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あの大塩平八郎の乱で有名な大塩平八郎が、身長217cmだったというのを知り、衝撃を受けました。
その他にも、戦国時代の武将や昔の有名人で高身長の人を調べて一覧にしてみました。
西郷隆盛 180
浅井長政 181
前田利家 182
徳川吉宗 183
大久保利通 183
武市半平太 183
長宗我部元親 184
山岡鉄舟 188
豊臣秀頼 197
斉藤義龍 197
前田慶次 200
石川五右衛門 207
大塩平八郎 217
生月鯨太左エ門 227
この中で気になったのは、豊臣秀頼です。父親の秀吉が身長150cm位だったみたいですが、息子の秀頼が197cmとなっており、本当に秀吉の息子か?と疑問視する見方もあるらしいのですが、母方の祖父浅井長政は、身長181cmくらいあったので、ありえないとも言えないらしいです。
そして、最も背が高かったとされる生月鯨太左エ門は、江戸時代の力士で日本一の巨漢力士であったと書かれています。
この一覧にある身長は、諸説あるらしいのですが、今から身長測定もできず、昔の時代にシークレットブーツがあったとも考えられません。
この一覧を見て、皆さんはどう思いますか?回答お願いします!

A 回答 (3件)

定型句



「六尺豊かな偉丈夫」
という表現の影響じゃないかと思う。

ジャイアント馬場の足のサイズが16文なくても、切りの良い数字で16文だったように。
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>この一覧を見て、皆さんはどう思いますか?



質問者さまは、何の資料を参考にしたのでしようか?
維新前後の方の身長は分かりませんが、その他の方の身長はそんなに高くありません。
例えば、徳川吉宗でも180センチもありません。
確か、発掘調査と各種資料から158センチ程度との学術的報告書があります。
徳川家歴代の菩提寺(家康の遺言書で、家康から歴代将軍の位牌を納めている)の位牌は、特に有名なんです。
何が有名かと言うと、歴代将軍の位牌の高さが「将軍生存時の身長」なんですね。
吉宗など数人の将軍墓発掘結果と位牌を比べると、数センチの差しかありませんでした。
まぁ、この寺の伝承は「概ね正しい」事が証明されたのです。

私としては、質問内容の情報の出所が知りたいです。
報告書名・書籍名が分かれば、教えて下さいね。
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   1.種々の情報


戦国武将の身長は、墓地の改修などで遺骨が掘り
出され、確かめられた他、確かではありませんが、
ほぼ判っているものも、少なくありません。
着用が確かな、衣類、鎧がの残っているのが推定
の根拠です。

有名なのは、前田利家で、着用していた帷子、鎧
より六尺を越える威丈夫であることが判りました。

武将の身長は測ったことは、あるかもしれませんが
極秘情報なので残りません。
ただ敵を威圧するため、何某は七尺五寸の大男とか
宣伝することはあったのでしょう。
その数字が残っていても信用できないのは当然です。

宣教師が馬揃えを見て185 cm以上の武士が多い
ので驚いたとあります。   185 cmの数字は
眼の子であてにはなりませんが平均身長五尺三寸
(161cm)位の時代でも、六尺(182cm)位の武士は
結構いたのでしょう。

幕末、明治期はデータがあってもおかしくはないのですが
測るのが嫌いな人も多いので、やはり残された衣料からの
推定でしょう。

問題は江戸時代特に力士です。
   三代豊国、二代国明などの書いた 相撲浮世絵には
      生月 鯨太左衛門  七尺五寸  (228cm)
      大空 武左衛門      々
 横綱  谷風 梶之助     七尺三寸  (221cm)
 関脇  武蔵潟 伊之助    六尺九寸  (209cm)
 大関  九紋龍 清太夫    六尺八寸五分(208cm)

このほか大関 雷電為右衛門 六尺五寸など数多。

2m以上の巨漢5人が気になります。
「浮世絵に書かれている数字は信用出来ないものもある」
という所です。
理由は豊国にとっては伝説上の力士の絵もあり、身長
体重は伝聞のものもあるからです。   検証が必要です。
例えば上記の谷風は、六尺三寸でありまちがっています。
宣伝のために誇大に書いたのかも。

ただ生月と、武蔵潟は豊国と国明と同時代で、数字は
一応根拠がありそうです。
看板力士の生月は病的に成長した者で、相撲は取れず
見世物扱いなので判りますが、209cmの武蔵潟は
この身長で相撲がよく取れたと感心します。

         2. 数字の読み方
源表記では
六尺(182cm)、六尺五寸(197cm)、七尺(212cm)
七尺五寸(227cm)のものが多い。
五寸きざみでしょう。
とすると六尺五寸とは六尺~六尺五寸のことではないか。
(威圧のため大きくいう)。
秀頼の197cmは六尺五寸のこと、実際は六尺豊な大男
位のものでしょう。
大塩平八郎の詳細は知りませんが、同様と思います。

私の意見は戦国~江戸初期、標準より大きい六尺豊な
大兵の武将、武士は少しはいた。   六尺五寸留まり。
七尺を超す者は稀でしょう。
江戸時代相撲取りが誕生して大男が売り物になり、
見世物として200cm超、220cm位までの者が現れた。

三浦半島で後北条氏と戦った三浦道寸荒次郎は身長
七尺五寸、85人力、弓は5人懸りで張ろうとしても、
ビクともしなかったと、一書に書かれているそうですが、
誇張でしょう。   ひょっとして七尺位あったかも。
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この回答へのお礼

詳しい解説ありがとうございます。確かに昔の人の身長がどれ位かは、調べられませんね!歴史のミステリーということですね。

お礼日時:2011/07/11 20:06

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