物:刺青は罪人のにいいますからね。風呂は早く来るので、子どもたちとぶつかり、うめると怒る。)
   ○○ちゃん、せんべぇ食いにおいで。いくと長火鉢に座って、日比谷の最初のメーデーに参加した話や哲学やら、三太郎や倉田さんの話をしてくれます。読書家です。未だ中1でした。
   未だに近所にもちょいと先にも竹細工だけのお家もあります。
   サンカの方や遍歴の門付けさんが差別視されたかもしれませんが、いわゆるエタであったということは疑問を持ちます。
   みなさんとても誇りが高い方々です。そしてこどもにはとても優しい方々でした(もう65年も前の付き合いですから。)。
 5. 信州の県民性の一側面は納得できます。それはまた日本人やいろんな国々の心性でもあります。
   しかし確かに信州の方にはよく経験させられます。その個人にも拠るのでしょうが。
   厳しい生活を生き抜いていくことで、そういう極が出る人と、反対の極が出る人とがいるようです。
 6. 信州にはそういう山々を国境なく歩く人や職業の方も多かったでしょうし、多いと存じます。
   言語的にも中部に属すると存じます。
   サンカの方も中部に多いですし。エタ・は知りません。かぐや姫の竹とりの翁ってサンカだったかもしれませんね。多分サンカは朝廷と深い関係があるようです。
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