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永禄11年秋、信長は足利義昭を奉じて濃・尾・勢・参四カ国の軍勢を率いて上洛します。
信長の義弟浅井長政もこれに協力しています。
この時越前の朝倉義景が何をしていたかと言うと、信長の協力要請には乗りませんがほぼ同時期に若狭に出兵しています。(畿内をちょうど織田と朝倉で分割した形となっている)
つまり信長の側面支援をしていた訳で、決して敵対はしていません。
さらに浅井家が朝倉被官であるという説をとると信長の上洛軍に援軍すら送っていることになります。
この後信長と義昭の反目、元亀元年の信長の越前侵攻に繋がるわけですが、この一連の過程で義景側に何ら攻撃を受ける非は無いと思うのですが、なぜ髑髏を晒されるまで信長に恨まれねばならなかったのでしょうか。皆さんのご意見をお聞かせください。

A 回答 (2件)

 朝倉義景が信長に恨まれた原因は,敵対するまでの過程ではなく敵対してからの過程にあるのではないでしょうか。


 すなわち,誰にも邪魔されなければ元亀元年の越前侵攻で片が付いていたはずのところ,浅井長政の裏切りで撤退を余儀なくされ,姉川の合戦で浅井家ごと撃破したと思ったら,今度は武田信玄の上洛を頼みにして信長の背後を突くような戦いぶりに変わり,戦況が不利になると比叡山に逃げ込んだりして,約3年間にわたり信長を苦しめています。実際,信長の弟・信治や重臣・森可成(蘭丸の父親)は,姉川の合戦後に浅井・朝倉連合軍との戦いで討ち死にしています。
 朝倉義景は,1573年に武田信玄が病死し武田軍が甲斐に引き揚げ,織田軍が対武田に備えていた兵力を浅井・朝倉討伐に向けられるようになるとこれに抵抗できず,あっさり滅亡したわけですが,朝倉義景の髑髏を盃にした信長の心境は,恨みというよりは「雑魚のくせに散々手間をかけさせおって」という感じに近かったのではないでしょうか。
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確か記憶が正しければ、


足利義昭が信長と反目し、信長包囲網を作ろうとしたとき、朝倉義景もそれに呼応したのではなかったでしょうか。
信長が将軍義昭を利用して、義景に上洛を求めたときも拒否していますし。
非があるかどうかといわれればわかりませんが、信長が越前に侵攻する大義にはなったのではないでしょうか。
それに、石山本願寺などと共に信長を散々苦しめていますから恨まれもするでしょう。

これは僕個人の推測というか妄想ですが、朝倉義景は政治をまともにしなかったり、出陣してもまともに戦わなかったりと、信長にとって「馬の合わないやつ」というか嫌いなタイプの人間だったのかもしれませんね。
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