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江戸時代の日本は、長崎の出島を除いて鎖国をしていましたが、
同時に国内で何度も飢饉が起こりました。

このとき、海外から食品から輸入をして、飢饉を逃れることはできたと思うのですが、
民衆の間でそのように意義を唱える者はいなかったんでしょうか?

今の世の中だったら、輸入をせずに死者が出るなんて、考えられません。

御上に訴えるのがご法度だったとしても、自分や家族の生死がかかっているんですから、
民衆が輸入を喚起したり、幕府側から輸入政策をとろうとしたりはしなかったのでしょうか。

A 回答 (9件)

情報量と分析力と経済の仕組みと輸送速度が現代と同じという前提が噴飯もの。


そんなこと考えてないって?だったらこんな質問は出てこない。
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東日本と西日本でも作物の出来は違ったようです。


ですが、藩がちがえばそれこそ「別の国」ですから、九州から東北までさえ食料を移動させてはいません。

ですので、海外から食料を輸入して飢饉対策を!っていう考え方自体が、特に民衆には無かったと思います。
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …

1840年代のアイルランド。
当然 鎖国なんてしていませんが800万人中 150万人くらいが飢饉で死んでいる。
ペリーが日本に来た1853年とまぁ同時代。

飢餓と貿易
という関係で言うと、貿易をしないから飢餓が生まれるというよりは、貿易によって飢餓が生まれるという方が多い。
革命後のウクライナの飢餓とか 飢餓輸出という言葉でたくさんある
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%A2%E9%A4%93% …
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>このとき、海外から食品から輸入をして、飢饉を逃れることはできたと思うのですが、


民衆の間でそのように意義を唱える者はいなかったんでしょうか?

出来ない、と断定してもいい
理由は簡単で大量の食糧を外洋船舶で運送する技術を当時は失っていた、という原因にある
もちろん、日本海などの”内海”規模なら船舶技術が残っていたことから不可能ではないだろうが
中国・朝鮮諸王朝あたりに支援してもらうのは外交関係がないので無理

これについては、例えば、薩摩・長州などの西国大名の密輸でも飢饉時に食糧輸入しなかったことから無理だと断言できるだろう

そもそも、食糧保管技術の問題もあるし、輸出するほどの余剰力は、当時に近隣諸王朝には存在していない、というのが致命的であろう

したがって、飢饉回避は不可能である
ちなみに、世界史的にも近隣諸国から食糧輸入できた事例は少ない。
産業革命以降になってやっと食糧余剰力が生じる・・というのが適切かつ現実的な見解であろう


>今の世の中だったら、輸入をせずに死者が出るなんて、考えられません。

そうでもない。実際に輸入できないケースは多々あるし、輸入してからの問題も大きい。
それはお金がない、という部類の話ではなく、輸入対象の諸外国でも余裕がない、という事例が存在する。なお、日本もこの話は無縁ではなく、1992年?あたりの米の大凶作時は輸入が厳しかったのが現実である。仔細は割愛するが、米の国際市場は世界の米生産国の作況指数87%を切れば、完全に供給不足になる、という現場である。もっとも米食文化圏は、米食から小麦食へとシフトしている傾向があるので、87%の作況指数でも飢饉とはならないだろうが、そんなに楽観的でいられる他人事の話ではない、という危機感があるべきだろう。
 実際に東アフリカ諸国は10年毎に大飢饉が発生するが、ある程度の外貨があっても輸入しない。これは輸入しても国内に分配する手段・方法がない、という悲劇的なケースが多いのである。
もっとも、これは、UNHCRなどの国際機関の支援によって解消されることから、当事国が配慮しない傾向まで指摘できるだろうが・・・

>御上に訴えるのがご法度だったとしても、自分や家族の生死がかかっているんですから、

御法度ではない。『強訴』がNGなだけであって、訴えそのものを閉ざしているわけではない
仔細は、『強訴』で用語検索されたし

>民衆が輸入を喚起したり、幕府側から輸入政策をとろうとしたりはしなかったのでしょうか。

そもそも、当時の庶民にとっては、日本しか『世界』が存在していない。という理解が妥当だろう
そもそも、日本が全てであって、現実的には、自分が住まう村落・都市を出ないのが実際である。
せいぜい「お伊勢参り」程度で日本の肖像が理解されていたとしても、一部の庶民しか「日本以外の世界」を知る環境にないのだから、輸入政策など思慮することはないだろう

