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自分は戦国時代の歴史が好きで、よく戦国時代関連の本を買ったりしているのですが、最近、気になったことがあります。その事でいくつか質問があるので、回答お願いします。


(1)戦国武将の食事は誰が作っていたの?
ふとこのことを疑問に思いました。戦国時代でも当然、人間ですから食事は不可欠です。しかし、よく考えてみれば、誰が食事を作っていたのかが不思議です。今の時代のように、コックみたいな方が作っていたのでしょうか?それとも自分で作るのが基本だったのでしょうか?

(2)もしコックのような食事専門の係が食事を作っていたのなら、マズイとか言う問題で処分されることはあったのか?
これは(1)の回答で、もしコックのような方が作っていたということでしたら、マズイとかいう話で処分されることはあったのでしょうか?信長のような短気な武将だと、今の時代ですら食事の美味しい不味いで揉めるくらいですから、討ち首などの処分があったのではないかと気になります。

(3)武将の護衛について
これは食事とは関係ないのですが、武将のボディーガードの存在についてです。当然、強権を保持するような身分の者は、命を狙われたりしますよね?そうなるとボディーガードがいたと思うのですが、ボディーガードはどの程度の護衛をしていたのでしょうか?例えば外出時のみだとか、又は厳重にトイレまで付いてきたのか…非常に興味深いです。あと、それに関連して気になるのが、寝るときなんですが、当然、武将には側室とかがいますよね?でもハニートラップなんて言葉があるように、女忍者が側室を装い武将の命を狙うとも限りません。しかし、寝る時まで横に護衛がいては落ち着いて寝ることは出来ないでしょうし…寝る時の護衛などはどうなっていたのでしょうか?戦国時代ではないですが、大奥とか非常に無防備だった気がしてなりません

A 回答 (4件)

(1)


各諸藩において、包丁式を司る機関があったと思われます。
包丁式とは、主に『四条流』を主とした流派が存在し、黎明期は朝廷に属していましたが、徐々に戦国及び江戸時代に普及していった経緯があります。

また、江戸時代中期になると、庶民にも普及し日本料理の礎として家庭料理に発展していきました。
現在は四条流の流派を汲む直系の子孫または団体が、天皇家及び皇族への献上及び、寺社への式典として存続活動をしています。

(3)
こちらは一般的な見解になりますが、忍者の里として有名な伊賀・甲賀・戸隠を収めた集団がそれぞれ支持する武将の下で護衛にあたっていたと考えられます。

もちろん、群雄割拠の時代の中で『謀反』や『暗殺』などの諜報行為が主な仕事ですが、護衛を任される事で収入を得ていたとも思えます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/06/23 16:29

武将と言えど、風呂のある館を拝領するまでは相当な手柄を立てねばなりませんでした。



それまでは桶で行水です。
この頃ですと台所は奥方が懸命に取り仕切る事になります。

風呂付の館と領地を拝領する頃になると家臣が付き、下女を雇います。
人数が増えるので奥方は下女に任せる事になります。


城持ちともなると、大名膳は常識となります。
献立や料理方法などを熟知した料理人が必要となります。

宮中料理である「四条流庖丁道」がおおまかな基礎となっています。
作り方や食事作法は宮中から来ています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%9D%A1% …

うまい、まずいで食材や調理方法、味付けなどを聞く事はあったと思います。
好物であればあまりの失念から失職もあったと思います。


江戸時代の大奥であれば、襖の向こうで聞き耳をする係りがいました。
お相手の者が将軍様におねだりするのを聞き耳を立てているのです。

(お世継ぎの話、親族の推挙、お金、禄高、自分の身分、告げ口など。)

お世継ぎを作るのはまつりごとなんですよ。(^_^)
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/06/23 16:29

直接的な回答ではありませんが。



当時の戦国武将は自分で料理を作り、客人を饗すこともあったそうです。
また料理も武士の教養の一つであると考えられていました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/06/23 16:29

