【大喜利】【投稿~9/18】 おとぎ話『桃太郎』の知られざるエピソード

明智光秀の単独での犯行ではないと仮定すると

(1)秀吉共謀説

(2)家康共謀説

の2つが浮かび上がると思うのですが、
どちらの可能性のほうが高いと思いますか?

またあなたの考える本能寺の変の真相を教えていただきたいです。

A 回答 (8件)

本能寺の変の陰謀論は近年活発に論じられる話ですが、秀吉黒幕説と家康黒幕説以外にも、足利義昭黒幕説、朝廷黒幕説、少々突飛なところではキリシタン宣教師暗殺説まで様々な人々の名前が挙げられていますね。



私は朝廷関与説を支持しています。ただし、朝廷側から光秀に命じたり持ちかけたのかというとそういう可能性は低いのではないかなと思います。日本人は阿吽の呼吸を重んじますから、朝廷が信長を討ってほしいなーと暗にほのめかし、頭がいい光秀がそれを忖度したような気がします。朝廷もバカじゃないですから、コトが露見したときに立場を悪くするような証拠めいたものは何も残さなかったはずです。

秀吉は、光秀を討って天下人になった(捜査の基本である「最も得をした人物を疑え」ってやつですね)ことや、晩年に秀吉の夢枕に信長が立って秀吉が怯えてパニックを起こしたエピソードなどから「怪しい」といわれますが、光秀との共謀はなかったと思います。
理由は、山崎の合戦の時に光秀側から「裏切ったな」的な言動などが一切聞こえてこないからです。もし光秀と秀吉が共謀していたなら、光秀が盟友である細川幽斎への手紙で「秀吉も俺と共謀したんだよ」といっていたと思います。

ただ、家康は怪しいですね。変の直前に光秀とは接待役で接触しているわけですし、「なにかを知っていた」のは間違いないと思います。ただ、なにを知っていたのかはわかりません。
そもそも同行していた穴山梅雪が大阪で別行動をとって落ち武者狩りで殺されたってのが出来過ぎで怪しい。甲斐出身で大阪に土地勘のない(当時なら言葉も通じなかったはず)穴山梅雪が自ら別行動を提案したとは考えにくく、家康側から「集団でいると目立って危険だから別々に行動しよう」といわれて応じたのではないかと思われます。
それにいわゆる「神君伊賀越え」の伊賀ルートも怪しい。伊賀は信長の弾圧を受けた現代でもアンチ信長が多い土地柄で、混乱した時期には信長派もその部下である光秀の配下も目が届かなくなる「エア・ポケット」になります。
しかも家康一行にその伊賀出身である服部半蔵が同行していたというのも出来過ぎで怪しい。服部半蔵が事前に伊賀でなんらかの準備をしていたとしても不思議ではありません。
そう思うと、もし伊賀で半蔵の手下が家康一行を「出迎えた」ら、その様子を穴山梅雪に見られるのは少々都合が悪いということになります。穴山梅雪も武田信玄の部下だった人ですから、何かを察するかもしれません。半蔵は忍者ですし、忍者といえば暗殺者というイメージもあります。
家康が穴山梅雪に自分の部下を警護につけるから別行動しようと持ちかけ、その警護の者が人目につかないところで襲撃すれば・・・すべてを闇に葬ることは簡単です。
結果的に家康は「最も安全で、かつ最短のルートで岡崎に帰った」ということになります。怪しい。しかし尻尾を一切出さずに「生涯最大の危機」に見せかけるところが家康の狸親父の真骨頂です。見事というほかありません。
だから、家康は絶対になにかを知っていた。しかし、そんな証拠は一切残さないあたりが家康と鉄の結束を誇る三河武士の実ににくいところです。小沢一郎氏も家康の前では小物にすぎません。