まぁ、民衆が飢饉対策で「義倉」 設置を訴えるなどの現実的対策の請求はしているが、幕府は飢饉対策は行なっていたが、諸大名ではそのような政策はあまり見られない。もっとも武家レベルでは惣村レベルの「義倉」設置などの飢饉対策は行われていたようだが・・・
なお、惣村レベルでの「義倉」はあるにはあったようだが、文献に残すが危険なので確認されていない。
この「義倉」という用語は仔細の説明が必要なのだが、簡略化のために割愛する

以上
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以下の5つの点について質問者さんは理解が足りないように思います。



1.江戸時代に食料を輸出する余力のある国は存在しない。
どの国も農業生産力が小さい上に、植民地は宗主国に搾取されていた。
2.江戸時代の貿易サイクルでは緊急輸入は不可能であった。
帆船は季節風と潮流だけが動力なので1年に1往復するだけだった。しかも必ずしも毎年入港していた訳ではない。春に出島に入港し、数ヶ月滞在して秋にインドネシアに帰るパターンの繰り返しで、次に入港するのはどんなに早くても次の年の春です。
3.オランダ商人は軽量で嵩張らずなくて高額で売れる産品しか扱わなかった。商人は命より利潤を優先します。頼まれたところで付加価値の低い農産物など運びません。
4.幕府は大名統制しか、していないので各藩の作況指数などを把握していた訳ではない。藩の内部のことは諸大名に任せきりで、藩の内政には干渉しないのが原則だった。
5.百姓に発想力・組織力が無かった。
江戸時代に百姓の利益を代表する団体は無いし、村の枠を超えた組織力も無い。困ったことがあったら庄屋さんの家に押しかけることしか考えが及ばなかったのです。
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いろいろ言われてますが自分でもっと調べてみてはいかがでしょう。


自分で疑問に思ったことを調べ、仮説を立て、立証していく。
これぞ歴史学の醍醐味です。
きっと今後役に立つ経験だと思いますよ。

最後に1つだけコツを。
現代の常識をそのまま当てはめてもうまくいきません。
まずは常識を一度捨てて当時の状況に思考を合わせることです。
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>このとき、海外から食品から輸入をして、飢饉を逃れることはできたと思うのですが、



すいませんが質問者さんが、こう↑思った理由を教えてください。
江戸時代に、どこの国からどんな食料をどれだけの量を輸入できたというのでしょうか?

当時の世界の食糧自給率と航海技術と船舶数等からいって、日本が外国から食料を輸入するなんてほとんど不可能のはずなのですがね。

まず、質問者さんが『出来たはずだと思った根拠』をお聞かせください。

あのっ、まさか、何万トンもの大型貨物船が当時の日本にたくさんあった、と思っている訳じゃないですよね?
あのっ、まさか、現代のように航海技術や気象観測技術が発達していて、船が遭難や沈没すること無く日本と外国を行き来していた、と思ってる訳じゃないですよね?
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 この質問には「現代の常識」がそのまま過去の事実に適用できると勘違いしている致命的な欠点があります。


歴史にタラレバはありません。その時代時代によって異なる規範があり、政治システムはそれによって構築されます。江戸時代の支配理念は武家による抑圧的支配以外のなにものでもありません。階層変動などは儒教道徳の観点からタブーです。
 むろん江戸時代でも民衆による抗議行動はありました。一揆・打ち壊しです。町方の武家による抗議運動もありました。大塩平八郎の乱です(乱というのは体制側の表現であり、こうした評価が必ずしも妥当であるとも限りません)。
 飢饉の時には米蔵を開くなどの措置も時にはみられますが、概して民生には冷たいというのは今も昔も変わりません。
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江戸時代はお米もお金も同じ価値です。



現在は日銀が通貨量を調整していますが、お米(通貨)を輸入でいきなり2倍に増やせばどうなりでしょう?

輸入が開始すると、百姓のなけなしの1俵が1両になりました。
輸入さえしなければ百姓は10両を手に出来ました。

当時の米に対する信用はとても高い物でした。(滅多に下がらない。)
しかし、米価が上がると輸入米で暴落すると分かり、取引自体が成り立たなくなります。
(全く儲けの目処が立た無い。)
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