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日本書紀(※)では、仲哀天皇崩御後、お后(おきさき)だった大足姫(おおたらしひめ)が摂政として執政したとあります(⇒神功皇后)。つまり、日本書紀完成時には、大足姫は天皇ではありませんでした。因みに、日本書紀完成時の天皇は元正天皇です。

ところで、大正15(1926)年10月の詔書により、神功「天皇」は歴代天皇から外されたことが分かっています。この時の天皇は大正天皇です。

すると、奈良時代から大正時代までの間のどこかで、大足姫が神功「皇后」から神功「天皇」に昇格したわけです。

質問(1)それは何時(いつ)でしょうか?
質問(2)そのときの天皇は?


※日本書紀:日本最古の公認歴史書。奈良時代の720年に完成した。
※摂政:天皇の代理。

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A 回答 (6件)

1060年完成の新唐書に「神功天皇」の名が登場するので、平安時代の前半に、大足姫(氣長足姫)に対して「天皇号」が諡られたはずですね。




No2で書いたように
887年に崩御した光孝天皇を最後に、1840年に崩御した光格天皇まで漢風諡号は贈られていないのです。
※ 安徳とか順徳とか 徳 の字数名が贈られているようです(訂正)
また正式な日本の歴史書
日本書紀 - 続日本紀 - 日本後紀 - 続日本後紀 - 日本文徳天皇実録 - 日本三代実録
類聚国史 - 本朝世紀 - 新国史 - 日本紀略
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991095/2
皇后扱いです

ここでは皇后となっている。

新唐書
天智死,子天武立。死,子總持立

孝明死,大炊立。死,以聖武女高野姬爲王。死,白壁立。

宋史
次天智天皇,次天武天皇,次持總天皇。
次阿閉天皇(阿閇皇女(あへのひめみこ)元明天皇),次皈依天皇(元正天皇)。次聖武天皇
次天炊天皇(大炊王、淡路廃帝、淳仁)。次高野姬天皇(孝謙天皇),聖武天皇之女也。次白璧天皇(光仁天皇)

中国人は、1870年に諡号を贈られている弘文天皇はカウントしていない。


正式な日本の史書においては、神功は天皇とされていない。
光孝天皇以降 一部の天皇以外には諡号が贈られていない
江戸末期の光格天皇は、それまで諡号が贈られていなかった先祖に 漢風諡号を贈った
その時に、新唐書や宋史を参考資料としたので、神功も天皇にカウントした。

という推測です。
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この回答へのお礼

分かりました。
光格天皇の時に、「神功天皇」に昇格した可能性が高いですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/15 13:37

「日本書紀」は、天皇一代ごとに冒頭に天皇の名を記し、その治世の事績を年代順に記す、という構成をとっています。

記すべき事績が少なかったり、在位年数が短い天皇は、1巻に複数収められる場合もありますが、原則的には天皇一代につき1巻です。

神功皇后(気長足姫尊)は、他の歴代天皇と同様に巻頭に名を記され、第九巻をまるまる割り当てられています。神功皇后の摂政をわずか治世9年で亡くなった夫仲哀天皇の代理とするなら、本来、摂政期間は仲哀天皇紀に含めるべきなのに、仲哀天皇紀を第八巻、神功皇后紀を第九巻と分けているのは、摂政を仲哀天皇の代理としての治世としてでなく、独立した神功皇后の治世として、歴代天皇と同列に扱っていることを示すものといえます。

「日本書紀」は摂関政治がはじまるよりずっと前に編纂された書物ですから、摂政といっても、藤原氏の摂政と同列にみるべきではありません。政を摂るから摂政というだけで、そこに代理という意味合いは含まれないと思います。なにしろ100歳で亡くなるまでの69年にわたる摂政ですから、どうみても代理とはいえません。

儒教の大義名分論を重視する水戸藩の「大日本史」では、神功皇后は本紀から除外されて后妃伝に入れられており、天皇としては扱われていません。明治以降、南朝が正統されたのは、この「大日本史」の影響とされていますが、神功皇后が歴代天皇から外されたのも同じだと思います。歴史的伝統より大義名分を重視した決定といえます。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2012/07/15 13:38

仁徳天皇以下は全員架空の天皇です



平均寿命が40歳の時代 150歳まで生きた天皇が本当に実在する天皇なはずがない
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

崩御年齢
1神武 127才
2綏靖  84才
3安寧  57才
4懿徳  77才
5孝昭 112才
6孝安 155才
7孝霊 128才
8孝元 116才
9開化 111才
10崇神 120才

魏志倭人伝が引用する魏略逸文に、「其俗不知正歳四節但計春耕秋收爲年紀」とあります。つまり古代の日本では、人の齢(よわい)を数えるのに、春が来たら「一つ」、秋が来たら「一つ」と数えていたのです。つまり、一年365日で二回、加齢したのです。