ただし、光秀は家康にそそのかされた程度でホイホイのるような軽輩な人物ではないので、家康が黒幕であるとは言い切れないと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/09 19:01

judas96様こんにちは。



本能寺の変に関する真相、我が国における永遠の謎の一つでありますですね(笑)。

お話しにあります「仮定」を崩してしまい大変申し訳ないのですが、現実として巷で言われるような諸々の推察に関しましては、事後の様々な状況を都合の良い形でパズル的に組み合わせただけのように思える次第であります。

浅学当方ではありますけれど、察するに本件の真相は、単に信長公の慢心油断に起因。その機会に思い切って現状ジリ貧打破のバクチに出た、光秀氏明智家単独の行動と考える次第です。

judas96様、以上が当方の想像する「本能寺の変の真相」でございます。ご質問の趣旨に沿った回答ではなく、誠に誠に失礼致しました(礼)。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/09 19:00

誰かの小説でバテレン説がありました。



信長が日本統一後に海外進出を考えていたようで、
それに脅威を覚えたバテレンが火薬でふっ飛ばした
そうです。
だから遺体も見つからなかったと。
結構説得力があります。

ミステリーですね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/09 19:00

個人的にはその2人の線は薄いと思うのですが、強いて言えば、消去法で秀吉ですかね。



ご存知の通り、事件発生時に少数の供回りだけで堺を遊覧中の家康は非常に無防備な状態でした。
仮に光秀と共謀していて身の安全を取り付けていたとしても、そんなことは知ったことではない土民の落ち武者狩りの方が怖いです。現に堺で別れた穴山信君は落ち武者狩りの土民に襲撃されて殺害されていますし。
いずれにせよ、信長が襲撃・殺害されれたとなれば混乱した状況になるのは必至であり、そんな状況下で根拠地から遠く離れてほとんど手勢を連れずにいるのは非常に危険なことです。
石橋を叩いても渡らない性格の家康がそれだけのリスクを取るとはちょっと考えにくいです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/09 18:59

私は家康共謀説ですね。

よく天海僧正は光秀ではないかと言いますが、春日の局が乳母で採用された事を考えますと、なるほどと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/06 19:52

その程度しか想像できないようでは歴史フィクションの作者にはなれません



両方とも否定される要因は多数あります
それを論破できなければ、単なる与太話
想定質問とその回答を列挙してみてください
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この回答へのお礼

そんなことを言えば諸説否定される要因は多数ありますよ。

回答ありがとうございます。

お礼日時:2011/11/06 19:50

>本能寺の変の真相


明智光秀の単独での犯行ではないと仮定すると

(1)秀吉共謀説

(2)家康共謀説

の2つが浮かび上がると思うのですが、
どちらの可能性のほうが高いと思いますか?

またあなたの考える本能寺の変の真相を教えていただきたいです。


      ↓

(3)その他
足利義昭の信長追討の密書に、領土没収と切り取り先への転封問題や長宗我部との信頼関係破綻他の信長への反感と不信、さらには天下取りの野望や格下の秀吉への嫉妬心<毛利攻めのサブ扱い>も絡み、信長誅滅の呼び掛けに呼応して立ち上がる。
義昭に実行力や実権は無かったが、旧主であり、室町将軍のブランド力に旧タイプの光秀は弱く、さらには義昭の人脈・コーディネート力を利用出来ると過大評価して細川・毛利・本願寺・比叡山の合力も期待して実行したのでは・・・
当時は下克上の気風も強く残り、さらに土岐源氏の名門であり信長(平家の亜流?>や子飼いの出自には負けないプライドも挙行に後押しした。

http://www.geocities.jp/hosinoufo3/asikaga-yosia …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

もしそうだとすると光秀の武将としての評価を改めて見なおす必要がありそうですね。

お礼日時:2011/11/06 19:51

ヒ一族を裏切った信長を、ヒ一族の意を受けた光秀が討ったのです。

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この回答へのお礼

そうですね。

お礼日時:2011/11/06 19:51

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