戦国武将で毒殺されたとされるのが、毛利元就の長男の隆元はかなり色濃い毒殺説があり、加藤清正・浅野幸長にも毒殺説があります。

また、伊達政宗が母に毒殺されかかったことも有名な話です。上記の毒殺説の真偽は現在となるとわかりませんが。
さて、食事ですがこのような話があります。織田信長が足利義昭を擁して上洛した時、敵の三好方の調理人を捕虜にしたことがあった。その調理人を信長が殺せと言った時に、調理人は料理を作って気に入らなければ殺してくれと答えた。しかし、出された料理は信長の口に合わず、殺されそうになったが、もう一度作らせてくれと頼み口に合う料理を作り調理人は許された。調理人は後で理由を、最初は三好家流に薄味の京料理で出したが、二度目には田舎風の濃い味付けにしたというものです。
この話は、捕虜にしたのではなく、三好氏が京都から去ったので失業した調理人を信長が雇ったとも伝わりますが、相応の戦国大名は調理人を雇うこともあったことが考えられます。
また、時代は下りますが江戸幕府の職制に御膳所御台所というのがあって、ここが将軍の食事の調理をしました。調理されたものは毒見を経て、囲炉裏の間で御小納戸によって暖められ、食膳に供されます。このように調理するのが御膳所御台所で、材料等の購入・供給が賄方、その両者の上に立って差配するのが御膳奉行です。この御膳奉行は食事の毒見役も兼ねており、三河以来の旗本が就いていました。信頼される譜代(代々仕えてきた者の家系)の者を選んでいます。なお、毒見役を嘗役(なめやく)や鬼役(おにやく)とも言います。また、将軍が大奥に居る場合は、御広敷御膳所で調理されますが、ここも男子の職場です。(幕府の職制は戦国時代の職制の延長線上にあり、機構が複雑になり、役職も分離が進みますが、基本構造は一緒です。)
ここで御小納戸ですが、将軍近侍の役で、同じ近侍の小姓よりは身分が低く、小姓の下働きで配膳・結髪などの将軍雑用を務めます。小姓ですが、(3)の質問にも関連しますが将軍近侍の役です。ボディーガード役も務めますし、秘書的な役割を含め将軍の雑用を務めます。小姓は「貴人につき従うこと、また、その人」を意味の扈従に由来し、中世武家社会から武将に近侍し雑用を務めてきた役職です。戦国時代では信長な小姓の森蘭丸が有名ですが、本能寺の変でも蘭丸をはじめとする信長の小姓は主君を守って最後まで戦い討ち死にしています。
戦国武将の家も多くあり、習慣も役職名も異なることはあると思いますが、質問に対する回答ですが、
(1)食事を作ったのは男性の台所の者と考えられます。毒殺の危険性なども考えられるので、代々仕えて信頼のおける、裏切る心配の少ない譜代の者を中心に使ったと思われます。調理の後に毒見役が付き、最終確認をおこなった。ただ、野掛けなどの臨時の場合などは小姓(小納戸を含む)も調理をしたと思われます。
(2)信長の話の真偽はわかりませんが、調理人を雇ったこともあるとは思います。ただ、不味いからという理由で打ち首になることはなかったと思います。信長はともかく、戦国武将は家来の支持があってこその存在でもありますから、意外と家臣掌握には気を使っています。
(3)ボディーガードは小姓です。武器によっても、毒物によっても主君の命を守ることも役割なので、小姓の役割に包含される小納戸に配膳の役割があるのだと思います。安定期に入り機構が複雑になり、小姓と小納戸の役割が分離したのだと思います。
トイレの件ですが、おしりは自分で始末したようなので、基本的には入らなかったのではないでしょうか。
女性の問題ですが、戦国時代には大奥に類するものはなかったとされますが、江戸時代には将軍の側室(中臈)はお風呂に入り、その後裸で身体検査があり、将軍と同衾するときは、お手付きではない中臈と坊主各1名が同室します。戦国時代にはそこまでのことはないにしても、身体検査はあったものと想像されます。しかし、武功夜話の内容を信じるとすると、信長は無防備に近い形で生駒氏の娘の所を訪れていますので、差はあったとも思います。
それに武将はいつも女性と夜を過ごしたわけではありません。上記の小姓は男色の対象でもありました。そこまでいかなくとも主君の寝室に小姓たちがともに寝ることもあったようです。警護を兼ねていたようにおもいます。男色は武将としての嗜みとされた時代ですから秀吉を除く戦国武将の多くに相手がいました。
さて、大奥は塀に囲まれた空間で、その外側を男が、内側を女武芸者が警護する方法でした。戦国のトイレ、寝室なども施設を堅固にすることはされていたでしょうが、それ以上に警備に力を入れていたように思います。大友義鑑が殺害された二階崩れでは二階に就寝中の大友義鑑が家臣によって討たれていますが、どんなに厳重に警護しても、本来警護側の人間が裏切ると意外に脆いものだともいえます。

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました

お礼日時:2013/06/23 16:29

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