ですから、初代神武天皇は、
127才÷2≒63

今風にいえば、63才で崩御されたことになります。

お礼日時:2012/07/13 01:03

ある時点で「皇后」から「天皇」に昇格したということではなく、もともと「皇后」と呼ばれながら15代目の天皇として扱われていたということです。

平安時代の「扶桑略記」には神功「天皇」という呼び方が見えますが、この呼び方が大正15年10月以前、一般的に使われていたわけではありません。神功皇后が歴代天皇から外されたことによって変わったのは、呼び名ではなく、誰が何代目の天皇か、というその数字だけです。
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この回答へのお礼

有難うございました。

天皇号を諡る権限を持つのは天皇だけです。大正時代に天皇の詔書によって、神功「天皇」が歴代天皇から外されたということは、奈良時代から大正時代までの間のどこかで、その当時の天皇によって正式に、大足姫(氣長足姫)に対して天皇号が諡られたはずなのです。

お礼日時:2012/07/13 00:25

日本の正式な史書


日本書紀 - 続日本紀 - 日本後紀 - 続日本後紀 - 日本文徳天皇実録 - 日本三代実録
日本書紀が該当の時代でここでは 皇后

その後
類聚国史 - 本朝世紀 - 新国史 - 日本紀略
該当の歴史まで記述しているのが 日本紀略であり
成立時期は11世紀後半から12世紀頃 < この段階では皇后

^ 歐陽修、宋祁: 新唐書/卷220#.E5.80.AD.EF.BC.8C.E6.97.A5.E6.9C.AC - ウィキソース
^ 脫脫: 宋史/卷491#.E6.97.A5.E6.9C.AC.E5.9C.8B - ウィキソース
これらでは天皇で 新唐書が1060年 宋史が1345年
扶桑略記が 1094年までの記述で 天皇

最後の天皇 光孝天皇887年
最初の天皇 光格天皇1840年崩御
※ 光孝天皇以降、漢風諡号が無くなり、光格天皇が復活させたという意味です

推測
A 扶桑略記に先行する史料(扶桑略記が参考にした)に天皇号があった
B Aの資料に基づき、新唐書で神功天皇が記載された
C 光格天皇が漢風諡号を復活させた時に、中国の史料も参照し、神功天皇を記載させた
D 明治期になって皇后になる

なんて感じでは。

質問1,2 光格天皇ではないかと
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この回答へのお礼

有難うございました。光格天皇ですか。

??

1060年完成の新唐書に「神功天皇」の名が登場するので、平安時代の前半に、大足姫(氣長足姫)に対して「天皇号」が諡られたはずですね。

お礼日時:2012/07/13 00:30

大宝律令で天皇が制定された時ではないでしょうか?


六国史以降の扶桑略記に「神功天皇」の記載が見られます。


明治になり、
順徳天皇から光格天皇までを天皇と置き換えました。

これは
だからそれ以前も全部置き換えたのだと言う愚説です。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。大宝律令は701年であり、日本書紀の完成(720年)よりも前ですから・・

お礼日時:2012/07/13 00:16

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先日初めて日蓮宗の葬儀に参列しました。
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仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

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正統な日蓮系には偶像崇拝はないんですね。

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Q天皇陛下は家康・信長・豊臣家の子孫?

ニコニコ動画には、「天皇陛下の御先祖様を16代前まで遡ってみた」
というのがあって、それによると現在の皇室は、織田信長・徳川家康・
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http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
ちなみに天皇が徳川家康の子孫という部分はちょっと違うという
指摘があるようです。(他のルートで繋がっている可能性は大ですが)

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血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信通」に嫁ぎます。
そして次の第五代臼井藩藩主になる「稲葉知通」を産みます。
その「稲葉知通」の子「稲葉恒通」が臼杵藩第六代藩主になります。
その「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になったのが徳川家康の血筋の女性です。

ここで、ちょっと話を置いて、徳川家康に行きますが・・・
徳川家康の次男に「結城秀康」という人がいまして福井藩藩主となります。
この人も子供がたくさんいまして、その六男「松平直良」が大本藩藩主となります。
その「松平直良」の三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になりました。

そして臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」と、その正室(お嫁さん)の間に娘が産まれます。
つまり、ここで「信長」と「家康」の両方の血をひく子供ができたわけです。
この娘さんが、公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。
ここで「徳川」「織田」の血が天皇家に入りました。
そして第121代の考明天皇、第122代の明治天皇、第123代の大正天皇、第124代の昭和天皇、そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。


豊臣家の場合は・・・
秀吉には、「日秀」という実姉がいました。
この「日秀」が結婚し「秀勝」という子供が産まれます。
この「秀勝」を秀吉が養子にしたりしますが、それは置いておいて・・・
その「秀勝」が結婚し娘が産まれます。
この娘「完子」が公家の名門「九条家」に嫁ぎ、その跡継ぎを産みます。
そして時は流れて・・・
第123代天皇の大正天皇に九条家の娘さんが嫁ぎます。
そして第124代の天皇となる昭和天皇が産まれました。
つまり、ここで「秀吉」の姉の血が天皇家に入りました。
そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。

「織田」と「徳川」なら探せば他にも繋がってるルートが複数あると思います。はい。

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信...続きを読む


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